第102話 旅の終焉へ

「……何……言ってんだよ……」



 長い沈黙の末に、ようやくトキが絞り出したのはそんな言葉だった。セシリアは黙ったまま俯き、何も言葉を告げない。



「……そんなの……何も、解決しねえだろ……」


「……」


「俺の呪いを解くために、古代魔女全員とセシリアの命犠牲にしろってのかよ!! ふざけんな! そんな事出来るわけ──」



 ──カッ!


 トキが怒鳴り付けた瞬間、右手に嵌められた金の指輪が突如青い光を放った。彼が目を見開いて言葉を飲み込んだのも束の間、そこから飛び出して来た青い火の玉が拳のような形に変形する。刹那、トキは豪快に頬を殴り飛ばされていた。



「っ、い……!」


「きゃあ!?」



 ドゴッ、と鈍い音と共に倒れたトキに、セシリアが悲鳴を上げる。駆け寄ってきた彼女に支えられたトキは、今しがた自分を殴り飛ばしたであろう火の玉をじろりと睨んだ。



「……っ、いきなり何すんだ、ドグマ……!」


「──ふん。小僧ガキたわけた事を抜かしおったからな。我の拳で目を覚まさせてやったまでよ」



 ふわりと浮かぶドグマは飄々と応え、青い炎を揺らめかせながら二人の元へ近寄る。そして、彼女はセシリアに語りかけた。



「小娘」


「……!」


「我ら古代魔女の事は、何も気にするな。元々我らは、もう何千年も前に命など捨てておる。狭き遺品の中で世の行く末を見守る事にも、些か飽きが来た所よ。あとは好きにするがよい」


「ドグマ! テメェ何言ってんだ!!」


「貴様は黙っておれ、小僧」



 鋭い声が、割り込んで来たトキの言葉をぴしゃりと制す。ドグマの気迫によって押し黙ってしまった彼のかたわら、セシリアはやはり口を噤んで俯いていた。



「……小娘よ。我も、アルラウネも、アウロラも──おぬしがどのような選択をしたとしても、それを責めはせん。余計な心配はするな」


「……」


「……まあ、こんな事をわざわざ忠告せずとも……お主の選択肢は、最初から決まっておるのだろうがな」



 フッ、と静かに笑い、「後は任せたぞ」と言い残した青い火の玉はぱちんと弾けて指輪の中へと戻って行く。やがてセシリアは顔を上げ、凛と済んだ瞳をトキに向けた。

 その視線に、トキは思わずたじろぐ。強い意志を秘めた彼女の瞳が、この時ほど怖いと感じた事はなかった。



「……トキさん、」


「……っ」


「──私は、あなたの呪いを解きます」



 真っ直ぐと、鮮明に。一切の迷いも無く言い放った彼女の言葉が、トキの胸を深く貫く。

 ややあって彼は表情を歪めると、「嫌だ……」と声を絞り出して首を横に振った。



「……嫌だ……っ、駄目に決まってんだろ……! そんなもん、俺は絶対に認めねえぞ!」


「……」


「ふざけんなよ……! アンタやドグマを失うぐらいなら、俺の呪いなんかずっと解けなくていい!! このまま苦しんで死んだっていい!! だからっ……頼むから、やめてくれ……!!」



 トキは悲痛に叫び、セシリアの強い瞳から目を逸らして俯く。しかし凛と澄んだ彼女の瞳は、トキを見つめたまま逸らされる事は無い。


 ──本当は、分かっていた。彼女の選ぶ道は、ずっと分かりきっていたんだ。


 いつだって自分よりも他人の事を気にかけて、誰かを救うためならばその身を容易く捧げようとしてしまう、優し過ぎる彼女だから。

 きっと己の身が朽ちると分かっていても、その命を犠牲にして、この呪いを解く道を選ぶのだろうと──最初から、分かっていた。


 だからこそ、阻止しなければならないと思ったのだ。たとえ子供のように、情けなく泣き縋る事になったとしても。



「……俺は……! アンタが居なくなるぐらいなら……っ死んだ方がマシだ……!」


「……トキさん」



 俯いたまま力無く呟くトキの頬に、そっと彼女の白い指先が触れる。手袋のないその手首には、やはり忌々しい十字架が残ったままだ。


 セシリアは一拍の間を置き、口を開いた。



「私は、あなたの呪いを解くために、ここまで来ました。それにこの体は、遅かれ早かれ……アルタナの運命によって、この世から消えてしまいます」


「……っ」


「ここであなたの呪いを解かなければ、これまで歩んで来た私たちの旅が、全て無意味なものになってしまう」


「うるせえ!! それでも、俺はっ……!!」


「トキさん。私たち、誓い合ったでしょう? マリーローザの宿の中で」



 セシリアは駄々を捏ねる子供に語りかけるかのような口振りで、優しくトキに言葉を続ける。彼女の言う『誓い』を、もちろんトキも覚えていた。今更あの日の誓いを忘れるはずがない。



