第106話 あの日の君に

 ──十二年前、風の町アドフレア。


 穏やかな風に吹かれて風車が周り、彩豊かな草花が咲き誇る小さなこの町に、アルマはひっそりと足を踏み入れた。


 目的は、〈魔女の遺品グラン・マグリア〉──八番目エハイトの魔女・フリージアの破壊。

 それを命じたイデア曰く、「あの魔女共のせいで長い間封印される羽目になったんだから、ムカつくし邪魔だし、全員ぶっ壊しちゃいましょ♡」との事らしい。軽いノリで無茶苦茶な事を注文しやがるよなァ、とアルマは密やかに嘆息した。



(あーあ、面倒くせえ……。さっさとぶっ壊して帰るとするか)



 そう考え、時折野花で花冠を編みながら、丘の上へ進んで行く。


 ──草原の真ん中で泣きじゃくっていた幼い彼に出会ったのは、丁度そんな時だった。



「うっ……ひっく、ぐすっ……」



 風に揺れる野花に囲まれ、膝を抱いて泣く少年の嗚咽が耳に届く。無造作に跳ねた黒い髪、何度も縫い直した形跡の残る見窄らしい衣服。

 手には真新しい擦り傷がいくつも残っていて、誰かと揉み合った──もしくは一方的に傷付けられた直後なのだろうと一目で分かる様相だった。


 別に、それを哀れに思ったわけではない。

 つい声を掛けてしまったのは、ほんの気まぐれ。



「──何めそめそしてんだ、ガキ」



 そう声を掛けてしゃがみ込めば、薄紫色の瞳いっぱいに涙を浮かべた少年──トキが顔を上げた。上向うわむいたその顔がアルマの瞳には随分と儚げに映って、本当に男なのだろうかと一瞬困惑する。だが、すぐにそいつが小生意気な口を叩いた事で「何だ、元気じゃねーか」と彼は苦笑した。


 暫く暇つぶしにトキを揶揄っていたアルマだったが、やがて、穏やかな丘の上には別の声が響く。



「トキー!」


「!」



 トキの姉──ジュリアと出会ったのは、それが最初だった。


 ジュリアは、一言で表せばとてつもなくしっかりした女だったと思う。年齢や華奢な体躯に似合わず、誰に対してもハッキリと物を言うし、常に笑顔で弱音を吐かない。家の事を率先して手伝い、トキが虐められて泣きながら帰ってくれば、優しく抱き締めて弟を慈しんだ。

 おそらくそれらは“愛情”と呼ぶのだろう。アルマはぼんやりと考えながら、誰にでも優しく接する彼女の事を眺めていた。



 人間は、愛を育む。


 けれどアルマには、その感情がわからない。



 故に、興味を持った。“愛”とは何なのか。“娯楽”や“快楽”と何が違うのか。──その答えが見つからぬまま、彼はヴァンフリート家に住み着くようになったのだ。



「アルマって、見た目に似合わず手先が器用よね。昔からそうなの?」


「ねえねえアルマ、この前教えて貰ったお花をイメージして編み物をしてみたの! 完成したらアルマにあげるね」


「アルマ、アルマ! 見て、流れ星! お願い事しよう!」


「アルマ!」


「ねえアルマ!」



 カラコロ、カラコロ。

 転がる鈴のようによく笑い、ジュリアは事ある毎にアルマの名を紡ぐ。最初こそうざったいと感じていた彼だったが、次第にその声にも慣れ、嫌悪感は薄れていった。


 普段は貸してもらった離れのボロ小屋で過ごし、昼間は〈魔女の遺品グラン・マグリア〉の在処を探す。夕飯時になればトキかジュリアが呼びに来て、いくら断ってもしつこく手を引かれてそのまま彼らの家で食卓を囲んだ。


 誰かとああして食卓を囲んだのは、後にも先にもあの頃だけだ。裕福でないヴァンフリート家での食事は決して豪勢なものではなかったが、不思議と美味いと感じたのを覚えている。


