ぺんぎん

「桜」

俯いて見つめていた机の上に、桜がひとひら舞い落ちた。

季節を告げたそれに顔を上げる。

「落ち込んでるの」

柔らかな笑みを浮かべた彼女に首を振る。春の日差しを受ける彼女をなんとなく直視出来なくて窓の外に目線を逸らした。

校舎のすぐそばに、桜の木がある。伝統的な女学校にはどこもあるのだという。校長先生は、乙女としてのあり方の手本となるのは桜だと言った。美しく、儚く、散ってしまうけれど、翌年また必ず花をつける。有限と無限を繰り返す桜の木のように美しく強くありなさいと。

「わたしたちも先輩になるのね」

艶やかな黒髪を、彼女は白い手で耳にかける。いつ見ても美しいその所作に、私はうっとりと見とれそうになり、慌てて表情を取り繕った。彼女は何も気づかない様子で、窓の外を眺めている。

紺のセーラー服に白いリボンを結んだ私たちは、女学校の二年生になった。一年の時と変わらない学級だったけれど、入学したときよりその数は減っている。


「舞子さんも一緒に二年生になりたかったって言ってたわ」

目を伏せ、もう一度机に視線を向けた。春近くまで共に学んだおさげの級友を思い出す。嫁入りが決まって、学校を辞めてしまった子だった。人よりも背が小さく、裁縫が上手で、気立てのいい子だった。彼女ならきっと良いお嫁さんになるだろう。


「ね、来年もわたしたちここに居よう。ちゃんと卒業して、バスガールになるの」

いい話でしょ、と言う彼女に大きく頷き返す。

「絶対よ、バスガールになって家を借りましょう。そしたら二人で自由に暮らせるわ」

嬉しそうに笑った彼女につられて笑い出す。桜の花はひらひら、ひらひら、窓の外から風に乗って舞い込んでくる。入学式を終えた新入生が、列を作って桜並木を歩いて行った。去年の私たちもあんなふうに初々しかったのだろうか。懐かしいような気持ちが襲ってくる。

来年の今頃は、彼女たちのうち何人が残っていられるのだろう。

そんなことを思いながら、私は彼女と授業に向かった。

「夏祭り行かない?」

蒸し暑くなった夏の午後、強烈な日差しをよけて校舎の裏で涼んでいた私に声をかけてきたのは彼女だった。

彼女の長い髪は一括りにまとめられ、残ったこめかみ近くの髪の房が顔に垂れている。日焼けなど知らないかのような彼女の白い肌は、日を照り返さんばかりにぼんやりと発光していた。

「今日と明日やるんですって。黙っていれば大丈夫よ」

ねえ行こう、と可愛らしく誘う彼女に私はどきりとする。太陽のように眩しい彼女にときどき目がくらんでしまう。ね、と小首をかしげる彼女の可憐さはいつでも私の目を釘付けにした。人は美しいものには無条件に惹かれるように出来ているらしい。

「あの二人いつも一緒だから、仲が良いんだわ」

級友にそう噂されて悪い気はしなかった。私という人間が彼女に相応しいと言われているようで。

そんな優越にも似た幸福を感じるのは楽しかった。

「あの神社でしょう。見つかったら怒られないかしら」

何しろ女学校の先生たちは厳しい。少しでも淑女らしからぬ行ないをすれば、実家へお叱りの連絡が行ってしまうだろう。けれど、禁止されている事をするというのに興味もあった。

女学校より電車でひと駅離れたところに、古い神社があって、その神社の境内は夏祭りの時期になると沢山の屋台が並ぶ。近隣の住民がこぞって小銭を握り締めて食べ物を買ったり、祭りのために用意された酒に舌鼓を打つ。そんな光景に惹かれた先輩たちが去年、教師に見つかってお叱りを受けたと聞いたことがあるのだ。大方、祭りの最中に教師は物見がてら巡回をしているのだろう。

「見つからないような格好をして行けばいいのよ」

いたずらを思いついた少年のように楽しそうな彼女を見て、行かないというはずがなかった。

今夜七時に彼女の家に行く、と約束を交わして、別れた私は妙な胸の高鳴りを感じながら帰路についた。


七時きっかりに彼女の家に着くと、待っていたとばかりに玄関戸が開いた。私は家の者に黙って抜け出してきたせいで興奮していた。けれど戸が開いて目の前に立っていたのは、どこからどう見ても美しい少年だった。

