最終話 女神の涙

 目を閉じると、夢を見る。

 瞼の裏に広がるのは、色とりどりの花が咲く風の町。


 そこには父と母が居て、草原で花を編むジルとアルマも居て。みんな寄り添い合って笑っている。


 ステラはアデルの背中で昼寝をしていて、アウロラも傍に転がってイビキをかいて。

 近くの木陰では、マドックがドグマの小言に付き合いながらいつものように酒を飲んでいる。


 アルラウネは男嫌いだから、鼻の下を伸ばしてセシリアと話すロビンを警戒していたり。一方のロビンはロビンで、また下心丸出しの発言でセシリアを困らせている。……あーあ、ほら見ろ。またビンタ食らってるじゃねーか。ほんと学習しねーよな、アイツも。



『──トキさん』



 やんわりと目尻が下がる、その笑顔。優しく微笑む彼女が紡ぐ、自分の名前。


 その声が、笑顔が、何よりも好きだった。

 世界中の誰よりも綺麗だと、そう思えてさえいた。


 駆け寄って来たセシリアは俺の手を取って、幸せそうに破顔する。俺の頬も自然と綻んで、彼女の手を握り返した。

 やがてそっと口付けを贈れば、彼女は頬を染めてはにかむ。


 情熱的に愛を語るわけじゃない。体を重ねるわけでもない。それでも俺は、この穏やかな時間が愛おしかった。


 幸せだ、きっと。

 これはいつもの、幸せな夢。


 でも、目が覚めると──必ず泣いてしまう。



 あの日から五年が経った、今でも。




 * * *




「──あ、あの! 牧師様!」



 白いローブを身に纏い、首に青い宝石を下げた青年はふと足を止めて振り返る。無造作に跳ねた癖のある黒髪に、薄紫色の瞳。彼を呼び止めた彼女は、その双眸と視線が交わった途端にカッと頬を染めて両の手のひらを握り合わせた。



「……何だ? ミア。何か用か」


「あ、い、いえ……っ! あの、そのぅ……」


「用がないんなら、俺はこれで。そろそろクソガキ──じゃない、子供が腹を空かせてる頃なんでね」



 “牧師”と呼ばれた青年は素っ気なく返し、彼女──ミアに背を向けて去って行く。ミアは遠くなるその背中を愛おしげに見つめていたが、やがて背後から別の声が割り込んだ事で彼女は肩を震わせた。



「あーあ。フラれちゃったわね、ミア」


「きゃあッ!? ……や、やだ! 見てたの!?」


「ミアって本当に牧師様の事好きよね〜。でもアレは無理よ、諦めなさい。あの牧師様が愛しているのは“神様”だけだもの」



 ひょっこりと現れた友人の言葉に、ミアは声を詰まらせる。


 ──牧師様が愛しているのは、神様だけ。


 まさに、彼女の言う通りだ。彼は聖職者として、心から神を敬い、信仰し、そして──心から、神を愛している。


 ミアは俯き、ぼそぼそと言葉を紡いだ。



「分かってるわよ。でも、カッコイイんだもの……トキ・ヴァンフリート牧師。あんなに一心に“神様”を信じて、心から祈っておられる方は他にいないわ」



 彼女は頬を染め、手のひらをぎゅっと胸の前で握り締める。友人は呆れたように肩を竦めた。



「だいたい、その“神様”って何なのよ……。ほんと、あんなよく分からない宗教の一体何が良いんだか……」



 彼女は眉根を寄せ、嘆息する。


 そう。牧師──トキ・ヴァンフリートが信仰する神は、少し変わっているのだ。


 その信仰対象は、女神ヴィオラでも、王族カルラでも、魔女イデアでもなく──。



「……“宝石ラクリマ信仰”、だなんて。ほんと胡散臭いわ」



 ぽつりと呟いた言葉。だが、恋の病に囚われているミアの耳に、それは全く届いていないようで。


 友人は深く嘆息し、「ダメだこりゃ」と肩を竦めたのだった。




 * * *




「──おっせーよ、このクソ牧師!! お前、街までリンゴ買いに行くのにどんっだけ時間かかってんだ!? どうせまた酒飲んでたんだろ!!」


「……あー、うるせえ……」



 部屋の戸を開けた途端、キィンと甲高い怒号を上げた少年の声に、牧師──トキはうんざりと表情を歪める。彼は気怠げに溜息を吐き、買い足した物資の紙袋を少年に押し付けた。



「わぷっ」


「アリアドニアの酒場には知り合いが居るんだよ。たまに顔出すぐらい許せ」


「あ、ほら見ろ! やっぱ酒飲んで来たんじゃねーか!」


「うるせえな……土産みやげやらねーぞ」


「え、お土産あんの!?」



 頭を軽く小突きながら言えば、少年──ティオはぱあっと明るく表情を綻ばせる。物で釣られるなんてチョロいもんだ、とトキは呆れたが、無意識のうちに彼もまた頬を緩めていた。



 ──遡る事、五年前。


 トキはディラシナの街で、彼──ティオを拾った。やがて彼と共に、花の街アリアドニアから程近いこの土地の廃教会へと移り住んだのだ。


 子育てなど経験もないトキだったが、以前アリアドニアで知り合ったロゼやシェリー、リモネからの手助けもあって、奇跡的にティオをここまで育てられたのである。


 賊からは完全に足を洗い、代わりに聖職の仕事を始めた。柄じゃないという事は、自分が一番よく分かっている。だが、過去の哀しみを乗り越えるためにもこの道は間違っていないと思えたのだ。──今は、信じる“神様”がいるから。


