第109話 君の事を望む者

 ぽた、ぽた、ぽた。

 どこからともなく雫が落ちる音が響く。


 これは何の音だろう。


 締め忘れた蛇口から滴る水の音?

 それとも、窓辺に落ちる雨の音?



(……いいえ、どちらも違う)



 この音が何なのか。

 本当は、もう分かっている。


 これは誰かの血。

 そして、誰かの涙。


 ねえ、そうでしょう?



「──ドルチェ」



 真っ暗な空間の中、手足に繋がれた鎖をジャラジャラと引きずる彼女に向かって呼び掛ける。彼女──ドルチェはゆっくりと振り向き、セシリアと同じ翡翠色の瞳の中にその姿を映すと痩せ細った自身の首をかくんと傾げた。



「あら? “セシリア”。こんな所に来てどうしたの? 早く戻らないと、あのドブネズミが心配するわよ」


「……ドルチェ。あなたにお願いがあるの」


「は?」


「お願い、ドルチェ……。あなたの力で、レオノールを止めて」



 真剣な瞳を向けて声を発したセシリアに、ドルチェは眉を顰める。やがて彼女は「何言ってんの」と鼻で笑った。



「レオを止めろって? 私が? どうやって」


「……私の体を、あなたに返す。好きに使ってくれていいわ。元々はあなたの体だもの」


「はあ? そんなの無理よ。ほら見て? 私ね、手足を重たい鎖に繋がれちゃってるの。これじゃここから出られない」


「私があなたの鎖を解く」



 セシリアはハッキリと明言して顔を上げる。ドルチェは一瞬息を呑んだが、ややあってまた「何言ってんの、そんなの無理よ……」と小さく呟いた。しかしセシリアは強引にドルチェの細い腕を取り、錆び付いた鎖を掴む。



「無理かどうかは、やってみないと分からない……! 私はあなたを自由にする!」


「……セシリア。あなた、自分が今何を言ってるのか分かってるの? 仮に私の鎖が本当に解けたとして、そのまま私に体を返したら……私の作った“人格”でしかないあなた自身は、どうなるか分からないのよ?」


「……うん、大丈夫。分かってるよ」



 警告とも取れるドルチェの言葉に、セシリアはただ静かに頷いた。一層眉を顰めたドルチェの傍ら、セシリアは更に言葉を続ける。



「……でも、私じゃレオノールを止めることが出来ない。……彼の事をちゃんと知っているのは、“私”じゃないから」


「!」


「そうでしょう? ドルチェ。……彼の事も、私の事も……一番よく知っているのは、あなただものね」



 セシリアは優しく微笑み、痩せこけたドルチェの頬に触れる。「私ね、あなたのおかげで色んな物を見る事が出来たのよ」と目を細めた彼女は、空いた手で骨と皮だけのその手を握った。



「あの日、ドルチェが私をくれたから……例え幻みたいな存在だったとしても、私は生きて、ここまで来れた。……あなたが私の母親みたいなものなの」


「……」


「ねえ、ドルチェ。あなた、私に言ったでしょう? 『私自身セシリアが“ラクリマの恋人”だ』って。……でもね、あれは間違いよ。だって私一人じゃ、あの神話は成り立たないんだもの」