「あの……わたし……」

「私よ」

ふふ、と笑う口元は確かに彼女のものだった。あっと驚いて口を覆う。

「女だと思われなければいいのよ。兄のお古を借りたの。似合うでしょう?」

あの長い髪はどこに隠してしまったのか、ハンチング帽のなかには少年のように凛々しい彼女の姿しかなく、私はただ見とれてしまう。活動写真で見た外国の俳優のように麗麗としたその姿は、普段の彼女とはかけ離れて見えた。

「さ、あなたも着るのよ。どうぞ入って」

彼女に手を引かれ、家に上がるとあれよという間に部屋に通される。彼女の兄のものだというズボンとシャツを与えられ、それを着ると仕上げに帽子を渡される。女学校の生徒は一律長い髪をしていたので、彼女に軽く結ってもらい、僅かに残してあとは帽子の中にしまった。すると、鏡台に写る自分はいつもの自分ではなく、幼さの残る少年に見えた。目深に被った帽子が性別を曖昧にしてくれる。。ズボンとシャツを着ているから、どう見ても少年に見えるだろう。

「わたしたちのこと、誰も女だと思わないわ」

頼もしくそういった彼女は、すぐさま家を出ようとする。

「家の方に何か言わなくてもいいのかしら。私ご挨拶もしてないわ」

彼女は少し寂しそうに俯いた。

「いいのよ。わたしはどうせ、あまり気にされていないから」

行きましょう、と背を向けた彼女は、それ以上詮索されたくなさそうだった。立ち入って聞くのも憚られる気がして、私は黙って彼女の後を追った。


電車に乗っても、私たちのことを注意深く見つめる人もおらず、俯いていれば隠し果せると思った。

人差し指を口に当て、くすくすと笑い合う私たちは、電車の座席に座り、窓の外を流れていく景色を眺めることもなく、小さな声で話した。誰かから隠れるように秘めた話をするのは、これ以上ないくらい楽しかった。

駅に着いて、すぐそばの神社へ向かう道を歩いた。境内に入りきらない屋台の数々は、祭りの食べ物をランプの下に並べ、客寄せする店主の声が響く。持ってきた小さな財布と相談しながら、屋台を冷やかして回った。

まぼろしのように石畳に照る灯篭は、石段の両側に並び、ずっと上のお社まで続いていた。人々は境内の屋台に集中し、階段を上ったお社にはまばらだった。

「上がろう」

彼女は迷いなく言うと、階段を上り始める。

「何かお願い事でもあるの?」

「とても大切な願い事がひとつ。あなたは?」

「私は……上っている間に考えるわ」

「そう」

深入りはしないように、彼女はまた沈黙して足を進めた。いつもより動きやすい格好をしているせいか、すいすいと上っていく彼女に置いていかれるような心地がして、必死に足を動かした。

お社は、小さな山の上にあった。息の切れるほど階段を上り、疲れきった私たちは最上段に腰を下ろした。

眼下には、ぼんやりとした線になった灯篭の光と、境内の賑わいが広がっている。

見上げれば、数多の光を穿ったように星は輝き、中空にはそこだけぽっかりと明るい月が照っていた。

汗ばんだ額を手の甲で拭って、私は息をついた。隣を見れば彼女も同じように汗をかき、時折吹く風の涼しさを感じているようだった。

祭囃子は他人事のように風に乗って聞こえてくる。にぎやかな人々の話し声や笑い声が、私たちの沈黙の溝に川のように流れた。

「お願い事は決まった?」

「ええ、なんとか」

取り繕って言ったものの、私の願いなどとうに決まっていた。彼女と一緒にいたい。彼女と一緒に、女学校を卒業してバスガールになる。そして、二人で生きたい。

階段の最上段はそのまま石畳の本殿まで続いていた。私たちは立ち上がり、そこへ向かった。階段からずっと続いている灯篭は私たちを導くように煌々と輝き、照らされた彼女のつるりとした頬はほの赤く染まった。