『──俺は、必ずアンタから“女神の涙”を奪う。……だから、アンタは必ず俺の呪いを解け』



 雨の街で誓い合ったあの日の己の言葉を、トキは今になって心から悔やんでいた。歯痒さとやるせなさで、噛み締めた唇が震える。


 ついさっきまで、あの誓いは二人の旅の支えだった。目指すべき旅の終着点だと思っていた。

 それがまさか、こんなにも自分達を苦しめる事になるだなんて。



「……あなたは、あの誓いの通り、ちゃんと私から“女神の涙”を奪いました」



 セシリアは優しく目尻を緩め、項垂れるトキの首に下げられた青い宝石に触れる。元々は自分のものだった、小さな“女神の涙ラクリマ”の欠片に。



「だから今度は、私に……あの日の誓いを果たさせて下さい」


「……っ」


「お願い、トキさん。この先に待ち受けている未来が、例えあなたにとって“死んだ方がマシ”だと思える人生であったとしても……それでも──」



 セシリアは微笑み、俯くトキの顔を覗き込む。ようやく視線が交わった薄紫色の瞳には、やはり涙の粒が溜まっていた。



「──私は、あなたに生きていて欲しいの」


「……っ……!」


「だから、私は必ず……あなたを救います」



 柔らかく微笑むセシリアの姿が、あまりに眩しくトキの視界に映り込む。『例え、死んだ方がマシだと思える人生だったとしても、それでもいいから、生きる道を選べ』──遠い昔、己にそう教えを説いた師の姿が、今の彼女の姿と重なって。


 トキは眉根を寄せ、震える唇を開いて掠れた声を漏らした。



「……何で、アンタら親子は……揃いも揃って、同じ事言うんだよ……」


「……え?」


「俺なんか……っ生きてたってロクでもない……! なのに、何で……、何で……っ」



 トキは唇を戦慄わななかせ、頬に添えられたセシリアの手を握る。


 ジルも、マドックも、ドグマも、セシリアも。


 どうしてみんな、居なくなろうとするんだ。ロクでもない俺をこの世界に残して、消えようとするんだ。

 放っておけよ、もう。──俺なんか、死んだってどうでもいいだろ。


 そう訴えたくとも言葉が続かず、黙り込んだトキは再び顔を逸らそうと顎を引く。しかし、それを阻むようにセシリアは彼の両頬を掴み、俯きかけたその顔を強引に引き戻した。



「……っ……!」


「愛しているからです」


「……、は……?」


「みんな、あなたを愛している。……だから、生きていて欲しい」



 目の前で見つめる、凛と澄んだ翡翠の瞳。トキは硬直し、喉元から出かかっていた言葉すらも飲み込んでしまう。

 セシリアは微笑み、愛おしげに彼を見つめた。



「もちろん私も、あなたを心から愛しています。……本当に、心から」



 ──だから私は、必ずあなたを救うって決めたの。


 強い意志を秘めた声で言い放ち、セシリアは立ち上がる。直後にヴィオラへと向き直り、彼女は問いかけた。



「──〈万物の魔導書オムニア・グリム〉がある場所を、私に教えてください。女神様」


「っ、セシリア!」


「トキさん、どうか止めないで」



 大丈夫だから、と続けて一度だけ振り向いた横顔は、礼拝堂チャペルに満ちる神聖な雰囲気も相まってか、あまりに神々しく彼の目に焼き付いた。トキは表情を歪め、彼女を止める術を持たない無力な己の拳を握り込む。


 一方でセシリアと向かい合ったヴィオラは、穏やかな笑みを浮かべて彼女を見つめていた。



「……決意は固いのですね、セシリア」


「はい。もう迷いはありません。私が〈万物の魔導書オムニア・グリム〉を開いて……魔法も、魔女も、呪いも……この世界から、全て消し去ります」


「恐怖はないのですか? あなたも消える事になるのですよ」


「はい。……何も怖くありません」



 ──嘘だ。


 トキは溢れ出しそうな群青の塊を睫毛の手前に押し留めたまま、胸の内だけでそうこぼす。優しい彼女が、“全てを消し去る”だなんて選択を、心から望むはずがないのに。



(……何が、“怖くない”だよ……)



 灰の町アドフレアで『死にたくない』と泣いていたのは、一体誰だと思ってる。

 みんなとずっと一緒に居たいって、死ぬのが怖いって……そう言って震えていたくせに。



(……何で、アンタは……いつもそうやって……強くあろうとするんだ……)



