第103話 奈落の底

 セシリアの手を握り、立ち上がったトキは目尻に浮かぶ涙の粒を拭い取る。


 彼女の誓いは、もう覆せない。

 これから二人は、長く歩んで来たこの旅を終わらせに行く。



「……ごめんなさい、二人共。辛い決断をさせてしまいましたね」



 ぽつりと告げたヴィオラの表情には、僅かに悲哀の色が浮かんでいた。しかしセシリアは微笑み、「いいえ、私が望んだ事ですから」と明るい声を発する。トキは俯いて何も言わなかった。


 ヴィオラは苦く微笑み返し、再び口を開く。



「……〈万物の魔導書オムニア・グリム〉までの場所について、何か思い出せましたか? セシリア」



 彼女の問い掛けに、セシリアはこくりと頷いた。



「……はい。明確な場所を教えて貰ったわけではないんですが、マドックさんからそれらしき事を告げられた覚えがあります」


「彼は何と?」


「……たしか……」



 視線を落とし、暫し考える。黙り込んだ彼女は、灰の町アドフレアでマドックから告げられたを思い出していた。



 ──右の、三列目。中を開けば、左端に“くぼみ”がある。そこに神は眠っている。……アンタなら分かるだろう──。



「……右の……三列目……。その中を開けば、左端に窪みがあると……そう言っていました」



 彼から聞いた言葉をそのままヴィオラに伝えれば、彼女はこくんと一つ頷く。



「“右の三列目”というのは、この礼拝堂に並べられた長椅子の列の事でしょう。左右対称で三列以上並んでいる物なんて限られていますから」


「……!」


「中央の通路より、右側の……あの三列目の長椅子を開けば、中に何かがあるのかもしれません」



 ヴィオラの助言に従い、セシリアはトキの手を引いて長椅子の三列目へと駆け寄る。埃を被った木製のそれを入念に調べてみれば、やがて座席の部分が錆び付いた動きでぎこちなく持ち上がった。



「……っ、ほんとだ! 椅子の中身が空洞になってる……!」



 セシリアは声を上げ、座席を完全に開くと埃っぽいその内部に視線を巡らせる。するとマドックの言った通り、左端に小さな窪みを見つけ出した。



「……! あ、ありました、窪みです!」


「触れてみて下さい、セシリア」


「はい……!」



 セシリアは力強く頷き、指先を窪みの中に押し付ける。刹那、周囲に青い閃光がほとばしった。



「──!」



 セシリアとトキが思わず目を見張った直後、ゴゴゴ、と鈍い音が響いて僅かに地面が揺れる。二人が顔を上げれば、中央の通路の一部が開き、地下へと続く階段が現れていた。



「……っ、あれが……隠し通路……?」



 セシリアは立ち上がり、狼狽えながらも隠し通路の入口へと近寄る。地下深くへと続く階段の先は、真っ暗で何も見えなかった。



(……ここを下れば……〈万物の魔導書オムニア・グリム〉が、ある……)



 セシリアは立ち止まり、静かに息を呑む。


 つまり、この先が、二人にとっての──“旅の終着地”。



(……これで、終わっちゃうんだ……全部……)



 暗い階段の先を見つめ、セシリアはトキの手を強く握り締めた。


 ──正直、怖くないと言えば、嘘になる。


 本当は泣きだしそうなほど怖い。苦しい。死にたくない。逃げ出したい。……けれど、そんな恐怖を上回るぐらいに、強く──願っていた。



(どうか、生きていて欲しい……あなたに)



 セシリアは無言のまま、ゆっくりとトキの横顔を見つめる。程なくして彼の顔もセシリアへと向けられ、互いの視線が自然と交わった。


 繋がれたままの手のひら。

 ずっと触れる事を躊躇っていた、彼の温度が直に伝わる。



(……あなたに会えるのも、これが最後)



 しかと目に焼き付けるように見つめたトキの表情は、苦しさを隠しきれずに歪んでしまっていた。そんな悲しそうな顔をしないで、と心の中で語りかける。けれど言葉には出来なかった。彼を傷付けているのは、紛れもなく自分なのだから。



