第107話 嗤う悪魔の天秤

「……アル……マ……」



 さらさらと、アルマが霧のように消えてしまった後。その場に残されたトキは、ただ呆然と地面に座り込んでいた。

 手の中には、彼の首を貫いた短剣がしっかりと握られていて。刃先に残る黒い血が、彼を殺した事をありありと証明している。


 そうだ、殺した。ついに殺したのだ。

 十二年もの間、恨み、憎しみ続けた相手を。


 なのに。



「……何で……こんなに……、スッキリしねえんだよ……」



 トキは力無く呟き、光を帯びた短剣を握り締める。


 ──十二年。十二年だ。

 今まで生きた人生の半分を、アルマを殺すためだけに費やした。彼を殺せるのなら、刺し違えて死んでも良いとさえ思っていた。


 だが、いざ復讐をやり遂げてみれば──満足感など一切感じない。虚しさだけがその場に残って、言いようのない喪失感が胸を満たす。


 アルマを殺すためだけに生きてきた。

 言い換えれば、アルマが殺す事こそが、トキにとって最大の生きる理由だった。


 それを失い、己の中に残ったものは──満足感でも幸福感でもなく。ただの空虚で無機質な感情。満たされず、やるせない。

 こんな感情を得るためだけに、十二年間も復讐に囚われて生きてきたのだろうか。そう思うと──自分が何のために生きていたのか、分からなくなる。


 俯いたままの彼が不意に思い出したのは、消える間際に頭を撫でた無骨な手の感触。兄弟、と最後に優しく呼びかけた、アルマの声。



「……ふざけんなよ……クソアルマ……」



 ──悪い毒蛇なら、最後まで悪いままでいてくれよ。どうして最後の最後で、昔みたいな兄貴面するんだ。


 トキは奥歯を噛み、ツンと熱くなる目頭を押さえる。

 再び迫り上がった涙を手のひらで拭った頃、背後からはコツコツと足音が響いた。青い髪を揺らめかせながら彼の傍へやって来たのは、実体化したままのドグマである。



「泣いている暇はないぞ、小僧」


「……」


「──イデアが居なくなった」



 続いたドグマの言葉に、トキはハッと我に返って振り向いた。すると少し前までそこに居たはずのイデアは忽然と姿を消しており、アルラウネの木の根によって塞がれていた隠し階段の入口が破壊されている。

 どうやらあの奥に向かったらしいと即座に察したトキは「くそ、いつの間に……!」と苦々しく口にして立ち上がった。



「この下に行ったんならまずい……! 早く追いかけねえとセシリアが……!」


「落ち着け、このたわけ。あの娘にはアルラウネもついておる。イデア同性が相手ならば簡単に負ける事もあるまい」


「はあ!? 何言ってんだ! のんびりしててまたアイツに何かあったらどうすんだよ!」


「はあ……だから少し落ち着けと言うておるだろうが! いいか、小僧。アルラウネは男が近寄ると本来の力が出せん。不用意に突っ込めば、貴様の存在によってアルラウネが混乱状態に──」



