第108話 王の鎖が解ける時

「さあ、どちらを選びますか? ドルチェ。彼をこのまま見殺しにするか、それとも──僕と共に、神になるか」



 悪魔のような微笑を浮かべたレオノールが、楽しげに耳元で囁く。セシリアは暫く黙り込んでいたが──レオノールの足元で今にも息絶えそうなトキの姿を見てしまうと、選択の余地などなかった。


 彼女は震える唇を噛み締め、か細い声で静かに頷く。



「……分かり、ました……」


「ん?」


「あなたの……、あなたの言う通りにします……! だから、お願い……っ、トキさんを離して……!」



 セシリアが涙ながらに声を絞り出した瞬間、レオノールに踏みつけられているトキの表情は悲痛に歪んだ。やめろ、と彼女に叫ぼうとするが、その唇は辛うじて呼吸を繰り返すばかりで思うように音を発してくれない。


 一方のレオノールは「ああ、良かった! 君が賢い女性で安心しました」と目尻を緩め、セシリアの髪を掬いとってそれに口付ける。



「では、早速行きましょうか、ドルチェ。僕と君の新たな世界へ──」


「──ちょっと待ちなさい」



 しかしその時、不意にレオノールの言葉を鋭い声が遮った。その声を発したのは、一連の流れを傍観していたイデアである。



「勝手に話を進めてもらっちゃ困るわねえ。この城の主がここにいるっていうのに」


「おや、これはこれは……災厄の魔女様ではないですか」



 威圧するイデアを意にも介さず、レオノールは冷静に彼女へと視線を移した。「勝手ながら、お城にお邪魔させて頂いていますよ」と笑う彼を、イデアは険しい表情で睨み付ける。



「カルラ教……、なるほど。テディがハマってた妙な宗教の導師様が乗り込んで来たってわけ? 全く……我が分身ながら、あの子の男の見る目のなさには呆れるわ」


「ええ、本当に。ですが、テディは本当に良く動くでしたよ。侵入経路から城の内部と設備の情報まで、全て勝手に漏らしてくれましたからね」


「はあ……」



 イデアは肩を落として嘆息し、やがて再びレオノールを睨んだ。しかし彼は涼しげな微笑みを崩す事なく「残念ですが、貴女の魔法はもう使えませんよ」と一言告げて、“魔力抑制装置”を持った手を掲げる。



「貴女は“神”である事を捨て、封じられると同時に〈万物の魔導書オムニア・グリム〉から生まれた“異端ハイレシス”の十三番目。所詮は紛い物の魔女に過ぎない。こんな小型の機械でも、貴女の魔力を封じる事など容易いのです」


「……っ」


「事実、貴女の魔力は女神だった頃よりも大幅に減少し、力も遥かに衰弱している。だから自身のである毒蛇達に魔力と人格を与え、外での活動……主に〈魔女の遺品グラン・マグリア〉の破壊を、彼らに任せたのではないですか?」



 レオノールは饒舌に言葉を続けた。その姿はまるで壇上で信徒達に神の教えを説く教祖のそれさながらである。


 彼の指摘が的を射ていたのか、向かい合うイデアは黙ったまま何も答えない。レオノールは満足げに笑い、「ここからは推測も混じりますが──」と前置きしつつ更に続けた。



「力を与えられた毒蛇達は、〈魔女の遺品グラン・マグリア〉を。逆に力の弱まった貴女は、〈最初の涙プリミラ〉を。各地に散って、それぞれの物を探した」


「……」


「その全ては、民衆から崇拝されるヴィオラを殺し、邪魔な魔女達もこの世から消し去って──自分が再び、この世界で信仰される“神”の座を取り戻すため。……違いますか?」



 レオノールは栗色の髪をさらりと靡かせ、首を傾げる。


 イデアは暫く眉を顰めて黙り込んでいたが──程なくして短く笑うと、「だったら何よ……」と小さな声を漏らした。



「……そうよ、あなたの言う通り……私はヴィオラとカルラのせいで、魔力をほとんど失った。私一人では、アイツらに太刀打ち出来ない……だから、影で少しずつアイツらを追い詰めてやったのよ。ヴィオラ教徒に嘘を吹き込んで暴徒化させ、王族の末裔を根絶やしにしたりしてね」


