第110話 誰が為の旅路

 松明の明かりだけが仄かに照らす、薄暗い空間。その場に立ち尽くしたドルチェは、黙ったまま崩れた天井を仰いでいる。

 そんな後ろ姿を黙って見つめていたトキは、やがて痛む体を強引に動かして彼女へと近付いた。



「……おい、アンタ……大丈夫か……?」



 呼びかければ、ドルチェはゆっくりと振り向く。翡翠の瞳と視線が交わり、彼女はフッと微笑んだ。



「やるじゃない、ドブネズミ。コソ泥の手癖の悪さが役に立つとはね」


「……。アンタ、本当にセシリアと違って可愛くねーな……」


「ふふっ、そう? でも私、あなたの事は結構好きよ。どっかの馬鹿親父と似てて」



 くすりと笑い、ドルチェは手にしていた短剣をトキへと差し出す。彼は眉根を寄せ、手渡された師の形見をどこか複雑な表情で受け取った。


 ややあって、トキは小さく口を開く。



「……悪かったな」


「ん?」


「……アンタを、父親に……ちゃんと会わせてやれなくて」



 視線は短剣へと注いだまま、トキは呟いた。ドルチェは一瞬黙り込んだが、すぐに「ふふ……っ」と込み上げた笑いを誤魔化すかのように手で口を覆う。


 しかし結局誤魔化しきれず、おかしそうに笑い始めた彼女をトキは訝しげに見つめた。



「……んだよ」


「ふふふっ……いやぁ~? そんな事で素直に謝るような奴だったっけ~? って思っちゃって」


「……」


「あと、お父さんの事なら気にしなくていいわ。ちゃんと見てたもの、セシリアの中から」



 だからもういいの、と続けたドルチェはやや俯きながら懐かしむように目を細める。だが一瞬で彼女は顔を上げ、「さて、これで私の出番は終わったわね」と髪を掻き上げた。



「あとはセシリアの役目よ。私はもう疲れたから戻るわ、残りの後始末はセシリアに丸投げ〜」



 長い金髪を耳に掛け、彼女は悪戯に笑う。対するトキは表情を強張らせ、焦ったように口を開いた。



「な、なあ……、俺は正直、まだドルチェアンタがこうして表に出て来てるこの状況をうまく把握しきれてないんだが……。“セシリア”は、ちゃんと……生きてるんだよな……?」


「……さあ? どうかしら」


「はあ!?」


「しょうがないじゃない、こんな状況初めてだもの。……でも、生きてるでしょ、きっと」



 ──あなたとの誓いを果たすために。


 ドルチェが告げれば、トキは言葉を詰まらせる。彼女は硬直したトキの肩を掴み、楽しげに顔を近付けた。



「あの子の事、最後までよろしくね。トキ・ヴァンフリート」


「……っ」


「私はもう戻るけど……あなたと話すの、意外と楽しかったわ」



 ──またね。


 ドルチェは最後にそれだけを言い残すと、優しく微笑みを浮かべ──突如、かくん、と力を無くしてトキの腕の中に倒れ込んだ。「お、おい!」とトキは焦ったように声を張り上げる。

 すると程なくして、閉じられていた彼女の瞼は再び持ち上がった。



「……っ、おい、ドルチェ……!」


「……、……? トキ、さん……?」


「……!」



 きょとん、と不思議そうに瞬いた瞳。次いで、「あれ……? 私、どうして……」と困惑したように声を続けた彼女の体を支えながら、トキは眉を顰める。



「……セシリア……、なの、か……?」


「え……? あ、はい……そうですけど──、って、トキさん!? 傷だらけじゃないですか! 大変……!」



 セシリアはようやく意識がハッキリと戻ったのか、傷だらけのトキの姿を見ると即座に顔を青ざめた。その様子はいつもの彼女のそれと何ら変わりはなく──どうやらドルチェの人格と入れ替わったらしいと、暫くの間を置いて理解した彼はドッと安堵する。