 ドルチェの手を握ったまま、セシリアは告げる。突然何を言い出すのかとドルチェは訝しんだが、彼女が更に言葉を続けた事で開きかけた口を閉じた。



「恋人達の神話は、まだ終わってない。王子様も女神様も、もう居ないけど……二人の愛は、別の形でこの世界に残っている」



 別の形──そう告げたセシリアの目が、真っ直ぐとドルチェを貫く。そしてドルチェもまた、セシリアが何を言わんとしているのかを逸早く察した。


 程なくしてその唇から紡ぎ出されたのは、予測したそれと相違ない言葉で。



「──がそうよ、ドルチェ」



 きゅ、とセシリアの指がドルチェの手に絡まる。自然と交わる互いの瞳。同じ翡翠色の瞳に映るセシリアは、優しく微笑んで彼女を見つめていた。



「“ドルチェあなた”は王子の血。“セシリアわたし”は女神の涙」


「……」


「私達は、二人で一つ。混ざり合って、“ラクリマの恋人”」



 声を紡ぐ唇が、そっとドルチェの耳に近付く。セシリアはドルチェの手を握ったまま、秘密でも告げるかのように言葉を付け加えた。



「──あの神話の結末は、私達がこれから決めるの」



 囁き、セシリアは再び凛と背筋を伸ばしてドルチェを見つめる。



「……だから、お願い。力を貸して、ドルチェ」


「……」


「私は……あなたの事も、救いたいの……」



 真剣な表情で懇願する彼女の瞳は、ただ切々とドルチェの助けを求めていて──耳に痛いと錯覚するような沈黙が、その場に長く留まる。

 しかし程なくしてようやく、それまで黙っていたドルチェの喉はくつくつと音を発した。



「……セシリアって、やっぱり馬鹿ね」



 半ば呆れたように声が紡がれた、その瞬間。彼女の手足を繋いでいた鎖には、突如ぴしりとヒビが入る。

 そのまま次々とひび割れていく鎖。その様子を驚いた表情で見つめ、セシリアは声を詰まらせた。



「……っ!」


「……後悔しても知らないわよ。私の鎖を解いた事で、あなたは“セシリア”に戻れなくなっちゃうかも」



 目を見開いて鎖を見つめる彼女に、ドルチェは最後の警告を口にする。


 するとセシリアは顔を上げ、「後悔なんかしないよ」と即答した。



「だって、ドルチェは私の事を望んで、この世界に生み出してくれた。“セシリアわたし”に命をくれた。でも、あなたはきっと、それを後悔した事なんてなかったでしょう?」


「……」


「だから、次は私の番。今度は私が、」



 ──あなたをよ、ドルチェ。


 笑顔でそう続けたセシリアに、ドルチェは何も言えずに黙り込む。やがて彼女は眩しそうに目を細め、より深く嘆息した。



「……ほんと、どこまでも馬鹿のお人好しね」


「え、ええっ……!?」


「……まあいいけど」



 ──そんな女の子になりたいと望んだのは、私だしね。


 そう独りごちて、ドルチェは密やかに口角を上げる。彼女はセシリアからゆっくりと離れ、ひび割れていく自身の鎖を静かに見下ろした。



「……良いわ、セシリア」


「……!」


「私がレオを止める。ついでにあのドブネズミも守ってあげる」


「ドルチェ……! 本当に!?」


「ええ、もちろん。他ならぬ“もう一人の私”からの頼みだものね。……でも、一つだけ私じゃ手に負えないものがある」


「え……?」



 不穏なドルチェの発言に、セシリアの表情があからさまに曇る。しかしドルチェは悪戯に笑い、かと思えば、突然セシリアの額を指先でピシッ! と弾いた。「痛っ……!」と眉根を寄せたセシリアに小さく舌を出し、ドルチェは彼女に背を向ける。



「──例のだけは、あなたのものよ。だからあなたが果たしてよね、セシリア」


「……!」


「私じゃ手に負えないわ。あのドブネズミのプリンセス役なんて」



 ぽつり。ドルチェがそんな言葉を紡いで穏やかに笑った、その直後。


 彼女の鎖は、バキンと大きな音を立てて──ついに砕け散ったのであった。




 * * *




 ──そして、現在。


 鎖を解かれたドルチェは、セシリアの姿を借りてレオノールと対面している。


 地面につくまで伸びた黒い髪、獣のような長い爪、鋭い牙と真っ赤な双眸──以前とすっかり変わり果てた彼は、愛おしげにその目を細めると、恍惚とした表情で彼女の姿を見つめた。