 トキは最初の警戒心が嘘のようにアルマに懐き、ジュリアも子犬さながらの様子で彼の後ろをついて回った。そしてアルマもまた、ジュリアの姿を目で追う事が増えて行って。



「アルマ!」



 カラコロとよく笑う彼女に、己の名を紡がれる事がどこか心地良いと──いつしか、アルマはそう感じるようになっていった。




 そうして過ごすうちに時は流れ、いつの間にか二ヶ月以上も時間が流れてしまった頃。彼は穏やかに流れる風を肌に感じながら、野花の咲く丘の上で深く嘆息した。



「……流石に、そろそろ仕事破壊しねーとな……」



 小さく呟き、彼はガシガシと後頭部を掻く。


 イデアに〈魔女の遺品グラン・マグリア〉の破壊を命じられ、この町に足を踏み入れてから早二ヶ月。ただでさえ人口も少なく規模も狭いこの町で、遺品の在処を突き止める事など容易だった。


 破壊しようと思えば、いつでも出来る。

 それでもなかなか実行に移す気になれないのは、一体何故なのか。



(……風の魔女の遺品を壊せば、おそらくこの町は、谷底から吹き出るガスに包まれて土地ごと使い物にならなくなる)



 ──そうなれば、穏やかに流れるこの地の時間ときは止まり、やがて毒が町を飲み込む。そしてこの地は滅びの道を辿るのだろう。


 トキや、ジュリアも。

 この町と共に、死の道を歩む事になる。



「……別に、どうだっていいだろ……」



 アルマはぽつりと声を漏らし、重たい足取りで丘を登って行く。すると不意に、彼の耳は小さな嗚咽を拾い上げた。



(……またトキが泣いてんのか?)



 眉を顰め、草原を進む。どうせまた町の子供に虐められたトキが泣いているのだろう──と、最初はそう思った。


 だが、程なくして彼の視界が捉えたのは、トキの姿ではなく。



「……、ジュリア……?」


「──!」



 野花の咲く草原に座り込み、膝を抱えて泣いていたのはジュリアだった。彼女はアルマの存在に気が付いたのか、びくりと肩を揺らすと慌てて目元の涙を拭い取る。


 やがて振り返ったその表情は、もう見慣れたと思っていた、随分と下手くそな笑顔で。



「あ、アルマ! どうしたの?」


「……」



 彼女は明るく声を発し、手に持っていた何かをアルマの視界から隠す。強引に繕ったその笑みが、何故か彼の心にちくりと刺さった。


 アルマは眉根を寄せ、彼女の隣に腰を下ろす。



「……見せろよ、それ」


「……、え……」


「今、何か隠しただろ」



 素っ気なく口にして、苛立ちを誤魔化すようにアルマは煙草を咥えた。ジュリアは一瞬たじろいだ様子だったが、彼の紅い瞳に鋭く射抜かれて観念したのか、先程隠したものをおずおずとその膝の上に戻す。


 そこにあったのは──所々に穴が開き、無惨に引き裂かれた──毛糸で編まれた小さなポーチだった。小花柄のワンポイントが入ったそれは、もはや修復不可能な程に壊されてしまっている。

 眉を顰めたアルマが声を発する前に、ジュリアはぽつぽつと語り始めた。



「……ちょっとずつ、作ってたんだけど……町の子達に見つかっちゃって……壊されちゃった」


「……」


「……あーあ。もう少しで完成だったんだけどなあ……これじゃ失敗だね。アルマにあげようと思ってたのに、残念……、あはは」



 困ったように笑うジュリアの横で、アルマは黙ったまま煙草に火を付けた。ふう、と吐き出した煙が、風に吹かれて消えていく。



「……ねえ、アルマ……煙草っておいしい?」



 暫く続いた沈黙の後、彼女が口にしたのはそんな言葉。アルマはどこか遠くを見つめ、「さあな……」と曖昧に返答した。



「口寂しいから吸ってるだけだ。別に味なんか気にしちゃいない」


「……煙草を吸ったら、寂しくないの?」


「……さあ」



 ──よく、分からない。


 視界の端では、トーキットの花とジュリエットの花が仲睦まじげに揺らめいている。この町で過ごすようになって、煙草を吸う頻度は明らかに減った。だが、今はなぜか無性に吸いたくなったのだ。