「……!」


「そして、今ようやくヴィオラが死んだ。カルラの末裔も残り一人……あの子を殺せば、私は神に戻れる」



 歪に口角を上げ、イデアはセシリアへと視線を移す。その場で話を聞いていたセシリアは両手を強く握り締め、顔を顰めて声を震わせた。



「……何、言ってるの……、そんなの、神じゃない……!」


「……は?」


「“神”は、誰かに信じてもらう事で生まれるんです! 嘘を重ねて人を騙して、そんな風に神の地位を得たって……! あなたの事なんか誰も信じないし、誰にも信仰されない!! 誰からも信仰されない神なんて、神とは呼ばないわ!!」



 声を荒らげるセシリアに、イデアの眉がぴくりと動く。「……この小娘ガキ……!」と怒りを顕にした彼女だったが、すぐにレオノールの手が睨み合う二人の間に割り込んだ。



「まあまあ、落ち着いて。まずは僕の話を最後まで聞いて下さいよ、魔女様」



 額に青筋を浮かべ、今にもセシリアに掴みかかりそうだったイデアをレオノールが宥める。彼はイデアの怒りを静めるように、「あなたに、とてもがあるんですから」と微笑んだ。


 その言葉に、イデアは訝しげに眉根を寄せる。



「……はあ? 良い話ですって……?」


「ええ、単刀直入に申し上げましょう。──僕は、貴女を“神”にする事が出来る」


「!?」


「勿論、民からの信仰心もお約束いたします。貴女は人々からの“信じる心”を得て、神の座へと戻る事が可能なのです」


「そ、そんな! そんな事出来るわけ……!」


「いいえ、可能なのですよ」



 ──僕の出す条件を飲んで下されば、ね。


 レオノールはセシリアの声を遮り、秘密でも告げるかのような口振りでイデアにそう耳打ちした。イデアは相変わらず眉を顰めたまま、「……条件って?」と問いかける。レオノールはにたりと笑い、彼女の耳に“条件”を告げた。



「──僕と、するのです」


「……!」


「簡単に言うと、僕に頂く。つまり、僕と貴女は同じ存在になるのですよ。そうすれば、僕が神になるのと同時に、貴女も同じく神となれる」


「はあ……? あはは! まさか、良い話ってそれ!? 馬鹿じゃないの、寝言は寝て言いなさいよ!」


「しかし、貴女にとっても悪い話ではないんじゃないでしょうか?」



 全てを見通したかのようなレオノールの微笑みに、イデアはぴくりと表情を強張らせる。次いでじろりと赤い眼を彼に向ければ、彼は更に続けた。



「貴女の傍に居た毒蛇達は皆死んだ。それ故、貴女の力はもうほとんど残されていない。更に僕は、その残った僅かな魔力ですらも封じ込めてしまえる。状況は随分と不利ですねえ」


「……」


「けれど僕と同化すれば、貴女は“僕”として振る舞う事で魔力を抑制されずに済む。しかも僕と協力関係を結ぶ事によって、貴女は神になれるのです。そして何より、僕には既に信徒が居ます。彼らの信仰心も……そのまま貴女の物になる」



 信仰心──そう口にした途端、イデアの目の色が明らかに変わる。彼女は顎に手を当て、レオノールの背後にずらりと並ぶ信徒達を一瞥した。


 彼らの信仰心が、自分へと向けられる──そんな未来を想像し、ぞくりと肌が歓喜に波立つ。イデアは口角を僅かに上げた。



「……へえ……なるほど……」


「ねえ? 悪くないでしょう?」


「確かに、悪くないわねえ。……分かったわ。その条件、飲みましょう」



 にこり。意外にもあっさりと条件を飲んだイデアが朗らかに笑う。

 そんな彼女を見つめて満足げに目を細めたレオノールは、ふと、足蹴にしたままだったトキの傷口を強く踏み付けた。「っあぁ……!」と掠れたトキの苦鳴が上がり、即座にセシリアが「やめて!!」と悲痛に訴える。