「……ドル……チェ……」



 壁や天井が崩れ落ちる中、瓦礫の散乱する空間にぽつりと響いたのは、酷く濁りきった掠れ声。凛と背筋を伸ばしたドルチェは臆する様子もなく、「なあに?」と小首を傾げる。


 その瞳を暫し見つめたレオノールは、やがて歓喜に震えながら口を開いた。



「ドルチェ……、ああっ、ドルチェ!! そうだ、その目だ……! 深海のように暗く、光のないその瞳……! 間違いなくドルチェだ!! やっと目を覚ましたんだね!?」


「……ほんと、あなたって相変わらず悪趣味だわ」


「あぁぁっ、ドルチェ!! 君も僕の一部にしてあげるよ!! 僕と共に神になろう!!」



 レオノールは頬を紅潮させて狂気的に叫び、ドルチェに向けて禍々しい自身の影を無数に放つ。壁や床を伝って伸びる影を冷静に見据えたドルチェは「人の話を聞かない所も相変わらずみたいね」と肩を竦め、襲い来る影を睨むと構えていた光の鎖で迎え撃った。


 きらりと輝く細い鎖はたちまちレオノールの影に絡み付き、強い光を放つ事によって“影”自体の効力を打ち消してしまう。



「……っ!」


聖なる鎖セイクリッド・チェイン──発光ルミエラ



 ドルチェの詠唱により、鎖は更に光を発した。聖なる鎖の光を照射された影は、高熱に触れて蒸発する水滴さながらに一瞬で消滅する。


 やっぱり所詮はただの影ね、とドルチェは不敵に口角を上げた。



「どう? 影が無ければ、攻撃もできないでしょう」



 くすりと笑い、ドルチェは迫り来る影に次々と光を照射してかき消していく。だが、それを見つめるレオノールの表情は不気味なほどに穏やかだった。

 その瞳の奥に、焦燥や悲哀の感情は一切感じられない。それどころかその眼は煌めき、まるで神でも目の当たりにしているかのような歪な憧憬に満ち溢れていた。



「あぁ……っ、素晴らしい……美しい……! 素敵だよ、ドルチェ……! やはり僕は、君が欲しい……!」


「……」


「はあっ……あは……! ギャハッ……! もっと欲しい……! 僕はもっと欲しいんだよ、“王の血ドルチェ”が!!」


「……ほんとに、昔から何も変わらないのね」



 ドルチェは呟き、一瞬その目を伏せて──幼い自分にその手を差し伸べた、の彼の姿を思い返す。


 父と引き離され、奴隷の烙印を押され、富豪の男に買われた自分に優しく話しかけてくれた、レオノールの姿を。



『泣かないで、ドルチェ。僕は君を望んであげるよ』



 ──もう十数年も前になるだろうか。


 檻の中で震えていた幼いドルチェに食事を運び、彼女を励ますように毎日声をかけ続けてくれた少年──それが、レオノールだった。


 彼はドルチェの主人であった伯爵の養子むすこで、横暴だった主人からも特に可愛がられていたように思う。

 奴隷に対する扱いは主人と同様にぞんざいで、慈悲も情けも容赦もない。しかしなぜか、ドルチェに対する態度だけは、最初から不自然な程に優しかった。


 暗い日々の中、毎日優しく声をかけてくれるレオノール。その存在は、いつしか彼女の心の支えとなっていった。彼と話す僅かな時間だけが、彼女にとっての唯一の救いだったのだ。


 だが時は流れ、ある時ドルチェは、その優しさが自分に向けられたものではなかったのだと思い知る。


 そう──この世から一度消えた、あの時に。



『……あぁ……ドルチェ……、良かった……生き返ったんだね……』



 不気味に蝋燭の火が揺れる、血なまぐさい部屋の中。“アルタナ”となってこの世に呼び戻されたドルチェは、腰から下──つまり半身を全て失ったレオノールと目が合った瞬間、悲鳴を上げて彼に駆け寄ったのだった。