 と、そこまで続けた──刹那。ドグマはハッと目を見開いて顔を上げる。直後、彼女は語気を強めて声を張り上げた。



「トキ!! 避けろ!!」


「!?」


「──もう遅いですよ」



 ふと、トキの耳に聞き覚えのある男の声が届く。間髪入れずに振り返った彼が正面にある双眸と視線を交わらせた瞬間、突として強烈な耳鳴りが鼓膜を貫いた。



「……っ!?」



 あまりにも強い耳鳴りにトキの体がふらりとよろける。そんな彼の胸倉をすかさず男の手が掴み、トキの体はそのまま壁に叩き付けられた。



「トキ!!」



 ドグマは叫び、すぐさま目尻を吊り上げると燃え盛る青い火炎を纏う。──しかし彼女の魔法は、一瞬でしまった。



「なっ……!?」


「科学というものは、もう随分と進歩しているのですよ。偉大なる魔女様」


「……!」



 ドグマの炎を無効化した男の手には、何やら黒い拡声器のような物が握られている。高周波音を響かせているその装置によって彼女の魔法は無効化されてしまったようだった。

 ドグマが忌々しげに眉間に皺を刻んだ直後、彼は彼女の髪を鷲掴んで腹部を蹴り飛ばす。ドグマは「うあっ……!」とよろめき、為す術もなく地面に倒れた。



「ドグマッ!!」


「くく……滑稽なものですねえ。いくら上位階級アッパーの古代魔女と言えど、魔法が使えなければ、ただの女に過ぎない」


「……っ!」



 トキは歯噛みし、薄ら笑いを浮かべる目の前の男を睨み付ける。視線が交わった彼の顔を、トキはよく覚えていた。


 ──その男は、情熱の街カーネリアンで大型飛空艇〈白鯨ヴァラエナ〉を占拠し、セシリアの中に流れる“カルラ”の血を利用しようと目論んでいた、カルラ教の導師。


 彼──レオノールを睨み、トキは憎らしげに口を開く。



「てめえ……っ!」


「ああ、またお目にかかれましたねえ。お元気そうで何よりですよ。君がここに居るという事は、ドルチェも生きているんでしょうからね」


「……!」



 にこやかに微笑むレオノールの背後には、黒いローブと仮面を被ったカルラ教の信徒達がずらりと並んでいた。各々が武器を構え、その手には先程レオノールも持っていた拡声器のような装置がぶら下がっている。


 トキが訝しげにその装置を凝視している事を察したのか、レオノールは「おや、これが気になりますか?」とそれを翳した。



「これは小型の“魔力抑制装置”です。魔力の源である元素──“魔素”を分解する高周波音を発し、魔法を無効化する事が出来る。最新の発明品と言えば分かりやすいですかね? まあ、まだ市場にはほとんど出回っていないんですが」


「……魔力の、抑制装置だと……!?」


「魔法など、もはや太古の文化。人間の発明は今や魔女の力をも超えたのですよ。女神が消え、魔法文明が衰退し、魔女すらも使い物にならない今……この世界は、新たな“神”を望んでいる」



 レオノールは穏やかな微笑みを維持したまま、そっと自身の胸に手を当てる。薄く開かれた彼の瞳はトキの背後にある隠し階段の先を見つめていた。



「──そう。つまり僕とドルチェが、今から“新しい世界”の創造神となるのです」


「……っ、妄言ばっかり抜かしてんじゃねえぞ……!」



 トキは低い声を絞り出し、短剣を構えてレオノールに襲い掛かる。「小僧、やめろ!!」と背後でドグマが怒鳴るが、それを無視して彼はレオノールへと短剣を振り下ろした。

 しかしすかさず周囲の信徒達がレオノールの周りを取り囲み、トキに向かって武器を放つ。刹那、駆け込んで来たドグマが彼の前に立ちはだかった。


 ──ドッ!



「……っ!?」



 強い力で体を突き飛ばされた直後、トキを庇ったドグマの体には教徒達の剣や槍が突き刺さる。「あぐっ……!」と苦鳴を上げて表情を歪めた彼女に、トキは「ドグマ!?」と目を見開いて叫んだ。

 身を呈してトキを守ったドグマは、辛そうに息を荒らげながらも「全く……いつまでも世話が焼ける……」といびつに口角を上げる。



「おいっ……! お前何してんだ!」


「っ……案ずるな……クソガキが……。我は元より、死んでおるのだ……いくら腹に穴が穿うがたれようと……消えたりはせん……」


「そういう問題じゃねえだろ、馬鹿!! お前今魔法使えねえんだろうが! 指輪に戻れ!」


「うつけは貴様だ……! 魔法が使えぬからこそ、我に出来るのは……貴様の盾になる事だけだろうが……!」



 掠れた声を発し、ドグマはトキへ向かって項垂れていた顔をもたげた。ごぷりと口から血を吐いた彼女にトキは眉を顰め、「おい……!」と焦燥する。だが、構わずドグマは続けた。