「……はあ……良かった……」


「トキさん、早く手当てを……!」


「いい、そんなもん……ほとんどかすり傷だ」



 トキは心配そうに覗き込むセシリアを制し、「でも……」と食い下がろうとする彼女の手を些か強引に引き剥がした。不服げな様子のセシリアだったが──ふと、トキのもう片方の手に握られている物が視界に入った事で彼女は声を詰まらせる。


 彼の手の中にあった物。

 それは、二人の誓いを果たすために必要不可欠な──〈万物の魔導書オムニア・グリム〉であった。



「……!」



 セシリアは言葉を失い、トキの持つ魔導書を緊張した面持ちで見つめる。トキもその視線に気付いているのか、密やかに下唇を噛んだ後、掠れた声を紡ぎ始めた。



「……あのクソ導師の暴走は、ドルチェが止めてくれた。魔導書も、アイツから無事に奪った」


「……」


「……あとは、これを使って……俺達の誓いを、果たすだけだ……」



 ──誓いを果たす。


 その言葉がどれほど重いものなのか、二人はもう、痛いほどに分かっている。手の中の分厚い魔導書を強く握り込み、トキは歯を食いしばった。


 この魔導書をセシリアに渡してしまえば──二人の旅は、終わりを告げる。



(……本当に、これでいいのか)



 俯き、トキは自身の胸に問いかけた。ストールの下に隠した呪印にそっと触れる。


 この呪いを解けば、ドグマも、アルラウネも、アウロラも、セシリアも──みんな消えてしまう。


 みんな、居なくなってしまう──。



「……トキさん」



 ふと、俯いて呪印に触れていた手にセシリアの手が重なる。反射的に顔を上げれば、彼女はいつもと変わらぬ優しい笑みを描いてトキを見つめていた。



「……大丈夫。私を信じて」


「……」


「私は消えないよ。例え姿が見えなくても、あなたが私を信じてくれる限り、ずっと……あなたの傍にいる。あなたに寄り添っているから」



 ね? と小首を傾げ、セシリアは微笑む。トキはつんと目頭が熱くなる感覚を明確に覚えたが、震えそうになる吐息をどうにか寸前で飲み込んだ。


 彼は下唇を噛み、重なっているセシリアの手を取って引き寄せる。華奢な体を腕の中に抱き込んで、その肩口に顔を埋めれば、よく知っている彼女の温度と鼓動の音が心地よく伝わってきた。


 居なくならないで、と。


 たとえ子供のように泣いて縋ったとしても。

 きっともう、彼女の決意は揺らがない。



「……セシリア……」



 呼べば、優しく抱き締め返してくれる腕。「なあに?」と耳元で囁く声。


 ──きっと忘れないだろう。


 ここに彼女が居た事を。

 確かに、触れ合っていた事を。



「……セシリア……」


「うん」


「……俺の……、俺の、呪いを……っ」



 君を、心から愛していた事を。


 俺は、ずっと──忘れないと誓うよ。



「──俺の呪いを……っ、解いてくれ……っ」



 消え去りそうな声で叫ぶように発した言葉は、ちゃんと声として形になっていたのか分からない。気が付けばセシリアの肩口は濡れていて、ああ、やっぱり耐えきれなかった、と己の目から溢れ出した涙を更に彼女の肩へと押し付けた。


 セシリアは震えるトキの背をとんとんと優しく叩き、穏やかに微笑む。



「……うん。解くよ、あなたの呪いを」


「う……っ、う、ぐ……っ」


「ふふっ、本当に……トキさんは泣き虫だなあ」



 密着していた体をゆっくりと離し、セシリアは愛おしげに目を細めた。彼女はトキの泣き顔をその瞳に映しながら、彼の手が握っている魔導書にそっと触れる。


 刹那、〈万物の魔導書オムニア・グリム〉は神聖な光を帯びて輝いた。



「……っ」


「……ねえ、トキさん。笑って」



 セシリアはトキに顔を近付け、額をこつりと合わせる。鼻先が触れ合う中、トキは戸惑ったように視線を泳がせた。



「私ね、笑ったトキさんの顔、好きなの」


「……」


「笑ってよ、トキさん」



 微笑む彼女の瞳と視線が絡み合い──やがて、彼は黙り込んだまま、ぎこちなくその口角を上げる。



「……俺も……」


「……」


「俺も、アンタの笑った顔が……好きだ……」



 か細い声で告げて、涙で濡れた目を細めた。果たして、うまく笑えているのだろうか。胸は張り裂けそうな程に痛い。込み上げて溢れる涙で前が見えない。だが、それでも、笑ってやりたいと思う。