 ジュリアと居ると、胸の奥が落ち着かない。彼女を見ていると、どう表現していいのか分からない胸のざわめきが心を乱す。


 それがまるで、徐々に、自分が自分でなくなっていくようで。



(……怖いのか? 俺は)



 胸の奥に生まれた感情の名前を知る事が──と、そう思い至った時。不意に、彼のひたいには柔らかなものが触れた。


 ──ちゅ。



「…………」



 小さなリップ音と共に、一瞬触れた温もりがゆっくりと離れる。唖然と目を見開いたまま目の前のジュリアを凝視すれば、彼女は頬を赤らめて「……げ、元気が無さそうだったから……おまじない……」と恥ずかしそうに視線を泳がせた。


 次いで、矢継ぎ早に言葉を続ける。



「と、トキが泣いちゃったらね、いつもこうやって元気づけるの! そしたらあの子、昔からすぐ泣き止むのよ! す、すごいでしょ? あはは……!」


「……」


「だ、だから、その……、つい……アルマにも、してみたんだけど……えっと……」



 熟れた林檎さながらに頬を紅潮させ、ジュリアは徐々に声を窄めていく。しかしやがて、「……ごめん。アルマが相手だと、ドキドキしちゃって……うまく元気になる魔法かけれないや……」と彼女が小さく言葉を紡いだ瞬間──アルマは無意識のうちに、その華奢な背中に自身の腕を回そうとしてしまっていた。



「……、っ」



 だが、彼女を抱き寄せようと持ち上がった手は途中でその動きを止める。


 胸の鼓動が、おかしい。

 自分の感情がおかしい。


 己の意思に反して動いた手が僅かに震え、アルマは息を呑む。



 ──違う。こんなの俺じゃない。



 彼は結局ジュリアを抱き寄せる事が出来ないまま、虚空を彷徨っていた片手を強く握り込み──やがて誤魔化すように彼女の頭をぽんと撫でると、さっとその場から立ち上がった。



「あ、ああ……ありがとなジュリア。もうすっかり元気出た。お前もあんまり無理すんなよ、それじゃ」


「……えっ、アルマ……!」


「また後でな」



 早口で捲し立て、逃げるように彼女から離れる。ジュリアを残して早足で歩き始めてしまった彼は、どくどくと忙しなく鼓動を刻む胸を押さえて深く息を吐いた。



(……何だよ、これ……)



 苛立ちをぶつけるように舌を打ち、火のついた煙草を手の中で握り潰す。熱によって焦げた皮膚の下からは黒い蛇の鱗が覗いた。


 それを黙って見下ろし、彼は安堵する。



 ──そうだ。俺は人間じゃない。このまま何も変わらなくていい。



 ……そのはずなのに。



「……何で、こんなに……欲しいと思うんだよ……」



 頭の隅を過ぎった感情の名前から、彼はかぶりを振って目を逸らした。




 * * *




 アドフレアで過ごす最後の夜がやって来たのは、それからすぐの事だった。ジュリアが十七歳になる前の晩。彼女の父と酒を酌み交わしていると、不意に彼がこう言ったのを鮮明に覚えている。