 レオノールは微笑みを浮かべ、彼女の髪を強く引いた。



「いっ……!」


「さて。交渉も成立した事ですし、そろそろあの扉を開いてもらいましょうか、ドルチェ」


「……っ」


「早くしないと、このネズミが死にますよ」



 口元が描く微笑みとは裏腹に、冷たく告げられる脅しのような言葉。レオノールの足元では、傷口を踏みつけられたトキが今にも途切れそうな呼吸を辛そうに繰り返している。セシリアは逆らう事も出来ず、悔しげに唇を噛み締めながら──重々しく閉ざされた正面の扉と向き合った。


 するとその瞬間、扉に彫られていた標章が淡い光を放つ。ややあって、ゴゴゴ、という鈍い音と共に扉が開き始めた。



「……!」


「おお……! 実に素晴らしい! やはり君は王族、そしてこの奥に魔導書がある……! ああ、ようやくここまで来たんだ……この時をどれほど待ち侘びた事か……!」



 レオノールは恍惚とした瞳で、徐々に開いていく扉の先を見つめる。やがてその扉が完全に開かれた頃、彼はそれまで足蹴にしていたトキの体を掴み上げ、セシリアの髪も掴んだまま扉の奥へと二人を引きずって行った。イデアも口元に笑みを浮かべながら、彼らの後に続く。


 ついに辿り着いたその場所は、随分と広く埃っぽいだけの空間だった。


 石造りの壁には様々な壁画が描かれているが、色褪せてほとんど視認出来ない。地下であるせいで明かりも全く届かない。松明に灯りを灯し、不思議な紋様が彫られた床の上を数歩進んだレオノールは、そこで不意に足を止める。

 彼の視線がまっすぐと向けられた最奥の祭壇上には──〈万物の魔導書オムニア・グリム〉が入っていると思わしき古びた木箱が、ぽつんと置かれていた。



「あの中に……〈万物の魔導書オムニア・グリム〉が……」



 感嘆の声を漏らした彼は、何かに取り憑かれたかのようにふらりと歩き出すと、それまで引きずっていたトキの体を乱雑に捨て置く。「うっ……」と彼が力無く床に倒れた頃、掴まれたままだったセシリアの髪も解放された。

 彼女は即座に床を蹴り、「トキさん!!」と悲鳴に近い声を上げて動く事すら出来ない彼の元へ駆け寄って行く。すぐに治癒魔法を唱え、セシリアは止めどなく血を流すトキの傷口を塞ぎ始めた。



「トキさんっ……! お願い、しっかりして……!」


「……はあ……っ、う……ぐ……っ、セシ、リア……」


「トキさん……!」



 ポウ、と光を帯びた手の先を翳し、彼女はトキの傷口を懸命に治療する。血を流し過ぎたトキは言葉を発する事すらもままならない状況だったが、震える手でセシリアの手を握り取ると「……アイツの、言う通りに、するな……」と辛うじてその声を紡いだ。

 セシリアは悲痛に表情を歪め、トキの手を握り返す。



「だめ、喋らないで……! 傷口が……!」


「……俺の事は、気にしなくて、いい……」


「だめ!! 私はトキさんを救うって決めたの!!」



 セシリアは珍しく声を荒らげ、トキの傷口の治療を続ける。やがてようやく腹部の出血が止まった頃、セシリアは泣き出しそうな表情でにこりと微笑んだ。



「大丈夫……私が必ず、治すから……」


「……っ」



 ディラシナの街で初めて出会った時と全く同じような台詞を吐いた彼女に、トキの表情が切なげに歪む。


 そんな二人を差し置いて、レオノールはついに魔導書の置かれた祭壇の前へと辿り着いていた。彼は興奮冷めやらぬ様子で壇上の木箱を見下ろし、それを入念に調べている。



「ああ……王家の紋章、古代の文字……! 間違いない、この中に〈万物の魔導書オムニア・グリム〉が……!」



 ブツブツと独り言を呟き、彼は箱の蓋を持ち上げようと力を込めた。だが、木箱の蓋は固く閉ざされているのかビクともしない。



「……チッ……、なるほど。やはり、王家の者でなければ開かないようですね」



 レオノールは目を細め、部屋の隅でトキを治療するセシリアへと視線を移す。続いて彼は口角を上げ、「せっかくの機会ですし、試してみましょうか」と自身の長剣を鞘から引き抜いた。