 二人で歩んだこの旅を終え、今から新たな旅立ちを迎える、彼女に向けて。



「……ふふっ」


「……何だよ」


「ううん。……トキさん、やっぱり優しいなあって」


「……」


「ねえ、トキさん、」



 セシリアは翡翠の目を細め、魔導書のページを捲る。そこから発せられる美しく暖かな光は、二人の体を優しく包み込んだ。


 ひとつ、息を吸い込んで。

 セシリアは満面の笑みを浮かべ、トキに告げる。



「──私、ずっと、あなたを愛しています」



 彼女が踵を上げ、トキの震える唇を掠め取った、刹那──〈万物の魔導書オムニア・グリム〉は突如強い閃光を放ち、そのあまりの眩しさにトキの目は眩んだ。


 直後、触れていた唇の熱が消える。



「……っ、セシリアッ……!」



 ハッ、と閉じていた目を見開いて彼が声を上げた──その時。


 突然トキの目の前を過ぎったのは、ゆらりと揺らめくだった。



「──そう慌てるな、小僧よ」


「……!?」



 くつくつと喉を鳴らし、彼の前に現れたのは偉そうに声を発する見慣れた火の玉。トキは一瞬言葉を詰まらせたが、ややあってようやく「ドグマ……!?」とその名を呼びかけた。


 よくよく周囲を見渡してみれば、そこは先程まで彼が居た壁や天井の崩れた地下の一室ではない。例えるならば、そこはまるで白い光の中のような──どこまでも続く、何も無い空間だった。


 当然先程まで目の前にいたセシリアの姿も無く、トキは瞳に戸惑いの色を浮かべる。そんな彼にドグマはくすりと笑い、「案ずるな、ここは現実の世界とは違う」と告げると、火の玉だったその姿を不意にへと変貌させた。


 魔力を付与したわけでもないのに突如実体化した彼女にトキは目を見開く。──しかしやがて、トキは悲痛にその表情を歪めた。



「……っ、ドグマ……」


「ん?」


「……お前……、体が……」



 震える声を発し、トキはドグマに手を伸ばす。実体化した彼女は、気高く美しい妖艶な魔女の姿を取り戻していたが──その体は、徐々に透けて薄れ始め、この世界から消えようとしているのだと分かった。