「──本当に、アルマの事はもうみんな家族のように思ってるよ。いっその事、本当にうちの息子になってみたらどうだ? なあ、ジュリア」


「え!? ちょ、ちょっとお父さん……!」



 酔った父の発言に慌てふためくジュリアと、よく分かっていないトキ。その間に挟まれ、アルマは密やかに手のひらに汗を滲ませた。



 ──そんなもの、冗談じゃない。



 そう胸の内で呟き、ちらりとジュリアを一瞥する。だが、それが間違いだった。


 頬を赤らめ、恥ずかしそうに俯いて、けれども満更でもなさそうな。そんな彼女の表情を見てしまうと、また胸の奥に妙なむず痒さが蔓延る。


 馬鹿らしいと、一蹴してしまえば良かったんだ。それだけで終わる話だった。……なのに、出来なかった。


 ジュリアやトキと、このままこの場所で暮らせたら──なんて。一瞬そんな考えが過ぎってしまった事に、彼はとてつもない危機感を覚えた。



「──悪いな、少し酔ったみたいだ。ちょいと夜風に当たってきますんで」



 適当な理由をこじつけ、席を立つ。心配そうに見上げたジュリアをあしらって家を出たアルマは、暗い夜道をふらりと歩いた。



(……早く、〈魔女の遺品グラン・マグリア〉を壊さねえと……)



 さもなくば、自分はこのままどうにかなってしまうのではないか──そんな危機感が彼の胸を満たしていた。


 夜風に吹かれてざわめく木々の下、アルマは手のひらを正面にかざすと無数の黒蛇を作り出す。うぞうぞとうごめく蛇の中、一際大きくとぐろを巻いた黒蛇に向かって、彼は語りかけた。



「……今すぐ、〈魔女の遺品グラン・マグリア〉を奪って来い。丘に並んだ風車の向こうに建つ高見台の、屋根のてっぺんにある風見鶏が遺品だ」


『……かしこ……まり……ました……』


「明日になったら破壊する。朝日が登る前に戻ってこ──」


「──アルマ!」



 しかしその時、突然幼い声が響いた事でアルマはハッと目を見開き、咄嗟に周囲から蛇の姿を散らした。直後、小さな体がアルマに飛び付く。何かに怯えているようなトキの表情に、まずい、と危ぶみつつも、彼は平常を装って「どうした?」と出来うる限り優しく問い掛ける。


 するとトキは不安げに言葉を紡いだ。



「……あれ……蛇は?」


「蛇ぃ? 何言ってんだお前」


「え……? でも、今、ここにデカい蛇が……」



 困惑した表情で続けたトキに、やはり見られていたかと密かに奥歯を噛む。だがアルマはあくまでシラを切り通し、適当な言葉を紡いでトキをあしらった。


 話題を逸らし、その頭に花の冠を乗せれば、彼は「また花冠?」と唇を尖らせる。──そう言えば、トキに花の編み方を教えたのも、あの夜だったな。



「いいか、トキ、見てろよ。これはアズリっていう花だ。花自体は小さいが、茎は丈夫で多少力を加えても簡単にはちぎれない。こっちはプシュカ。これも小さいが茎は丈夫だ」



 そう説明して花の指輪を作って見せると、トキは「すげー……」と素直に瞳を輝かせた。彼が花に気を取られている間に、アルマは少し離れた場所に再び大蛇を出現させる。



(──行け)



 視線だけで蛇に指示を出し、アルマは何事もなかったかのようにトキへと向き直った。じゃれ合う彼らの笑い声を聞きながら、蛇は風の魔女──フリージアの遺品を奪取すべく、暗い闇の中に消えて行く。