 部屋の中に残っているのは、至る所に飛散した血痕と禍々しい魔法陣、そして“逆さ十字”の紋章が刻まれた書物だけ。


 ドルチェはすぐさまレオノールに治癒魔法をかけ、出来うる限りの治療を施した。だが、失った体までは元に戻す事が出来ない。



『そんな、レオ……どうしてこんな……』



 悲哀に打ちひしがれるドルチェに、レオノールはやはり優しく言葉をかける。



『君が……死んでは、いけないから、ね……悪魔に、体を喰われる事ぐらい……平気だよ……』


『レオ……!』


『……あぁ……そうだ……君が死んではいけない……。を、こんな所で、手放すわけには……』


『……、え……』



 ──王の血。


 朦朧とする意識の中で、レオノールが呟いた言葉はそれだった。『王家の末裔が……』『君の血筋が……』と彼は何度も繰り返す。


 その時、ドルチェは知ってしまったのだ。

 彼がずっと優しく接してくれていたのは、“ドルチェわたし”に対してではなく──“血”に対するそれだったのだと。



『……レオ……』


『……ん……?』


『あなたは……“私”を望んでくれていたんじゃ、ないの……?』



 か細く問えば、レオノールは微笑む。いつもと同じ、優しい微笑み。その表情はあまりにいつも通りで──それが彼の本心なのだと、まざまざと思い知らされた。



『ああ、望んでいるよ……心から……』



 ──私の中に流れる、血を……?


 逆さ十字の刻印が刻まれて間も無い華奢な手が震え、ドルチェは俯く。“嘘”よりも辛い“真実”があるのだと、あの時、ドルチェは初めて知ったのだ。



 その後、レオノールはドルチェの治療の甲斐あって一命を取り留め、失った半身には義足を取り付けて日々を過ごす事になった。

 ドルチェに対しても、彼はやはり優しいまま。むしろ更に寵愛するようになった気さえする。まるで鳥籠の中に囚われた哀れな小鳥を、撫でて愛でるかのように。


 レオノールは、ずっと変わらなかった。

 ドルチェが主人を殺し、女神の涙を奪って、自身の胸を穿つらぬいたあの日が来るまで、ずっと。


 そして、今この瞬間も──彼は何も変わらない。



「……あなた、まだ性懲りも無く、“わたし”を愛し続けているのね」



 ドルチェはどこか切なげに笑い、光の鎖を更に増やすとレオノールの元へ一斉にそれを放つ。風を切って伸ばされた鎖は彼の肩や手を穿うがち、背後の柱に括りつけた。



「……っが……! ギャハ……ッ、ドル、チェ……」


「痛いでしょう、レオ。魔女イデアを体内に取り込んだんだものね。闇属性の魔女を取り込んだその体じゃ、私の“光魔法”は特別痛いと思うわ」


「……ぐッ、ぅ……ぎあッ……!!」



 苦悶の表情を浮かべたレオノールは、貫かれた傷口から流れ込む光属性の魔力によって悶絶する。しかし彼は血走った眼を見開き、獣のような咆哮と共に鎖の拘束を無理矢理引きちぎって振り払った。

 刹那、彼は再び〈万物の魔導書オムニア・グリム〉のページを捲る。



「ああぁッ……痛いじゃないかぁ……っドルチェ……!」


「でも、あなた笑ってるわよ」


「悪い子にはお仕置きしないといけないねェェ……!!」


「本当に話聞かないのね、あなた」



 肩や手に穴が空いた状態でゲラゲラと笑うレオノールにドルチェが嘆息する中、不意に彼の手元では魔導書が不気味な光を帯びた。


 するとレオノールの腕が突如大きく膨れ上がり、蛇のような黒い鱗に覆われながら巨大化する。ドルチェは冷たい眼差しを向け、笑い続ける彼を睨んだ。



「さあぁ……おいでェ、ドルチェ……! 捻り潰して呑み込んであげるよォ……!」


「……遠慮しとくわ、このバケモノ」



 ハッ、と挑発的に笑みをこぼした直後、巨大化したレオノールの拳がドルチェに向かって振り降ろされる。彼女は軽快な身のこなしでそれを避けたが、拳が直撃した地面はたちまち粉砕されて大きな穴が空いてしまった。