 トキは金の指輪を嵌めた手で、こちらを見つめるドグマの体に触れる。しかし彼の指は彼女の体をすり抜け、その肌に触れる事は出来なかった。



「……トキ」


「……っ」


「貴様には、ほとほと手を焼かされたものだな」



 懐かしむように告げたドグマは、トキの元へと一歩近付く。



「師の言う事もろくに聞かぬわ、我が何度忠告しても無視するわで……何度貴様を殴り殺そうと思った事か。しつける側の苦労も少しは知れ、このたわけが」


「……っ、ドグ、マ……」


「ふん。図体ばかりデカくなった割に、最後の最後まで世話の焼ける。……泣くな、トキ。我があるじよ」



 カツンと彼女がヒールの踵を鳴らして言葉を発する間にも、その体は徐々に色を失って、景色の中に溶けていって。


 ……ああ、消えてしまう。

 触れられないその体に伸ばした手を握り込み、トキは耐え切れずに嗚咽をこぼした。


 ──師が、ディラシナでトキの元を離れてから、今日までの七年間。


 悪態や傲慢な態度で口喧しくトキを罵倒し、文句ばかりを吐き捨てながらも──ずっと傍に居てくれたのは、ドグマだけだった。


 悪夢を見て魘された寒い夜に、ひっそりと指輪から出て来て、青い炎で冷えた体を温めてくれた事も。

 弱音をこぼして未来を諦めかけた時に、思いっきり殴って目を覚まさせてくれた事も。


 全部、知ってる。覚えている。

 彼女が本当は誰よりも心優しい魔女だという事を──トキは、ずっと分かっていた。



「……ドグマ……っ、嫌だ、行くなよ……!」


「……トキ」


「行くなら俺も……っ、俺も連れて行けよ!! 何でみんな俺だけ置いて行くんだ!! 誰も居ない世界で、俺は……っ、俺は、これからどうしたらいいんだよ……っ!!」



 徐々に消えていくドグマに縋り、トキはその場にくずおれる。止めどなく嗚咽をこぼして泣きじゃくるトキだったが──ふと、何かが後頭部に触れたような気がして、彼はおずおずと顔を上げた。


 すると彼のぼやけた視界には、愛おしげに微笑むドグマの顔が映る。彼女はふん、と鼻を鳴らし、「触れられんと拳骨が当てられぬのが不便だな」と楽しげに笑った。



「顔を上げよ、トキ」


「……っ」


「我らは目に見えぬだけで、これからも貴様ら人間と共にある。特に貴様は危なっかしくて目が離せんからな。覚悟しておけ、小僧。馬鹿な真似をしたら、いつでも我がその間抜け面を殴ってやるぞ」



 ドグマはそう告げ、触れられない腕でトキの体をそっと抱き締める。もうほとんど視認出来ない程に薄れてしまったその顔は、慈愛に満ちた優しい微笑みを描いていた。



「……っ、ドグ、マ……っ」


「……あの娘が〈万物の魔導書オムニア・グリム〉を使った事で、この世界からは魔女と共に魔法も消える。人々の体に宿る魔力も失われてしまうだろう」


「……う……っ、く……」


「貴様にかけられた、その呪いも……このまま、我らが持っていってやる」



 ──だから、もう泣くな。


 耳元で囁く声と共に、ふと、トキの体は軽くなった。「ドグマっ……」と彼は口を開きかけたが──その時不意に、トキの傍をの気配が生ぬるい風と共に通り抜ける。



「……!」



 トキの真横をすり抜けていった、複数の気配。

 彼の視界には何も映らなかったが──それが誰のものなのか、トキには何となく察しがついた。



(アルラウネ、と……アウロラ……?)



 目に見えない、けれど確かに感じる、何者かの視線。そんな見えない二人に何かを告げられたのか、ドグマは一瞬背後を振り向き、ひとつ静かに頷いた。


 やがて彼女はトキからおもむろに離れ、ほとんど視認出来なくなったその背を向けて歩き始める。



「……っ、ドグマ……!? おいドグマ、待てよ……!」



 トキは咄嗟に立ち上がり、薄れて行くその背を追い掛けた。しかしドグマは振り返らず、程なくしてついに、彼の目には何も映らなくなってしまう。


 同時に、それまでトキがいた空間もバラバラと音を立てて崩れ始めた。



「おいっ……! ドグマ、待て……! なあ、アウロラ……! アルラウネ……!! そこに居るんだろ!? 誰か返事しろよ!!」



 トキは声を張り上げ、地を蹴って走り始める。しかしいくら光の中に叫んでみても、もうその呼び掛けに答える声はない。

 トキは崩れていく足場を避け、どこまでも続く白い空間を必死に駆け抜ける。



「なあ……っ! どこだよ、ドグマぁ!!」



 どこにも居ない。その姿が見えない。

 迫り上がる涙で視界が滲む中、トキは更に呼びかけようと息を大きく吸い込んだ。


 しかし、不意に崩れた地面に足を取られ、彼の体はぐらりと傾く。足場をなくしたトキの体は、そのまま深い暗闇の中へと落ちて行き──。



「待てっ、嫌だ……! ドグマぁぁッ!!」



 悲痛に叫んだ彼のぼやけた視界には、遠くで微笑む十二人の魔女の姿が──映っていたような気がした。




 * * *




 ──ぱち。



「……っ、う……」



 不意に意識が覚醒し、トキは重たい瞼をゆっくりと持ち上げる。ぼやけた視界の中、映し出されたのは崩れ落ちた天井と、破壊された壁。


 ぼんやりと霞む視界を狭め、トキは訝しげに眉を顰めた。



(……? 俺、今……何か、夢を見たような……)