 ──これでいい。これが俺だ。何も躊躇う事なんかない。



 そう自分に言い聞かせた頃。

 不意にくいっとアルマの裾を引いたトキが、ぼそぼそと小さな声を紡いだ。



「……ねえ、アルマ。このまま、どこにも行かないでよ」


「……は?」


「父さんが言ってたみたいに、ずっとうちで暮らせばいいだろ。旅なんかやめちゃえよ。……俺、まだ、アルマと一緒に居たい……」



 紡がれていく言葉がアルマの胸を締め付ける。アルマは息を呑み、やめろ、と密かに拳を握った。



「俺だけじゃないよ。父さんも、母さんも、多分ジルも……きっとみんな、アルマの事──」


「──トキ。もう寝る時間だろ、そろそろ帰れ」



 皆まで言わせず、アルマはトキの言葉を遮るとその頭を乱暴に撫でる。トキは「うわっ」と声を上げ、不服げにアルマを睨んだが──既に彼はトキに背を向けていた。



「え……っ、あ、アルマ……!」


「じゃあな、トキ。おやすみ」



 ひらりと手を振り、去っていく背中。

 何かを言いたげにしていたトキだったが、遠くなっていくその背を見つめ、やがて彼は口を噤む。寂しそうな彼が最後にか細く己の名前を紡いだ声も、聞こえないふりをした。


 俯いたトキから早足で逃げ去ったアルマは、真っ直ぐと小屋へ向かい、やや乱暴に扉を蹴り開けて簡素な室内に入ると干し草で作った粗末なベッドに倒れ込む。


 ぐしゃりとシーツを握り込み、彼は深く息を吐いた。



「……何、揺らいでんだ……」



 力無くこぼれ落ちた言葉が狭い空間に虚しく溶ける。

 迷うな、躊躇うな、揺らいだりするな──そう自身に言い聞かせる度、アルマ、と己の名を呼びかけるトキとジュリアの顔が脳裏を過ぎった。



(馬鹿なのか、俺は……一丁前に人間ヅラしてんじゃねーよ。俺はアイツらとは違う……軟弱な人間なんか、どうでも──)



 そう考えて、ふと、アルマは自身の手のひらを見つめる。先日、草原でジュリアの事を抱き寄せようとした手。──蛇には本来必要のないもの。


 その手をぐっと握り込んだ頃、アルマは無意識のうちに、彼女の名前を呟いていた。



「……ジュリア……」


「──え?」



 直後、耳に届いた声。アルマはハッと目を見開き、即座に振り返る。するとたった今扉を開けて入ってきたらしいジュリアが、ぽかんと目を丸めてその場に立っていた。



「……っ!? お、お前、何で……!」


「……トキが、暗い顔で戻ってきたから……何かあったのかと思って……」



 ジュリアはそう言い、小屋の戸を閉める。やがて「トキと喧嘩しちゃった……?」と恐る恐る尋ねた彼女に、アルマは暫しの間を置いてかぶりを振った。



「……いや。喧嘩もしてないし、大した事じゃない。明日になったらご機嫌取りしに行くさ」


「……ふふっ。なんだ、トキが勝手に拗ねてるだけなのね。良かった」


「安心したなら帰りなお嬢さん。もう夜なんだからな、野郎のいる部屋にノコノコと入ってくるもんじゃないぜ?」



 淡々と告げ、アルマはひらりと片手を振る。

 しかし、ジュリアはその場から動こうとしない。



「……? おい、ジュリア?」


「……何で、さっき私の名前呼んだの?」


「は……」


「私を見て、どうして一瞬、苦しそうな顔をしたの……?」



 薄紫色の瞳が、真っ直ぐとアルマを射抜く。ジュリアは彼に近付き、その隣にゆっくりと腰掛けた。二人分の体重を支えた干し草のベッドが沈んだ頃、彼女はアルマの顔を覗き込む。



「お父さんが、変な事言ったから……? ごめんね、困らせちゃって」


「……」


「……でも、私は……嫌じゃなかったよ……」



 か細く告げられた言葉が、アルマの耳の奥まで鮮明に届いた。どくりと心臓が高鳴り──すぐに危ぶむ。この先の言葉は聞いてはいけないと。



「アルマが一緒に暮らしてくれたら……私、すごく──」


「──俺は明日この町を出る」



 ジュリアの声を遮り、アルマはハッキリと言い切った。その瞬間、紅潮していたジュリアの頬からは熱が引いていく。

 暫し硬直した彼女はやがて我に返り、「え……?」と困惑した様子で声を発した。



「な、何……言って……」


「明日、俺のは終わる。そしたらこの町に用はない。お前らともお別れだ、今後会う事もねえだろうな」


「……」


「悪いが、お前の誕生日会にも参加出来そうにない。トキには言うなよ、面倒そうだから。明日の夕方には町を出て、俺はまた気ままな旅人に戻──」


「アルマ」



 すらすらと紡がれていたアルマの言葉を、今度はジュリアが遮った。「あのね、アルマ。お願いがあるの」と震える声で続けた彼女に、彼は眉を顰める。


 するとその瞬間、ジュリアは立ち上がって自身の衣服の紐を解き始めた。アルマは大きく目を見張り、「おい、何してんだ!?」と彼女を止める。しかしジュリアは止まるどころか「一度だけでいいの!」と声を張った。