「我の体が消えておらぬという事は……幸い、王族マドックの魔力だけは……あの妙な装置の影響を、受けんという事だ……」


「……っ、ドグマ……!」


「魔法が使えぬ、“ただの女”の体でも……使い道はあるものだな……。光栄に思え、小僧……我が……貴様を、護って、やる……」


「おやおや、これは面白い。高飛車な三番目ドゥリのドグマが、人間相手に“母親ごっこ”とは。太古に滅びた遺品ガラクタの分際で笑わせてくれるじゃないですか」



 レオノールは嘲笑し、ドグマに突き刺している剣を更に深く沈める。「あぁっ……!」と押し殺した悲鳴を上げる彼女の姿を見ていられず、トキはカルラ教団に向かって「やめろ!!」と悲痛に怒鳴った。



「テメェら、ふざけんな!! ドグマに触んじゃねえ!!」


「……っぐ……ぅ……、この、戯けが……! 我は死なぬ……! 我の事など放って……貴様は、早く、逃げ……」


「うるせえ、黙れよ!! こんなもん黙って見てられるわけねーだろ!!」



 トキは血走った眼を見開いて怒鳴る。するとやはりレオノールはくすくすと笑い、ドグマに突き刺さっていた剣を一本引き抜いた。「うあっ……」と小さく呻いて地面に手を付くドグマを楽しげに見下ろしながら、彼は「安心してください、母親気取りの偉大な魔女様」と続ける。



「僕は貴女が大事にしている彼の事を、殺そうとは思っていないんですから。本当ですよ?」


「……っ」


「──、ね」



 レオノールの口角がにたりと上がった瞬間、彼は持っていた長剣を勢い良く正面に突き出した。それはまっすぐと風を切り、正確にトキの腹部へと狙いを定め──。



 ──ドスッ。



 一瞬で、彼の腹を深く貫いた。



「──っ!!」



 鈍い音が響いた後、刃はトキの内臓ごと腹を裂いて深く沈む。彼が目を見開いてごぷりと血を吐きこぼす中、ドグマは「トキ!!」と悲鳴のような声を上げた。


 やがてトキの腹から剣が引き抜かれ、程なくして地面に膝をついた体がぐらりと傾いて倒れる。ドグマは激痛に耐えて信徒達の拘束を振り切り、槍や剣が突き刺さる体でトキの元へと這い寄った。



「おい、トキ……っ! しっかりしろ!!」


「……っ、か……っ……は……」


「トキ……っ!!」


「ああ、失礼。ついうっかり腹に穴を空けてしまいました」


「貴様っ……!!」



 忌々しげにレオノールを睨むドグマだったが、すぐさまその喉元に剣の切っ先が充てがわれた事で彼女は息を呑む。レオノールは微笑みを浮かべ、ドグマの喉を剣先でなぞった。



「ご苦労さまでした、魔女様。貴女の大事な彼にはまだ用がありますが、貴女はもう用済みです」


「……っ、この首を落としたとて、我は消えぬぞ……!」


「ええ。でもそのうるさい口は閉じてくれるでしょう?」



 くすりとわらい、レオノールは剣を振りかぶる。ドグマは悔しげに目尻を吊り上げたが──直後、その姿は霧のように散って消えてしまった。「……おや?」と眉を顰め、レオノールは荒く呼吸を乱しているトキの元へと視線を移す。


 すると彼は辛そうに表情を歪め、自身の指からドグマの指輪をいた。



「……っ、は……っ……はあ……っ」


「ああ……なるほど。指輪を引き抜く事で強制的に彼女の実体化を解いたのですか」


「……ごほ……っ、……ぐ、……っ」


「くく……どうやら喋る事も出来ないみたいですねえ。内臓ごと貫きましたから無理もない。あまり暴れない方がいいですよ、出血が多いと死んでしまう」



 レオノールは冷静に言葉を紡ぎ、もはや呼吸すらまともに出来ないトキに近付くとその髪を掴み上げる。口から血を吐き、虚ろな目をした彼に顔を近付けたレオノールは、「まだ、君を殺すわけにはいきませんからねえ」と穏やかに目尻を緩めた。