「……行きましょう、トキさん」



 出来うる限りの笑顔に努め、繋いだ手をそっと引く。トキは何も言わず、ただ小さく顎を引いた。



「──トキ。セシリア」



 背後から穏やかに呼び掛けられ、二人は振り返る。慈愛に満ちた目を細め、ヴィオラは優しく微笑みを浮かべていた。


 その白い肌の表面は、まるで落としてしまった硝子細工のように、徐々にひび割れて亀裂が入り始めている。



「っ……!? 女神様、体が……!」


「ええ。三百年以上も眠りについていたんですもの。私の体も、もう限界のようです」


「そんな……!」



 セシリアは悲鳴のような声を上げ、悲痛に表情を歪めた。徐々に体がひび割れていく女神は、穏やかな表情でトキとセシリアを見つめる。



「大丈夫ですよ、二人共。例えこの世界から大切な物が消えてしまっても、信じる心があれば、あなた達の神は永遠に消えない」


「……!」


「あなた達は、あなた達の信じるものを、信じなさい」



 そう告げ、ヴィオラは体の亀裂が進行していく中で自身の手のひらを胸の前で重ねた。天を見上げ、愛おしげに目尻を緩める。その蒼い瞳で何を見ているのか、トキには何となく分かった気がした。



「私は、やっと、あの人の元へ──」



 ──刹那。


 ひびの入っていた女神の首は、彼女の背後から伸ばされた何者かの手のひらに強く握り込まれた。二人が目を見開いた直後、ばきんと鈍い音を立て、ひび割れた首は無残にへし折られる。亀裂に覆われたヴィオラの胴体は床に倒れ、切り離されて落下した頭諸共一瞬で砕け散った。


 トキとセシリアは言葉を失い、愕然と立ち尽くして硬直する。砕けた女神の破片を踏み潰し、「面白い話をしてたわね」と楽しげに喉を鳴らしたのは──血のように赤い双眸を細める、魔女だった。



「あーあ、ヴィオラったら簡単に壊れちゃった。とんだ期待外れねえ、もっと無様に殺してあげたかったのに。三百年も寝てたら、こーんなに脆くなっちゃうのかしら?」


「……っ!」



 災厄の魔女──イデア。

 ついに対峙した彼女の姿に、トキとセシリアは表情を強張らせる。



「てめえッ……!」



 しかし、瞳を血走らせたトキが地を蹴ろうとした瞬間。フッと視界に影が差し、程なくして鈍痛と共に彼の頬は殴り飛ばされた。「がぁッ……!」と苦鳴を発したトキが地面へと倒れ込む。セシリアは「トキさん!!」と悲鳴のような声を上げて駆け出そうとしたが、同じく彼女も腹部を蹴り飛ばされて床に叩き付けられた。



「あう……っ……ぐ……!」


「──おいおい、悪い子だねえセシリアちゃん。オジサンがシャワー浴びてる隙に逃げ出してくれちゃってさァ」


「は……あ……っ……!」



 まともに呼吸が出来ず、蹲るセシリアの耳に恐ろしく冷たい声が届く。彼女は苦悶の表情を浮かべながら、自分を見下ろす男を怯えるように見上げた。


 彼──アルマは、狂気を帯びる赤い双眸を細めてセシリアの頭を靴底で踏みつける。



「うっ……!」


「あーあ。やっぱリスク背負ってでもあの時アンタの中にぶち込んどきゃ良かったか? テディまで殺してくれちゃって、オジサン怒ってるよ? ん?」


「あ、ああぁ……っ!!」



 みしみしと、踏みつけられたこめかみに体重をかけられてセシリアの表情が歪む。身を強張らせ、細い腕で彼の脚を掴んで抵抗するがビクともしない。

 アルマは不気味な笑みを口元に貼り付け、冷たい瞳で見下ろしながら顎に蓄えた髭を指でなぞる。



「あーあー、痛いねえ、苦しいねえ、可哀想に。このままじゃ頭潰れちまうかもなァ?」


「……っあ、う……っやめ……」


「残念だがやめてはやれねえぞ? 女神は予定通り復活して殺せた事だしな。これで無事に任務完了、アンタもめでたく用無しだ。〈万物の魔導書オムニア・グリム〉を開かれて魔法を消されちゃ困るんでね、ここで死んでもらおうか」