 同時に激しく地面が振動し、崩れかけていた天井や壁からは瓦礫や装飾品が落下する。更に剥がれ落ちた巨大な壁の一部は、床に倒れたまま身動きが取れないトキの元にも降り注いだ。



「──っ!」



 彼が目を見開いて身構えた──刹那。トキの体には光の鎖がしゅるりと巻き付く。かと思えば、瞬く間にその体は鎖に引かれて浮き上がった。



「うっ、わ……!?」



 強い力でトキが引き上げられた直後、それまで彼が居た場所には巨大な瓦礫が落下して砕け散る。程なくしてトキは比較的安全な場所へと雑に振り落とされ、「いっ……」と痛みに顔を顰めた。


 しかし、すぐに体が暖かな光に包まれる。

 ふと顔を上げれば、ドルチェが治癒魔法で彼の体を癒していた。



「……っ、アンタ……」


「時間が無いから簡単な治癒しか出来ないけど、これで少しは動けるでしょ。自分の身は自分で守って頂戴、私忙しいから」


「いって!!」



 バシンッ! と背中を叩かれ、トキは恨めしげにドルチェを睨む。容姿は完全にセシリアと同じだというのに、中身があまりにも真逆過ぎやしないだろうか。


 しかし今の治癒魔法によって、トキの体は先ほどよりも明らかに軽くなっていた。痛みもほとんど無く、傷も消えている。



「……! たった一瞬で、こんなに治せるのか……?」


「当然でしょ、セシリアよりもこの体の扱いは長いんだから。……あなたの呪いの緩和だって、セシリアとキスするよりも私とした方が効率的かもよ?」



 くす、と挑戦的にドルチェが笑う。トキは一瞬たじろいだが、すぐに小さくかぶりを振った。



「……アンタとは出来ねーよ」


「ふふ、知ってる。何だかんだであなたはセシリアの事が大好きだものね〜、意外と一途で可愛いじゃない」


「……アンタは見た目がセシリアの癖に全然可愛くねえな」



 苛立ちを含んだ声で皮肉を吐けば、愛らしい顔をもたげたドルチェが楽しげに目を細める。当たり前だが顔だけはセシリアと全く同じであるため、普段と雰囲気の違う表情にトキは柄にもなくどきりとしてしまった。


 しかし二人がそうして向かい合っていたのも束の間、瓦礫を薙ぎ倒す轟音と共にレオノールの腕が振り降ろされる。


 ──ドガァンッ!!



「っ、くそが……!」



 トキは舌打ちを放ち、即座にその場から飛び退いた。ゲラゲラと笑いながら腕を振り回すレオノールの攻撃を躱して一足先に駆け出したドルチェを追い、彼もまた瓦礫の中を走り抜ける。


「ったく、少しはじっとしてなさいっての!」



 やがてドルチェは立ち止まり、暴れ回るレオノールへと光の鎖を伸ばした。


 しかし先程の肉体強化によって彼の体は硬度が増してしまったのか、光の鎖の先端はレオノールを射抜くことなく弾き返される。



「チッ……!」


「ギャハハッ!! ドルチェエぇ!!」



 魔導書から発せられる禍々しい光に飲まれるレオノールの目は血走り、もはや自我が残っているのかも疑わしい。トキが表情を引き攣らせる傍ら、ドルチェは苦々しく呟いた。



「……まずいわ。〈万物の魔導書オムニア・グリム〉の強い魔力を自分に付与し過ぎて暴走してる。このまま暴れられたら、この部屋ごと全員潰れてぺしゃんこね」


「くそ……っ、どうする!?」


「とにかく魔導書を奪い返す。あなたは自分の身を守る事に徹しなさい、怪我されると足でまといだわ」


「はあっ!? アンタ、一人であんな化け物とどうやって──」



 そう声を張り上げた瞬間、トキとドルチェの間を割くようにレオノールの爪が振り下ろされた。二人は素早くその場から飛び退いたが、更に降り注いだ瓦礫によって退路が絶たれる。

