1-4 「ひっさしぶり、舞!」
七月三十日、金曜日。
白崎邸の門の前でじっとりと汗をかいているのは何も暑さのせいばかりではなかった。以前も舞はこんな風に緊張してインターホンを鳴らそうかどうかと悩んでいたことがある……忘れもしない。他人の名を騙って他人の家を訪ねるのは、後にも先にもあれが最後だろう。あの時の舞は白崎邸のあまりにも優美で壮大な遠望にすっかり物怖じしていたのだが、今と比べれば笑い話だ。
風はない。鈍重な雲の群れは太陽を追いつつあるが、天頂より注ぎ込まれる日光はあとしばらく遮られることはないだろう。漕いできた自転車のかたわらで、ひまわり色のリボンを結んだ麦わら帽子の
(昨日の夜までは大丈夫だと思ってたんだけどな)
翼からメールがきた時も大丈夫だと思った。「明日、ルカさんの家でね!」という文面は、これまでと変わりなかった。
(私は友達を疑っているのかな……)
ううん、疑っているのではない――だって、まさか翼が自分を嫌うとは思えない。奈々だってそうだ。二人はきっと気にするなと言ってくれるだろう、ルカや左大臣と一緒で。それでも京姫の身勝手な行動が、結果的にとはいえ、青龍と玄武を死に導いた。その罪が舞の胸に重たく圧し掛かってくる。京姫の罪を咎めるような表情を二人の目のなかに少しでも見つけてしまったら、舞は耐えられそうにない。
「姫さま、お顔の色が悪いですぞ」
自転車のかごのなかから左大臣が言う。舞はこわばった笑みを浮かべて応えた。
「ううん、大丈夫……ちょっと緊張してるだけ」
(たとえ、何を言われても、どんな目を向けられても)
インターホンに伸ばした指先が震えている。
(私はぜんぶ受け入れるしかない)
それがきっと罪を償うということなのだろうから。
ベルの音が鳴り響き、生真面目そうなメイドの硬い声が対応してくれている間も、舞は口のなかがからからだった。せっかくリップクリームを塗ってきた唇ももう乾いている。暑いから一刻も早く部屋のなかに入りたいというのに、自転車を押しながら進む足取りがつい遅くなる。門から玄関先までの長い道のりを歩む間、何度も汗が首筋を伝っていたが、舞は拭うことができなかった。
ようやく玄関先にたどり着くと、メイドとルカの母親が迎え出てくれた。ルカの母親のソーニャは、世界中で高級ホテルを経営するShirosakiグループの取締役夫人という立場にありながら、少しも気取ったところのない気さくな女性で、以前の訪問の際も、見ず知らずの舞を(しかも他人の名を騙ってきた舞を)優しく迎え入れてくれたものだった。舞が見舞いのお礼を言って、母から預かってきた品を渡すとソーニャは表面上だけの辞退さえすることなく、すなおに喜んで受け取ってくれた。その素朴な人柄に触れるうちに、舞の心も少しほぐれてきた。
「あっ、翼ちゃんと奈々ちゃんならルカの部屋にいるわよ。今案内させるから、ゆっくりしていってね!何かあったら遠慮なく言ってちょうだい!」
「はい、ありがとうございます……」
どこの階段をのぼって、どの廊下を通ったのか、舞には全くもって理解できなかった。気がついたときには舞は窓格子の影をワンピースの裾まで投げかけられながら、規則正しいリズムで扉をノックするメイドの真後ろに立っていた。
ルカの声が聞こえてくる。舞が止める間もなくメイドは客人のために扉を開いた。突如吹き込んだ風がカーテンを煽り、扉の真正面に据えられた窓から夏の日差しがまともに舞の目を射た。ゆえに、舞は突然の襲撃から身を交わすこともできなかった。
「えっ、ちょ、うわっ?!」
何者かが勢いよく飛びついてきて、舞は廊下に危うく尻もちをつきそうになる。飛びついてきた犯人が舞をきつく抱擁したので辛うじて転倒は免れたが。舞の目の前はたちまち鮮やかな藍色に染まった。