 そのままゆっくりとセシリアの背中へ近付き始めたレオノールの姿を、トキの視界が逸早く捉える。彼が何をしようとしているのか察したトキは目を見開き、治療を続けるセシリアの手を掴んだ。



「……っ、セシリア……っ、まずい、逃げろ……!」


「えっ?」


「アイツがっ……、早く──」



 懸命に訴えるトキだったが、彼女がその顔をもたげた瞬間──ドスッ、と、鈍い音が二人の耳に届く。

 見れば、長剣の刃がセシリアの腹部に深く突き刺さっており──トキの頭の中が、一瞬で真っ白に染まった。



「……っ!」



 赤い鮮血は彼女の腹部からたちまち溢れ出し、ターコイズブルーのドレスを血の色に染めていく。トキが「セシリア……!」と掠れた声で悲痛にその名を紡いだ直後、ぐらりと傾いた彼女の体はトキの腕の中へと倒れ込んだ。


 は……、は……、と短く繰り返される呼吸。止めどなく流れる血が、トキの腕を赤く染めていく。


 女性の血には強いトラウマがある彼である。たちまち顔を青ざめたトキの体は、意思に反して勝手に震え始めた。



「っ……、あ……ぁ……っ、せ、セシリア……っ」


「……っ、ぁ……、トキ、さ……」



 弱々しく動く彼女の唇が、微かにトキの名を呼びかける。流れる血の赤はどうしても視界に入ってしまい、トキは嫌な鼓動と共に乱れ始めた呼吸と自身の正気を保つ事で精一杯だった。



「……ハアッ……! ハア……!」


「くく……失礼。少し確かめたい事があるもので。うっかり貫いてしまいました」


「……っ! て、めぇ……!」



 過呼吸を起こしそうな胸を押さえつけ、トキは殺意すら篭った眼でレオノールを射抜く。しかし彼はそれを意に介する様子もなく、あっけらかんと笑うばかり。



「そう焦らずとも良いでしょう? 彼女はアルタナですよ? そんな傷など、すぐにして使ようになる」


「……!」


「便利ですよねえ。悪魔に腹から下を喰われた甲斐がありましたよ」



 くすくすと、悪びれる様子もなく紡がれる言葉。まるで“物”のようにセシリアの事を語るレオノールの発言に、トキは腸が煮えくり返るほどの怒りを覚えた。

 だが、こちらも深手を負っている身。傷口はセシリアの魔法によって一応塞がったものの、このまま殴り掛かるような力など残されてはいない。


 トキが悔しげに歯噛みする中、レオノールは何事も無かったかのように踵を返すと再び祭壇へ戻って行く。そのまま、彼は剣先に付着した“セシリアの血”を、木箱の蓋に滴らせた。

 つうと流れた血の赤は、やがて蓋の上にぽとりと落とされる。その瞬間、古びた木箱に彫られていた紋様が強い光を帯びて輝きを放った。



「……っ!」


「ああ、やはり!! 王家の者が居なくとも、“血”さえあれば〈万物の魔導書オムニア・グリム〉は開けるのですね!!」



 興奮を抑えきれないレオノールの声が響いたと同時に、それまで開かなかった木箱の蓋が持ち上がる。そしてついに──〈万物の魔導書オムニア・グリム〉は、その姿を現したのであった。


 セシリアは苦悶の表情を浮かべ、傷口を押さえながら悲痛に目を細める。「……レオノール、を……止め、なきゃ……」とか細く発した彼女だが、体を起こした拍子にごぽりと口から血液を吐きこぼして再び力無く倒れ込んでしまった。大量の血液にトキは身を強張らせたものの、広がる恐怖を強引に振り払った彼はセシリアの体を抱き寄せる。