本殿の前に立ち、二人並んで鈴を鳴らした。

ぱん、ぱん、と柏手を打つ。

静かに瞳を閉じた彼女は胸の前で手を合わせる。私はそれに倣って、目を瞑った。


幾秒か二人は厳かに願いを捧げた。どうか届きますようにと。

彼女の動く気配がして、私は目を開けた。ぼうと霞む視界の中でも、彼女の輪郭さえ美しい。私は人生でこれほど高望みをしたことなどあっただろうか。けれど神様、私は唯一を望みます。平穏で普遍的な日常の中に彼女がいてくれればいいという、ささやかな願いではありませんか。

「終わったよ」

彼女はそう言い、本殿を背にする。私も彼女の後に付いて行く。

「ねえ、何をお願いしたの?」

彼女は何を願ったのだろう。純粋な好奇心だった。彼女は振り返り、一瞬迷ったあと口元に人差し指を当てる。

「神様への願い事は、話したら叶わないのよ。黙って胸の中に秘めておきましょう」

「……そうね。あなたの言うとおりだわ」

私が悄気た気配を感じたのか、彼女は軽やかに階段の方へ向かう。

「せっかくのお祭りだから楽しみましょう。りんご飴も綿菓子も、今日限りはご解禁よ」

蝶のように羽ばたきながら、ふわりと階段を下りていってしまう彼女の後を追って、私は急いで階段を駆け下りた。


境内に戻ると、食欲をそそる食べものがずらりと並んでいた。酔っ払った大人たちは機嫌よく杯をあおるか、片手に持った酒のつまみを味わっているか、誰かと熱心に話し込んでいるかで、私たちなど見向きもしなかった。慣れないズボンもシャツも暑さのために肌に張り付いていたが、幸い女だと判明してしまうほど危うくはなかった。どこから持ってきたのか、彼女はこの祭りを一通り楽しめるだけのお金を持っていた。そうして私に食べ物を買い与え、支払おうとするのを拒否した。申し訳ないから払わせてと言ったのを、彼女は自分に付き合ってくれたお礼だと言った。


祭りの人の波の中、私と彼女は歩いた。隣に並んで歩くと、幾度か手が触れ合った。私の手は灼熱に晒されたように熱くなり、頬が紅潮するのを感じた。ちらりと彼女の様子を伺っても、凛とした横顔は変わらない。私ばかりが意識していることに恥ずかしくなった。

腹を満たし、好奇心を満たして、私は家の者に自分の不在がばれていないかと心配になってきていた。

「もう帰りましょうか」

私がそう言うと、彼女は大きな瞳をより大きく見開いた。

「もう少しだけここにいましょう。まだ見たいものがあるの」

「だけど、さっき先生を見かけたわ。この格好でも見つかったら私たちだって分かってしまうかも知れない。今のうちに早く帰りましょう」

「そうね、でもあと少しだけ、あと少しだけでいいの」

彼女は懇願するように私の手を握った。

私はいっそう体の熱が跳ね上がるのを感じて、頷かずにはいられなかった。

「あと少しだけなら」

柔らかな笑みを浮かべる彼女を見れば、その判断は至極正しいものだと思えた。境内の石垣に腰を下ろし、行き交う人々を眺める。この穏やかな時間が一生続けばいいと思った。祭りも彼女も暑さも胸の鼓動も何もかも、この瞬間が最高到達点のような気がした。瞬く間に移り変わる景色がいつまでも続かないことを知っていて、永遠を願ってしまうような矛盾した感覚だった。

「あっ」

彼女が立ち上がる。焦った表情につられて私も立つ。

「先生がいる。こっちに近づいて来るわ」

彼女は声をひそめて言った。じり、と足元の砂を踏みしめた。男の格好をしていても声で分かってしまったのだろうか。それとも、先ほどすれ違ったときから疑われていたのだろうか。

「君たち、そこでなにしているんだ」

先生は一人だった。すこしお酒が入っているらしく、機嫌よく話しかけてくる。彼女をすがるように見つめると、にっと彼女は不敵に笑んだ。

「逃げるわ」

瞬間、彼女は私の手を取り走り出した。私は彼女の手に触れたことにどきりとしたが、戸惑っている暇もなく彼女は私を引っ張った。先生はいきなり走り出すと思わなかったのか、呆気に取られたように口を開けぽかんと立ちすくんだ。私たちは素早くその場から離れ、人の波の中を走り出す。