 眉根を寄せ、今しがた見ていた夢を思い出そうとするが、頭の中に霧がかかったように何も思い出せない。


 直後、無意識に動かしていた体は突如ずきりと鈍く痛みを発した。



「いっ……て……!」



 表情を歪め、トキは痛む体を強引に起こす。しかしその痛みによってようやく、覚束なかった頭が回転し始めた。



(……っ! そうだ、俺……カルラディアの地下で、セシリアと、〈万物の魔導書オムニア・グリム〉を──)



 と、そこまで思い出した瞬間──トキは目を見開いてその場に立ち上がった。当然のごとく体は鈍く痛んだが、その痛みも無視して周囲を見渡す。



「セシリアッ……!」



 姿の見えない彼女の名を紡ぎ、彼はふらりと瓦礫の残骸を蹴り飛ばしながら周囲に視線を巡らせた。

 生業柄なりわいがら夜目がきくとは言え、舞い上がる砂埃と暗闇に包まれた空間では流石に視界が悪い。トキは壁にかけられていた松明を手に取り、セシリアの姿を探し始めた。



「おい、セシリア……! どこだ!?」



 足場の悪い中、トキは痛む体に鞭を打って崩れた瓦礫を踏み越える。しかし「セシリア!」と何度も暗闇に呼び掛けてみても、彼女からの返事はない。


 その時不意に、彼は割れた硝子片の中に映る己の姿を視界に捉えた。そして、トキは息を呑む。



「……は……?」



 思わず声を漏らした彼の瞳が映したのは、ストールの内側にずっと隠していた、自身の首元。


 その場所にあるはずの呪印が──どこにも、見当たらなかった。



「……呪印が……、ない……?」



 暗がりの最中、トキは何度も目を凝らして確認する。だが、やはりそこに呪印はない。


 彼は暫く愕然と立ち尽くしていたが、程なくして先程見た夢の内容を思い出した。どこまでも続く白い空間の中、背を向けて去って行く、ドグマの姿──そんな映像が脳裏を過ぎり、彼は生唾を嚥下する。



「……っ、ドグマ……っ」



 トキはすぐさま中指に嵌められた〈魔女の遺品グラン・マグリア〉に魔力を篭めた。しかし、いくら念じてもドグマからの反応はない。それどころか、自身の魔力すらもうまく己の体内を巡ってはくれなかった。


 トキは焦燥し、自身の手のひらを見つめる。



「……魔法、が……消え、てる……」



 辿り着いた答えに、彼の背筋は凍りついた。


 魔法が消え、呪いも消えた。

 という事は、つまり、セシリアも──。



「……っ、嘘だ……」



 トキは震える声で呟き、再び瓦礫を押し退けて暗い空間を歩き始める。やがて彼は駆け出し、「嘘だ、セシリア……!」と悲痛に声を絞り出して散らばる残骸や硝子片を踏み砕きながらセシリアの姿を探した。