「──君は、ドルチェと取引をする際の、なんですから」



 くく、とレオノールの喉が鳴る。朦朧とする意識の中、トキは奥の歯を軋ませたが──それ以上、どうする事も出来なかった。




 * * *




「……っはあ……はあ……、どこまで続くの、この階段……」



 一方。暗い階段を降り続けていたセシリアは、息を荒らげながら壁に手をついて立ち止まっていた。


 普段の格好とは違う、スカートの長いドレスを着用している現在。この状態ではどうにも走りづらく、彼女はどこまで続いているのかも分からない階段の奥を不安げに見つめる。


 その直後、地上で行われている戦闘は激しさを増し始めたのか、ズシン、と壁が僅かに揺れた。セシリアは息を呑み、手のひらを胸の前で強く握り締める。



(……トキさん……)



 脳裏を過ぎったのは、今頃敵と対峙しているであろうトキの姿。セシリアは胸が押しつぶされるような不安をかき消すように、地上に残してきた彼の無事を祈った。


 ──刹那。

 セシリアの指輪が、突如まばゆい光を放つ。



「……!?」


「──セシリア、走って!」



 指輪から飛び出して来たのは、十二番目トゥワルフの魔女・アルラウネ。彼女が声を張り上げたその瞬間、周囲の壁を突き破った黒い木の根が目の前に張り巡らされた。


 その根に向かって飛び込んで来たのは、無数のである。アルラウネは迫る蛇を木の根で貫き、バリケードを作って正面を睨んだ。



「きゃあっ!? な、何……!?」


「イデアが追いかけて来てるわ! 急いで逃げるのよ、セシリア!」


「ええっ……!?」


「いいから走って!」



 アルラウネは困惑しているセシリアの手を引き、背後から迫る蛇を次々と木の根で貫いて防ぎながら長い階段を駆け下りる。一方の蛇達は次々と増殖し、アルラウネの木の根を突き破って迫るばかりで一向に威力が衰退する気配がない。アルラウネはチッ、と舌打ちをこぼしたが──程なくして、ようやく階段の終わりへと差し掛かった。



「セシリア、早く! あの扉の奥に〈万物の魔導書オムニア・グリム〉があるわ!! あそこに逃げ込むのよ!!」


「ま、待って、アルラウ……、っきゃあ!」



 あと一息で扉へと辿り着く──という間際、セシリアの足首には蛇の尾が絡み付いた。彼女はそのまま転倒し、階段の踊り場へと転がる。すかさずアルラウネは「セシリア!」と叫んで踵を返すが、その手を掴む前に群がった黒い蛇が彼女の体を締め上げた。



「……っ、あぁ……っ!」


「セシリア……っ!」


「あーら、惜しかったわねえ。もう少しでゴールだったのに」



 徐々に増殖する蛇の群れの間を裂き、ヒールの音を響かせた女が階段を降りてセシリアの元へと迫る。アルラウネは血走った眼をギョロリと動かし、彼女──イデアを睨むと即座に黒い木の根でその周囲を取り囲んだ。



「……私のセシリアに近寄んじゃねえよ、クソアマ


「あらあら……誰かと思ったらアルラウネじゃなーい? ふふ、三百年ぶりかしら。元気にしてた?」


「うるせえ、死ね」



 態度を豹変させたアルラウネは冷たく声を発し、イデアに向かって黒い木の根を次々と放った。しかしイデアはにたりと口角を上げ、先程捕まえたセシリアを盾にでもするかのように掴み上げると自身の正面に振り翳す。