 それから、五年。

 トキはティオとこの場所で暮らし、それなりに幸せな日々を過ごしている。



「なー、トキ! 俺めっちゃ腹減った! どっかのクソ牧師がクソ遅いから!」


「……“クソ”って言うなっていつも言ってんだろうが、このクソガキ」


「お前もクソって言ってんじゃねーか! お返しだ、バアーカ!」



 べーっ、と舌を出したティオが生意気な口を叩く。……子育てとは一筋縄にはいかないものだと、つくづく思う。

 日に日に口の悪さが際立っていく彼の様子にトキは頭を抱え、「マドックもこんな気持ちだったんだろうな……」と少年時代の己が師に多大な心労を与えていたであろう事を今更ながら身に染みて感じていた。このままティオが自分のような大人になってしまったら──と、そう考えるだけで頭が痛い。



「はあ……まあいい。飯の用意してやるから、早くも呼んでこい」



 額を押さえながら言えば、ティオは嬉しそうに「うん!」と破顔する。


 口と態度の悪さだけはトキの影響がモロに出てしまった彼だが、表情がコロコロと変わる様はまだ子供らしく可愛げがあって、「仏頂面まで俺に似なくて良かったな……」とトキは内心安堵していた。


 ティオはパタパタと奥の部屋へ駆けて行き、声を張り上げる。



「おーい! ご飯だよー!」



 廊下に向かって叫ぶ声。それから程なくして耳に届いたのは──ばたばたと響き渡る、騒がしい足音。



「プギー!」


「ガウ!」


「わあ! あははっ、やめろよ二人とも! くすぐったい!」



 やがて嬉しそうに部屋へと飛び込んで来たのは、腹を空かせた二匹の獣。この五年ですっかり大きく成長した──ステラとアデルだった。

 二匹はティオによく懐いており、彼の良き遊び相手となってくれている。


 そんな彼らがじゃれ合っているのを一瞥してトキは微笑み、切り分けたパンとチーズを皿に並べた。先程買ってきたリンゴも、手早く皮を剥いて皿に盛り付ける。



「……ほら、飯だぞ。騒いでないでさっさと座れ」


「あっ、飯!」


「ガウ!」


「プギギー!」



 質素な食事をテーブル上に用意すれば、ティオと獣二匹が嬉しそうに駆け寄ってくる。アデルとステラにはそれぞれ別の食事を用意して、トキもティオと向かい合う形で椅子に腰掛けた。



「腹減ったー!」


「こら、食べる前にお祈り」


「はあーい!」



 トキの指摘にティオはぴっと背筋を伸ばし、胸の前で両手を握り合わせる。瞳を閉じて食前の“お祈り”を紡ぎ始めた彼の正面で、トキもまた瞼を下ろし、首に下げた宝石──女神の涙ラクリマを、やんわりと握った。



「天にまします我らの聖女様、今宵も大地のお恵みに感謝いたします!」


「……どうかこの大地の恵みが、明日の我らの光とならんことを」


「いただきまーす!」



 ティオは深々と一礼し、顔を上げた途端にがぶりとパンにかぶりつく。口を動かしながら「おいしい!」と満面の笑みを向けるティオ。


 この笑顔だけが、今のトキにとって、唯一の心の支えだった。そして、旅をしていた頃と変わらず自分の傍に居てくれる──アデルとステラの存在も。


 ──五年前、この場所に彼らが移り住んで、暫くした頃。


 匂いを辿って見つけ出したのか、二匹は突然トキの元へと戻って来た。最初こそ言葉を失うほど驚いたが、二匹の事を受け入れて抱き締めるまでに、時間などかかるはずもない。


 彼らを受け入れてから、五年。

 アデルとステラはまだ、自分についてきてくれている。



「──あ! ねえねえ、トキ! 知ってる? 」


「あ?」



 物思いに耽っていたトキだったが、ふとティオの呼び掛けによって我に返った。

 背後からトキの分のリンゴを奪おうとこっそり近づいて来たステラを拳骨で打ち落とし、トキは彼の話に耳を傾ける。



「今度、アリアドニアの新しく出来た劇場にさ、雨の街マリーローザから超美人の歌手が来るんだって!」


「……、あー……アイツか」


「ポスター見たんだけどさ、それがすげえ美人だった! メリールージュっていうの! 見に行きたい!」


「アイツにはロクな思い出がねえから嫌だ」


「ええ!?」


「……ふっ、嘘だよ。行くか」


「ほんと!? やった!」



 決して裕福ではない、この暮らし。


 だが、こうしてティオと他愛もない話をして食卓を囲むこの時間が、幸せだと思う。


 この五年間、正直死にたくなる事もあった。

 それでも今、この時をまだ歩み続けていられるのは、“ティオ”という新たなを見つけたからだ。


 ずっとこのまま、つつがなく。穏やかに暮らしていられたら、それでいい。ティオが幸せであれば、それでいい。


 それが自分の幸せなのだと──彼は、心からそう思っていた。



「メリールージュ、すごい美人だったなあー! 楽しみ! 俺、大きくなったらあんな美人と結婚する!」


「……お前の女の趣味は、俺には似なかったな」


「何言ってんだよ、トキはそもそも女になんか興味ないじゃん。……あ! それとも何、もしかしてついに結婚する気になった!?」


「ない」



 不意に身を乗り出したティオの言葉を、トキはバッサリと一蹴する。対するティオは「ちぇっ」とつまらなそうに唇を尖らせ、再び椅子に背を凭れた。



「何だよ、期待して損した」


「何を期待してんだよ」


「決まってんじゃん、トキの結婚」



 ふふん、とティオが口角を上げる。また始まった、とトキはうんざりした様子で嘆息した。



「……悪いが、それはないな」


「えー、何で? モテるんだし、さっさと結婚すりゃいーのに。よくお祈りに来るミアとかさあ、絶対トキの事好きだし……そうだ、ミアと結婚しなよ! 病院の娘だからお金持ちだぜ!」


「しねーよ。金とかそういう問題じゃない」


「何でだよ、別に結婚してもいいじゃん! ……そしたら、俺……、“お母さん”が、出来るのに……」



 ぽつりと、小さく付け加えられたティオの言葉。やけにハッキリと耳に届いたその発言に、パンをちぎっていたトキの手の動きがぴたりと止まる。

 正面で俯くティオの瞳は、僅かに揺らいでいるように見えた。



「……っ」



 トキは奥歯を軋ませ、視線を落とす。


 すると、その時。



「──牧師様!!」


「……!?」



 不意に悲鳴のような声がその場に響き、彼らは食事の手を止めた。トキが反射的に椅子から立ち上がれば、扉を勢いよく開けた人物が二人、部屋の中へと駆け込んで来る。


 ただならぬその様子にトキは眉根を寄せ、二人の元へと近付いた。



「……ミア? 何してるんだ」


「夜分にすみません、牧師様! どうかお願いがございます……!」



 血相を変えて床に膝をついていたのは、今しがた話題に上がったばかりのミアである。彼女の隣には、青ざめた顔で震えている見知らぬ老紳士の姿もあった。


 トキは眉を顰め、彼を一瞥する。



「……こちらは?」



 問えば、「父です……!」とミアが答えた。すると彼女は涙ながらにトキに懇願する。



「どうか助けて下さい、牧師様……! 父はに取り憑かれてしまいました……!」


「……はあ?」


「“カルラディアの亡霊”です! ご存知ありませんか!?」


「……」



 ミアの問いに、トキは黙り込んだ。『カルラディアの亡霊』──五年ほど前からちらほらと耳にするようになったそれは、「崩壊したカルラディア城跡に訪れると、夜な夜な子供の亡霊が夢に出る」というものである。いわゆる一種の怪談話だ。


 “亡霊”という言葉に臆したのか、背後で食事をしていたティオと獣二匹の表情が強張る。そんな彼らを一瞥し、トキは溜息混じりに口を開いた。



「……ここでは、子供達の目があるので。場所を変えましょう」



 そう言って一旦踵を返すと、不安そうに見上げてくるティオの頭を乱雑に撫ぜる。「それ食ったら、もう寝ろ」と告げれば、彼は泣き出しそうな顔でトキのストールの端を掴んだ。



「……おばけ、出るの?」


「……出ねーよ。怖いのか?」


「……こわい……」



 きゅ、とストールを引く力が強まる。こういう所は案外素直なんだよな……、とトキは嘆息し、自身の首に巻いていたストールをおもむろに抜き取って、怯える彼の首にそれを巻き付けた。



「……ほら。俺の代わりにコレ握ってろ。何かあってもアデルとステラが守ってくれるから、安心して寝ていい」


「……うん……」



 今にも泣きだしそうなティオに言い聞かせると、彼はトキから渡されたストールをぎゅうっと強く握り締める。

 程なくしてトキはアデルの背を軽く叩き、「ティオを頼むぞ」とだけ耳打ちして、ミアとその父と共に部屋を出ていったのであった。




 * * *




「──ひとまず、聖水で清めておきました。効果がある確証はありませんが」


「ああ、牧師様! ありがとうございます! 何だか体が軽くなったような気がしますよ! いやあ助かった!!」


(ホントかよ……)



 一通り親子の話を聞いたトキは、とりあえずコレさえつけときゃ治るだろと言わんばかりの素人判断で、彼に聖水を振り撒いておいた。


 時折、こうして『除霊してくれ』という相談を持ち掛けられる事があるが、聖職者は霊媒師とは違う。除霊なんてものは、本来専門外だ。

 それを幾度となく説明したが、「とりあえず亡霊が出て行くように祈ってくれ!」と頑なに聞き入れて貰えなかったため、最終的にこの判断に至ったのである。



「ヴァンフリート牧師! 本当に助かったよ! 一度カルラディア城跡に足を運んでからというものの、夢にの亡霊が毎晩出てきて、困り果てていてね! これで安心だ!」


(……。まあ、このオッサンが納得してんなら、別にいいか……。金払いもいいし)


「ああ、本当に助かった! 君は実に良い青年だ! もしもミアの婿にするなら、君のような青年にぜひお願いしたいものだね! うちのミアを嫁にどうだい、牧師殿!」


「……、は?」


「ちょ、ちょっと! お父様!」



 あまりにも唐突な発言に、トキは思わず面食らった。慌ただしく声を発したミアへと視線を移せば、その頬は真っ赤に染まっていて。



「急に何を言うのよ! 牧師様が困っちゃうじゃない!」


「良いじゃないか、ミア。別に不満はないだろう?」


「……っ、わ、私は……! た、確かに、牧師様の事を……お慕いして、おりますけど……」



 頬を赤らめ、ミアはぼそぼそと言葉を告げる。「ほら見ろ」と笑う老紳士を後目しりめに、トキは内心だけで盛大な舌打ちを放った。面倒くせえ、とこぼれそうになる本音を飲み込み、彼は口を開く。



「……お気持ちは大変嬉しいです。でも、俺は──」



 迷わず断ろうと口を開いたトキだったが──しかし。

 その時不意に、彼の脳裏には先程のティオの言葉が蘇った。




 ──何でだよ、別に結婚してもいいじゃん! ……そしたら、俺……、“お母さん”が、出来るのに……。




「……っ!」



 トキは声を詰まらせ、口を閉ざす。黙り込んだ彼の頭に浮かぶのも、やはり先程のティオが発した、あの言葉で。



(……“お母さん”……)



 思い描いたその単語に、噛み締めたトキの奥歯がぎりりと軋んだ。


 ──ティオは、母親に捨てられた子供だ。


 それ故、幼い頃から「お母さんに会いたい」と駄々を捏ねる事がよくあった。あの当時、彼はまだ六歳にも満たなかったのだから、母親が恋しいのも当然だろう。


 最近は以前のように実の母を恋しがる様子はなくなったが、その代わりに、今度は『新しい母』を求めるようになってしまった。


 父親代わりであるトキが結婚すれば、“お母さん”が出来るのだと、そう考えて──。



(……そう、だよな……)



 いくら、愛情を持って接しても。

 父親は、“母親”にはなれない。


 家族を失った後、男手ひとつでマドックに育てられたトキにはそれがよく分かる。痛いほどに、分かってしまうのだ。


 ──ティオが今求めている、“幸せ”の形が。



「……少し、考えさせて……くれませんか」



 長く続いた、沈黙の後。

 トキが親子に返したのは、そんな言葉だった。




 * * *




 ミアとその父が教会から出て行ってから、数分。


 トキは足音一つ立てずにティオの自室へと向かい、部屋の中を静かに覗き込んだ。彼はトキのストールを大事そうに握り締めたまま、アデルやステラと共にベッドの上で眠っている。

 その様子にトキは薄く微笑み、誰にも気づかれぬよう静かに、その場を後にした。


 やがて教会を出た彼は、静寂に包まれた夜道をゆっくりと歩いて行く。程なくして辿り着いたのは、野花が風に揺れる小さな裏庭。その場所でトキを出迎えたのが──真っ白な枝葉を大きく広げる、一本の美しい樹であった。


 ──この樹は、『魔女の樹』。五年前、トキがそう名付けた。


 ここへ移り住んですぐの頃、トキはこの裏庭に三つの指輪──〈魔女の遺品グラン・マグリア〉を埋めたのだ。するといつの間にか、その場所からこの白い樹が生えてきたのである。


 これはきっと、魔女の遺した最後の遺品。

 姿が見えずとも、彼女達はおそらく、この樹と共に自分達を見守ってくれているのだろう。


 そう考え、トキはこの白い樹に、『魔女の樹』という名前を与えたのだ。



「……最近忙しくて、なかなか会いに来れなくて悪いな」



 ぽつりと呟き、トキは魔女の樹の幹に背を凭れて座り込む。彼の周囲では、薄紫の花弁を広げたトーキットの花が静かに揺れていた。



「なあ、ドグマ、聞いてくれよ。……俺、もしかしたら……、結婚、するかもしれないんだ」



 風に揺れる白い枝葉に向かい、トキはぽつぽつと語り掛ける。返事など、勿論あるはずもない。……だが、きっと彼女はどこかでこの声を聞いているのだろうと、そう思えた。



「俺、今、わりと幸せなんだよ。ティオが居るから……、アイツが幸せそうにしてりゃ、俺も幸せなんだ」


「……笑えるだろ? あんなにひねくれて他人嫌いだったこの俺が、今じゃ偶然拾っちまったガキ一人のためだけに、結婚までしようとしてるんだぞ」


「……ほんと、笑えるよな……」


「俺が愛する女は……今でも、ずっと……、一人だけなのに……」



 トキは俯き、首に下げた青い宝石を握る。その手の中の女神の涙ラクリマは、月の光に優しく照らされ、ただきらきらと輝いていた。



 ──ティオの幸せが、今、この時を生きる自分の幸せ。



 それは間違いない。きっと嘘ではない。

 トキは心から、そう思っている。


 だから、彼が『母親』を求めているというのなら。彼がそれで幸せになるというのなら──たとえ自分の望む相手ではなくとも──結婚すべきなのではないだろうか。


 頭の中では、分かっている。

 決意だって、ちゃんと出来ている。


 出来ている──はずなのに。



「……でも、やっぱ……無理だよなあ……」



 トキは自嘲的な笑みを漏らし、魔女の樹の幹に寄りかかる。「無理なんだよ、俺……」と弱々しく続けた彼は、握り締めていた宝石をそっと見下ろした。



「アイツが、消えない……。ずっと、アイツが……記憶の中で、笑ってる……」



 切なげにこぼれた言葉は、夜闇の静寂しじまに溶けていく。トキの手の中の女神の涙ラクリマも、月の光を浴びて美しく輝くばかりで何も答えない。


 それでも彼は、言葉を続けた。

 そこで誰かが聞いてくれているのだと、信じて。



「……よく、夢を見るんだ、俺」


「マドックが居て、ドグマが居て、家族も居て……、セシリアが居る。みんな笑ってる。そんな夢……よく見るんだ」


「……でも、目が覚めると、いつも泣いてる」



 力無く呟き、瞳を閉じる。


 瞼の裏で見る夢は、いつも幸せだ。だが目が覚めると、どうしようもない虚無感で胸が埋め尽くされて、泣いてしまう。



「……こんな弱音吐いたら、お前に殴られるよな……ドグマ……」



 トキは俯いたまま、ぽつりと言葉をこぼす。迫り上がる群青色の感情は睫毛の手前で押し留めたつもりだったが、瞬いた途端、容易く境界を超えて滑り落ちてしまった。



「……でも、たまには……許してくれよ……」



 頬を伝った涙の粒は、ぽたりとこぼれて足元に咲くトーキットの花弁を濡らす。穏やかな夜風に撫ぜられたそれは、濡れた花弁を静かに揺らすばかりだった。


 あれから五年もの月日が流れ、歳を重ねて、大人になった。


 けれど、薄れたはずの哀しみも。

 あの日あの場所に置いて来たはずの愛の言葉も。


 まだ、色褪せてくれない。



「……セシリア……」



 俺はただ、今でも、君に。



「……っ、会い、たい……」


「──会えるわよ、ドブネズミ」



 ──刹那。

 トキの耳に届いたのは、その場にいるはずのない誰かの声だった。


 ハッと目を見開いて彼は顔を上げる。しかしその瞬間、彼の視界は凄まじい風を受けて舞い上がる薄紫色の花弁で埋め尽くされた。



「……っ、な……!?」



 強い風の中で舞う花弁。それと共に、魔女の樹の枝葉がざわざわと揺れる。

 突然の出来事に困惑するトキだったが、戸惑っている間に舞い上がっていた花弁は次々と空気に溶け、どこかへと消えてしまった。


 そして気がつけば、周囲の景色はがらりと変わっていて。


 トキが座り込んでいたその場所は、まるで光の中にでも居るかのような、どこまでも続く白い空間へと変貌している。そんな空間の中央に、風もない中で揺らめく魔女の樹だけがぽつんと残されていた。



「……っ!? ……い、一体、何が……」


「ここは夢の中よ。トキ・ヴァンフリート」


「……!」



 ぺた、ぺた。


 こちらへと近付く裸足の足音が耳に届き、トキは振り返る。するとそこには、酷く痩せ細って髪も抜け落ちた、見窄らしい姿の少女が立っていた。

 彼女は楽しげに笑い、「どうも、“カルラディアの亡霊”です」と無邪気におどける。



(……カルラディアの、亡霊……?)



 そう名乗った彼女を、トキは訝しんだ。しかし不思議と、恐怖や警戒心は感じない。それどころか、どこか懐かしいとすら感じていた。



「……っ、あ、アンタ……、誰だ……?」



 困惑しつつも、トキは問い掛ける。すると彼女はくすくすと笑い、「あら、忘れちゃったの?」と小首を傾げた。



「五年前に一度だけ話したし、その前もずーっと一緒に旅をしてたのに。……まあ、私はに居ただけだから、この姿であなたに会うのは初めてだけどね? ドブネズミ」


「……っ」



 ──ドブネズミ。


 そう呼んで不敵に笑った可憐な横顔が、トキの脳裏を駆け抜ける。彼は目を見開き、ついにその名を紡ぎ出した。



「……まさか……、ドルチェ……!?」


「あはは、なーんだ覚えてるじゃない! そうよ、私ドルチェ。久しぶり~」


「は……!? な、何で……! アンタ、あの時セシリアと一緒に消えたんじゃ──」


「何言ってんの、わよ。──セシリアは」



 ぴしゃりと、彼の言葉を遮った少女──ドルチェが鮮明に言葉を紡ぐ。思いがけないその発言に、トキの思考は一瞬で真っ白に染まり──長い時間をかけて、ようやく彼は「……は……?」と声を絞り出した。


 ドルチェはやはり笑ったまま、トキへと一歩近付く。



「あなたね、そもそも勘違いしてるのよ。五年前のあの日、カルラディアの地下でセシリアが〈万物の魔導書オムニア・グリム〉を使って魔法を消したせいで、あの子が宝石になってと思ってるんでしょ」


「……え……」


「けどね、それは違うわ。確かにセシリアは、魔導書を使って世界から魔法を消した。……でも、あの子の体が宝石に変わったのは、そのせいじゃない。そもそも、あの魔導書を使えるのはのよ」



 ──あの魔導書を使えるのは、セシリアだけじゃない。


 その言葉で、トキの脳裏にはある一つの可能性が浮上する。「まさか……」と彼が掠れた声を発した直後、ドルチェは目尻を緩めた。



「──〈万物の魔導書オムニア・グリム〉は、ドルチェも使える」



 彼女がそう告げた瞬間、トキの首に下げられていた女神の涙ラクリマが突如青い光を放つ。するとその場所からは、なんと〈万物の魔導書オムニア・グリム〉が飛び出してきた。



「……っ!?」


「……あの日、セシリアが魔導書を使って、世界から魔法を消した後。私はすぐにあの子と入れ替わって、この魔導書を使ったの」



 ドルチェは輝く魔導書に触れ、それを手に取る。



「世の中から魔法が無くなっても、女神の魔力を直接受け継ぐ私たちにはまだ魔力がある。私はあの時、魔法が消えた事でアルタナの刻印が無くなったセシリアを、この魔導書の力で宝石に閉じ込めて


「……な、に……」


「あの子は元々、私が望んで創り出した、ただの『人格』。黒魔術によって蘇っただけの私の体にあのまま留めておいたら消えてしまうから、あの子の体から“セシリアの人格”だけを抜き取って、宝石に変えて隠したのよ。この魔導書も一緒に」



 ちょっと演出が派手だったけどね、と続いたドルチェの言葉に、トキは目を見開いて絶句したままその場に座り込んでいた。


 ──セシリアが宝石となって砕け散った、あの時。


 確かに彼女の手は、最後まで〈万物の魔導書オムニア・グリム〉に触れていた。それを思い出し、トキは視線を泳がせる。



(……まさか、あの宝石化は……ドルチェが魔導書を使って、計画的にやった事だったのか……?)



 彼女の言っている意味が、すぐには理解出来ない。彼はゆっくりと時間をかけ、頭の中で一つ一つ丁寧に、彼女の言葉の意味を紐解いた。そしてようやくその意味を咀嚼した頃──彼は震える声で、ドルチェに問いかける。



「……じゃあ……」


「……」


「……セシリア、は……まだ……」


「ええ、そうよ」



 彼女は魔導書のページを捲り、優しく微笑んだ。



「あの子は生きてる」


「──っ!!」


「良かったわね、ドブネズミ。愛しい人にやっと会えるわよ」


「……っ、う、嘘、だろ……? だって……っ、アイツ、今どこに……!」


「あら、意外と察しが悪いのね。私が何のために、わざわざ五年間もあなたの事を探し回ったと思ってるのよ」



 ドルチェは裸足の足音をぺたりと響かせ、座り込んでいるトキの目の前に立つ。その視線の先にあるものは──彼の首元で光る、女神の涙ラクリマ



「あなたは、ずっと持っているじゃない」



 ──あの子の欠片を。



「……!!」



 まばゆい輝きを放つ、首元の宝石。トキは息を呑み、それをぎゅっと握り締めた。



(……まさか……、この中に……)



 ──居るのか? ……彼女が。


 愕然と目を見開き、トキは言葉を失う。そんな彼の目の前に立つドルチェは、やがてうんざりした表情で肩を竦めた。



「言っとくけど、ほんっとに大変だったんだからね? セシリアを守れたのは良いけど、アルタナじゃなくなったせいか、“私”はセシリアの中から弾き出されちゃって。でも私の姿は人の目に映らないもんだから、とりあえず片っ端から他人の夢の中に入り込んで、あなたの居場所を探してたのよ」


「……っ」


「そしたらびっくり、いつの間にか『カルラディアの亡霊~』なんて呼ばれちゃって。ちょっとイカしてると思わない? ……ま、そんな感じでウロウロして、ようやくあなたを見つけたってわけ。五年も時間がかかっちゃったけどね」



 ドルチェは溜息混じりに笑い、そっとトキの前にしゃがみ込む。痩せこけたその顔には、どこかセシリアの面影があって──トキの表情は切なげに歪んだ。



「……ドルチェ……、アンタ……」


「──さて。長話はお終いよ、ドブネズミ」



 何かを紡ぎかけたトキの言葉を遮り、ドルチェは魔導書に手を触れる。その瞬間、トキの首元の宝石が強い光を帯びた。



「……っ!」


「私が〈万物の魔導書オムニア・グリム〉を使うのは、これで最後」


「ドルチェ! 待てっ……!」


「私はこの魔導書で、新たな世界も、神も、魔女も創らない」


「待てよ! アンタはっ……アンタはどうなるんだ!?」



 吹き荒れる風と強く輝く光で目がくらむ中、トキは怒鳴るように叫ぶ。しかしドルチェは何も答えず、ただ優しく微笑んだ。



「私が創り出すのは、ただ一つ」


「……っ」


「──私を心から望んでくれた、心優しい、“人間あの子”だけよ」



 刹那、一際強い閃光がトキの視界を奪う。あまりに眩しく輝くその光に、彼は固く瞳を閉ざした。


 直後、トキの耳は幼い少女の声を拾い上げる。



 ──ねえ、もしも、生まれ変われるのなら。



 眩しい光の中、そんな声が聞こえて。彼は僅かに目を開けた。しかしその直後、トキの視界はくらりと歪み、意識が遠のき始める。



「また、あなた達の傍に──」



 ──ぷつん。


 彼女の頬に光る涙の粒を見たのを最後に、トキの意識は、闇に沈んだ。




 * * *




「……、ん……」



 さらさらと頬を撫でる、穏やかな風の中。トキは固く閉ざしていた瞼をゆっくりと持ち上げた。


 瞳を瞬き、霞む視界でぼんやりと虚空を見つめる。目の前には、見慣れた古い教会の壁。足元では野花が揺れ、背は魔女の樹に凭れかかったままだった。



「……ああ、俺……、寝ちまったのか……」



 ぽつりと呟き、トキは苦笑する。


 今しがた見た夢を、トキは鮮明に覚えていた。我ながらなんて都合のいい夢だろう。セシリアが、宝石の中で生きている──だなんて。



(そんなわけ……ないのに……)



 自嘲した途端、思わず目頭が熱くなる。彼は手のひらで目元を擦りながら、ほとんど無意識に、首元の宝石へと手を伸ばしていた。


 ──しかし。そこには、いつもの感触がない。



「……、!?」



 ハッ、とトキは即座に目を見開き、自身の胸元を再度確認する。だが、やはり肌身離さず首に掛けているはずの女神の涙ラクリマはどこにもなかった。



「……っ!? な……何で……!! まさか、寝てる間に盗まれ──」



 と、焦燥して振り返った──その時。

 突として視界に飛び込んで来た光景に、彼の思考はぴたりとその動きを止めてしまう。



「……、え……?」



 思わず間の抜けた声を漏らし、トキは硬直する。そして流れる、長い沈黙。


 やがて彼は訝しげに眉を顰め、ふらふらと立ち上がって──彼が凭れ掛かっていた魔女の樹の、反対側へと歩み始めた。



 ──そんなわけ、ない。



 頭の中で、これは夢だと警笛が鳴る。けれどトキの足は止まらず、吸い寄せられるように少しずつ、前へと進んだ。


 その場所でさらさらと風に揺れているのは、絹糸のように流れる、金色の長い髪。

 傷一つない白い肌と、薄桃色の唇。


 魔女の樹に寄り掛かって瞼を閉ざしているその姿に──トキの目は、釘付けになる。程なくして目の前の光景を理解し始めた彼は、小さくかぶりを振りながら「……嘘だ……」とこぼし、静かに眠る彼女の前に膝を付いた。




「……セシ、リア……?」




 魔女の樹の根元に座り、規則的な呼吸を繰り返す、彼女。

 見間違えるはずもないその姿は、彼が過去に愛した──大切な人の姿だった。


 トキは情けなく震える声で彼女の名を呼びかけ、白い頬に触れる。


 するとそれまで閉ざされていたセシリアの瞼が、ぴくりと動いて持ち上がり──宝石のように澄んだ翡翠の瞳と、ついに視線が交わった。



「……」


「……、……セシ……リア……」


「……トキさん」



 懐かしい鈴の音が、己の名を紡ぐ。未だに目を見開いたまま硬直しているトキに向かって、彼女はただ穏やかに、柔らかく破顔した。



「……私、ずっと、あなたの事……」


「……」


「傍で、見てたんですよ……トキさん」



 下がる目尻。慈愛に満ちた優しい声。

 やがてそっと伸ばされた手が頬に触れ、何度も夢に見た彼女の手の温度が直に伝わる。


 その熱に触れて、ようやく──トキの思考は働き始めた。じわりと滲んだ視界が、徐々にぼやけて、見えなくなって。



 ──ああ、こんなの、また、自分の都合のいい夢に決まってるのに。



 やめてくれよと、苦しげに表情が歪む。しかし気が付けば、トキは彼女の手を強く握って自身の腕の中へ引き寄せていた。


 短く上がった悲鳴と共に、華奢な体が彼の胸へと倒れ込んでくる。


 強引に抱き寄せたその体が、あまりに温かくて、懐かしくて。リアル過ぎる鼓動の音が、密着するトキの肌へと、確かに伝わって。



 ──夢だ、こんなの。


 そうだろ? だって、いつもそうだったじゃないか。


 また、夢から醒めて、全部幻なのだと気付く。

 きっと今日も、これからそうなる。


 でも、もしも。

 万が一。もしかして。もしかしたら、本当に。



「……っ……、なあ……っ」



 ──ここに、居るのか? セシリア。



 抱き締めた彼女の細い肩口に顔を埋め、触れる体温を確かめる。あまりに懐かしいそれを噛み締め、止めどなく溢れ始めた嗚咽を飲みながら、彼は震える唇を開いた。



「……っ、ひ、うぐ……っ、夢、なら……っ」


「……」


「夢なら……っ、早く、そうだって言ってくれ……っ! ……期待、しちまう……、アンタがっ、ここに居るんじゃないか、って……っ、勘違い、しちまうだろ……っ!」



 途切れ途切れに紡いだ言葉は、情けないほどに上擦って、掠れていて。けれどセシリアは震えているトキの背中へと細い腕を回し、「……夢じゃないよ」と優しく囁いた。



「私、ちゃんと居るよ。あなたの前に……ここに居る。……ドルチェが〈万物の魔導書オムニア・グリム〉を使って、私に人間の体を与えてくれたの」


「……っ」


「ごめんね、トキさん。ずっと辛かったよね、苦しかったよね……遅くなって、本当にごめんなさい。……でもね、私、ずっとあの宝石の中から見てたんだよ。あなたの事も、アデルの事も、ステラちゃんの事も──ティオくんの事も」



 セシリアはそう続けて、ゆっくりとトキの髪に頬を寄せる。声も、匂いも、言葉の隙間で耳が拾うその息遣いでさえも。


 全てが、喉から手が出る程に欲しくて、堪らなかったもの。



「あなたが辛そうにしていた時も、孤独に負けて命を絶とうとした時も……ティオくんのために、自分の心を犠牲にしようとした時も。全部、見てた」


「……っ、う、……ぐ……っ」


「そして、私の最期の言葉を──ずっと裏切らずにいてくれたあなた事も、見てたんだよ」


「……っう、ああ、ぁ……っ」



 ──生きて。


 彼女は五年前、そう言い残して、トキの前から居なくなった。


 トキが『死んだ方がマシだ』と何度も考えた、いくつもの孤独な夜。それを今日まで越えてこれたのは、全て、あの言葉があったからだ。


 彼女を裏切る事だけは──どうしても、出来なかったから。



「う、ぅ……っ、セシリアっ……セシリア……!」


「……なあに? トキさん」


「会いた、かったっ……!! 俺、ずっとっ……アンタに……! 会いたかったんだ……っ!!」



 嗚咽を止めどなく混じえながら声を紡げば、セシリアは「……うん。私も」と微笑む。子供のように泣きじゃくる彼を強く抱き締めた彼女は、やがてその耳元にそっと言葉を告げた。



「信じて、生きていてくれてありがとう……トキさん」


「……っ、うっ、ひぐ……っ、ぐすっ……」


「ねえ、トキさん。私ね。……あなたに、お願いがあるの」



 抱き寄せていた腕をそっと離し、セシリアはトキの胸から離れる。涙で濡れた彼の顔を愛おしげに見つめ、彼女はその手を握り取った。



「今から人として生きていく、私の……、“セシリア”の、これからの人生トキを──」


「……っ」


「──あなたが、全て貰ってはくれませんか。トキさん」



 凛と澄んだ翡翠の瞳を細め、セシリアが問う。トキは既に涙でぐしゃぐしゃに乱れた表情を更に歪め、肩を震わせてその華奢な手を握り締めた。



「……っ、ふざけんな、ばか……、それは……っ、俺の台詞だろ……っ」


「……」


「アンタの人生、全部……っ、俺に寄越せよ……! 代わりに、俺の人生っ、全部……っ、アンタにやるから……っ!!」



 最後は叫ぶように、彼は今にも消え去りそうな声を発した。

 セシリアは満面の笑みで深く頷き、涙で濡れたトキの顔へと自身の唇を近付ける。



「……はい。貰い受けます」


「……ひっ、く……っう、っ……!」


「もう、泣きすぎですよ? トキさんったら」


「……っ、誰の、せいだと……っ」


「ふふふっ」



 朗らかに笑って、セシリアは不服気に眉根を寄せたトキの額にこつりと自身の額を合わせた。やがてどちらからともなく──見つめ合った二人の唇が、重なる。


 その唇の熱を感じて、トキはようやく、これは夢ではないのだと強く確信したのだった。


 呪いの緩和のためではない、二人が交わす、初めての口付け。涙で濡れたその熱は、少ししょっぱく、舌の上に溶けていって。



「……ただいま、トキさん」



 ややあって、その唇が静かに離れた時。セシリアは、心から幸せそうに笑って、そう言った。


 その笑顔にまたトキが泣き出しそうになった、直後。二人の耳には、不意に別の声が届く。



「プギー!!」


「ガウッ、アゥン!!」


「──!」



 夜闇の中に響いたのは、耳馴染んだ鳴き声。


 魔女の樹の下で向かい合っていた二人がハッと顔を上げれば、ドタドタと騒がしい足音を響かせた獣二匹が嬉しそうに駆け寄ってきた。



「アデル! ステラちゃん!」


「プギギー!!」


「アゥン! アォーン!!」


「あははっ、ちょっと、もう! 二人共、重たくなったわね!」



 尻尾を振ってセシリアに飛び付いた二匹は、以前よりも大きくなった体を擦り寄せて甘え始める。その様子に、トキが目尻の涙を拭いながら穏やかに微笑んだ頃──ふと、その場にはもう一つの足音が響いた。



