第101話 旅路の果てに
──私は大地の女神。名をヴィオラと申します。
そう言って微笑んだ彼女に、トキは言葉を失ったまま暫く立ち尽くしていた。しかしやがて我に返り、トキは掠れた声を絞り出す。
「……女神……? アンタが……?」
半信半疑で問いかければ、ヴィオラと名乗った彼女はこくりと頷いた。それでもやはりトキの表情は訝しげである。
彼が怪しむのも当然だろう。なぜなら、
黙り込んだまま睨み付けるトキの瞳を見つめ、女神を名乗る女は優しげな微笑みを浮かべる。
「あなたの事は、ずっと見ていましたよ。トキ・ヴァンフリート」
やがてそう続けたヴィオラに、トキは眉を顰めた。
「……は……? 俺を、見てたって……?」
「ええ、そうです。私はずっと、あなた方が
「……!」
「私はあなたを知っています、トキ。あなたに掛けられている呪いの事も、セシリアの背負う運命の事も」
続いたヴィオラの発言に、トキは大きく目を見開く。程なくして、彼は下唇を噛んで強く拳を握り込んだ。
「……なんだ、それ……。つまりアンタは、ずっと、俺達を見てたくせに……セシリアの事……救ってくれなかったって言うのかよ……」
「……」
「……アンタ、神なんだろ……
トキは声を震わせて怒鳴り、ふらふらと地面に膝をつく。瞳を閉じて微動だにしないセシリアの体を強く抱き締め、嗚咽をこぼしてトキは「ふざけんな……」と何度も繰り返した。
ヴィオラは暫し黙り込んでいたが、やがてトキへと一歩近付き、彼の頬に手を触れる。
「……っ!」
「……ごめんなさい、トキ。あなたの言う通りです。私は女神でありながら無力……どうする事も出来ない」
「……は……、?」
「トキ。あなたはずっと、“神なんて居ない”と──そう言っていたでしょう? ……その通りですよ。あなたは何も間違えていません。この世界に、神など居ない」
続いたヴィオラの発言に、トキは眉を顰める。
──この女は、一体何を言っているんだ?
そう訝しみ、彼は改めて女神を見つめた。
「……何言ってんだ……? アンタ、女神なんじゃねーのかよ……」
「ええ、そうですよ。……少なくともセシリアにとっては、私は“神”と呼べる存在でしょう」
「……!」
「しかし、あなたにとっては“神”ではない。違いますか? トキ・ヴァンフリート」
すべてを見透かすような澄んだ瞳に真っ直ぐと射抜かれ、トキはつい黙り込む。ヴィオラは優しげに微笑み、「“神”という存在は、酷く不安定なものなのですよ」と言葉を続けた。
「神なんてものは、ただの偶像に過ぎません。つまり信仰する者がいなければ、神など存在しないに等しい。たとえ世界の創始者であっても、信仰する者がいなければ、それが“神”と呼ばれる事はないのです」
「……」
「あなたが信じているものは、私ではないのでしょう? トキ。だからあなたにとって、神は私ではない。“神など居ない”──あなたの発したその言葉は、何も間違っていません」
ヴィオラは彼を肯定し、細い指先でトキの頬を撫でる。トキは一瞬身構えたが、なぜだか彼女を突き飛ばす気になれなかった。
「……けれどね、トキ。逆に言えば、神はあなたの中で創り出す事が出来るのです。あなたの信じるものが、あなたにとっての神となる。それが人であれ、物であれ──たとえ、この世界に存在しないものであっても」
「……っ」
──この世界に存在しないもの。
その一言で、真っ先に頭に浮かんだのはセシリアの笑顔だった。トキは奥歯を軋ませ、自身の腕の中で目を閉じている彼女の姿を見下ろす。やがてヴィオラは「トキ、」と再び呼びかけた。
「あなたは、あなたの信じるものを信じなさい。それが、あなたにとっての神となる。あなたの心の支えとなるのです」
「……っ、そんなもん、もう、遅ェよ……」
トキは掠れた声を絞り出し、セシリアを強く抱き締めながら「もう、消えちまったじゃねえか……」と力無く続ける。