 辺境の村でアデルが居なくなった時も。

 花の街アリアドニア屍食鬼グールに捕まった時も。

 雨の街マリーローザで一方的に突き放した時も。


 いつだって、彼女は心を強くあろうとした。本心を隠して、いつも誰かのために生きていた。


 今ならば分かる。きっと自分は、そんな彼女の心の強さに惹かれていたのだと。


 ──救いを信じる、心の強さに。



「……あなたは強い人ですね。セシリア」



 俯いてしまったトキを他所に、ヴィオラは穏やかに告げてセシリアの手を取った。セシリアはやはり強い瞳で女神を見上げ、触れた手を柔く握り返す。



「──〈万物の魔導書オムニア・グリム〉のある場所を、私に教えてください」



 今一度繰り返した言葉。セシリアの強い視線の先で、ヴィオラはゆっくりと頷いた。そして、彼女は答える。



「〈万物の魔導書オムニア・グリム〉は、この礼拝堂から繋がる地下深くに眠っています。イディアラも知らない“隠し通路”の入口が、この部屋にあるのです」


「……隠し通路……? 一体どこに……?」



 セシリアが問えば、ヴィオラは微笑んで彼女の顔を覗き込んだ。



「セシリア。あなたは既に知っているはずですよ、通路の場所を」


「……え?」


から教えて貰ったでしょう? 魔導書の眠る場所を」



 思いがけない女神の言葉に、セシリアは瞳を瞬く。「父……?」と眉を顰める彼女だったが、不意に背後でトキが重々しい口を開いた。



「……マドックの事だ」


「……え?」


「アイツは……アンタの実の父親だ。アンタがまだ“ドルチェ”だった頃、生き別れたらしい……」



 ぽつぽつと真実を告げ、トキは再び口を噤む。

 彼が死んだ事は、言わなかった。父親の存在をたった今知ったばかりの彼女に、その最期まで告げる事など──トキには出来ない。


 セシリアは案の定、目を見開いたまま硬直している。だが、程なくして安堵したかのように頬を緩めた。



「……そう、だったんですか……」


「……」


「じゃあ……は、会えたんですね」


「……は?」



 セシリアが続けた不可解な言葉に、トキはつい顔を上げてしまう。目が合った彼女は心底ホッとしたように表情を綻ばせ、自身の胸に手を当てていた。



「あの子は──“ドルチェ”は、ちゃんとお父様に会えたって事ですよね」


「……!」


「……良かった……。彼女が最期に願った望みを、叶えてあげられて……」



 本当に良かった、と笑うセシリアに、トキはやはり表情を歪める。


 ──ああ、やっぱり。どこまでも、アンタは。



(自分よりも、“誰か”の幸せばかりを──祈ってしまうんだな……)



 彼は首元の呪印を押さえ、そっと視線を落とした。


 セシリアは、何としてでもトキの呪いを解こうとするのだろう。遺品に眠る魔女達もそれを受け入れている。女神ですらも、彼女の意志を汲んでいる。


 それを望まないのは、本人トキただ一人。いつまでも現実と向き合えない、自分だけ。



「──トキさん」



 優しく、鈴の音のような聞き慣れた声が鼓膜を揺らす。トキは顔を上げる事無く一つ頷き、不意にセシリアの手を取った。彼女は驚いたように目を丸め、言いかけた言葉を飲み込む。



「……、トキさん……?」


「……セシリア……」



 トキは俯いたまま、愛おしいその名を紡いだ。



 ──もし、ここで背中を押せば。彼女は迷わず、この世界から消えるのだろう。


 例え、何の根拠もなく“君を救う”と口にしても。彼女は困ったように笑うだけだろう。



 彼女にとって、救いとは何だ?



 アルタナの寿命が尽きるまで生きる事か。


 海辺の村セシルグレイスの修道院でマルクがしたように、生きたまま永遠の眠りにつく事だったのだろうか。



(……いいや、違う)



 トキにはもう分かっている。彼女の望む唯一の“救い”を。彼女にとっての最後の希望を。


 ──それがどんなに、残酷な現実だとしても。



「……セシリア……」


「……?」


「……アンタが……、俺の……」



 華奢なその手を強く握る。触れ合う手から伝わる彼女の温もりを、ずっと忘れないように。


 そしてトキは、ついにセシリアに告げた。



「俺の、呪いを……っ、解け……!!」



 彼女にとって、この呪いを解く二人の誓いを果たす事こそが──きっと、唯一無二の“救い”に違いないのだと分かってしまったから。


 セシリアはトキの決意の言葉に暫し黙り込んでいたが、やがてその手をやんわりと握り返す。震える彼の手の温もりを胸に刻み込むように、何度も何度も握り返して、ようやく彼女は「……はい」と優しく微笑んだ。



「──あなたに誓います、トキさん。私が必ず、あなたの事を救うって」



 これまで、何度も聞いたその言葉。

 荒んだ心にいつだって落ち着きをもたらしてくれていたそれは、一体いつから、こんなにも辛くて歯痒い言葉になったのだろうか。


 しかしそれでも、奥歯を食いしばりながらトキは頷き、こぼれ落ちそうになる弱音を飲み込む。


 受け入れろ、と。何度も自分にそう言い聞かせた。



(……今日、今から……俺達は──)



 ──この旅を、終わらせに行く。



 こぼれそうになる嗚咽を噛み殺し、トキはセシリアと共に立ち上がる。


 いざ、長く続いた旅の終焉へ。

 互いに繋ぎ合ったままの手の温もりを、強く胸に刻み込んで。




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