「……っ、おい……しっかりしろ……!」


「……トキ、さ……、大丈、夫……私……レオノール、から、魔導書を……取り戻、して……あなた、の、呪いを……」


「セシリアッ……!」



 虚ろな目で言葉を続けるセシリアの瞼が、窄まる声と共に徐々に閉じられていく。自身も深手を負っている中、トキは必死にセシリアの名前を呼びかけたが──無情にも、その瞳は完全に閉ざされてしまった。


 刹那、祭壇からはまばゆい閃光が迸る。反射的に視線を移せば、レオノールが〈万物の魔導書オムニア・グリム〉を手に取り、その表面にセシリアの血を垂らしていた。何千年も閉ざされていた魔導書は、彼女の血に反応してとうとう開かれてしまう。


 レオノールは手にした魔導書を掲げ、高らかに笑い声を発した。



「ははははッ!! ついに手に入れた!! ついに辿り着いたぞ!! これで僕は、この世界を新たに造り変える神となるんだ!!」


「……っ」



 トキは苦々しく表情を歪め、セシリアを腕の中に抱き込みながら奥歯を軋ませる。


 このままでは、レオノールによってシズニアの大地が破壊されてしまう。どうにかして〈万物の魔導書オムニア・グリム〉を奪い取らなければ──と、そう考えた時だった。


 それまで一連の流れを黙って傍観していたイデアが、彼の背後でにたりと牙を見せて笑ったのは。



「──神になった気になるのは、まだ早いんじゃない?」



 不意に彼女は言葉を紡ぎ、何かを持った両手を大きく振り上げる。その手に握られているのは──ずっとどこかに隠し持っていたらしい──銀のナイフだった。



「残念だけど、あなたみたいな下等な人間と同化するだなんて、実は真っ平御免なのよね」


「!」


「神になるのは私一人よ、坊や」



 彼女の妖艶な口元は三日月さながらに弧を描き、狂気を孕んだ瞳が細まる。そしてレオノールが振り返った直後、彼女は手にしていた銀のナイフを勢いよく振り下ろした。


 だが、対するレオノールは表情を崩さない。

 それどころか、にんまりと頬を緩めて歪んだ笑みを浮かべたのであった。



「──いいえ。神になったのは僕ですよ、哀れな魔女様」


「……っ!?」



 刹那、勢いよく振り下ろされていたナイフがその動きを止める。「なっ……!」と目を見張った魔女が顔を上げれば、自身の手は黒いに絡みつかれて拘束されていた。



(……!? これは……、影!?)



 その正体は、レオノールの足元から伸びた影である。どうやら、彼は自身の影を操ってイデアの攻撃を阻んだらしい。

 手元の魔導書は暗く禍々しい光を帯び、レオノールの体を包んでいる。



(コイツ……! 〈万物の魔導書オムニア・グリム〉を使って、自分の影に魔力を付与したって事……!?)



 イデアは眉根を寄せて舌打ちを放ち、絡まった影を振り払おうと足掻き始めた。しかしレオノールの影は更にイデアへと伸ばされ、その体を徐々に飲み込んで行く。



「うっ……あ……!」


「どうやら、大人しく交渉は飲んでくれないようですねえ。……まあ、最初から分かっていましたが」


「くっ……! 離しなさいよ!」


「それは出来ません。貴女は今から、僕の一部になって頂くのですから。同意は得られないようなので、多少強引に、ね」



 くすりと微笑み、レオノールは手元の魔導書にセシリアの血を更に一滴垂らした。一層暗い光を強めたそれは、禍々しい魔力を以てイデアの体を覆い尽くす。やがて、それは彼女を握り潰さんと強い力で圧迫し始めた。



「あ……っが……!」


「このままでは食べられませんからね。させて頂きますよ」


「う……っあぁ……が、や、め……」



 苦しげに呻いた魔女は助けを求めるように手を伸ばすが、その手すらも影に飲み込まれて本来の向きとは逆方向に捻じ曲げられてしまった。「うぎゃあああッ……!!」と悲痛に絶叫する声すらも、黒い影が飲み込んで奪う。