 ぐっ、と更に強く踏み込まれ、セシリアは苦しげに呻いた。このままでは踏み潰されてしまう、と強烈な圧迫感に表情を歪めながら、セシリアは歯を食いしばって抵抗する。


 だが、やはり彼女の抵抗は意味を成さない。



「く、ぅ……ああぁ……っ!」


「じゃあな、可愛いお嬢さん」



 にこりと微笑み、アルマは指を打ち鳴らした。途端にセシリアの周囲には黒い蛇が群がり、彼女に向かって牙を剥く。次に感じるであろう痛みを覚悟し、固く目を閉じたセシリアだったが──その瞬間。


 青く燃え上がる炎と共に、アルマの目の前を銀の刃先が横切った。



「!」



 彼は素早く反応し、セシリアから離れてその場を飛び退く。鋭い切っ先は僅かに彼の眉間を掠め、ちりりと熱を帯びた肌からは黒い血が滴り落ちた。


 倒れるセシリアを庇うように立ちはだかったのは、青く燃える炎の中で殺意を帯びた瞳を向ける、死に損ないの弟分。



「──汚ねえ足で、コイツに触ってんじゃねえ……!」



 怒りを孕む声を低く発し、トキはアルマを睨み付ける。セシリアは力無く上体を起こし、立ちはだかるトキの背中を見上げた。


 アルマは気怠げに嘆息し、流れる血を拭いながら「しつこいな、お前も」と肩を竦める。すると不意に、そんな彼の腕へと楽しそうに笑う魔女の細腕が絡み付いた。「面白い事になってるじゃなーい、アルマ」と続けたイデアだったが──ふと、鋭い瞳で睨みつけているトキへとその視線を向け、彼女は首を傾げる。



「……、あら? どこかで見た顔ねえ、って思ってたけど……あなた、もしかしてあの小汚い街で私が呪い掛けたコソ泥ちゃんじゃない?」


「……!」


「えっ、嘘……まさか本当に生きてここまで来たの? えー!? あはははっ、びっくり! すごいわねえ! 私の呪いを受けてこんなに耐えたの、あなたが初めてよ!」



 楽しげに笑い、イデアはアルマの肩に寄り掛かる。「てっきり死んだと思ってたわ〜」と続けた彼女に、トキは鋭い眼光を向けた。



「……勝手に死んだ事にしてんじゃねーよ。これはアンタが始めただろうが」


「……ゲーム? あははっ! そんなの、もうとっくにじゃない」


「……っ」


「あなたの目的は、“女神の涙を私から取り返す事”……で、あなたはもうソレを手に入れたワケでしょ? だからほら、無事に目的達成! めでたしめでたしのハッピーエンディング! おめでとう、コソ泥さん」



 ぱちぱちと拍手を贈り、魔女は挑発的に笑う。トキは奥歯を軋ませて彼女を睨んだ。溢れ出す怒りを極力抑え、冷静さを保ちながら、トキは低く声を発する。



「……念の為に聞くが……」


「んー?」


「……俺の呪いを解く気は、ないんだな……?」



 短剣を握り、彼は問い掛けた。魔女は一瞬きょとんと瞳を丸めたが、ややあって「あはははっ!」と笑い出す。



「ごめんねえ、まさかこんなにしぶとく生きてるとは思わなくて! 呪いを解くって話、すっかり忘れてたわ! ていうかそもそも、その呪い解けないもの!」


「……!」



 下卑た笑みを浮かべるイデアに、セシリアの表情が悲痛に歪んだ。女神の言っていた通り、彼の呪いは解く事が出来ないらしい──その現実に心を痛め、砕け散ったヴィオラのむくろを一瞥する。



(……女神様……)