セシリアの体を抱いて震える彼に、ヴィオラは再び口を開いた。
「……私は無力です。彼女に定められた運命を、私の力では変えてあげる事が出来ない。神だと名乗り、民衆に崇められていながら……私は一番身近に居た大切な存在でさえ、救う事が出来なかった」
ヴィオラは伏し目がちにこぼし、睫毛を震わせる。
閉じた瞼の裏に描いたのは、遥か昔に指輪を手渡そうとしてくれた愛おしい彼。そして──民に崇拝される己の
「……ごめんなさい、トキ・ヴァンフリート。私は、セシリアを救えません」
「……っ」
「──ですが……今はまだ、彼女の命を諦めてはなりませんよ」
「……、え……?」
続いたヴィオラの言葉に、トキははたりと瞳を瞬いた。涙の浮かぶ目尻からは、大粒のそれが音もなく流れ落ちて行く。「どういう、事だ……」と弱々しく問えば、ヴィオラは微笑み、トキの腕に抱かれているセシリアの顔を覗き込んだ。
「セシリアの命の火は、まだ消えていない。闇属性の魔力を多く摂取した事で、彼女の自我が
「……っ!? じゃあ……!」
「ええ。彼女は生きていますよ。──ねえ? セシリア」
ヴィオラは優しく呼び掛け、セシリアの額に触れると指先から淡い光を注ぎ込んだ。普段のセシリアが使う治癒魔法にも似た、あたたかな光。
その光が彼女の体内に注ぎ込まれた途端──ずっと癒えなかったセシリアの体の傷が、徐々に塞がり始める。
「……!」
みるみると傷が癒え、血の巡りを取り戻す体。そして遂に、閉じ切っていたセシリアの瞼はぴくりと僅かに動いた。
トキは目を見開き、「セシリア……!」と彼女の肩を揺さぶる。セシリアはそんな彼の呼び掛けに答えるように、閉じていた瞼をゆっくりと持ち上げた。
やがて見慣れた翡翠の瞳と視線が交わり──また、トキの視界は涙で滲んでいく。
「……ト、キ、さん……?」
小さく名を紡がれた瞬間、それは境界を越えて目元からぼろぼろと溢れ出した。トキは情けなく表情を歪め、腕の中の彼女を強く抱き締める。
「……っ、セシリア……っ!」
「きゃっ……!? え……っ!? と、トキさんっ……、あれ、私、なんで……?」
「う、あぁ……っ!」
震える手が、声が。セシリアを抱き締め、嗚咽を上げながら「ふざけんな……っ」「勝手に死んでんじゃねーよ、クソバカ女……!」と皮肉混じりに繰り返した。セシリアは何が起こったのか未だに理解が追いつかない様子だったが、肩を震わせて泣きじゃくるトキの抱擁に答えるように、弱々しいその背に腕を回す。
「……トキさん……ごめんね。心配かけちゃったね」
「……っ、く、……う、……っ」
「泣かないで、トキさん。私、ここに居るから」
「……っ」
優しく背中に回された手が、とん、とん、とトキを慰めるように触れて。彼はセシリアに密着したまま、彼女の呼吸を、彼女の心音を、彼女の生命の証の一つ一つを確かめながら、その場に存在している実感を強く噛み締めていた。
──生きている。
そう確信した瞬間、ようやくトキは安堵して、一層強く彼女の体を腕の中にしまい込む。「く、苦しっ、苦しいですトキさん!」と藻掻くセシリアだったが、先程までこちらの方が苦しくて死んでしまいそうだったのだから少しは我慢しろ、と胸の内だけで悪態をついた。
そんな二人を優しく見つめ、ヴィオラは頬を緩める。
「……ふふ、良かった。思ったよりも元気そうですね、セシリア」
「……え」
はた、とセシリアは見知らぬ女性の存在に目を見開いた。真っ白な長い髪に、青い瞳。息を呑むほどに美しい女性──だが、見覚えはない。
穏やかにこちらを見つめている彼女の視線に
彼はズズ、と鼻を啜り、涙を拭いながら掠れた声で答える。
「……ああ……なんか、女神らしい」
「……あ、へえ~! なるほど、女神さ……、ま……」
──女神様ッ!?