 ドルチェと引き離されたトキは「おい!!」と叫んだが、彼女は聞く耳も持たずレオノールの元へ駆け込んだ。



「おいたが過ぎるわよ、レオ」



 ドルチェは冷静に言葉を発し、複数の鎖を空中で編み込み始める。やがて一つの太い塊となった鎖を構え、その切っ先をレオノールへと放った。


 ドッ! と鈍い音を発し、太い鎖が彼を貫く。「グギャアァッ!!」と獣のように絶叫したレオノールの体には細かい血管が浮き出して今にもはち切れそうだ。


 殺ったか、とドルチェは目を細める。

 しかし突如真っ赤な双眸がギョロリと彼女を捉えたかと思えば、瞬く間もなく飛び込んできたその巨大な手によって彼女の体は鷲掴まれてしまった。



「……っ!? があ……!!」


「ドルチェ……ェェ……!! 僕、とォ……神、にぃィ……!!」


「あ……っ、ぐ……!!」



 強い力で体を握り込まれ、ドルチェは苦悶の表情を浮かべて焦燥した。光属性の鎖に穿たれているはずのレオノールは最早痛覚すらも麻痺しているのか、狂気的に見開いた眼を爛々と輝かせ、血反吐を吐きこぼしながらドルチェを持ち上げる。そのまま彼女を握り潰して喰らおうとしているらしく、がぱりと大きく開いた口元へ──彼はゆっくりとドルチェをいざなった。



(やばい……っ、このままじゃ喰われる……!)



 ドルチェは歯を食いしばり、彼を止めるべく更に鎖を増殖させてレオノールの体を次々と貫く。だが、喉や目を潰しても尚、その力は一向に緩まない。



「く……っ、そ……! この、化け物が……!!」


「ドルチェ……ェぇ……! ああァぁ……ッ、ドルチェ……!!」


「っう……!!」



 ミシミシと、握り込まれた骨が悲鳴を上げる。まずい、潰される──そう危ぶんだ瞬間、ふと彼女の耳には「おい!!」と怒鳴るトキの声が届いた。



「こっち見ろ、このクソデカブツ!! 」


「……!」


「テメェだよ、聞いてんのか? ハッ、図体だけデカくなりやがった癖に、耳は遠いのかよ! とんだ木偶でくぼうだな、この変態クソ導師──」



 ──ゴッ!!


 刹那、皮肉を紡いでいた声を遮り、鈍い音を響かせて──レオノールの腕がトキの体を殴打する。彼は勢いよく吹っ飛ばされ、そのまま壁に強打して地面へと転がってしまった。


 ドルチェは悲痛な表情でそれを見つめ、苦々しく言葉を紡ぐ。



「……っ、あの、馬鹿ドブネズミ……! 一体、何して……」



 ──と、その時。

 不意に、ドルチェの華奢な体をへし折らんばかりに握り込んでいたはずのレオノールの手の力が明らかに緩んだ。



「……!?」



 ドルチェはハッと目を見張り、彼の腕を見る。すると蛇のような黒い鱗で覆われていたはずの巨大な腕が、徐々に元の大きさへと戻って腐敗し始めていた。

 鱗も次々と剥がれ落ち、長く伸びていた爪もボロボロと崩れて──何が起きたのかと、彼女は困惑する。



(……っ、何……!? 何で、突然……!)



 戸惑うドルチェだったが、ふと、その視界が先程レオノールの手を捉えた。──その瞬間、彼女は彼の体から力が失われ始めた理由をようやく理解する。

 なるほど、と思わず上がる口角。トキが不可解な挑発を繰り出した理由も、同時にすとんと腑に落ちた。


 なぜなら、レオノールの手からは──〈万物の魔導書オムニア・グリム〉が消えていたのだから。



「……っ!? 僕の、魔導書、が……!?」



 レオノールが目を見開いた直後、地面に転がっていたトキがくつくつと喉を鳴らした。切れた口から血の混じる唾を吐き捨て、彼はふらつく体をゆっくりともたげる。


 ──その手に、先程挑発に乗せて攻撃を受けた際にレオノールから掠め取った、〈万物の魔導書オムニア・グリム〉を抱えて。



「──!!」


「……悪いな。俺は少しばかり手癖が悪いんでね」


「……っ、この……! 下等な愚民がァ!!」



 レオノールは潰れた喉からしゃがれた怒号を発して激昂し、トキへ向かって駆け出そうとする。しかしその体には一瞬で光の鎖が絡み付き、そのまま彼は柱へと縛り付けられた。



「ぐ……っ! ……ドル、チェ……!」


「……もう終わりよ、レオ。あなたは、神にはなれない」



 ドルチェはレオノールの元へ歩み寄り、目も喉も潰れて腕も腐敗してしまった彼に告げる。直後、トキは彼女の足元に向かって自身の短剣を投げ渡した。

 紫の宝石が埋め込まれた、ドルチェの父の短剣──それを手に取り、ドルチェはレオノールへと近付く。


 彼は表情を歪め、嗄れた声で彼女に縋った。



「ドルチェ……ああ……嫌だ……、もう少し……もう少しなんだ……、僕を、殺さないで……」


「……」


「僕は、君と生きていたい……。僕は……僕は……、君を、望んで、あげたのに……」


「あなたが望んだのは“私”じゃない。私の中に流れる、王の“血”だけよ」



 ぴしゃりと冷たく告げる声。レオノールは言葉を詰まらせたが、すぐに弱々しくかぶりを振った。



「……違う……、違うよ、ドルチェ……僕は……」


「何も違わないわ、レオ。あなたにとっての“神”は、私の中に流れているカルラの血。……ただ、それだけ」



 ドルチェは短剣を振り被り、その手に力を込める。突き付けられた死が目前に迫り、レオノールの表情は一層醜く歪んだ。



「私を、本当に望んでくれたのは、」



 ドルチェは口を開き、一瞬、その目を閉じる。

 暗い瞼の裏で眩しいほどに輝いたのは、『あなたを望む』と微笑んだ、“もう一人の自分”の姿。


 ──そう。分かってる。


 暗い世界で鎖に繋がれたまま、一人ぼっちだった私に、同じ翡翠の瞳を通してたくさんの世界を見せてくれた人。


 誰にも望まれなかった私を、本当に心から信じて、心から望んでくれた人。


 あの牢獄の中に手を伸ばし、私の手を取って、明るい光の向こう側へと導いてくれたのは──。



「……私にとって、かけがけのない、神様セシリアだけよ」



 ──ザシュッ!


 刹那。風を切って一閃した短剣が、レオノールの首を切り落とす。

 声にならない叫び声を発し、目を剥いて絶命した彼の首と体は──やがて黒い霧となり、その身に取り込んだ魔女と共に消滅してしまった。


 その時不意にドルチェの脳裏を過ぎったのは、幼い頃に優しく手を差し伸べてくれた、レオノールの微笑み。


 その目に映っていたものが、例え“王の血”だけでしかなかったとしても。



(……ねえ、レオ……私ね、)



 ──あなたの事、嫌いじゃなかったわ。


 誰の耳にも届かない声で小さく呟いて、ドルチェは天を仰ぎ、ゆっくりと瞳を閉じたのだった。




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