第8話:ジェンダーギャップ110位、日本。
「もう寝るか」
英語の論説文読解の答え合わせをして九割方当たった所でテキストとノートを閉じる。
もうセンター試験まで一ヶ月を切ったので風邪防止のためにも夜更かしは禁物だ。良くできた所で切り上げた方が精神衛生上も好ましい。
ベッドに入ってルームライトを消し、目を閉じる。
父さんが洗濯してくれた布団カバーとシーツからローズじみた洗剤の香りが浮かび上がった。
先程まで眺めていたテキストの、英文の印字されたクリーム色の紙面の残像が目蓋の裏を漂う。
僕は強みというほど得意ではないけれど、英語やイギリス文学は好きだ。
というより、「淑女の国」、ジェントルマン・ファーストの発祥地というだけあってイギリス文学の女性たちは男性たちには概して丁寧で優しい。
――私はまだここで用事があるから、君は子供たちと先に帰りなさい。
二十世紀初頭の話でも中年淑女が結婚三十年の夫に対して語る台詞がこんな口調に訳されていたりする。
――私はまだここで用事がある。お前は子供らと先に帰れ。
同じ時代でも日本の妻ならこの調子だ。率直に言って、戦前の日本文学の女性は夫にも下男に対するのと大差ないぞんざいさだ。
というより、戦前の日本の男性は選挙権もなく、夫は妻の下男頭とでも言うべき立場だった。
また、下男自体も主家の妻や娘から性関係を迫られることが少なくなかった。
多少なりとも金や地位のある女性は
むろん、欧米でも富裕な女性がオペラ座のプリンシパルのパトロンになったり高級売春夫の下に通ったりするのは社交界での一種の嗜みとされていたし、主家の女性が下男に手を出す類いの話も多い。
しかし、戦前の日本で「燕」というと「若く美しい男性が親の借金のかたに金持ちの女の燕にされる」といった、男性本人の意思を無視した人身売買、性搾取的な関係性が少なくない。
女性が燕との間に儲けた子は「
だが、夫の立場も燕より必ずしも強固なわけではなく、結婚して長らく子供が生まれなければ「種無し」と責められて離縁された。
日本では未だに女性不妊への認識が低く、子供のいない夫婦を見ると、「夫が種無しだからだ。さっさと離婚して若い夫の種を貰うべきだ」と臆面もなく主張する人も特にお年寄りには珍しくない。
結局のところ、この国では男性は女性と対等な人ではない、性的消費する「種」、生殖器であり、無償で家内労働させるべき従僕なのだ。
“欧米のジェントルマン・ファーストは女性が暗殺を避けるべく男性を先に行かせて盾にする方便だから起源は女尊男卑。夫を危険から守るために妻より三歩下がらせて歩かせた日本の方が伝統的に遥かに男性を優遇している”
ネットではこの種の珍説を鼓吹する女性を良く見掛ける。
それならば、なぜ女男平等ランキングことジェンダーギャップ指数はイギリス15位、日本110位なのだろうか。
イギリスは男性議員が全体の三割近くを占め、既に男性首相が二人出ているが、日本はわずか一割程度に止まり、男性首相はもちろん男性財相も一人も出ていない。
第二次大戦後、日本の男性にも参政権が与えられて七十年経ったが、政治の上では明らかに女性がマジョリティ、男性がマイノリティだ。
“選挙権は女男共に平等に与えられている。首相になれるだけの優秀な男が日本にいないだけの話”
そう開き直る人も少なくない。
しかし、日本の歴代首相は全員が女性というだけで中には明らかにダメな人や就任当初から能力を疑問視されている人もいた。
本当の女男平等とは、女性と同じくらい男性もダメな人が当たり前にトップになれる状況ではないだろうか。
加えて、イギリスでも日本でも第二次大戦後は天皇・国王は政治的な権限を持たない立場に規定された。
だが、男性にも王位継承権があり、近現代史でも
近世以前では、日本にもイレギュラーな存在とはいえ
一般庶民でも国会議員は「祖母も母も大臣で地盤を引き継ぎました」みたいなプリンセス議員ばかり。親族企業の経営権は母から娘に引き継がれるのがデフォルトだ。
企業の管理職も男性は一割程度、男性の平均給与は女性の七割程度だから、経済の上でも女性がマジョリティで男性はマイノリティとしか言いようがない。
女男の収入格差が多少狭まったので日本のジェンダーギャップはワースト記録を更新した去年の114位から110位に辛うじて上がったということだ。
しかし、それは単に不況でそれまで高かった女性の給与も減らされたという話であって男性の経済的な劣位が大きく改善したわけではないように思う。
何より本来合格点を取っていた大学から二度も不合格通知を受け取らされた僕は何の恩恵も受けていないし、この一年はもう返ってこない。
瞳を開けると、暗い中に広がった蒼白い天井と灯りの消えた丸いルームライトが目に入った。
そういえば、もうクリスマスだ。
まだサンタクロースを信じていた頃、どうかしてその姿を見つけしようとこんな風にベッドに横たわったまま目だけは開けて天井を眺めていた。
トナカイに乗って素敵なプレゼントを持ってきてくれる、ふわふわの白いファーの縁取りをした真っ赤な服の、優しい笑顔のお婆さん。
絵に描かれるサンタクロースはそんな姿をしていた。
あれは子供にとっての「祖母」のイメージなのだろうか。
亡くなったお祖母ちゃん二人も良く車で遊びに連れていってくれたし、お菓子やおもちゃを買ってくれた。
――あなたは出来る子だから、将来が楽しみ。
どちらのお祖母ちゃんもお祖父ちゃんもそう言ってくれたのに。
いくら目を注いでも、だだっ広い天井と灯りの消えたルームライトの眺めに鮮やかな異変など起こりはしない。
じわりと熱くなった目をまた閉じると、玄関の方から扉の緩やかに開く音が幽かに響いてきた。(了)
ジェンダーギャップ110位、日本。 吾妻栄子 @gaoqiao412
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます