第111話 今、この時を

 サラサラと、震える指の隙間から砕けた宝石の欠片がこぼれ落ちていく。地面に散らばる、青い宝石の残骸。そして、彼女の指に嵌められていたであろう“アルラウネ”の結婚指輪。


 それらが松明の僅かな明かりを反射して煌めく度、トキの瞳からは大粒の涙が滑り落ちた。



「……セシ、リア……っ、セシリアぁ……っ」



 もう、何度名前を呼んでも、セシリアは居ない。帰って来ない。


 その喪失感は、彼にとって、あまりにも大きすぎて。



「う、あぁ……ああぁ……っ」



 泣き叫んだ喉はとうとう枯れ果ててしまったのか、掠れ切ったそれはまともに音を発する事すらも出来ない。だがトキはその場に蹲ったまま、潰れた喉を震わせ、何度も彼女の名前を呼び続けた。


 ──と、その時。



「プギー!」


「……っ」



 ふと、聴覚が拾い上げたのはその場に響いた間の抜けた鳴き声。次いで、鳥が羽ばたくような羽音も耳に届いた。


 トキはようやく蹲っていた体を起こし、顔をもたげる。すると程なくして、翼を広げたピンク色の子豚がバサバサと羽音を響かせながらトキの元へと飛び込んできた。



「プギー!」


「……っ、ステラ……?」


「プギギー!」



 ぼすんっ! と勢いよくトキの腕の中へと飛び込んで来たのは、カルラディア城の外でアデルと共に待機させていたはずのステラである。プギプギと鼻を鳴らしたそいつは短い手足をばたつかせ、やがてトキの顔を見上げた。



「プギ! プギプギ!」


「……」


「プギー!」



 ──いつも通り。何も変わらない。


 そんなステラの様子に、トキの目頭は再びツンと熱を帯びる。


 小さな体から伝わる、暖かな温もり。腕の中の重み。

 それらも全て、いつも通りなのに。


 いつも通りの時間が流れるこの世界に──もう、彼女は居ない。



「……ステ、ラ……」


「……プギ?」


「……っ、ステラぁ……っ」



 トキは掠れ切った声を発し、いつだったか森の中で彼女が名付けた子豚の名を紡ぐ。腕の中の小さな体を強く抱き締めれば、ステラは困惑したように「プギー……?」と首を傾げた。



「悪い……っ、ごめ、……俺っ、ひぐ……っ、俺、守れなかった……っ」


「……プギ? プギ?」


「俺が……っ、救い出すっ、て……っ、マドックとも、約束、したのに……っ!」



 トキは嗚咽の混じる声を震わせ、何度も「ごめん……、ごめん……」と繰り返す。ステラは状況がよく分からないのか、ただプギプギと鼻を鳴らし、止めどなく流れるトキの涙を優しく舐め取る事しか出来なかった。


 ──直後。

 その場には、カチカチと爪を立てて歩く足音が響く。



「……!」



 トキは即座に反応し、バッと勢いよく顔を上げた。

 次いで、凛と澄んだ金の瞳と視線が交わった途端──その表情は更に歪む。



「……っ……! アデ、ル……」


「……アゥン」



 トキの視界に入り込んだのは、白銀の毛を揺らして歩み寄る、セシリアの相棒の姿。


 ステラと違い、アデルはセシリアの身に何が起きたのか理解しているようで。砕け散った宝石の残骸を見下ろした彼はすんすんと鼻を鳴らし、白銀の耳を垂らして悲しげに声を漏らす。



「クゥン……」


「……っ、アデル……」


「……」


「……アデル……っごめん……っ、う、ぐ……俺……っ、お前の、大事な人……守れなくてっ……」


「……ガゥ……」


「ほんとに、ごめ──」



 と、涙ながらに謝罪を告げた、刹那。

 トキは突如声を詰まらせて目を見開いた。


 彼の視界が捉えたものは、アデルの背に乗せられて目を閉じている──ロビンの姿。辺りが暗いせいですぐには視認出来なかったが、よく見ればその体には傷が目立ち、血が流れている。



「……っ!? ロビンッ!!」



 途端に背筋を凍らせたトキは、潰れた喉で彼の名を叫んだ。すぐさま床を蹴って駆け寄り、意識のないその肩を掴む。



「おい!! ふざけんなよ、お前までっ……!!」


「……」


「ロビン……っ、起きろよ……! なあ……!!」



 呼び掛けるが、返事はない。トキは動かない彼の肩を掴んだまま、力無くその場に膝をついた。



「……嫌だ……っ、死ぬなよ……! 死んだら、承知しねえって……言っただろっ……!!」



 弱々しく呟き、トキはステラとアデルの体を強く抱いたまま、項垂れているのロビンの頭頂部に自身の額を押し当てる。


 ──しかしその瞬間、ロビンの腕はぴくりと動いて持ち上がった。



「……、死んでないっつーの……バァーカ……」


「──っ!」



 直後、確かに耳に届いた掠れ声。「ロビン!!」と思わずトキが声を張れば、青ざめた顔をもたげて笑うロビンの瞳と視線が交わる。



「……何、泣いてんだよ……トキ……」


「……っ、お前……っ、生きてっ……」


「生きてる、から……安心しろ……。めっちゃ、体……いてーけど……」



 へらりと八重歯を覗かせ、ロビンは笑った。彼はすぐに自身の懐へと手を突っ込み、未だに涙を落としているトキに何かを手渡して押し付ける。



「……!」


「……それ、最後の、転移石、だ……。この場の全員、それで転移できる……使え……」


「……っ」


「早く、逃げねーと……、この城……爆破される、らしいからな……」


「……、は……?」



 途切れ途切れに告げたロビンの言葉に、トキは眉根を寄せた。対するロビンは苦笑し、「さっき、この地下から出てきた、カルラ教の連中とすれ違ったんだよ……」と続ける。



「導師が、死んだから……〈万物の魔導書オムニア・グリム〉を、この先、永遠に誰の手にも渡さないために……この城ごと爆破して、埋めちまうって……言っててな……」


「……な……!」


「だから、早く……ここから、逃げ……」



 ロビンが弱々しく声を紡いだ、その刹那。

 ドガァンッ!! と突如地上から爆音が響き渡り、地面が大きく震動する。


 一行が弾かれたように顔を上げれば、途端に剥がれ落ちた天井の一部が彼らの周囲に落下し始めた。


 ──ドンッ! ドォンッ!!



「プギーッ!?」


「……! くそ……!」


「う……っ、トキ……っ! ごほっ……、早く、しろ……! このままじゃ、全員、死ぬぞ……っ」


「……っ」



 砂煙が舞う中、地上では何度も爆発音が鳴り響く。元々破壊されて不安定だった柱や壁は次々と崩れ落ち、地下空間が完全に崩壊して潰れるのも時間の問題だろうと容易く想像出来た。


 地上に向かう階段へと続く扉は、既に倒壊した瓦礫によって塞がれている。つまり、退路はない。地下である以上、もはやこの転移石を使って転移する以外に脱出手段などないのである。


 ──しかし、彼は受け取った転移石を砕かなかった。否、砕く事が出来なかった。


 この転移石を砕いたところで──もう何の意味もないのだと、彼には分かりきっていたのだ。



「……ロビン、悪い……」


「……、え……?」


「もう、無理だ……もう、意味ないんだ……」


「……っ……は……? トキ、お前何言って……」


「この転移石は、きっともう使えない……。“魔法”は、セシリアが……俺の呪いを解くために、自分の命捨てて……この世界から、……」



 トキは消え去りそうな声で告げ、涙の溜まる瞳を切なげに細めながら力無く笑う。そのまま彼は、試しに転移石を地面に投げて見せたが──やはり彼の言う通り、その場に叩き付けられた転移石は砕け散るばかりで──何も起こらなかった。


 散らばった転移石の欠片を見つめ、ロビンは目を見開いたまま硬直する。



「……、は……? 嘘、だろ……?」


「……悪い……。全部、嘘でも……冗談でもない……」


「……じゃあ、何……? セシリア、は……、死んだ、のか……?」


「……っ……、ああ……!」



 トキは悲痛に表情を歪め、震える声を紡ぎ出した。俯いてしまった彼を見つめて固まったまま、ロビンは何も言葉を発さない。トキの腕に抱かれた獣二匹も、いつもの喧しさが嘘のように黙り込んでいる。


 だが、そんな長い沈黙が続く間も地下空間の倒壊は止まってくれない。

 一行のすぐ真横にも巨大な壁の一部が落下し、大きな震動と共に崩れた瓦礫に囲まれた彼らは、ついに退路を失ってしまった。



「……ぷ、プギ……っ、プギギ……」



 ステラは恐怖に怯え、身を縮こめてトキに擦り寄る。トキも俯いたまま、ぶるぶると震えるステラの体を強く抱き締めた。


 と、その時。


 突として、それまでアデルに背負われていたロビンがふらりと立ち上がる。傷だらけの体を強引に起こした彼は、何も言わずに瓦礫の山を崩してよじ登り始めた。

 トキは息を呑み、彼の行動を即座に制する。



「……!? お、おい! お前何してんだ!?」


「……っ、決まってんだろ……! ここから、逃げるんだよ……!」


「はあ!? お前っ……そんな怪我で何言ってんだよ! 大体、こんな八方塞がりな状況で今更逃げられるわけ──」


「──うるっせえな!! お前が簡単に諦めてんじゃねえよ!!」



 振り返ったロビンは瞳孔の開いた目を血走らせ、鬼のような剣幕でトキに怒鳴った。思わず怯んで口を噤んだ彼を睨み、ロビンは更に続ける。



「お前……っ、セシリアが何のために、自分の命犠牲にしたのか分かってんのかよ……!」


「……っ」


「全部、お前のためだ……! 全部ためだけに、セシリアは命懸けて……っ、お前の呪いを解いたんだろうが……!」



 ロビンは声を震わせ、鋭い眼光で真っ直ぐとトキの瞳を射抜く。



「──アイツが自分の命、全部使ってまで守り抜いたのがお前の“命”だろうが!! アイツが死んでまで守ったモンを、お前自身が簡単に諦めて終わらせようとしてんじゃねえよ!!」



 ロビンが怒号を上げてがなり立てた瞬間──再び爆音と共に、地面が大きく揺れ動いた。ロビンは強い振動によって手を滑らせ、血の滴る体は足場の悪い地面にどしゃりと落下する。



「うっ……!」


「ロビンッ!」


「ガゥ!」


「プギー!」



 地面に蹲ったロビンの体を支えようと、トキは咄嗟に手を伸ばす。するとその瞬間、トキの腕は彼の手に力強く掴まれた。



「……!」


「……俺は……っ、まだ、諦めない……!」


「お、お前……!」


「俺はな……! トムソンに……必ず帰るって、約束しちまってんだよ……! そんで俺は、正義の賞金稼ぎヒーローだ……! 悪いヤツは全力でぶっ倒すけど……、お前ら良いヤツの事は、全力で助けるっていう、プライドがある……!」



 彼はふらふらと立ち上がり、荒く呼吸を繰り返して再び瓦礫に手をかける。いくら力を込めてもビクともしないそれを必死に押し退けようとするロビンは、瞳に涙を浮かべ、大きく息を吸って腹の底から怒鳴った。



「──セシリアが自分の人生全部懸けて守ったお前の命を!! 今度は俺が守って繋いでやんねえと、ここで死んだらアイツに合わせる顔がねえんだよ!!!」



 涙声で叫び、ロビンは瓦礫の山を懸命によじ登る。だが崩れる瓦礫の残骸はどんどん周囲に降り積もるばかりで、もはや辛うじて灯されていた松明の明かりすらも埋もれて消えてしまっていた。


 それでも諦めようとしないロビンの姿に、トキは表情を歪め、奥歯をぎりりと噛み締める。


 彼の脳裏を過ぎったのは──宝石となって崩れていくセシリアが最期に耳元で告げた、あの言葉だった。



『……トキ……さん……お願、い……』




 ──生きて……。




「……ああぁああっ!!」



 刹那、トキは潰れた喉で絶叫して地面を蹴る。抱いていたステラをアデルに任せ、彼はロビンと共に瓦礫の壁をよじ登った。


 疲弊した体は痛みを訴えて悲鳴を上げる。だが、全身を蝕む倦怠感も爪を剥がれるような激痛も無視して、トキはロビンと共に脱出の糸口を血眼で探し始めた。


 地下空間の壁や天井はどんどん崩れ、倒壊して埋もれていく。頭上から降り注ぐ壁の残骸が何度も彼らに襲い掛かり、トキもロビンも額や目元にいくつもの瓦礫を浴びてそこら中から血が流れていた。


 それでも必死に瓦礫を掻き分ける二人だったが──ふと、一際大きな振動が低く唸る地響きと共に地面を揺らす。その瞬間、巨大な影がトキの元へと垂直に落下してきた。



「──トキ!!」


「っ……!!」



 ハッ、と顔を上げる。

 直後、トキの背中は突然強い力で突き飛ばされた。


 ぐらりと体が傾き、受け身も取れずにトキの体は地面に倒れる。その拍子に、カラン、と腰元からは師の短剣が転がり落ちてしまった。



 ──ドオォン!!



 それから一秒も経たぬ間に、耳を劈くような轟音を響かせて落下したのは、剥がれ落ちた巨大な壁の一部。トキは舞い上がった砂煙によって噎せ返りつつ、地面に手をついてふらふらと起き上がる。

 鼓膜を穿つような轟音のせいで強い耳鳴りに襲われた彼だったが、程なくして「プギーッ!!」とその場にステラの絶叫が響いた事によって彼はすぐさま我に返った。



「……っ!」


「……う……」


「──ロビン!!」



 ステラが慌ただしく飛び回っているその下では、今しがた落下してきた壁によってロビンが倒れている。

 トキは血相を変えてしゃがみ込み、彼の片脚を潰しているそれを持ち上げようとするがビクともしない。



「……っ、くっそ、がぁ……!!」


「……ぐ、ぁ……っ、はあっ……トキ……、悪ィ、これ……、片脚、確実に……イッちまったわ……」


「おいロビンふざけんな!! 生きてここ出るんだろうが!! テメェ死んだら許さねえぞ!!」



 血走った眼で怒鳴り、トキは歯を食いしばって巨大な瓦礫を持ち上げようとする。しかし、それは到底人間の持てる重さでない。いくら力を込めて持ち上げど、やはりぴくりとも動かなかった。



「……っ、くそ……! くそ、くそ!! 邪魔なんだよ畜生!!」


「……、……」


「おいっ、ロビン……! ロビン!! やめろ、死ぬな!!」



 トキの必死の叫びも虚しく、彼の呼吸の音は徐々に小さくなり──やがて、ゆっくりとその瞼を閉じてしまう。トキは表情を歪め、「おい……っ、ロビン!! 起きろ!!」と悲痛に訴えた。


 だが、いくら呼び掛けても、その瞳は固く閉ざされたままで。



「……っ……、何で……っ、何でだよ!! お前まで死んでんじゃねえよ!! なあっ……!!」


「……」


「──あああぁあッ!!」



 トキは喉がちぎれんばかりに絶叫し、巨大な瓦礫を持ち上げようと力を込める。すると不意に、「ガウ!!」と吠えるアデルの鳴き声が耳に届いた。



「……っ!?」


「ガウ! ギャウン!」



 トキは我に返り、吠えるアデルの元へと視線を移す。すると彼の足元には、先程落としてしまったが転がっていた。


 ──魔力を帯びた淡い光を放つ、それが。



「……!? な……っ、何で光って……っ!? 魔法は、完全に消えたはずじゃ……」



 と、そう呟いた時。

 彼の脳内には一つの疑問が浮かび上がる。


 ──そもそも魔法は、本当にこの世界から、が消えてしまったのだろうか、と。



(いや、待て……。違う……! 一つだけ、まだ残ってる可能性があるじゃねーか……!)



 トキは何かに気が付き、すぐさまアデルの元へと駆け寄った。彼の足元に転がる短剣を掴み、埋め込まれた紫色の宝石が放つ淡い光を見つめる。



 ──確かに、魔力と魔法は世界から消えた。


 だが、ただの憶測ではあるが──セシリアがこの世から消し去ったのは──遥か昔、“魔導書によって生み出された十二人の魔女が人々に与えた魔力だけ”なのではないだろうか。


 もし、そうなのだとすれば。



(この短剣に付与されてるマドックの魔力は、魔女の与えた魔力じゃない……! 女神から直接魔力を与えられた、古代の王──カルラから受け継いだ魔力だ……!)



 つまり、マドックの遺した魔力ならば──魔法は使える可能性がある!!



 トキがそう確信した瞬間、再び爆音が響いて地面が大きく震動した。壁や天井の崩壊は更に激しくなり、完全にこの空間が潰れるのも時間の問題。


 トキは目尻を吊り上げ、先程地面に投げ付けて砕いた転移石の欠片を素早く拾い集める。「アデル、ステラ! 来い!!」と怒鳴り、彼らを腕の中に抱き込みながら、トキは意識のないロビンの傍らにしゃがみ込んだ。


 そして彼は、拾い集めた転移石の欠片に、マドックが遺した最後の魔力を注ぎ込む。



「──ああああぁッ!!」



 崩れ落ちる、亡国カルラディアの地下深く。トキは腹の底から叫び、転移石の欠片を地面に向かって叩き付けた。


 刹那、迸った閃光と共に、彼らの体は光の中に吸い込まれる。



(……っ! 成功した……!?)



 その場の全員の体を包む、淡く優しい魔法の光。転移が成功したのだと、トキはすぐに理解した。


 徐々に霞んでいく景色。崩れ落ちる城壁。

 それらを見つめていた彼の視界が、最後に捉えたのは──地面に散らばって美しく輝く、砕け散った青い宝石の欠片だった。


 瓦礫に埋もれて散乱してしまったそれらを見つめ、トキは悲痛に表情を歪める。



(……セシリア……)



 ──生きて、と。


 最期にそう告げた、彼女の言葉を思い出す。


 霞み、ぼやけて、消えていく景色。

 見えなくなる青い宝石。

 迫り上がった涙の粒をまたひとつ、自身の頬へと静かに滑らせて。


 彼は、彼女に最後の別れを告げた。



「……俺は、きっと、ずっとアンタを……」



 ──愛してる信じてるよ。



 告げた言葉と共に、彼らの姿はその場からぷつんと弾けて消える。


 それから数十秒も経たぬうちに、地下の空間は砕けた宝石をも飲み込み、完全に崩壊してしまった。カルラディア城は爆煙に包まれ、炎の海へと変わっていく。


 冷たい雪が吹き荒ぶ、極寒の北の果て。人々から忘れ去られた、世界の最奥部。


 魔女を造った魔導書の眠る亡国・カルラディアは、ついにこの世界から、その姿を消す事になったのであった──。




 * * *



 * *



 *




 ──二週間後、とある街。


 古びた空き缶や割れた瓶が散乱し、昼間だというのに太陽の光すらも届かない、道の上にて。



 青年は深い藍色のストールで口元を隠し、物陰に身を潜めながらアメジストを思わせる薄紫色の双眸そうぼうをゆっくりと動かした。

 右手の中指に光る金の指輪の位置を確認し、彼は音も立てずに物陰から出て歩き始める。


 ゴミで溢れた薄暗い路上には、見るからに見窄らしい格好の男たちが転がっていたり、うずくまっていたり。今日も今日とて、その暗い双眸で、見えない光を追い求めていた。


 ここはドブ川のほとり。陽の光すらも届かない路地の一角。路上には腐敗したゴミや割れた瓶の残骸が転がり、希望も夢も捨てた人々が生気のない瞳でこちらを見る。


 帰る場所を失った人々が集う、掃き溜めの街・ディラシナ。


 彼はまた──この街に、戻って来た。




「──トキ」




 名を呼びかけられ、ふらりと歩いていたトキは足を止めて振り返る。するとそこに立っていたのは、以前この街で過ごしていた頃世話になっていた酒場の店主マスターだった。


 彼は呆れたように片眉を下げ、トキの元へと近付く。



「……トキ。お前さん、また無茶な取引したってな。それに、まだ怪我も治ってねえんだろ? ちゃんと安静にしてろよ、治るもんも治らねえぞ、それじゃ」


「……アンタには関係ないだろ」



 店主の言葉も素っ気なく突き放し、トキは誰かに殴られた痕のある顔をふいっと逸らす。「……それにもう、俺が何しようが、説教垂れる奴も心配する奴もいない」と続けた彼に、店主は眉根を寄せて顔を顰めた。



「……自棄になるなよ、トキ。前にも言っただろ。命さえありゃ、チャンスは巡ってくるもんなんだ」


「……」


「お前の呪いが解けて無事に帰ってきたってのは喜ばしい事だが……どうにも、今のお前は危なっかしい。……この街に来たばかりの頃のマドックを見てるみてえで、心配になるんだよ」



 彼は嘆息し、ゴミの散乱する道の上に立ち尽くして振り返らないトキの背中を見つめる。悲壮感の漂うその姿は、十数年前に「妻と娘を失った」と言って死に急いでいた彼の師の姿と、どうにも重なって見えてしまう。


 一体何があったんだか、と店主は頭を抱えるばかりだった。




 ──遡る事、二週間前。


 トキは突然、酷い怪我を負った赤髪の青年と魔物二匹を連れた状態で、ディラシナの街へと転移してきた。


 他に頼る所が思いつかなかったのか、数ヶ月前に『俺が帰るまで潰すなよ』と言い残して去った酒場の扉を蹴り開け、見た事も無い形相で「助けてくれ!!」と叫んで転がり込んで来た衝撃は未だに店主の脳裏に焼き付いている。


 トキ自身も酷く怪我を負っていた。だが、連れていた青年の方が遥かに重症だった。

 片脚は潰れ、意識もない。本当に酷い有様だったと思う。


 すぐに信頼出来る医者を酒場に呼び出したが、こんなドブ川の街じゃまともな医療器具など揃っているはずもなく、応急処置すらロクに出来やしない。

 それでもトキは医者と店主に縋り付き、「頼むから、こいつを助けてくれ!!」と涙ながらに懇願していた。彼の連れていた獣二匹も、赤髪の青年とトキから離れようとしなかった。


 トキとは長い付き合いだったが、あんな姿を見るのは初めての事だ。誰かのために泣いて、プライドも捨てて他人に縋るなんて。


 ただならぬその様子に驚きながらも──店主は、彼の懇願を聞き入れた。金を立て替え、馬車を用意し、医者を説得して大きな病院のあるアリアドニアまで青年を運ばせたのである。


 商売をやっているとはいえ、この街に居る以上は店主も貧困層の内の一人。用意した馬車は三人程度が乗るのが精一杯のサイズで、患者と医者、そして獣共が乗るだけで定員に達してしまった。



『──獣よりもお前が乗るべきだろ、トキ!』



 店主は怒鳴ったが、トキは頑なに首を縦に振らない。



『俺は、いい……ここに残る。……アデル、ステラ。ロビンを、よろしくな……』



 切なげに笑ったトキは、か細い鳴き声を上げる獣二匹にそう言い聞かせていた。結局彼はそこに同乗しないまま、馬車はアリアドニアに向けて出発してしまったのだ。


 そうして、馬車がディラシナを発った後。

 とうとう疲労が限界に達したのか、トキはふらりとその場に倒れてしまった。そのまま意識を無くし、昏睡状態が続いたトキだったが──意識を手放しても尚、首に下げた青い宝石だけは、その手で大事そうに握り締めていた。



(……あのまま、丸三日も目ぇ覚まさねえし……やっと目が覚めたと思ったら、怪我も治らねえまま居なくなっちまうしで……、危なっかしいんだよな……。何があったのかも教えてくれねえし……)



 店主は再び嘆息し、どこか遠くを見つめているトキの姿に目を細める。


 彼の手はやはり、首から下げた宝石を大事そうに握り締めていた。トキはそのまま振り返らず、ストールの位置を正して歩き始める。



「……他に用がねえんなら、俺はもう行くぞ」


「……っ、おい、トキ!」


「じゃあな」



 素っ気なくこぼし、トキは掃き溜めの街の中へと消えていく。去り行く寂しげなその背中は、やはり以前のマドックと重なって見えた。



「……、トキ……」



 彼を引き止める術を持たない店主は、宙を彷徨う行き場のない手を握り込み、かぶりを振る事しか出来なかった。




 * * *




 ひやりと冷たい、宝石の感触。

 セシリアが彼に唯一遺した女神の涙ラクリマの欠片を握り締め、トキは荒廃した街を歩んで行く。


 セシリアも、マドックも、ドグマも、傍には居ない。

 ロビンも、あの後どうなったのか分からない。

 故郷や家族、親の仇ですらも──もう、この世界のどこにも存在しないのだ。



(……俺……何で……、生きてるんだ……)



 虚ろな瞳で虚空を見つめ、光のない街の中を進む。彼は行く宛もなく、ただふらふらと歩き続け──程なくして、不意に立ち止まった。


 トキが立ち止まったその場所は、長い間使われた形跡のない古びた倉庫の前。その場所は紛れもなく──あの日、トキとセシリアが初めて出会った場所であった。



「……セシリア……」



 無意識に呟き、彼の足はふらりとその場所へと赴く。


 まるで、誰かに呼ばれているような気がした。

 見えない何かに、手を引かれているような気がした。


 そこに行けば──セシリアが、居るんじゃないかとすら思えた。



「……、そんなわけ、ねーのにな……」



 ややあって、嘲笑混じりに呟いたのはそんな言葉。何かに導かれるように倉庫へと足を踏み入れた彼だったが、当然、その場所には誰もいなかった。


 トキは手の中の女神の涙を強く握り締め、弱々しく口を開く。



「……なあ、セシリア……。俺、これから……何のために、生きていけばいいんだ……?」



 呟き、彼は短剣の柄を握った。



「……生きてて……意味なんか、あるのか……?」



 それを鞘から引き抜き、鋭利なその切っ先を、彼は迷わず己に向ける。



「……俺……」



 ──死んだ方が、マシなんじゃないか……?



 そう言葉を紡ぎ、トキは己に向けた剣の先端を黙って見つめた。光を失った虚ろな瞳は、その剣の先にある“死”を、鮮明に映している。


 頭の中も、心の中も。

 まるで、霧がかかったみたいなんだ。


 ずっと、黒い何かで心が覆われたまま、正常に物事が判断出来ない。



「だから多分、今なら……死んだって、許されるよな……?」



 トキは力無く笑い、埃をかぶった積荷にゆっくりと背を凭れた。


 そして、己に向けた短剣をそのまま、自分自身へと勢い良く振り下ろす。



 だが、いざ自身の命を絶とうと決意した瞬間──彼の脳裏には、彼女の声が響き渡った。




 ──生きて。




「……っ!!」



 ──ドスッ!!


 直後、鈍い感触と共に短剣が突き刺さる。しかし、その剣によって穿たれたのは、彼自身ではなかった。


 鋭い短剣の刃先は、背後に詰まれていたを貫いており、舞った埃がパラパラとトキの肩に降り積もる。


 トキは奥歯を軋ませ、悲痛に表情を歪めながらその場で項垂れた。



 ──生きて。



 そんな彼女の声が、また、頭の中で繰り返す。



「……っ、はは……。アイツ、何が……『私が必ずあなたの呪いを解きます』だよ……」



 一人呟いたトキの頬には、一筋の涙が静かに伝った。彼は積荷に突き刺さった剣を引き抜き、ずるずるとその場に座り込む。



「……もっと、酷い呪い……かけやがって……」



 ──生きて、だなんて。


 そんなの、あまりにも酷い遺言ことばじゃないだろうか。


 こんなにも残酷な世界。誰もいない、真っ暗な世界。

 さっさと死んでしまいたいのに、その言葉のせいで、死ぬ事すらも許されない。


 まるで呪いだ。


 トキは俯き、下唇を噛み締める。



「……っ……う……、ぅ……」



 漏れ出した嗚咽を飲み込む事も出来ずに、ただただ俯いて、打ちひしがれた。


 だが──その刹那。

 彼の耳は、不意に別の音を拾い上げる。



 ──……ぇ……ん……、うえぇ……ん……。



「……!」



 ハッ、とトキは顔を上げた。

 今、確かに耳に届いた声。それは明らかに自分の物ではない。


 子供の声だとすぐに理解し、トキは腰を上げる。目尻に浮かぶ涙を拭い、短剣を持ったまま周囲を散策すれば──程なくして、ガラクタの山の隙間で力無く泣きじゃくる幼い少年の姿をその視界に捉えた。


 親に捨てられたのか、どこからか逃げてきたのか。酷く汚れて痩せ細った少年は、トキの姿を見るなり涙の浮かぶ丸い瞳を見開いて狼狽える。


 ひく、ひく、としゃくり上げる彼の姿は──まるで、十二年前にこの場所に流れ着いた、幼い自分そのものだった。


 トキは一瞬表情を歪め、ゆっくりと、手にしていた短剣を目の前の少年に突き付ける。



 この光景を、彼は、よく知っていた。



「……おい、ガキ……」


「……っ」


「答えろ……」



 一歩。

 前に踏み出し、トキは問い掛ける。


 あの日と同じ、あの言葉を。



「──このまま、俺に殺されるか。それとも、ここで死んだように生きるか」


「……!」


「……選べ。今すぐに」



 少年は涙の溜まる目を見開いたまま、黙ってトキの顔を見つめている。


 しかしやがて、幼い彼はぐにゃりと表情を歪めて震える声を発した。



「……しにたく、ない……」


「……」


「死にたく、ないよぉ……! ぼくっ……、えぐ……っ、死にだぐない……! 生ぎだいっ……! だからあっ……、殺さないで……っ」



 痩せ細ったその身でゴミだらけの地面をずるりと這いずり、少年はトキに手を伸ばして泣きじゃくる。トキは黙ったまま、その様子を見下ろした。


 脳裏に蘇ったのは、十二年前のあの日。

 己の師が、先程の自分と全く同じ問い掛けをしたあの時に──幼い自分が、出した答え。



『……俺はっ……、俺は……!』



 ──死んででも、生きてやる……!




 あの日、自分は──そう答えを紡いだんだ。




「……そうだよな」



 トキは小さく呟き、突き付けていた短剣を下ろす。それをそのまま鞘にしまい、震えて蹲る少年に一歩近付くと、小さなその体を抱き上げた。



「……っ……、ひっ、ぐすっ……」


「……俺も、そう思った。あの日に」


「……、え……?」


「この世界は、死んだ方がマシだと思える、クソみてえな世界だ。……でも、そんな……クソみてえな世界だとしても──」



 トキは腕の中の少年を強く抱き締め、告げる。


 そうだ、俺は、そう教えて貰った。

 師に。仲間に。大切な人に。

 信じたみんなに──あの旅の中で、俺は教えて貰ったんだ。


 そう、これが例え、死んだ方がマシだと思える最悪な人生だったとしても。この世界が、どんなに辛く、残酷な世界であっても。



「──それでも、俺達は……“今”を生きていくしか……ないんだよな……」



 頬を伝った少年の涙が、トキのストールにこぼれ落ちる。トキは彼を抱き締めたまま、首に下げた青い宝石に胸の内だけで語りかけた。



 なあ、セシリア。


 そうだろ?


 アンタはそのために、生きていたんだもんな。



(──俺が、これからの“時”を生きていくために……アンタは俺と旅をして、俺の命を救ったんだ……)



 だから、誓うよ。


 また、アンタに。

 俺の信じる“神様”に。




(俺は──)




 ──今、この現実トキを生きていく。


 例えそれが、どんなに残酷な世界あしたであったとしても。




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