「君たち待ちなさい!」

握った彼女の手は熱かった。先生の声はぐんぐん後ろへ流されていった。汗ばんだ手を離しはしなかった。歩行人にぶつかったり、屋台の角に肩をぶつけたりしたけれど、不思議とその痛みも足の疲れも感じなかった。にぎやかな人々の合間を縫うように駆け抜けていく彼女の帽子が落ちた。するりと紐が解け、彼女の長い髪が宙に広がった。そこだけゆっくりと時間が流れているように、私は彼女の後ろ姿に見とれた。

「ふふっ、あはは」

声高く彼女は笑いだす。

「……ふふ」

私も切れ切れの息の合間に笑った。

彼女の熱い手のひらの感覚と、夏の熱気と、先生からの逃亡が、どうしようもなく楽しかった。

二人は風のように神社を抜け、砂利道を通った。途中振り返れば、先生が追いかけて来ている様子もないことに気がついて、顔を見合わせて笑った。駅には寄らず、彼女の家に着くまで、手を繋いだまま歩いた。

夢の時間が終わるように、彼女の家が見えてきて、私はそこで急に繋がれた手に意識が集中した。まだもう少しだけ彼女の体温を感じていたかった。けれどそれは叶わなかった。

「今日はありがとう。楽しかったわ」

最後にぎゅっと私の手を握って、彼女は手を離した。ぽっかりとなくなった温もりが寂しかった。

「心配しないで。先生に知られてなんかいないわ。あなたの服、持ってくるわね」

彼女は家に戻り、しばらく出てこなかった。物をぶつける音や言い争う声が聞こえてきて、私は不安になった。彼女は無断で出ていたのか。私とてこっそりと抜け出してきている。家に帰って見つかれば何を言われるかわからなかった。身のすくむ思いで待っていると、彼女が出てきた。

「ごめんなさい、遅くなったわ」

申し訳なさそうに謝る彼女をなだめ、服を受け取る。

「じゃあ、また明日」

別れの挨拶を言うと、彼女は眉を下げた。

「ええ」

どうしてかわからない。その時の彼女は私が今まで見た中で一等美しく、今にも消えてしまいそうに見えた。夜空に弱々しく光る星の儚さに似ていた。名残惜しく私は彼女に手を振り、彼女の家を後にした。

翌日、彼女は学校に来なかった。


私は一人、三年生になった。窓から見える景色は去年彼女と眺めたものと変わらない。

新入生はおろしたての制服に着られて、窓の外を列になって歩いていく。今年、級友は七人、嫁にいった。

教室はがらんとしていて、残っているのは半分以下だった。

夏祭りの翌日、彼女は学校に来なかった。始めはご両親に叱られて謹慎させられているのかとでも思っていたが、違った。彼女は結婚が決まっていた。あの翌日、彼女はここを発ち、他所へ嫁に行ったのだという。彼女が生まれた時から親同士が決めていた相手のもとへ。こっそりと級友が耳打ちしてくれた。彼女は私にそんなこと、一言も言わなかった。私はただ、誰も座っていない彼女の席を見た。

どうして。

それだけだった。私たちは友達ではなかったのだろうか。彼女にとって私はなんだったのだろうか。どうしてちゃんとお別れを言わせてくれなかったのだろうか。あの日、あの時、それを知っていたら。私はどうしていただろう。もう守れなくなった約束を恨んだ。私だけバスガールになったって、何の意味もないのに。

季節は素早く過ぎる。夏、私は俯いて過ごした。あれほど楽しかった夏祭りも行かなかった。彼女を思い出すのが辛かった。夏は別れの代名詞のように辛く私の心に当たった。私がうつむいている間に、卒業を待たず数人の級友は教室からいなくなった。

私は結婚を拒んだ。両親は優しかった。バスガールになるという私の妄言を聞き入れ、卒業はさせてくれるといった。けれど私の心は晴れなかった。いまさら意味がない。半分だけ叶えられない夢がもどかしかった。

季節は素早く過ぎた。彩りを失ったからかも知れない。秋が来て、冬が終わり、春を迎えた。


卒業式の朝、心配そうに見守る両親に行ってきますを言った。三年間着慣れた制服は春の陽気に優しく輝いていた。この制服を着るのも今日で最後かと思うと、私は感慨深く制服を撫でた。