 セシリアは悲哀の表情を浮かべ、胸の前で自身の両手を握り込んだ。


 やはり、残る道はただ一つ。

 自分が目の前のこの階段を最後まで下り──〈万物の魔導書オムニア・グリム〉を開いて、この世界から魔法を消すしかない。


 セシリアは歯を食いしばり、先程蹴られた腹部を押さえながら立ち上がる。彼女が手を伸ばした先には、トキの空いた手のひらがあった。



「……トキさん」



 その手を握ると、トキの肩がぴくりと反応する。セシリアは微笑み、彼の手に指を絡めて、何度も見てきたトキの背中に軽く寄りかかった。


 少しずつ紡がれていく、小さな声。トキは黙って耳を澄ます。



「トキさん、大丈夫……私が必ず救うから」


「……」


「あなたを愛しています、トキさん」


「……」


「……そして、あなたを信じてる」



 きゅ、と握る手に力が籠る。トキは暫し口を噤んでいたが、彼女が言わんとしている事は理解していた。


 やがてトキも強くその手を握り返し、小さく答える。



「……ああ。俺もだ」


「……」


「アンタを信じてる……ずっと」



 小声で告げれば、背後のセシリアが僅かに鼻を啜り上げる音が耳に届いた。けれどそれでも彼女は強引に笑って、トキの背中に額を押し付ける。



「少しだけ、待っててね」


「俺は長くは待てないぞ」


「怪我しないでね」


「それはどうかな」


「出来れば最後は笑って欲しいな」


「それも少し難しいんじゃないか」



「……先に行ってるね」


「……必ず迎えに行く」



 セシリアの涙声と共に、手のひらの熱が離れる。トキもまた一瞬表情を歪め、一度だけ彼女を振り返った。


 目が合ったセシリアは、涙を浮かべた瞳を細めて、ただ美しく笑う。



「──また後で」



 最後に言い残し、彼女はトキに背を向けて走り出した。暗い隠し通路の奥へと向かい、一直線に駆け抜けていく。


 アルマは目を細め、即座に指を打ち鳴らして出現させた黒い蛇を彼女へと放った。しかしその瞬間、セシリアの指輪が赤く輝きを帯び、漆黒の木の根が地面を突き破って彼女の踏み入った隠し通路の入口を塞ぐ。



「……チッ……、アルラウネか……!」



 アルマは忌々しげに舌打ちを放ち、入口を塞いだ黒い木の根を睨んだ。刹那、今度は青く輝く聖なる炎が燃え上がり、彼らの行く手を阻むように大きく広がる。



「……この先には行かせねーよ」



 師から譲り受けた短剣を構え、揺らめく炎の中でトキは冷静に声を発した。薄紫の双眸が見据える先には、苛立ちを顕にする毒蛇と、楽しそうな魔女の姿。



「お前らは、今日ここで死ね」


「……こっちの台詞だ、死に損ないのクソガキが」



 両者は冷たい瞳で睨み合い──程なくして、どちらからともなく地面を蹴る。


 因縁深い両者の殺意がぶつかり合う様を傍観しつつ、魔女は口元に不敵な笑みを描き、アルラウネによって塞がれた隠し通路の奥を見つめていた──。




 * * *




 一方、数十分前、カルラディア城内の暗い廊下の隅では。

 息を荒らげたロビンが、苦々しい表情で壁に背を凭れて座り込んでいた。


 筋肉質な腕や露出した素肌のあちこちには切り傷が目立ち、至る箇所から血も流れている。血の滴る腕に裂いた布で簡易的な処置を施しながら、「あー、くそ……派手に斬られたな……」彼は苦笑をこぼした。


 ロビンは現在、対峙したエドナによる猛攻から一時的に退却して身を潜めているところである。彼女の驚異的なスピードと手数の多さに苦戦しつつ、遠距離からの射撃でなんとか応戦していた彼だったが──やはり、一筋縄にはいかず。一旦体制を立て直そうと、こうしてエドナから逃げてきた次第だった。


 ロビンは城内の壁に背をもたれ、荒らぐ呼吸を整えながら暗い通路を覗き見る。



(くっそ……あのチビ、めちゃくちゃ素早いんだよなァ……俺の魔弾が全然当たらねえ……)