「おいセシリア!! 返事しろよ!!」


「なあ!! どっかに居るんだろ!?」


「セシリア、おい……! 何してんだよ、ふざけんな……!」


「ここに居るって、言えよ……、なあ……っ、頼むから……!」



 トキは縋るように呼び掛け続けたが、徐々にその声は覇気を失い、か細く窄まっていく。荒れ果てた空間の中央で彼はついに座り込み、肩を震わせて打ちひしがれた。



「……何で……っ、居ないんだよ……」



 消え去りそうな声で呟き、トキは“死の印”が消え去った自身の首元に触れる。


 彼女は、あの魔導書を使って、トキと交わした“誓い”を果たした。

 自らの命を犠牲にして、この呪いを解いてくれたのだと──頭ではわかっている。


 でも。



「……っ、アンタを失う、覚悟なんか……っ、出来てるわけ、ねえだろ……!」



 トキは悲痛に嘆き、首に下げた女神の涙ラクリマを強く握り締めた。


 ──だが、その時。



「……ト、キ……さん……」


「──っ!?」



 ふと、耳に届いた声。聞き親しんだ彼女の声だと、トキはすぐさま理解して弾かれたように振り返る。



「セシリアッ!?」



 立ち上がった彼は、即座に声のした方向へと走り出した。行く手を阻む瓦礫を踏み越え、鋭利な破片や突き出た釘が肌を裂くのも構わず前に突き進む。トキさん、と再びどこからか己の名を紡ぐ声が耳に届いて、彼は確信した。



 ──居る。セシリアはまだ、この場所に。



 自身に強く言い聞かせ、トキは必死にセシリアの姿を探す。


 そして、ついに──彼は瓦礫の奥に倒れている、黒いブーツを履いたセシリアの足先をその視界に捉えた。



「──セシリア!!」


「トキ……さん……」



 細く繰り返す声を改めて確認し、彼は邪魔な瓦礫を押し退けながら唇を噛み締める。


 ──生きてる。まだ、消えてない。


 その事実に酷く安堵し、トキの目頭が思わず熱を帯びる。しかし迫り上がる涙を拭い、彼は少しでもセシリアを安心させようと強引に頬を緩めた。


 程なくして、トキはとうとう瓦礫の山をくぐり抜け、彼女の元へと一直線に駆け寄って行く。



「っ、セシリア……!」


「……トキ……さ……」


「良かった……! アンタ、無事だったん──」



 ──しかし。


 安堵した表情で続いたトキの言葉は、最後まで発せられる事無くたちまち喉の奥へと引っ込んでしまった。

 強引に浮かべていた笑顔も消え、彼は視界に入ったセシリアの姿を凝視したまま言葉を失って立ち尽くす。


 目の前に広がる光景が、すぐには理解出来なかった。思考はぴたりと動きを止め、頭が真っ白に染まって、何も考えられない。



「……、セシ……リ、ア……?」



 辛うじて絞り出した声は、自分でも驚く程に細く、小さかった。トキは動揺して揺らぐ瞳をどうにか定め、真っ直ぐと彼女の姿を見下ろす。


 それでもまだ、何が起こっているのか理解出来ない。


 トキは困惑したように眉根を寄せ、カラカラに乾いた喉の奥から、彼女の名を再び紡ぎ出した。



 ──ああ、どうして。何で。



 何で、セシリアの体が──いるんだ……?



「……トキ、さ、ん……」



 小さな声が、トキの名を紡ぐ。


 その体はまるで宝石にでもなってしまったかのように青く光沢を帯びたに変貌し、至る箇所に亀裂が入って、次々と砕け始めていた。顔はまだ原型を保っているものの、足や腕は既に青い宝石となり、一部が砕けてしまっている。


 先程トキが見た彼女の足先も、ブーツの中身は粉々に崩れ落ちた宝石の残骸が散らばるばかりで──胴体とは、繋がっていない。



(……何だ……、何なんだよ、これ……)



 トキは絶句したまま立ち尽くし、目を見開いて硬直した。


 血で染まったターコイズブルーのドレス。

 その下に隠された白い素肌は、もうそのほとんどが、宝石となって砕けてしまっているのかもしれない。


 そう思い至った途端、急に目の前の現実がトキの思考を働かせ始め──彼はようやく動き出した足で一歩ずつセシリアに近付き、彼女の前で力無く膝をつく。

 宝石となって砕けていくその姿を目の当たりにした彼は、やがて悲痛に表情を歪めると弱々しくかぶりを振った。



「……っ……なん、で……こんな……」


「……トキ……さ……」


「セシリア……っ、セシリア……! 何なんだよこれ!! う……っ、あ、あぁ……っ!」



 彼は青い宝石に埋もれていくセシリアの体に顔を埋め、悲惨過ぎる現実に耐え切れず怒号を上げて吐息を震わせた。


 彼女の片腕は既に砕け散っており、辛うじて繋がっているもう片方の腕には、まだ〈万物の魔導書オムニア・グリム〉が抱えられている。「トキさん……、トキさん……」と譫言うわごとのように彼の名を紡ぐセシリアの唇は青ざめ、触れた肌は氷のように冷たい。