あまりにもさらりと告げられ、一瞬そのまま流しそうになってしまった重大事実にセシリアは「えええっ!?」と勢いよく上体を起こして驚愕した。彼女は顔を赤らめたり青ざめたりしながら「えっえっ、嘘、め、女神さまっ……!?」と混乱し、唇を
「め、め、女神さまっ……! あ、あ、あの! は、は、はじめましてっ……! わ、わたし、せ、セシリアと申しま……!」
「ふふっ……、そう
「……!」
「あなたの中に注がれた闇属性の魔力は、私の光魔法で相殺しました。まだ少し辛いかもしれませんが、じきに快方に向かうでしょう」
よく頑張りましたね、とヴィオラは目尻を緩めてセシリアから離れた。セシリアは暫くぽかんと呆気に取られていたが、ややあってようやく、自分が女神に助けられたのだと理解する。「あ、ありがとうございます!」と祈りの姿勢を取りながら、彼女はどうにも現実味のないこの状況に何度も瞳を瞬いていた。
美しい女神の穏やかな微笑みに暫し見とれていれば、涙を拭ったトキがそっと背後からセシリアの顔を覗き込む。
「……アンタ、もう平気なのか……? 」
「あ……、は、はい。ちょっとまだ困惑はしてますけど……体の方は、もう大丈夫です!」
「……そうか」
努めて明るく答えるセシリアに、トキは優しげな微笑みを浮かべながらも──やがて、その表情には僅かな影が差した。
「……トキさん?」
彼の表情の変化を察したのか、セシリアは不思議そうに呼びかける。聞き慣れたその声にトキは一層表情を歪め、彼女の肩口に額を預けた。
「……え!? あ、あの、トキさ……!」
「……迎えに来るの、遅くなって……悪い……」
「……!」
「辛い思いさせた……」
酷く気落ちした声が耳元で紡がれる。「ごめん……」と再び繰り返された謝罪が何に対するそれなのか、言われなくともすぐに察しがついた。
──セシリアの身に何が起こったのか。
セシリアはそっと瞳を伏せ、肩口に寄り掛かるトキの後頭部を優しく抱き寄せた。
「……謝るのは、私の方です……」
「……」
「ごめんなさい、トキさん……心配させて、あなたを深く傷付けてしまって……。でも、私……あなたが来てくれて嬉しかった……。きっと迎えに来てくれるって、信じてたから……」
柔いトキの髪を撫でる左手の薬指には、アルラウネの指輪が嵌められている。セシリアはそれを愛おしげに見下ろし、やがてトキの顔を
「ありがとう、トキさん。迎えに来てくれて。消えそうだった私の心を呼び戻してくれて」
「……セシリア……」
「やっぱり、トキさんは、私の──」
心底愛おしそうに目尻を緩め、セシリアは微笑む。しかし何かを言いかけた直後、彼女は何かに気がついてハッと目を見開いた。
その視線が捉えているのは、トキの首元に残された死の印。
「──あっ! そうです、呪い!!」
「……、は?」
「魔女に掛けられた呪いですよ、トキさん! ここには女神様がいるんですよ!? この呪いの解き方、女神様なら分かるんじゃないですか!?」
「……!」
セシリアの発言に、トキもまた大きく目を見張る。──確かに、一理あった。元々イデアはヴィオラと同じ、“女神”という存在だったのだ。もしかしたら彼女ならば、この呪いを解く方法を知っているかもしれない。
すっかり表情に覇気が戻ったセシリアは、早速ヴィオラの前で膝を付いて自身の両手を握った。まるで神に祈りを捧げているかのようなその姿勢に、トキは「まあ、本来聖職者だしな……」と半ば呆れつつ嘆息する。
「……ヴィオラ様! お願い致します、どうか彼をお救い下さい! トキさんには死の呪いが掛かっているんです! 私達は、彼の呪いを解くためにこれまでずっと旅を──」
「何も言わずとも分かっていますよ、セシリア」
「!」
「彼の呪いを解く方法を知りたいのですね」
セシリアの声を遮ったヴィオラは、やけに落ち着いた声色で彼女の言わんとした言葉を先に告げた。セシリアは一瞬声を詰まらせたが、すぐに「はい、そうです!」と身を乗り出す。
「教えてください、女神様! 私達には、もうあまり時間が残されていません……! 私がこの世界に存在するうちに、彼の呪いを解かなければならないんです! そう誓ったんです……! そのために、私達はここまで来た……!」
「……セシリア。そして、トキ・ヴァンフリート」
ヴィオラは一瞬目を伏せ、やはり落ち着いた声で二人の名を紡ぐ。トキとセシリアは同時に顔を上げ、彼女を見つめた。
しかし、こちらを見るヴィオラの表情には先程までの穏やかな微笑みが見当たらない。むしろその瞳には悲哀の色すら浮かんでいるように感じて、セシリアの胸はどくりと嫌な鼓動を刻む。
どうしてそんな顔を……、と彼女が息を呑んだ頃──女神は、重々しいその口をゆっくりと開いた。
「……ごめんなさい、二人共」
「……、え……」
「──彼の呪いは解けません」
鮮明に、ただ一言。
美しい女神の唇が、容赦なくそんな残酷な言葉を告げる。
トキとセシリアは目を見開き、何も言えずに彼女の顔を見つめた。ヴィオラは再び口を開く。