「一度だけでいいから……っ、これが最初で最後だって誓うから……!」


「……っ」


「あなたが、欲しいの……っ、アルマ……!」



 溢れ出たジュリアの涙が頬を伝って滑り落ちる。震える彼女の白い素肌を、窓から差し込んだ月明かりが美しく照らしていた。


 野の花は美しい。月や星も美しい。青く輝く宝石ラクリマも、美しくて好きだ。けれどこの時ばかりは──この世のどんな花や宝石よりも、彼女の姿が美しいと感じて。



「……俺は──」



 君が欲しいと、心から思ってしまった。

 君の傍に居たいと願ってしまった。


 けれど、無意識に伸ばしていたその手は、ジュリアに触れる事を酷く恐れた。


 蛇には“手”なんてない。

 居場所を見つける“脚”もない。


 この手で彼女に触れてしまえば、自分が自分では無くなってしまうのだと、そう思えてしまって。



「──俺は……お前になんか、興味はない……」



 気が付けば、苦い嘘で彼女を突き放していた。

 明らかにたじろいだ彼女の乱れた服を正し、その肩を押し返す。



「目障りなんだよ、ずっと付き纏われて。お前やトキと一緒にここで暮らそうって? 冗談じゃねえよ、お前らの都合を俺に押し付けんな。そんなもん真っ平御免だ」


「……!」


「分かったらさっさと帰れ。……お前の顔を見るのも、もうウンザリだ」



 冷たく吐き捨て、煙草を取り出しながら彼は顔を逸らす。ジュリアは暫くその場で俯いていたが──やがて服装を正すと、徐ろに立ち上がった。


 そのまま無言で彼に背を向け、扉に手をかける。古びた戸をゆっくりと開けた彼女は、最後に一度だけ振り返った。


 その目尻に涙を浮かべて。



「……嘘吐き。本当は、愛してるくせに」



 月明かりの下、ジュリアはそれだけを言い残して小屋を去る。彼女の気配が消えた後、アルマは煙草に火をつける事も出来ず、暗い部屋の中で一人項垂れていた。


 ──本当は、愛してるくせに。


 最後に告げられた言葉が、頭の中をしつこく巡る。



「……愛、って……何だよ……」



 手の中の煙草を握り潰し、アルマは額を押さえて歯噛みした。


 最初は、単純に興味本位だったのだ。ジュリアがトキを慈しむ姿や、トキが家族を想う姿を見て、人間がこぞって使う「愛」というものをこの目で確かめてみたかっただけだった。


 ところが、いざそれを目にしてみればこの有り様。

 感情は乱れて言う事を聞かないし、突き放そうとしてみても、うまくいかない。


 いつしか、愛を探していた。

 彼女の温もりを求めていた。

 彼女の愛を、無意識に欲していたのだ。


 けれど、それは彼にとって邪魔な感情でしかない。



(要らねえんだよ、こんな感情……! 俺は人間なんかじゃない……! さっさと消えろ……!)