 ゴキンッ、バキン、ぐしゃッ……。


 耳に届くのは、骨を砕いて押し潰す、あまりにもむごい音。ついに寄せ固まって真っ黒な球体状に集束した影は、耳を塞ぎたくなるような音を響かせながらどんどん小さく圧縮されていく。

 イデアはもはや絶命してしまったのか、球体の中から声を発する事も出来ないらしく──やがて黒い球体は、彼女の全てを押し潰してしまった。


 レオノールはにたりと笑い、飴玉のような大きさにまで圧縮されたそれをぷちりと摘んで切り離す。



「──長らくご苦労さまでした、哀れな女神の片割れよ。貴女の無念は、このまま僕が引き継いで差し上げましょう」



 レオノールはそう告げて微笑み──魔女を圧縮したその塊を、そのまま口の中へと放り込んだ。


 ガリ、ゴリ、と噛み砕き、得体も知れないそれを躊躇なく喉の奥へと流し込む。宣言通りに魔女を“喰らった”彼は、程なくして気が狂ったかのようにゲラゲラと笑い始めた。



「クク、ククク……ッ、ゲハ、ギャハハハッ!!」



 豪快に嗤う彼は大きく背を仰け反り、不気味な痙攣を繰り返しながら狂気に染まった目を見開く。すると突然、その瞳はまるで血のように赤く染まり、栗色だった彼の髪は地面につくほどの長さまで伸びて漆黒の色へと変貌した。

 徐々に耳は尖り、口元にも鋭い牙が覗く。──まるで、先程喰らったイデアの容姿と自身の容姿を統合したかのような──その姿に、トキはセシリアを抱き締めたまま息を呑んだ。



(……アイツ……! 魔女を喰って、本当に同化しやがった……!!)



 このままではまずい、とトキは危ぶみ、セシリアを守るように強く抱き込む。ようやく痙攣が治まって顔をもたげたレオノールの姿は──まさに、教典の中で描かれる悪魔そのものであった。



「ゲハ、ギャハ、ギャハハハッ!! 最ッ高の気分だ!! 僕は神!! この世の万物を制す神になったのだ!! ギャハハハハハッ!!!」



 レオノールは高笑いを繰り返し、指先で〈万物の魔導書オムニア・グリム〉の紙面をなぞると長く伸びた爪で虚空を一閃する。その瞬間、正面の壁がドカァン! と裂けるように粉砕し、支えていた柱諸共崩れ落ちた。



「……っ!!」



 ドォン!! と轟音と共に崩れて来る岩壁に、トキは焦燥して身構える。彼はセシリアを庇おうと彼女に覆い被さり、落下してくる石や瓦礫の雨をその背で受け止めた。



「っぐあ……!!」


「ギャハハハッ!! 見よ、この力!! これが神の力だ!!」


「何が神だ……っ、化け物の、間違いだろ……!」



 トキは忌々しげに叫んだが、興奮しきっているレオノールの耳には全く届いていない。どうやら高揚感のあまり、トキの姿どころかセシリアの姿すらも視界に入らないようだ。

 彼は今しがた得た力を試すかのように、無差別な破壊を繰り返している。その度に頭上からは瓦礫が降り注ぎ、必死にセシリアを庇うトキの体力を奪っていった。



(まずい……っ、このままじゃ、セシリアも俺も、アイツの暴走に巻き込まれて死ぬぞ……!)



 セシリアが魔法で治療した傷口も度重なる瓦礫の雨によって再び開いたのか血が滲み始め、疲労と焦りばかりが募っていく。そしてとうとう、二人の真上では、破壊された巨大な天井の一部が剥がれ落ちた。



「……っクソが……!!」



 トキは舌打ちを放ったが、もはや逃げる力も残っていない。彼はセシリアの体を抱き締め、彼女だけでも庇おうとその身を覆い隠す。


 そして──。



 ──ドォォン!!