 アルラウネは目を見開き、迫っていた木の根がセシリアに触れてしまう寸前でぴたりとその動きを止めた。



「……っ」


「あはっ、あっぶなーい! もう少しでセシリアちゃんが穴だらけになるところだったわぁ」


「くそ……!」



 くすくすと楽しげに笑い、イデアは蛇に締め上げられたセシリアを抱き締めると「怖かったわねえ~」と頬擦りをする。セシリアは苦しげに表情を歪め、「うぅ……」と呻いた。



「セシリア……!」


「うふふっ。怖い顔しないでちょうだい、アルラウネ。私はあなたと争うつもりはないわぁ。だって私、あなたには感謝してるんだもの」


「……!」


「三百年前、あなたがカルラディアの馬鹿な王子にから、私の封印は解かれて自由になれたんですもの。ぜーんぶあなたのおかげよ♡」



 牙を覗かせて笑うイデアに、アルラウネの眉間には深い皺が刻まれる。ぐっと拳を握り込み、彼女は忌々しげにイデアを睨んだ。


 三百年前の、あの日の事を思い出しながら。



「……そうよ。あの馬鹿な王子が、アンタの口車に乗せられて……まんまと指輪わたしを小瓶から抜き取ったから……、指輪の力で封じ込めていた魔法が解けて、アンタは自由の身になった……」



 ──約三百年前。


 女神に恋をしたカルラディアの王子は、蛇に扮したイデアの虚言に騙され、イデアを封じていた小瓶に嵌められていた結婚指輪アルラウネを抜き取った。


 その結果、災厄イデアは復活し、共に彼女を封じ込めていたドグマやアウロラとは引き離され、最終的には王子を殺された女神が宝石の中に埋もれてしまったのだ。



「……姉様達と離れ離れになったのも、ヴィオラ様が死んだのも……全部、あの馬鹿な王子のせいよ……! だから男なんて嫌いなのよ!!」



 アルラウネは悲痛に叫び、更に木の根を増殖させる。血走った目でイデアを睨んだ彼女は、鋭い根の切っ先をイデアへと突き付けながら低い声を発した。



「……でも、あの男をそそのかしたアンタの事は、もっと憎い」


「……」


「殺してやる……殺してやる殺してやる殺してやるッ!! 腹ん中の臓物全部引きずり出してぐちゃぐちゃにしてやるよテメェなんか!!」



 憎悪に満ちた目でイデアを射抜き、溢れ出す殺意を抑える事も出来ずにアルラウネは怒鳴りつける。しかしやはりイデアは涼しげな表情を崩さず、にこりと微笑んだかと思えば、突如パチンと指を鳴らしてセシリアに絡み付いていた蛇を消し去った。



「……!?」


「やーねぇ。そう物騒な事言わないで、アルラウネ。あなたと争うつもりはないって言ったでしょ?」


「はァ……!?」


で解決しましょ! 私、すっごく良い話を持ってきたのよ~」



 うふふふ、と楽しげに笑ったイデアは呼吸を乱すセシリアを抱き締めて頬擦りをする。セシリアは身を強張らせ、警戒したように彼女を見上げた。



「ねえ? セシリアちゃん」


「……っ」


「──〈万物の魔導書オムニア・グリム〉を使わずに“トキさん”を救う方法があるとしたら、そっちの方が良いと思わない?」



 やがて続いたイデアの言葉に、セシリアは硬直して息を呑む。「え……?」と僅かに声を発せば、彼女は更に続けた。



「実はね、彼の呪いを解く方法……あるのよ」


「……!」


「だから、〈万物の魔導書オムニア・グリム〉で魔法を消すなんて酷い事はやめましょ? そしたら、私が彼の呪いを解いてあげる」


「──そんなの嘘よ!! 騙されないでセシリア!!」



 セシリアに耳打ちするイデアの言葉を、すかさずアルラウネが遮る。彼女は目尻を吊り上げて忌々しげに怒鳴った。



「カルラディアの王子は、そうやってそいつの嘘に騙されたのよ!! そんな奴の言う事聞いちゃだめ!!」


「やだぁ、アルラウネったら酷いわぁ。私、あなたの事を救ってあげようとしてるのに」


「……!」


「だって、魔導書で魔法を消したらあなたも消えちゃうのよ? 酷い話よねえ。セシリアちゃんはそんな酷い事するような子じゃないでしょう? ──あの男一人のために、他の魔女を全員だなんて」