 奥歯を軋ませ、邪魔だ、消えろと何度も念じる。しかし願えば願うほど、彼女への思いは増すばかり。


 どうしたらいい。どうすれば、この邪魔な感情は消えるんだ。そう考えて俯いていた彼だったが──やがて、ついにその答えを導き出した。


 いびつな形に歪んでしまった、その答えを。



「……ああ……何だよ……、簡単な事じゃないか……」



 邪魔なものは、すべて壊してしまえばいいんだ、と──。




 ──次の日。


 アルマは予定通りに〈魔女の遺品グラン・マグリア〉を破壊し、女神の涙ラクリマの光によって操ったジュリアの手で、ヴァンフリート家の父と母を殺した。


 自分でも、あの時の事はよく覚えていない。


 気が付けばジュリアは自ら首を裂いて床に倒れ、己は泣き叫ぶトキを捕まえて、崖下へと突き落としていた。


 全てが終わり、町から風が消えた後。アルマは何も言葉を発さぬまま、血の海となった家の中に戻る。

 裂いた首から血を流して倒れているジュリアの元へ近付いた彼は、もう二度と動かないその体に手を伸ばした。



「……ほら見ろ……俺は、お前の事なんか……愛しちゃいなかっただろ……」



 呟き、頬に触れる。温もりを失った彼女の肌に。抱き寄せられなかった、その華奢な体に。



「……ざまあみろ……」



 力無く呟き、アルマは俯いた。すると不意に、倒れているジュリアのポケットの中からが滑り落ちる。

 それは、先日彼女が「アルマにあげようと思って作ったけど壊されてしまった」と言っていた、所々が解れて破れた毛糸のポーチ。花柄のワンポイントが編まれたそのポーチを見つめ、アルマは表情を歪めた。


 あの日のジュリアの声が、耳の奥に届く。



『元気が無さそうだったから……おまじない……』



 額に口付けを落とし、頬を染める顔。

 あなたが欲しいと、そう言って泣いた顔。


 ああ、やっと、開放されると思ったのに。

 アルマ、と脳裏で呼びかける彼女の声が──なぜか、消えてくれない。



「……っ、何だよ……、何なんだよ……!」



 ポケットの中から覗くポーチを鷲掴み、彼はそれを力任せに引きちぎる。ポーチに描かれていた白い花は、糸が解けてバラバラとその花弁を散らしてしまった。



「何でいつまでもチラついて消えねえんだよ、お前はァ!!」



 怒鳴りつけ、アルマは項垂れる。もう動かない彼女の頬には、己の頬を伝う雫がぱたぱたと流れて落ちていった。俺は泣いているのか──そう考えて、ますます意味がわからなくなる。


 愛が何なのか知りたかった。

 いつのまにか、愛を欲していた。

 けれど、君からの愛を受け取るのが、堪らなく怖くて。


 あなたが欲しいと言って泣いた、あの日の君に──触れる事すらも、出来なかったんだ──。



(……あの日……俺が、ジュリアを抱いていたら……、十二年も、こんな思いを引きずる事はなかったのか……?)



 ごうごうと燃える青い炎に包まれる中、アルマは己の首に短剣を振り下ろすトキの姿をぼんやりと見つめる。


 十二年ぶりにトキと再会した時、アルマは彼に嘘をついた。「ジュリアは抱き心地が良かった」と。


 本当は、抱き寄せる事すらも出来なかった臆病者だというのに。



(実は、俺の方が……お前よりも、臆病だったのかもな……)



 真実の森の崖から飛び降りたトキを見下ろした後、血溜まりの中に咲いたジュリエットの花。その白い花に、アルマは心底後ろめたさを感じたのを覚えている。

 まるで、ジュリアに見られているようで。彼は咄嗟に血溜まりの中の花から目を逸らし、その場を後にしたのだ。


 走馬灯のように過ぎ去る追憶の回帰を経て、アルマは憎しみに満ちたトキの目を見つめる。迫る短剣の刃先。ああ、俺もようやくここで御役御免か、と彼は密やかに安堵すらした。


 ──だが、その剣がとうとう彼の喉元を貫くという直前。トキの手は、その場でぴたりと動きを止める。



「……、……っ」



 ぎりりと奥歯を軋ませたトキは血走った目を見開き、獣のように息を荒らげながら、短剣を持つその手を震わせた。アルマは皮膚の焦げ落ちた顔を力無くもたげ、「どうした……」と掠れた声を発する。