「……っ、セシリア……! セシリア、死ぬな! 大丈夫だ、頑張れ……! なあ……っ俺、もう、呪い解けたから……! 一緒にここから出て、どこかで静かに暮らそう……セシリア……っ」


「……トキさん……」


「俺、賊なんかもうやめるから……真っ当に働くから……っ! アンタが言うなら口悪いのだって直すし、酒だってやめるよ……! アンタを、絶対幸せにするって誓うから……! なあ、だからっ──」


「トキさん──どこにいるの……?」



 ぽつり。泣き縋るトキの耳に届いたのは、セシリアのそんな言葉だった。「……え……?」と眉を顰めて彼女の顔を覗き込む。

 しかしセシリアの瞳は真っ直ぐと虚空を見つめたまま、トキの瞳と交わらない。


 よく見れば、彼女の眼球は既に宝石化が進んでおり──少しずつひび割れ始めていた。両耳も既に宝石で覆われ、おそらく聴覚も視覚も機能していない。

 トキは悲愴を帯びた表情を更に歪め、震えながら声を発する。



「ここに……、ここに居る……っ、目の前に居るよ、セシリア……!」


「トキ、さん……どこ……? 寒いよ……ひとりに、しないで……」


「ふざけんな!! ここに……っ、ここに居るから……っ! ちゃんと……傍に……っいるから……」



 震える嗚咽を噛み、トキは必死に訴えかけた。しかし彼の声は届かない。彼女の瞳の中にも、きっと映っていない。


 やりきれない悔しさが溢れて、トキは再び視界を涙で滲ませる。



「……っ……俺を見ろよ……! セシリア……!」



 悲痛に訴え、トキの目尻からは大粒の涙がこぼれた。それはトキの肌を伝い、やがてぽたりと、セシリアの頬に落とされる。


 その瞬間──不意に、彼女の瞳は動いた。



「……、トキさん……?」


「……!」


「……そこに……いるの……?」



 か細く続いた声。トキは一瞬硬直したが、ややあって掠れた声を絞り出し、「……ああ……居るよ……」と彼女の頬に手を触れた。


 どうやら、顔の触覚だけはまだ残っているらしい。セシリアはトキの手の温度を感じ取ったのか、安堵したように表情を綻ばせる。



「……トキさん……また、泣いてるの……?」


「……っ、……」


「ふふ……泣き虫ですね……私、笑った顔が好きって、言ったのに……」


「……っ、そう、だな……、うん……、ごめん……」



 ぼろぼろと溢れ出す涙を止める事も出来ずに、トキはセシリアの額に自身の額をこつりと合わせる。徐々に宝石になっていく残酷な音が直接耳に届き、彼は震えて止まらない自身の下唇を強く噛み締めた。