「……!」


「……」


「……、ティオ……」



 黙り込んだままおずおずと一行に近寄ってきたのは、自室で眠っていたはずのティオである。彼は何も言わずにトキのストールを抱き締め、じっとセシリアの姿を見つめていた。


 セシリアもその視線に気が付いたらしく、彼と視線を交える。程なくして彼女は微笑み、ティオの元へと歩み寄った。



「……こんばんは。初めまして、ティオくん」


「……」


「ごめんね。いきなり出てきて、怖がらせちゃったかな……。私ね、セシリアっていうの。あなたの、お父さんの……」



 セシリアはそこまで続けて、一瞬言葉を飲む。だが、暫く間を置いた後、噛み締めるように──その続きを紡いだ。



「──恋人……だよ……」


「……!」


「……だから……っ、良かったら、私と……、これから、仲良くして……くれないかな……」



 恋人、と告げた瞬間、それまで頑なに笑顔を崩さなかったはずのセシリアの目尻には、大粒の涙がじわりと浮かぶ。



 ──愛する人の、恋人になれた。



 ずっと自分には叶えられないと思っていた願いが叶ったのだと、「恋人」という言葉を用いてようやく、彼女は強く実感したのだった。


 微笑みながらも涙ぐむセシリアの様子に、ティオは不思議そうに口を開く。



「……どうして、泣いてるの?」


「……っ、ううん……、なんでもないよ……」


「……大丈夫? トキに虐められた? ……っていうか、トキって恋人居たの? え? えええー!? 何それ!? 全ッ然知らなかった……、じゃなくて! お前、恋人泣かすなよ! 最低だな牧師のくせに!」


「……どちらかと言うと、泣かされたのは俺なんだが」



 ズズ、とトキが赤みを帯びた鼻を啜り上げる。しかしティオは「こんな綺麗な人が誰かを泣かすわけねーだろ!」と声を張り、両手を広げてセシリアの前に立ちはだかった。



「恋人さん! 大丈夫だから安心していいよ! このクソ牧師に虐められたら、俺が全力で守ってあげる!」


「……っ、ふふ……っ、ありがとう、ティオくん……頼りにしてるね」


「おりゃ! かかってこい、このクソ牧師! 未来のお母さん候補の事は、僕が命にかえてでも守──いだだだだっ!」


「調子に乗んな、このクソガキ。つーか夜中に外に出てきてんじゃねーよ、危ねーだろ」



 ぐいーっと耳を引っ張りながら声を低めれば、ティオは「痛い痛い! ごめんなさいっ!」と絶叫する。ステラは呆れたように「プギプギ……」と鼻を鳴らしたが、セシリアは涙の溜まる瞳を細めておかしそうに笑った。


 やがてステラは「うわああん! ステラ助けてー!!」と涙声で助けを求めるティオを見かねたのか、ふわりと宙を舞ってその首根っこを咥えると、彼の体をアデルの背中へと誘導する。



「プギ」


「うっうっ……クソ牧師に負けた……ぐすっ」


「俺に勝つなんて百年はえーんだよ、このクソガキ。……おいアデル、そのままそいつ寝かしつけてこい」


「ガウ!」



 やれやれと肩を竦めたトキが指示を出せば、アデルは尻尾を振ってティオの体を運び始めた。「えー! やだぁー! 俺まだトキの恋人とお喋りするー!!」と騒ぐティオの頭にぺしんと尻尾を叩きつけ、ステラも彼らの後に続く。


 トキは嘆息し、「あー、うるせえ……」と頭を抱えた。そんな彼の横顔を愛おしげに見つめ──程なくして、セシリアはトキの手を握る。



「……!」


「……ねえ、トキさん」



 彼女は呼び掛け、まだ少し腫れぼったいトキの目を見つめた。そして、些か不安げに言葉を続ける。



「あの、その……今更なんですけど……。私を、あなたの……恋人に、してくれますか……?」


「……ほんとに今更だな。さっき自分からプロポーズ紛いの言葉吐いといて何言ってんだ」


「……だ、だって……、そういえば、告白とかしてないなと思って……その……。なんか、不安になってしまって……」


「だったら、今しろよ。ここで。愛を誓え、俺に」



 ──俺も、アンタに誓うから。


 トキはそう告げ、腫れぼったい目を優しく細める。セシリアは一瞬声を詰まらせたが、すぐに、やんわりと微笑んだ。


 やがてその瞳に涙を滲ませ、「……はい」と彼女は幸せそうに頷く。



「ねえ、トキさん。私は──」


「なあ、セシリア。俺は──」



 ──これからもずっと、君を信じ愛し続けると誓うよ。



 真っ白な枝葉を揺らした魔女の樹が見守る、満天の星空の下。


 “二人の誓い”を新たに結び、ようやく恋人同士となって唇を交わした彼と彼女の瞳には──幻の宝石よりも、清らかで、美しい──涙の粒が、光っていた。




 .


〈亡国と女神の涙 …… 完〉

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