第3話 壁の染み
Kさんが、その壁の染みに気づいたのは、東京への転勤で部屋に越して来てから三か月ほど経った頃だった。染みは、洋式の便座に腰かけたKさんの、丁度真正面に当たる壁に、野球ボールほどの大きさでぼんやり滲むように付いていた。Kさんは初めは、ただの手垢による汚れだと思ったという。だが、擦ってみると、しっとりと濡れた感触がする。さては水漏れでもしたのか、と警戒したが、染みはその一か所にしか見当たらない。むしろ壁紙は白く、トイレのだけ新品に張り替えた様子でもあった。Kさんは不可解に思いつつも、十二月という季節柄、外とトイレの温度差による結露だと割り切った。
それからしばらくの間、Kさんは日々の忙しさに追われ、染みのことは目に留まることはあっても、気にすることはなかった。それは、Kさんの部屋は築年数がそれなりに経っている小汚いアパートの一室だったこともあり、汚れやボロの一つや二つは出るであろうという考えと、それでも住めば都というKさんの心情からだったという。
だが三月を迎えた頃、小さかったはずの例の染みが手の平で隠せないほど大きくなっていた。湿り気も、触らなくても水滴が滲んでいるのが見て分かる。流石のKさんも、これは深刻な水漏れだと見過ごせなくなり、たまらず大家に連絡を入れ、業者を呼んでもらった。
数日後、Kさんの所に、二十代前半くらいの業者の人間がやってきた。彼は、トイレを一目で見るなり、水漏れですね、と告げ、直ぐに工事を始める。Kさんはその言葉に、半日はかかるだろうと考えていたが、しかし工事はものの一時間足らずで終わった。そして、業者の人間はそそくさと荷物をまとめると、サインを貰うなり、直ぐに帰っていった。
Kさんはあまりの早さに、唖然としたと同時に、碌な説明もなく帰ってしまったことに苛立ちを覚えた。が、染みが無くなり白い壁紙に戻っていたことが確認できたため、特に気にしないことにしたという。
これで元通りなら、そう思っていたKさんであったが、しかし、翌日にはまた黒い染みが壁にできていた。Kさんは慌てて大家へ電話。事情を説明し、業者にまた来てもらうことになった。しかし、今度はKさんと業者の間で、上手く予定が折り合わず、結局、やって来たのは、連絡を入れてから二週間が経っていた。その間にも、染みはどんどん広がり、業者に見てもらう頃には、以前よりも大きく、手の平二つ分を裕に超える大きさに、縦に広がっていた。
業者は前回と同じ人間だった。Kさんは、その顔を見るなり、思いっきり怒鳴り散らした。欠陥工事じゃないか。前よりもひどくなっているじゃないか。そう業者側の不始末を指摘したが、彼は悪びれる様子もなければ、怯む様子もなく、工事の様子見ます? とだけ言った。
この野郎、と思ったKさんは、彼の提案に乗っかった。少しでもミスがあれば、土下座でもさせてやろうとすら思ったという。
壁紙が剥がされ、問題の箇所の裏側が見える。Kさんはそこで粗を探すように見つめようとしたが、現れたその不自然な光景に思わず目を疑った。
コンクリートの壁には染み一つなかった。それどころか、濡れているような跡すらない。そこへ、業者の人間が、指で軽く叩く。すると小気味良い音が返ってきた。
壁紙だけが汚れているのか、とKさんが確認すると彼は頷いた。それから、いつもこの部屋は、何故か壁紙が汚れるんですよ。と、続ける。原因は、とKさんは尋ねたが、彼は首を振った。
「ここ、有名な事故物件なんですよ。お客さん、知らないみたいですけど」
彼はそう説明しながら、作業を続ける。
「一応直しますけど、多分、明日もまた染みができてますよ」
その言葉に、Kさんは乾いた笑いしか出なかった。
「前の住人もそうでしたけど、ここ、早く出た方が良いと思いますよ」
工事を終え、サインを貰うなり業者はそう言って帰った。まさかそんな馬鹿な話があるかとKさんは思ったそうだ。
しかし、翌日、仕事から帰るなり、絶句した。染みがやはり同じ場所に出ている。これにはKさんも流石に肝を冷やした。大家に連絡を入れようと思ったが、業者の口ぶりからして、大家がこの物件に何かあることを知ってるような気がした。それがまた怖くなり、大家が信用できず、Kさんは連絡する気になれなかった。
結局、Kさんは家を出る事に決め、荷物をまとめつつ、次の部屋を探すことにした。けれども、仕事の片手間での部屋探しは難航し、気が付けばまた二週間が経っていた。その間にも、染みはどんどん大きくなっていく。
そんな二週間が経った夜のこと、Kさんは残業で帰宅が遅くなった。加えて、あんな部屋への帰宅は、足取りが重くなり、着いた時には日を跨いでいたという。鍵を使い、中へと入ると、声が聞こえた。
何だろう、外が騒がしいな。Kさんは最初はそう思った。しかし、耳を澄ましてみれば、それは室内から聞こえる。Kさんはその音の方角を見て、血の気が失せた。
トイレから聞こえて来る。Kさんは恐る恐る近付いた。濁った声は近づくにつれ、鮮明になっていく。そうして扉の前に立ち、耳を当てた時、声がはっきりと聞こえた。
おぎゃぁあぁ。おぎゃぁあぁ。
赤子の鳴き声に、Kさんは思わず悲鳴をあげた。それから全力で部屋から逃げ出すと、次の引っ越し先が決まるまで、決して部屋には帰らなかったという。
Kさんが部屋を出れたのは、二回目に業者が来てから一か月は経ったあとだった。引っ越しの急な申し出にも関らず、大家は何も言わず、すんなりと了承したという。Kさんはその態度が、やはり何か知ってるんだろうなと思ったそうだが、それ以上、深くは聞かなかった。
あの部屋へは荷物を取りに、一度だけ戻った。荷物は既にまとめていた為、直ぐに片づけがついたKさんは、日中ということもあって最後にトイレを確認した。すると、壁には、赤ん坊が大きな口を開けて、泣いている姿に見える染みがあった。そして、そこだけがはっきりと濡れているのが分かった。
結局、何がどうしてああなったのか、あの部屋にかつて何があったのか、今でもKさんは何も知らないし、知りたいとも思わないという。
ただ一つだけKさんは気になることがあった。それは、部屋に引っ越してから、赤ん坊の声を聞くまでに十か月という期間があったということ。
「これって、妊婦さんが妊娠してから赤ちゃんを出産するまでと大体同じ長さなんですよね」
僕には関係がある様に思えて仕方がないんです。そう、青ざめた様子でKさんは語っていた。
日暮怪談 スズミ円点 @enten-00
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