第一話 現世へ
1-1 七月二十七日の目覚め
きっと、また会えるから――
「幸せに、なって…………」
はっと目が覚めたとき、どこにいるのかわからなかった。明るすぎて、静かすぎて、平和すぎて、明らかについ先ほどまでいた場所とはちがった。ここはどこなの、なんで私はこんなところに……それから気がついた。私の名前は
(私はもう京姫じゃないんだ……)
ゆっくりとパジャマの体を引きずりながら起き上がり、片膝に頭を載せて、安堵のあまり舞は深いため息をついた。その安堵と嬉しさと、それに対する見し夢の苛烈さは、いっそこちらの方が夢なのではないかと疑われるほどで、舞は指で冷たいシーツを何度もまさぐった。シーツは舞の体温でたちまちぬるびた。部屋にはごく弱く冷房がかけられていて、窓の外では蝉が軋んだ声を上げている。夏なのだ、と舞は思った。
……そうだ、夏休みが始まったばかりだったんだ。誕生日にみんなで海に遊びに行った。その夕方に結城司が訪ねてきて、思いがけず仲たがいをして、それをきっかけに司が舞の前世と関係のある人物であることを知った。そこでルカを問い詰めて、白崎家で前世の話を聞くことになったのだ。そこまでは覚えている。でも、それからどうしたんだっけ……?
その時、ノックもなく寝室のドアが開く気配がした。
「あれ?なによ、起きたの?」
姉のゆかりだった。母親譲りのウェーブのかかった黒髪を無造作に束ねて肩に流し、すらりと長い手足をTシャツとホットパンツから突き出して、いかにも夏らしい装いである。おまけにアイスキャンディーの棒をくわえているのだから呆れてしまう。舞は顔をあげて目をしばたいた。
「あっ、お姉ちゃん、おはよう」
「全然、おはようって時間でもないんだけど。もう二時だし。熱は下がったの?」
「熱って……?」
「えっ、うっそ、覚えてないの?あんたほら、
「今日まで?……えっ、今日まで?待って、今日って何日?」
「はあ?二十七日だけど」
舞は青ざめた。確かルカの家にみんなで押しかけたのは七月二十日ではなかったか。とすると、まるまる一週間も寝込んでいたことになるが、その間の記憶は全くない。熱に浮かされつつ前世の記憶を辿っていたのだろうか。しかし、七日間で思い出すにしては前世の記憶はあまりにも……
いつの間にかゆかりが寄ってきて、舞の額に手を充てていた。
「うん、まあ確かに熱は下がってるわ」
「ねぇ、お姉ちゃん、私ほんとにずっと寝込んでたの?」
「そりゃあまさしく言葉どおり。寝ながら
「ルカさんが……?」
ルカという名前をつぶやきながら、最初に舞の脳裏に浮かんだのは前世の白虎の姿だった。すぐに違和感を覚えて、舞は頭を振りながら、いつしか水仙女学院の校内新聞で見た、チェロを抱えたルカの姿を思い浮かべる。容貌は極めてよく似ているが、やはり違う。
その一瞬、戸外の蝉の声が掻き消えた。
「まあ、とりあえず、なんか食べたら?お腹すいてるでしょ。昨日までおかゆしか食べてなかったんだし。なによりあんたの胃袋でお菓子と果物、消費してほしいんだけど」
「……うん」
うわの空のまま舞は立ち上がる――どうしよう。翼や奈々さんと顔を合わしたくない。ルカさんだって。それに左大臣にも……舞はその時、あることに気がついて部屋中を見回した。
「あれ、さだ……じゃなかった、テディは?」
「テディ?ああ、あのボロいテディベアのこと?さあね、昨日まで枕元にあった気がするけど」
「そう……」
階下に向かいながら、どこか安心している自分を舞は責めた――私はひきょうだ。私は怖くてしかたがない。左大臣と顔を合わせることが。翼や奈々さんやルカさんと顔を合わせることが……だって、私は前世でみんなを裏切った。私が京を捨てたせいで、京は壊滅したのだから。
(左大臣もルカさんも、私が前世でしたことを知って、それでも今までずっとふつうに接してくれてたんだ)
そう思うと苦しくなる。二人が私のことを少しも恨んでいないなんて、そんなことがありえるの?あれほどの罪を犯して、なおも私のことを愛してくれる人がいるなんて、そんなことがありえるの?そんなことがありえたとして、私はどうすればいいの?その愛を、与えられるままに受け取っていいんだろうか。
(翼と奈々さんは……?)
そこまで考えが至った時、ちょうど居間にたどり着いた。母親はたまたま手が空いたのか、ソファの上でコーヒー片手に録画した「和の芸能」を見ていたが、舞の姿に気がつくと、「あら」と声を上げた。
「おはよう、お母さん」
「おはよう、舞……って、もう二時だけど。熱下がった?」
母がソファの背もたれ越しを差し出したので、舞はとことこと寄っていってその掌に額を押し当てた。末端冷え症の母の手は、夏の昼でも冷房のせいで冷え切っていて気持ちよかった。
「うん、下がったみたいね。よかった、よかった」
「えへへ」
母の手に頭を撫でられながら、舞はふしぎな心地がした――こんな心地は初めてだ。きっと、前世の記憶のなかで、母も父もいない人生を知ったためなのだろう。そう思うと、急に仕事に出かけている父親が懐かしくなり、また母親に甘えたい気持ちがまさって、意味もなくその肩に抱き着いてみたりするのであった。
「舞、なんか飲む?お腹はすいてる?おうどん作ってあげよっか。それともお菓子の方がいいかな。白崎さんが色々お見舞いで届けてくださったのよ。白崎さんのお母さまがね、ロシアのお菓子を作ってくださったんだって。なんだっけ?ああ、そうだ、プリャーニクっていうお菓子なんだけど……」
「食べる!あっ、でも、おうどんも食べる!」
すでに立ち上がり、オープンキッチンのカウンターで大きなバスケットをがさごそと漁っていた母親は、病み上がりとは思えない舞の元気のよい声に、呆れたような顔をしてみせた。一方の舞は先ほどの憂いも忘れ、テーブル越しにきらきら輝く翡翠色の瞳を母親に向けていた。さながらおやつを前にした子犬といったところである。プリャーニクは果物やナッツやスパイスをふんだんに使ったロシアの焼き菓子であるが、一度白崎邸でふるまわれて以来、すっかり舞の好物になっていた。
「はいはい、両方ね……」
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