「……トキの身に掛けられた呪いは、セシリアの光魔法による緩和を続けた事によって濃度が大きく増しています。たとえ相反する属性同士であっても、魔力が度重なる接触を繰り返せば徐々に耐性が生まれ、必然的に魔力自体が濃さを増してしまう」
「……耐、性……?」
「トキ。あなたは一度、森の中で呪いの発作に蝕まれていたでしょう。あの時に感じませんでしたか? 例えば、呪いによる発作の苦痛が以前よりも増していたり、キャンディーだけでは緩和が不十分だったり」
「……!」
ヴィオラの指摘に、トキは思わずたじろいだ。彼女の言葉は正確に的を射ていたからである。
確かに以前、トキが真実の森の中でセシリアとはぐれた際、襲い掛かった呪いの発作による苦痛が激しさを増していた事を覚えている。セシリアから事前に持たされていた光魔法キャンディーで何とか一命を取り留め続けていたが、最終的にあのキャンディーの魔力だけでは呪いを抑えきれなくなってしまった。
あの時、既に──トキの身体の内部では、呪いの濃さが増していたというのだろうか。
「……心当たりがあるのですね、トキ・ヴァンフリート」
「……」
「そう。あなたの身体を蝕む呪いは、既に私の魔法を
「……そん、な……」
次々と明かされる真実に、セシリアは顔を青ざめて戦慄した。唇が震え、指輪の嵌められた手を握り込む。
トキは一瞬驚いた表情を見せていたが、すぐさま冷静さを取り戻したらしい。彼は静かに瞳を伏せ、程なくして口を開いた。
「……魔女を殺せば、呪いが解けるって可能性はねーのか」
「……残念ですが、それでもこの呪いを解く事は出来ません。本来、あなたに掛けられた呪いは短時間で人間を死に至らしめるためのもの。……しかし、あなたは長期間それを保有してしまった」
「……」
「もはや呪いはあなたの体内に根深く巣を張り、あなたの全身を飲み込もうとしています。たとえイディアラを倒したとしても、彼女の闇魔法はあなたの体内に残り続けるでしょう」
「そんな!! じゃあ、トキさんを救う方法はないんですかっ!?」
「……」
瞳に涙を浮かべたセシリアが声を張り上げて訴える。するとヴィオラは暫し黙り込み、「……いえ」と言葉を続けた。
「一つだけあります。呪いを解く方法が」
「……っ! ほ、本当に……!?」
「ええ。……ただし、これはあなたにしか出来ない事です、セシリア。そして、とても大きな決断をしなければならない」
ヴィオラは視線をセシリアに向け、やはり影の差した表情で言葉を紡ぐ。相変わらず顔を曇らせたままの彼女にトキは眉を顰めたが、努めて冷静に「……どんな方法だ?」と問いかけた。
ヴィオラは一瞬沈黙し、やがてその続きを語る。
「──“
「……!!」
「魔法をこの世界に生み出した、伝説の魔導書……。あれを使って──魔法そのものを、この世界から消し去ります」
「……っ、魔法を消し去る……!?」
「そうです。……それだけが、あなたの呪いを解く唯一の方法」
女神の告げた大胆すぎる手段に、トキは思わず息を呑んだ。つまり彼女は、魔法を完全に世界から消し去る事で、トキの体内に巣食う魔女の呪いを除去しようというのである。「そんな事、可能なのか……?」と震える声で問えば、ヴィオラはハッキリと「可能です」と明言した。
「魔法は本来、
「……っ」
──魔法は本来、
たった今ヴィオラが発したその言葉が、トキの頭を駆け巡る。その瞬間、トキの脳裏にはある一つの可能性が浮上した。
途端にどくんと胸が重く脈打ち、手のひらには冷たい汗が滲む。ゆるゆると降りていく彼の視線の先には、右手中指に嵌められた金の指輪。
「……なあ……」
「……」
「魔法を、もし、消したら……」
恐る恐ると、トキは掠れた声を紡ぎ出す。ヴィオラは彼の言わんとしている事を察したのか、すぐに「……ええ、そうですよ」と頷いた。
──魔法を、この世界から消し去る。
それは、つまり。
「……あなた達の持つ、〈
──全て、この世界から消滅します。
畏れていたその言葉が、トキの胸に容赦なく穴を
セシリアは目を見開いたまま硬直し、同じく指輪の嵌る左手を強く握る。女神は真っ直ぐとセシリアを見つめ、更に続けた。
「……そして、セシリア。最後はあなたです」
「……え……?」
「あなたの体は本来、黒魔術によってこの世に呼び戻されたドルチェのもの──それは、分かりますね?」
──やめろ、と。
トキは思わず口にしかけたが、からからに渇き切った喉からその声が発せられる事はなかった。
彼は、この先に続く女神の言葉が分かる。
否、分かってしまった。
セシリアの体は、禁じられた魔法によって蘇った死者の体。──つまり、魔法をこの世界から消し去ってしまえば、彼女は。
「……魔法が消えたら、あなたも──」
──その体と共に朽ちる事になるのですよ、セシリア。
歩んだ長い旅路の果て。
辿り着いた先で二人を待ち受けていたのは、言葉にならないほど、残酷な現実だった。
.
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