第100話 神への願い

 ぐったりと力無く寄り掛かるセシリアを抱え、トキは暗闇の中を全力で駆けて行く。ロビンと別れた後はひたすらに宛もなく走っていたため、もはや自身の現在地すらもよく分からなくなってしまっていた。

 方向感覚はある方だが、代わり映えしない通路が続く上にこうも辺りが暗くては、現在地が分からなくなるのも無理はない。トキは息を切らして暫く走り続けていたが、やがて速度は落ち、ふらふらと壁に寄りかかって座り込んだ。



「……っはあ……、くそ……っ、迷路かよ……」



 トキは眉間に深く皺を刻み、セシリアを抱き寄せて息を整える。随分と走って来たが、通路の終わりがまだ見えない。外へ続く扉どころか窓すらも見当たらず、通路の途中で脱出を試みる事も出来なかった。



(下水に続いてた所まで、戻るしかないか……?)



 そう考え至ったが、そもそもどのルートを通ればあの通路に戻れるのかすら分からない。チッ、とトキは舌打ちを放って壁に凭れかかった。


 面倒だな、と一人ごちて、彼はガシガシと後頭部を掻きむしる。それか、途中で残して来たロビンとどこかで再会さえ出来れば、彼が持っている転移石で三人まとめて脱出する事が出来るのだが。



「……」



 脳裏を過ぎる、気さくな赤髪。トキは瞳を伏せ、下唇を噛んだ。



(……無事だよな……、アイツ……)



 不安げに揺れる瞳。トキはかぶりを振り、おそれを誤魔化すようにセシリアを抱き寄せた。



「……大丈夫……大丈夫だ……。アイツ、馬鹿だけど……腕は確かだろ……。なあ、そうだよな、セシリア……」


「……」


「……返事しろよ、馬鹿……」



 金の髪を指に絡め、反応を示さないセシリアに語りかけながら額を合わせる。「起きろよ……」「俺の目を見ろよ……」と何度呼び掛けても、彼女は遠くを見つめたままだった。


 トキは苦々しく表情を歪め、掠れる声で縋るようにセシリアの名を紡ぐ。


 ──しかしその瞬間、トキの耳は僅かな話し声と複数の足音を拾い上げた。



「……!」



 何者かの気配を察知したトキはすぐさま顔を上げ、セシリアを抱き上げる。そのまま彼は近くに積み上げられていた木箱の後ろに身を隠し、気配を殺して息を潜めた。


 ──コツ、コツ、コツ。


 耳に届くのは、複数の足音。おそらく二人程度だろう。物陰に身を潜め、武器に手を掛けながらトキは警戒を強める。


 やがて、その場には男の声が響いた。



「──だからぁ、すみませんって何度も謝ってるじゃないですか? そう怒らないで下さいよ、美しい顔が台無しですよ」


「……!」



 溜息混じりにこぼされるその声に、トキは目を見張る。次いで、言いようのない憎しみが膨れ上がった。



(……アルマ……ッ!)



 耳に届いた男の声は、間違いなくアルマのそれである。トキは奥歯を軋ませ、今にも飛び出してしまいそうになる衝動に何とか耐えて怒りを抑え込んだ。


 今飛び出してしまえば、ようやく取り戻したセシリアを再び奪われてしまいかねない。トキは歯噛みし、腕の中のセシリアを強く抱き寄せる。



「──でも、逃がしちゃったんでしょぉ? プリミラの原石セシリアちゃん。しかも預けてたの方までどっかに落として来たって言うし、ちょっと遊び過ぎなんじゃない? アルマ」


「……すいませんねえ。こう見えて反省してるんですよ? 俺」


「嘘よそんなの。絶対嘘でしょ」


「ホントですって……まさか、あの小娘がアルラウネを持ってやがるとは思わなかったんすよ。テディも死んじまったみてーだし……俺がシャワー浴びてる隙にやられました」


「もー、しっかりしなさいよね! だいたい、元はと言えばアルマがアリアドニアであの子アルラウネを壊し損ねたのが悪いのよ。女の子抱くのもいいけど、ちゃんと仕事して貰わないと困るわ」


「いや〜、なかなか良い声で鳴くもんで、つい燃え上がっちまったんですよねえ。泣き叫んじまって、可愛いのなんのって。あのままぶっ壊したかったなァ、セシリアちゃん」



 くつくつと、下卑た笑みをこぼすアルマの発言がトキの怒りを更に煽る。トキは黙ったままぎりぎりと奥歯を噛み締め、無意識に拳を強く握り込んだ。


 そんな彼の殺意にも気付かず、二人の会話は続く。



「……はあ、まあいいわ。さっさとその“セシリアちゃん”とやらを見つけて、殺してもいいから連れ戻して。ついでにアルラウネもぶっ壊しなさい」


「へいへい、もちろん喜んで承りますとも。──親愛なる魔女マスター様」



 バサリと、地面に届きそうなほど長い黒髪が揺れ、ようやく視界に入ったその女の横顔にトキは息を呑んだ。

 今までアルマと話していた女は──数ヶ月前、ディラシナの街で自分に死の呪いをかけた、張本人。



(……災厄の魔女……!)