 額に浮かぶ汗を拭い、ロビンは苦々しく歯噛みした。さほど離れていない距離からは、カツン、カツン、とヒールのかかとを響かせて歩む音が耳に届く。



「あれぇ〜、どこ行っちゃったのかなあ? もっと遊ぼうよぉ、ゴリラくん〜」



 くすくすと笑う無邪気な声に、ロビンは眉根を寄せて銃把グリップを握り込んだ。見つかる前に攻撃すべきか、と些か悩んだが、この場所からではどこにエドナが居るのか明確な位置が特定出来ない。となれば、彼女が居るであろうと推測される位置をおおよそで導き出して広範囲に射撃するしかないのだが──この場合、広範囲に連続で射撃が可能なのは“黒玉ジェット”である。

 しかし、“黒玉ジェット”の属性は“闇”だ。闇属性の魔法同士では、おそらく彼女に着弾したところで相殺されてしまう可能性が高い。



(そもそも、あのガキ自体が闇魔法で形成された魔女の玩具おもちゃだっつう話だしな……。俺、光属性の魔弾は撃てねーんだよなあ……セシリアが居てくれれば、まだ楽に勝てる算段はあったけど……)



 徐々に近付いてくるエドナの足音に、ロビンは息を呑みながら武器を構える。──しかし、すぐ近くまで近付いて来ていたはずのエドナの足音は、いつしかぱたりと途切れて聞こえなくなってしまった。



「……?」



 ロビンは訝しげに眉を顰め、銃把を強く握り込んだまま暗い通路の奥を確認する。


 するとその瞬間、真後ろから楽しげな声が響いた。



「見ぃつけた♡」



 ハッ、と目を見開いたロビンは弾かれたように振り向く。刹那、彼が凭れていた壁には無数の裂け目が入った。まるで肉をサイコロ状にカットするかのように、石の壁は容易く分断される。



「──げえっ!?」



 思わずロビンは声を張り上げ、即座に地面を蹴って駆け出した。彼がその場から脱した途端に壁は崩れ落ち、舞い上がった砂煙の中からやいばと化した無数の銀の髪が彼に迫る。「冗談キツイぜ、おい……!」と眉根を寄せつつ、ロビンは素早く体勢を持ち直した。すぐさま愛用のリボルバーを構え、迫る刃に銃口マズルを向ける。



「装填・紅玉ルビー!」



 シリンダーが回転し、赤く光を帯びた銃口から飛び出したのは巨大な火球。刃となって猛攻する銀の髪に着火した炎は燃え上がり、エドナの髪を焦がして灰に変えていく。

 だが炎を纏った彼女の髪は途中でぶつりと千切れ、はらはらとその場に落ちると霧のように消えてしまった。「やっぱそうなるよなァ……!」と引き攣った笑みを浮かべたロビンの正面で、エドナは甲高い笑い声を響かせる。



「きゃはははっ! かくれんぼ終ーわりぃ! 次は何して遊ぶ〜?」


「……っ」



 崩れ落ちた瓦礫がれきの山を蹴り飛ばし、エドナは千切れてしまった刃の数を補うように髪を振り乱して新たな刃を出現させた。ロビンはじわりと手のひらに汗を滲ませ、「こんにゃろ、無邪気に武器エモノ増殖しやがって……」とぼやく。


 いくら彼女の髪を燃やして灰にしても、その数が尽きる事はない。人間の髪の本数は十万本あると言われているのだから、武器化した髪の一本一本を相手取っていれば埒が明かないのも当然だった。



(まずいな……。このまま消耗戦になったら、確実に俺の方が分が悪い。どうにかあのチビに攻撃当てねえと……)



 つっても、めっちゃすばしっこいんだよなあ……、と彼は額を押さえた。しかも、明らかにエドナは本気を出していない。彼女が何度も口にしているように、おそらく本当に「遊んでいる」だけなのである。


 ロビンは深く息を吐き、ちらりと自身の右手の小指を見下ろした。そこに嵌められているのは──数時間前にトキから譲り受けた──アウロラの指輪。


 ロビンはそれを指先でなぞり、「こうなったら、あとはコレしかねえな……」と不敵に口角を上げた。



「お前が最後の希望だぜ、アウロラ……!」



 呟き、ロビンは銀の髪を揺らめかせて微笑むエドナを鋭い目で見据える。突如その表情に自信が満ちたように感じ、エドナはかくんと小首を傾げた。



「んんー?」


「おいコラ、このチビガキ! 調子に乗ってられんのも今のうちだぜ!」


「えー?」


「俺にはなあ、なんとすっげー魔女様がついてんだよ! 今からコイツの超すっげー魔法で、お前のケツが真っ赤になるまでお尻ペンペンしてやっからな!! 覚悟しろ!!」



 ふふん、と得意げにロビンは宣言し、小指に嵌められた指輪を彼女に見せつける。エドナは僅かに目を見張り、「あっれぇ、アウロラだ〜」と少なからず驚愕しているようだった。

 それまで無邪気に笑っていたエドナだが、流石に古代魔女が相手だと油断ならないと判断したらしい。その表情は先程までよりも明らかに強張っている。



(くくく、どうやら怖気付いてるみてーだな!)



 ロビンは内心ほくそ笑み、見せ付けた指輪に魔力を込めた。正直、〈魔女の遺品グラン・マグリア〉を使用する事でどれ程の魔力を消耗するのか全く予想がつかないため、出来れば使用は避けたかったが──状況が状況なだけに、今回ばかりは致し方ない。



(マジで頼むぜ、アウロラ……! お前だけが頼りなんだ……!)



 ロビンは指輪に向かって強く念じ、その手をエドナに向けてかざす。小指に嵌る銅の指輪は、微かに熱を帯びて薄桃色に輝いた気がした。



「行っけえアウロラ!! この状況どうにかしてくれえ!!」



 彼は腹の底から叫び、指輪の魔女に懇願する。


 ──が、しかし。



「……」


「……」


「……、……あり?」



 しん、と静まり返る通路内。光を帯びてはいるものの、反応を示さない指輪。え、何で? と瞳を瞬き、ロビンは小指に嵌められた指輪を見つめる。


 すると程なくして彼の耳は、指輪の中から微かに届く──「ぐ〜……」という、間の抜けた寝息を拾い上げた。



「……、え? アウロラさん? え、ウソ……、まさか……」


「ぐごー、すぴー」


「え!? マジで寝っ……!!?」


「ぶふっ……! きゃはははっ!! うっけるー!!」



 刹那、堰を切ったように吹き出したエドナの笑い声が響き渡る。かと思えば、間髪入れずに銀の刃が振り下ろされた。「ぎゃあああっ!?」と大袈裟に叫んだロビンは間一髪で彼女の攻撃を避け、即座に地を蹴って走り出す。



「ええええっ!? ちょ、うおおぉいアウロラぁぁッ!? テメッ、ふざけんな!! こんな時に寝てんじゃねえよおぉぉ!!」


「ぐ〜……」


「起きろコラァ!!!」



 死に物狂いでエドナの猛攻を避け、逃げ惑いながら怒鳴るロビンだったが、やはりアウロラが目を覚ます気配はない。この自堕落魔女がぁぁ!! と目を血走らせている間も、「わーい鬼ごっこだぁ〜♡」とエドナは楽しそうに追いかけて来る。


 ひゅんひゅんと風を切り、背後から迫る銀の刃。逃げ惑うロビンだったが、やがてその刃は彼の肌を再び裂いた。



「んぎっ……!!」



 なんとか回避して致命傷は避けたものの、深く肉を引き裂かれたロビンは痛みに表情を歪める。このままではまずい、と危ぶんだ彼は攻撃を避けやすいよう大きな扉を蹴破り、比較的広い空間へと逃げ込んだ。


 しかし彼の逃げ込んだ先は、床に不自然な穴の空いた、薄気味悪い空間で。



「……!? な、何だここ……っ」



 思わずロビンは足を止める。薄暗い空間はとにかく広く、天井や壁も豪華絢爛なシャンデリアや装飾品で埋め尽くされていた。

 部屋だけは広くて大きいが、床にはまるで奈落の底にでも通じているかのような深い穴がぽっかりと空き、中央には幅の狭い通路が伸びている。進むにはあの通路を渡るしか無さそうだ。しかし、足を踏み外せば穴の中へ真っ逆さまである。