 セシリアはトキが傍に居ると分かって安心したようで、「トキさん、私ね……」と穏やかに微笑みながら語り始める。



「私……“アルタナ”の刻印……消えたんですよ……」


「……!」



 彼女の言葉に、トキは目を見開いてその首元に視線を移した。すると確かに、そこにあったはずの刻印がない。


 セシリアは微笑んだまま続ける。



「きっと……世界から、魔法を消したから……私にかけられていた黒魔術も、解けたんですね……。だから、私、もう……アルタナじゃ、ないんです……」


「……っ……」


「これで、トキさんに、ちゃんと……恋人にして下さいって……言えると、思ったのに、なあ……」



 セシリアは呟き、力無く笑った。直後、再びバキンッ、と音が響いて体の一部が砕け散る。

 宝石の侵食は止まらず、もはや上半身のほとんどが青い宝石となって砕け始めていた。


 ピキ、ピキ、と不吉に音が響き、セシリアの胸まで侵食した青い宝石が、首へと迫ってくる。



「……っ、あ、あぁ……っ、嫌だ……! やめろ……っ、頼むから、誰か……っ」


「トキさん……私、あなたに会えて、良かった……」


「誰か助けてくれよ!! 誰でもいい!! 女神でも魔女でも、何でもいいからっ……誰か……!!」


「私ね……ずっと……、自分が生きてる意味が、分からなかったの……」



 ぽつりと続いたセシリアの言葉に、トキは怒鳴っていた声を詰まらせた。やがて「え……?」と掠れた声を返せば、彼女は更に続ける。



「私……誰かを救えるような、神官になりたかった……。でも、私はアルタナだから……村の人に疎まれてて……神様にも、望まれなくて……一体、何のために生きてるんだろうって……ずっと、思ってたの……」


「……っ」


「でも、私は……あなたに出会えた……。『あなたの呪いを解く』って、決めた時……私、初めて……が、出来たんだよ……」


「……う、あっ……あぁ……っ」


「あなたに出会えた事が……私の旅の中で、一番の……幸運、だったな……」



 ──トキさんに出会えた事が、私の旅の中で一番の“いい事”です!



 まだ、出会ったばかりの頃。

 ディラシナの街を出てすぐに、彼女はそう言って笑っていた。


 セシリアの素性を何も知らなかった当時のトキは、ただ呆れて『おめでたい頭だ』と皮肉混じりに一蹴しただけだったが──今になってようやく、あの言葉の真意を思い知る。


 彼女は、トキに出会った事で、生きる意味を見つけた。


 “トキの呪いを解く事”こそが、彼女にとっての“生きる理由”だったのだ。



(……そうだ……この旅は……俺の呪いを解くために、始めた旅……)



 ────ただそれだけのための、旅路だった。



「……ねえ、トキさん……」



 セシリアは力無く呼びかけ、ぎこちなく笑う。宝石の侵食はついに首元にまで及び、触れ合っていた額をも飲み込んでしまった。



「あなたは、私の、光だった……」



 力無く声を発していた唇の動きが、徐々に鈍くなっていく。



「……トキ……さん……お願、い……」



 青い宝石は、トキの涙で濡れたセシリアの頬を、次々と飲み込んで。


 そして──。




「──生きて……」




 最期の言葉が発せられた、直後。

 とうとう彼女の全身は、青い宝石に侵食されて埋め尽くされた。


 刹那、宝石に包まれた彼女の体には次々と亀裂が入る。その時不意に、辛うじて繋がっていた腕で抱えられていた〈万物の魔導書オムニア・グリム〉が一際強い閃光を放ち──。



 ──バキンッ。




「……──っ」




 涙を流すトキの目の前で、宝石となったセシリアは、無惨に砕け散ってしまった。


 ぱらぱらと、その場に降り積もる青く美しい宝石の欠片。しんと静まり返る空間に座り込んだトキは、震える手でその欠片を握り込んだ。



「……、セシ、リ……ア……」



 手のひらからこぼれ落ちる砂のように細かい宝石は、ただ静かに輝きを帯びている。トキが何度「セシリア……」と呼びかけてみても、もう、彼女の声は聞こえない。


 トキはその場に座り込んだまま、眼下に広がる彼女の残骸を改めて視界に捉え──やがて、悲痛にその表情を歪めた。



「嘘……っ、嘘だ……セシリア……」


「……、セシリア……っ、なあ、セシリア!!」


「……あ……、ぁ……っ」


「う、あぁ……っ、うああああぁぁッ!!!」



 悲哀を帯びたトキの絶叫が、静かな空間に響き渡る。

 地面に蹲って泣き叫ぶトキの首元では、彼女の遺した女神の涙ラクリマが、光を帯びて美しく輝いていた。



 ここは、旅の終着地。

 二人の旅が終わる場所。


 そして、今まさに──彼らの旅は、その幕を下ろした。




 .

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る