「……殺さねーのか……親の仇を……」


「──るっせえ!! 今すぐ殺してやるよ!!」



 トキは怒鳴り、震える手を握り込んで更に短剣の刃先をアルマの喉元に食い込ませる。しかし、やはりそれ以上は進まない。

 焼け爛れた喉元に食い込んだ切っ先に、アルマの黒い血が滲んだ。ハア、ハア、と呼吸を荒らげて苦しげに表情を歪めるトキは、血の気の引いた顔で自身の下唇を噛み締める。


 いつまでも首を貫こうとしない彼を見上げ、アルマは目を細めた。



「……トキ……?」


「……っ、何で……っ」


「……」


「何で、俺達を裏切ったんだ……っ!」



 絞り出すように紡がれた言葉が、アルマの鼓膜を揺らす。トキは今にも泣きだしそうな程に表情を歪め、アルマの喉に短剣を突き付けたまま更に続けた。



「俺は、お前を信じてた……! お前と、ずっと……一緒に暮らしたかった……」


「……」


「お前なら、ジルを……幸せにしてくれると、思ってたんだ……」



 徐々に小さくなっていく声を震わせ、トキは俯く。

 その目尻に浮かぶ涙の粒を、あの頃はよく拭ってやっていた。世話の焼けるクソガキだと嘆息しながら、人間の見様見真似で、慰めの言葉をかけて。


 アルマは重たい手を持ち上げ、ゆっくりとトキに手を伸ばす。その手で肌に触れれば、あの頃よりも随分と骨々しくなった頬の感触が、確かに伝わった。



(あんなに、チビだった癖に……)



 やがて目が合った、薄紫色の双眸。ぼんやりと霞むアルマの視界には、一瞬、トキの背後で微笑むジュリアの姿が映ったような気がした。



(ジュリア……)



 ──もしかして、そこに居るのか……?


 彼女の幻影を見たアルマは眩しそうに目を細め、ややあって、「トキ……」と彼の名を呼びかける。涙を浮かべるトキの肩がぴくりと揺らいだ頃、アルマは短剣を持つ彼の手を力強く握った。



「……俺は、あの頃……、きっと、お前らの事を……愛してたよ……」


「……!」


「なあ、兄弟──」



 愛を認めてしまえば、自分を失うと思っていた。

 だが、いざ認めてしまえば、そんな事は杞憂に過ぎなかったのだと分かる。


 俺は、あの日々を愛していた。

 家族のような君達を愛していた。

 彼女の事を、愛していたんだ。


 その愛を知って初めて──自分が、自分になれたような気がした。


 なあ、トキ。



「──お前、デカくなったなあ……」



 そう告げて微笑んだ瞬間、アルマは短剣を持つトキの手を強く引き寄せた。刹那、トキの剣は彼の喉を貫き、血飛沫と共に肉を裂いた鋭利な刃先が彼の首に深く沈む。トキは目を見開き、「アルマ!!」と思わず叫んだが、すぐに節くれだった大きな手が彼の後頭部を掴んで引き寄せた事で息を呑んだ。


 トキを強く抱き寄せたアルマは、至極穏やかな顔でその髪を撫でる。



「じゃあな、トキ」



 ──お前の勝ちだ。


 耳元で囁き、目を閉じる。その瞬間、アルマは頬にふわりと暖かな風を感じた。


 蛇である自身の体が黒い霧となって消えて行く中、アルマはその風に導かれるようにゆっくりと目を開ける。すると、目の前にはずっと焦がれ続けていた彼女の微笑みがあった。


 その頬に手を伸ばし、指先が触れる。

 そんなアルマの手を、彼女は優しく握り返した。


 ……ああ、今になって、やっと。



(あの日の君に、俺は、触れられたんだな……)



 愛おしい彼女と指を絡め合い、アルマは笑う。


 愛を得た毒蛇は、微笑む彼女にその手を引かれ、トキの髪をくしゃりと撫ぜて──ついに、霧となってその場から消えてしまった。



 ──じゃあな、兄弟。



 幼い頃と同じように優しく囁き、目尻に浮かんだトキの涙を、節くれだったその指先で拭って。




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