「……っ」



 ふるりと、セシリアは握り締めた自身の手を震わせる。彼女は血の気の引いた顔で俯き、視線を泳がせた。


 しかしアルラウネはすぐさま「違う!!」と叫ぶ。



「私達は、もう何千年も前からこの世に居ない!! 紛い物の癖に適当な事言わないで!!」


「……はあ?」


「私達十二の古代魔女は、人間の未熟さを補うためにこの世界に遺品として残り、ずっと見守り続けてきた! でも、もうその必要もない! 人間は魔法が無くても生きていけるようになったのよ!!」


「……」


「魔女の役目は終わった! 私達は、天に還る時が来たの! 〈万物の魔導書オムニア・グリム〉を使えるのは、カルラの血を引く王族だけ……そしてこの世界に残る王族は、もうセシリアしかいない……!」



 アルラウネは小さく息を吐き出し、目を細めた。彼女はセシリアを見つめ、言葉を続ける。



「──あなたは、私達を殺すんじゃない……! この世界から、魔女と魔法を消す事で……私達を救うのよ……!」


「……!」


「だから、迷わなくていい。自分を責めなくていい。私達と……あのドブネズミを救って。セシリア」



 アルラウネは微笑み、セシリアに告げた。直後、「……何なのそれ、興醒め」とイデアは落胆する。



「消える事が救いになるって? そんなわけないじゃない。誰も消えたくないに決まってるわ」


「……アンタには一生分からない事よ」


「あはは! 何よそれ、馬鹿にしてるの?」


「ヴィオラ様を妬んで僻むばかりで誰も信じようとしなかったテメェには分からないって言ってんだよ」



 アルラウネは声を低め、イデアに鋭い眼光を向ける。イデアはぴくりと眉を顰め、声を詰まらせた。



「ヴィオラ様と共に女神だった頃……アンタは人々から強く信仰されるヴィオラ様を妬んでいた。自分の事を信じて信仰してくれる人間だって、少なからず居たのに」


「……」


「圧倒的に信仰されるヴィオラ様と自分を比べて、僻むばかりで……アンタは、アンタを信じていた一部の人々の信仰心を裏切った。そして、女神の座を降りたんでしょ」


「……っ、黙れ……」


「アンタは人々からの“信じる心”を欲した。でも、アンタ自身が誰かを信じる事をしなかった。アンタは自分で、人々の信じる心をかなぐり捨てたのよ!」


「黙れ!! ヴィオラの力で造られた魔女ゴミ如きに私の何が分かる!!」



 イデアは真っ赤な双眸を血走らせて怒号を上げ、再び無数の黒蛇を出現させるとセシリアの首を締め上げる。「かはっ……!」と苦しげに呻いた彼女に「セシリア!!」とアルラウネが焦燥した頃、おびただしい量の蛇は彼女の足元にも絡み付いた。



「……っ!」


「……あーあ。勿体ぶらずに最初からこうすれば良かったわ。遊びは終わりよ、さっさと殺してあげる。大事なお姫様も──アンタもね」


「テメェ、私のセシリアを離せ!!」



 声を荒らげ、アルラウネは木の根を使って自身にまとわりつく蛇を切り刻む。そのままイデアの体を貫こうと木の根を放つが、彼女は首を締め上げているセシリアを正面に翳してアルラウネの攻撃を阻んだ。


 セシリアを盾にされたアルラウネは反撃を止めざるを得ず、舌打ちを放って焦りの色を浮かべる。



(まずい、このままじゃセシリアが──)



 しかし、そう危ぶんだ時──突如、その場には強烈なが鳴り響いた。



「……!?」



 キィン、と鼓膜を穿つような強い耳鳴り。それはイデアとアルラウネに襲いかかり、あまりに強烈なその音に二人は「うっ……!」と表情を歪める。


 ──刹那。イデアの蛇とアルラウネの根は、忽然とその場から消えてしまった。



「……っ!? は!? 何……っ」


「セシリア!」



 困惑したイデアが目を逸らした隙をつき、アルラウネは素早く地を蹴って蛇の拘束から解放されたセシリアを奪還する。イデアはハッと我に返り、忌々しげに舌を打つとすぐに再び蛇を出現させようとしたが──なぜか、魔法が発動しない。