 鼓膜を張り裂かんと響いた爆音と共に、トキとセシリアの元へ天井の一部は落下してしまった。巨大なそれは地面を大きく揺らし、砂煙が巻き上がる。


 だが、その下敷きになったはずのトキの意識は、不思議とハッキリしていたのだった。



「……っ、?」



 痛みや衝撃は、特に感じない。即死してあの世に来てしまったのかと馬鹿馬鹿しい考えまで浮かんだが、どうやらそういうわけでもない。


 トキは閉じた瞼をおずおずと持ち上げ、顔をもたげる。すると、彼が抱き込んで庇っていたはずのセシリアの腕が、まっすぐと正面に伸ばされ──翳したその手の先に形成された光の壁のようなもので、二人の身は包まれていた。



「……全く。本当に世話が焼けるのね、“セシリア”の王子様は」



 ふと、至近距離で紡がれる淡々とした声。それは紛うことなくセシリアの声であったが──なぜだか、その声に明確な違和感を覚えた。

 トキが思わず眉を顰めて訝しんでいると、腕の中に抱き込んでいた彼女と不意に目が合う。直後、盛大にその顔を顰められた。



「……ちょっと、そろそろ退いてよ。邪魔」


「……、……は?」


「だーかーらー、邪魔だっつってんのよ。こっちは腹に穴あいてイライラしてんだから、さっさと退いてってば!」


「──うぐっ!?」



 ドゴッ! と突如下腹部に膝蹴りを入れられ、完全に油断していたトキは堪らず彼女の上から退しりぞいた。地面に転がるトキを放置し、彼を『ドブネズミ』呼ばわりしたセシリアは不機嫌そうに起き上がる。


 刹那、ずきりと鈍く痛んだ体。セシリアはチッと舌を打ち、血の流れる自身の腹部に触れると強い光を放って治癒魔法をかけた。



「……ったく、だいぶ深く抉ってくれたものね。無抵抗の女の子の腹に刃物ぶっ刺して何が楽しいわけ? しかも魔女まで食べるなんて……相変わらず悪趣味で笑っちゃうわ」



 セシリアは鼻で笑い、腹部に治療を施しながらふらふらと歩き出す。まるで別人のような彼女の後ろ姿を、トキはただ呆然と見つめていた。


 魔女を体内に取り込んで暴走していたレオノールの瞳もまた、ギョロリと動いて彼女の姿を映す。



「……あらあら、随分と様変わりしちゃって。久しぶりじゃない、レオ。元気そうで何よりね」



 セシリアは口元の血を拭いながら告げると、暗い翡翠の瞳で壇上に立つ彼を見据えた。すると彼女の周囲にはまばゆい光を帯びた無数の鎖が現れ、その身を守るように周囲を囲い始める。



「久しぶりの再会がお城の地下だなんて、なんだかロマンチック~。小さい頃憧れてたのよ、そういうの。“セシリア”が“私”の鎖を引きちぎってくれたおかげで、長年の夢が果たせた気分」



 くすりと笑っておどけたセシリアは、不可解な言葉を発して肩を竦める。しかしその発言で、トキはようやく彼女の異変の真相に勘づいた。



「……、アンタ……まさか……」


「ん?」


「セシリア、じゃ……なくて……」



 先程蹴られた腹を押さえつつ、トキは辿々しく掠れた声を発する。そんな彼を一瞥し、セシリア──否、“彼女”は、にんまりと口角を上げた。



「ああ、やっと気付いたの? 案外察しが悪いわね、王子様は」


「……っ、じゃあ、アンタ……! やっぱり……!」


「ええ、そうよ」



 彼女は不敵に微笑んだまま、レオノールへと視線を移す。そして、堂々と言い放った。



「──私はドルチェ・カルラ。この世を統べる、古代の王の聖なる血潮ちしお


「……!!」


「王の血を冠する、我が名において──」



 ドルチェは一歩ずつ歩みを進め、翡翠の瞳でレオノールをじろりと見据える。


 いつも守られるばかりだった、彼女の華奢な背中。しかしその背中が、今のトキの目には、同じく王の血が流れていた師のそれと重なって映った。


 悪しき力をも振り払う聖なる鎖を構え、やがて、ドルチェは冷静に告げる。



「──あなたを殺しに来たわ、レオ」



 真の王と向き合ったレオノールは、悪魔に魅入られたその赤い双眸を細め、恍惚とした表情で彼女を見下ろしたのだった。




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