「つ、翼?!」
「ひっさしぶり、舞!」
舞の肩を抱きしめる感触はそのままに藍色が少し遠のいて、翼の笑顔が舞の視界に広がった。青木翼は藍色の髪をツインテールにして水色のリボンで結んだかわいらしい少女で、意志の強そうな大きな青い瞳を持っている。小柄な舞より幾分背が高く、剣道をやっているから体つきはしなやかながらによく鍛えられていて、舞を抱きしめる腕も力強い。祖父、祖母、父、母、姉がもれなく皆警察官か元警察官という家庭に育っただけあって、本人も警察志望であり、正義感も人一番強いしっかり者だ。いいかげんなことをしているのが見つかると、舞や奈々はその度に翼に叱られる羽目になる。だが、翼は真面目な委員長タイプではあっても(翼は舞と同じクラスで学級委員を務めていた)融通の利かない石頭というわけではない。明るく優しい、お茶目な少女だ。
「やっほー、久しぶり舞ちゃん!うわー、かわいい服だね」
そう言いながら翼の肩越しに姿を現したのは黒田奈々であった。奈々は口調も性格も
「奈々さん……!」
そして、部屋のうちより声がもうひとつ。
「ほら翼、舞が困ってるじゃないか。奈々はティーポッドを投げ出さないでくれ。危うく舞の分の紅茶が全部こぼれるところだったぞ……舞、よく来たね。まあとにかく座ってくれ」
翼と奈々に手を引かれた舞が席に着くなり、さっそく始まったのはお茶会だった。背の高い丸テーブルには白いテーブルクロスが敷かれており、その上のバスケットのなかにはふわふわのパンとマフィンが積み上げられ、大皿にはクリームたっぷりのフルーツケーキが堂々と鎮座している。ジャムと蜂蜜の瓶が、アイスクリームを載せた銀の器に取り囲まれてきらきらと輝き、ティーカップの青色がその間にちりばめられてあざやかに映えた。奈々が投げ出したという話が今更ながらに恐ろしくなるような、見るからに高級そうなティーポッドがルカによって傾けられると、アールグレイティーの濃い香りが立ちのぼった。その香りが鼻孔を温め、くすぐると、胸のなかの小さなしこりがすっと溶けたような気がした。
「あっ、ありがとう……!」
少しだけ勇気を出して小さな笑顔をルカに向けると、ルカも微笑んでくれた。
「舞、昼は済ませてきたかい?」
「えっ?あっ、うん。オムライス食べてきたよ!」
「そうか。もうすっかり元気そうだな……よかった」
ルカは手を伸ばして舞の頭をぽんぽんと軽く撫でた。舞は急に先日の出来事が恥ずかしくなった――何も泡を食ってルカから逃げ出すこともなかったのだ。
「舞、熱下がったの?」
横から翼も尋ねてきた。
「う、うん!もうすっかり平気!」
「ふーん、やっぱりそんなもんなんだねぇ。あたしも42度ぐらいになったっていうけど、目が覚めたらすぐ直っちゃったし」
「えっ、奈々さん、42度ってそれ……」
「ルカさんの時はどうだったの?」
「私かい?私も同じさ。ひどいときには40度近くになったが、目覚めるなりたちまち元の健康体さ。母は今でも不思議がっているよ」
「そういえばルカさんはいつ覚醒したの?あたしたちに会う前に白虎としての力も記憶も蘇ってたわけでしょ?」
奈々がパンを頬張りながらもごもごと言った。
「きっかけとか何かあったわけ?」
「それは追々話すよ」
そうつぶやくときのルカはどこか遠くを眺めていた。こんな表情を舞はいつかも見たことがあるような気がした。でも、いつであったっけ。すぐには思い出せそうになかった。
「今はまだ話せない……長くなるからね」
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