「……っ、おいおい、マジか……? 広そうだからここに逃げ込んだってのに、これじゃアイツの攻撃が避けられな──」



 と、ロビンが独りごちた頃。彼の呟きを遮るように、その足首には冷たい何かがしゅるりと絡み付いた。え、と目を見開いて見下ろした先には、ロビンの足首を掴む、無数の黒い“手”がうごめいていて。


 途端にロビンは顔面を蒼白に染め上げた。



「ひっ……うぎゃあああああッ!!? オバケえええ!!!」



 たちまち彼は絶叫し、混乱の末リボルバーを構えて足首に絡みつく黒い手に乱射する。ドドドドドッ!! と豪快に魔弾を放ち、ようやく解放された瞬間ロビンは涙目で駆け出した。


 しかし黒い手が彼を解放したのも束の間、無数に寄せ固まって蠢くそれはまた直ぐに群がって追いかけて来る。



「ぎゃあああっ!? 何!? 何で追いかけてくんの!? やめて無理こっち来んなぁぁ!! 何だよこの部屋!? アウロラ助けて!!」


「ぐごー」


「アウロラぁぁぁ!!!」



 ロビンは必死に声を張り上げるが、やはり魔女は夢の中。大騒ぎしている間に、黒く皮膚がただれた手の軍勢は再びロビンへと迫る。

 それらは周囲の穴の中から伸びているようで、ロビンは舌打ちを放つと銃を構えた。



「装填・蒼玉サファイア──氷結凍りつけ!!」



 引き金を引いて氷の魔弾を発砲すれば、迫っていた無数の手はたちまち凍りついて動きを止める。ようやく謎の手の追尾を断ち切ったロビンだったが、ふと周囲の穴の中に視線を移した途端、彼は思わず息を呑んだ。


 その視界に映ったのは、穴の中で蠢く大量の黒い腕。まるで触手のように密集し、数えればキリが無いほどのそれがうぞうぞと不気味に動いている。無数に蠢く手の軍勢の中央では、鋭い牙がびっしりと生え揃った巨大な“口”のようなものがぱかりと大きく開き、止めどなくよだれを垂れ流していた。



(……何、だよ……これ……っマジでバケモンじゃねえか……!)



 ロビンは絶句し、じわりと汗を滲ませる。しかしその瞬間、不意に「ふあ〜ぁ……」と間の抜けた欠伸をこぼす声が耳に届いた。



「……むにゃむにゃ……うーん……? 何なんですかぁ~? さっきからうるさい……ふあぁ」


「あっ、テメ、アウロラ! やっと起き──」



 ──バキィンッ!


 直後、何かが砕けるような不吉な音が暗い空間に響き渡る。ハッとロビンが目を剥いて振り返れば、先程己が氷漬けにした無数の腕が小間切れにされて散らばっていた。


 カツン、と響くヒールの音。視界に銀の刃を捉え、焦燥した時には既に遅く。



(しまっ──)



 ──ブチンッ。


 回避すらも間に合わず、鋭い切っ先はロビンのを一閃した。肉を裂き、骨すらも断ち切られた彼の頭は、胴体から切り離されて床へと転がる。


 氷の欠片を踏み潰し、ヒールの音を響かせて、銀の髪を揺らす彼女は口を開いた。



「この穴の中の子達はねえ、魔女ママが創り出した可愛いペットなの〜。いっつもお腹空かせててねえ、ボク達の事すら食べようとするんだよぉ。悪い子でしょ?」


「……」


「──なーんて。もう聞こえてないかぁ」



 くすりと笑い、エドナはロビンの骸へと近付いた。血を噴出させながらその場に倒れた首のない体を踏み付け、彼女はそれをゆっくりと、化け物のいる穴の中へ蹴り落とす。



「グッバァイ、ゴリラくん♡ 楽しかったよ♡」



 にんまりと、弧を描く唇。

 無邪気に微笑む彼女に蹴り落とされたロビンの体は、無数の手が蠢く奈落の底へと、落ちて行った。




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