桜の木は今も美しく咲き誇っている。花びらは舞い落ち、風がそれを攫っていく。

「桜のように美しくありなさい。儚く散っても、また花をつける強さを持ちなさい」

校長先生は入学したときと同じ言葉を吐いた。

私はそれを無表情に聞き流した。

彼女たちは散っていって、それで終わりだった。もう二度と日の目を見ることのない土の下へ埋められてしまった。誰かの養分となるだけの、また花を咲かせられぬ花びらだった。今年もひとつ残らず桜は散る。夏になれば緑の葉をつけるだろう。けれどそれは、あの春、私の見ていた桜ではない。もう二度と同じものは帰らない。

彼女たちはもう帰ってこない。


卒業式が終わり、教室に戻ると先生が祝辞を述べた。机に座り、窓の外を眺める。何気なく机の中へ手を入れると、かさりと紙の感触があった。

「なにかしら」

取り出してみると、真っ白な手紙だった。宛名は書かれておらず、封もされていない。中を覗くと紙が一枚入っていた。取り出して、読み始める。懐かしい字で書かれているそれに、驚いた。彼女の字だった。


『久しぶりね。こうして手紙でしかあなたに話せない臆病なわたしを許してください。

卒業おめでとう。そしてごめんなさい。結婚をあなたに黙っていたこと。バスガールになろうと言いだしたのはわたしだったのに、約束を守れなかったこと。あなたに伝えるなんてできなかった。決してあなたを信頼していなかったからではなかったの。あなたと過ごした日々は、とてもあたたかくて幸せだった。今までで一番楽しかった。

それだけ、別れるのが辛かった。夏祭りの日、あなたは神社でわたしが何をお願いしたか聞いたでしょう。とても驚いたわ。胸の内に秘めているものをさらけ出すのは勇気がいることだった。あなたに言えなかったの。裏切ることになるわたしが言うのは烏滸がましい気がした。

実はあのとき、あなたと一緒にいられますようにってお願いしたの。叶わないと分かっていたけれど、願わずにはいられなかった。あなたは何をお願いしたの。それが叶っていることを願っているわ。

それと、もう一つ言えなかったことがあるの。

あなたのことが好きだったわ。

きちんと言えなかったことをずっと後悔していた。

わたしの夢であり光であるあなた。さようなら。桜のように強く美しくありますように。あなたが美しく咲き誇るのを願います。』


短い手紙だった。彼女の心情をそのまま写したようだった。

どうして私たちは互いの想いも伝えられなかったの。どうして同じ願いを持っていたのに一緒になれなかったの。

私は手紙を持って教室を出た。

校庭の桜は彼女と約束した春と、去年の春と、今年の春も何も変わらず美しい。有限と無限を繰り返して花を咲かせる。散ってしまうと知っていて、花を咲かせる。彼女たちもそうだったのだろうか。散ってしまうと知っていて咲かずにはいられなかったのだろうか。

「願い事は口に出したら叶わないんでしょう」

目頭が熱い。

「叶わなくてもいいから、あなたに伝えたかった」

もう二度と叶うことのない願いなら、口に出してあなたに言いたかった。あの日に戻れるなら。

「あなたが好きよ。今でも、ずっと」

彼女の笑顔が浮かんだ。涙で滲んだ桜は風に舞い上げられ、その花を散らしていく。

びゅうっと突風が吹き、手にしていた手紙が攫われる。追いかけることもせず、私はその場に立っていた。

「ぜんぶ、飛んでいって」

ひらひらと、花びらが手のひらに乗る。小ぶりな花びらは、薄い桃色をしていた。

「なんにもなくなっても、私はまた咲ける?自分の力で根を張って、また花をつけられる?」

彼女の手紙は空高く、風に飛ばされてどこかへ行ってしまう。

桜の幹に手をやる。固く、節だった枝はその先端に美しい花をつけている。力強い根の上には花が咲く。

私は彼女たちと違う花をつけよう。来年もまた咲けるように。

あなたへの想いを手放して、私は私らしく生きよう。桜のように強く美しく、けれど決して同一ではない花を。

「さようなら」

私は歩き出した。桜並木は今日も夢のような景色を見せる。バスガールになろう。彼女たちの代わりではなく、私として。あなたの夢の片割れではなく、私の夢として。


桜は美しく咲き誇る。有限と無限を繰り返して咲く。今年もまた散るだろう。けれど来年、また花をつける。

口元は弧を描き、私は学校の門を出た。消して戻らない風景を振り返らず、ただ前を向いて。

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ぺんぎん @hoshimitsukasa

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