「……!? 魔法が……! 何で……!?」


「──ああ、どうも。お取り込み中のようですが、失礼させて頂きますよ」


「!」



 直後、突として割り込んだ第三者の声。低く響いたその声を聞いた途端、セシリアを抱えていたアルラウネは一気に顔を青ざめた。


 彼女の視界が捉えたのは、階段を優雅に降りて微笑む──の姿。



「……ぎっ……、ぎゃああああッ!!? 男ぉぉぉ!!!」



 アルラウネは顔面蒼白で絶叫し、指輪の中へと即座に逃げ帰ってしまう。一方のセシリアは、現れたその男の姿に目を見開いて硬直した。



「……っ、レオノール……?」


「ああ! ドルチェ! 無事だったんですね!」



 大きく両手を広げ、彼──レオノールは恍惚とした表情で彼女を見つめる。セシリアは不安げに両手を握り締め、壁に背を預けながらたじろいだ。

 レオノールの背後には、同じローブと仮面を取り付けた信徒達もずらりと並んでいる。



(どうして、レオノールがここに……)



 そう思い至った直後、セシリアの脳裏を過ぎったのは地上に残して来たの姿。彼女は息を呑み、焦燥と共に冷たい汗を滲ませる。



(待って……じゃあ、トキさんは……!?)



 どく、と嫌な鼓動を刻み始める心臓。しかしそんな彼女の不安を悟ったのか、レオノールは「ああ、安心して下さい」と口を開いた。



「君の考えている事は分かります。彼の安否が気になるのでしょう?」


「……っ、と、トキさんは……、トキさんは無事なの!?」


「ええ、勿論。ちゃんと生きていますよ」



 にこりと口角を上げ、レオノールはセシリアに微笑みかける。程なくして、彼女の耳にはずるりと何かを引きずるような重々しい音が届いた。


 レオノールはいびつな笑みを口元に貼り付けたまま、ぽつりと言葉を付け加える。



「──まだ、ね」


「……っ!!」



 その発言の直後、信徒のうちの一人が夥しい量の血を流したトキの体をずるりと引きずって現れた。彼の体が地面に投げ落とされた瞬間、「トキさんッ!!」と悲鳴にも近いセシリアの声が反響する。


 貫かれた腹部から血を流し続けているトキの呼吸は今にも途絶えそうなほどに細く、セシリアは涙を浮かべてすぐさま彼に駆け寄った。だが、レオノールがそれを簡単に許すはずもない。彼はトキの体を踏み付け、セシリアの髪を掴む。



「うあっ……!」


「おっと。慌ててはいけませんよ、ドルチェ」


「っ……嫌ッ! 離して! トキさんがっ……!!」


「彼を助けたいのなら、僕の話を聞きなさい」



 強引に髪を掴み上げて顔を上向うわむかされ、セシリアは涙を浮かべた瞳でレオノールを睨んだ。彼は穏やかな笑みを口元に貼り付け、彼女へと顔を近付ける。



「この扉の先には、〈万物の魔導書オムニア・グリム〉が眠っている。しかし、この扉は王族である君にしか開く事が出来ない」


「……!」


「君は今からこの扉を開き、〈万物の魔導書オムニア・グリム〉を開いて、。ただそれだけでいい。そうすれば──彼の治療を許可してあげましょう」



 至近距離で紡がれる言葉に、セシリアは悲痛に表情を歪めた。狂気的な野望に染まり切った双眸を細め、レオノールは彼女に問う。



「さあ、どちらを選びますか? ドルチェ」


「……っ」


「彼をこのまま見殺しにするか、それとも──僕と共に、神になるか」



 耳元で告げる、微笑む悪魔の残酷な囁き。


 セシリアは震える唇を血が滲むほどに強く噛み締め──やがて、今にも消え去りそうなか細い声で、その答えを紡いだのだった。




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