 トキはその場に身を潜めたまま、血走った瞳で彼女を睨む。しかし二人はトキの存在に気付く事無く、会話を続けながらその場を離れて行った。


 二人分の足音が遠ざかり、再び訪れる静寂。痛いほどの静けさが耳の奥に染み渡り、トキは怒りに震える拳を握り込んでセシリアの肩に額を押し付ける。



「……くそ……っ」



 親の仇や憎い魔女が目の前に居るというのに、飛び出して立ち向かう事の出来ない己の弱さが歯痒い。今飛び出しても、二対一では勝機などないのは明らかだった。頭に血が上ると後先考えずに突っ込んで行く癖をやめろ、とドグマにも再三叱られている。



(……今は、セシリアを守るのが最優先だ)



 湧き上がる憎悪を抑え、トキはセシリアを抱え上げて積荷の陰から出た。だが、先程進もうとしていた方向にはアルマと魔女がいる。この先には暫く進む事が出来ない。


 面倒だな、とトキが舌打ちを放った頃、不意に彼の視界が捉えたのは錆び付いた大きな扉だった。その表面には、何やらエンブレムのようなものが彫られている。しかし、辺りは暗い上に所々が欠けていて、何が描かれているのかまでは視認出来ない。



(……? 何の部屋だ……?)



 トキは訝り、じっと扉に彫られたエンブレムを見つめた。だが、やはりその明確な形までは分からない。


 暫く彼はその場に立ち尽くしていたが、程なくして「このまま突っ立っていても埒が明かない」と結論を出し、ついに足を一歩踏み出す。



(……どのみち、他に行けそうな所もねえし……とりあえず、この先に行ってみるか……。どっか別の通路に繋がってりゃ助かるんだが……)



 トキは一度セシリアを床に降ろし、重々しく閉ざされていたその扉をゆっくりと開いた。開いた扉を足で支えながら再びセシリアを抱え、狭い隙間を縫って中へと慎重に入り込む。


 ──バタン。


 やがて、小さく音を立てて閉ざされた扉。

 その先はやはり暗く、随分と埃っぽい空間だったが、周囲にはいくつもの長椅子が並んでおり、中央に長く伸びた通路の先には祭壇が確認出来た。その祭壇の奥には──首から先のない──大きな女神像が、静かにたたずんでいる。



「ここは……礼拝堂……か……?」



 トキはぽつりと呟き、周囲を見渡した。先程の扉以外には、外へ続いていそうな扉は見当たらない。彼はセシリアを横抱きにした状態で、中央の通路をゆっくりと歩んで行く。


 ──コツ、コツ、コツ。


 響く足音だけが、周囲に響き渡っていた。トキは短い階段を上がり、祭壇の前に立つと、思わずハッ、と渇いた嘲笑を漏らす。そこに印されていたが、やけに陳腐なものに感じた。



「……神なんか、居ねえよ……」



 祭壇に大きく刻まれた『ヴィオラ教』の標章を見下ろし、トキは呟く。どうやらここは、ヴィオラ教徒達が女神に祈りを捧げる礼拝堂チャペルであるらしかった。


 静かに佇む女神像の前には、白い布で覆われた何かが寂しく置かれている。トキは祭壇の上にセシリアをゆっくりと降ろし、こちらを見下ろしている首のない女神像を睨んだ。



「……本当に、神が居るなら……俺達を救えよ……。いつまでも、黙って見てんじゃねえよ……」



 トキは力無くこぼし、セシリアの右手の薬指に嵌められていた指輪アルラウネを抜き取る。



「……こいつアルラウネには、また、叱られちまうかもしれねーけど……」



 呟きながら、おもむろに。トキはそっと、セシリアのを取った。

 白く華奢な指先に自身の額を押し付け、彼は縋るように声を絞り出す。



「……俺は……俺には……っ、セシリアを救い出す方法が、分からない……」



 首のない女神像に語りかけて、我ながら馬鹿馬鹿しいと思った。

 だが、止められなかった。



「でも、俺は救いたいんだよ……っ! 本当にそこに居るってんなら教えろよ女神!! もう俺達にはアンタしか居ねえんだ!!」



 悲痛なトキの叫びが、静かだった礼拝堂チャペルに虚しく響く。無論、神からの返事などあるはずもない。暗い空間に己の声が反響して、消えて行くだけ。


 トキはいびつに口角を上げ、また渇いた嘲笑をこぼした。馬鹿馬鹿しいな、と自身に呆れる。いくら待っても、答えなど返ってくるはずもないのに。


 トキは女神像から目を逸らし、握っていたセシリアの左手の薬指にアルラウネの指輪を通した。──叶わぬ恋も叶うという、その結婚指輪を。



「……セシリア……」


「……」


「セシリア、起きろよ……」


「……」


「……なあ……頼むから……っ、目ェ覚ましてくれよ……っ」



 何の反応も示さない彼女を、トキは強く抱き締める。彼はそのままセシリアを祭壇から降ろし、抱き竦めたまま床に座り込んだ。


 彼女を救いたい。

 だが、救い出す方法が分からない。

 もう寿命が近い。


 別れが、近い。



「……嫌だ……」



 トキは呟き、薄く開いていたセシリアの唇に口付ける。表面を何度もんで、ついばんで。彼女の熱が離れてしまわぬようにと、切に願って。



「嫌だ、セシリア……」



 どこにも行くなよ、傍に居ろよ。


 そんな言葉を何度繰り返せば、神にこの願いが届くのだろうか。



「──死ぬな、頼むから……っ」



 情けない掠れ声で懇願した──刹那。

 それまでぴくりとも動かなかったセシリアの指が、僅かに反応を示したのをトキは見逃さなかった。



「……っ、!?」



 やんわりと、弱々しく握り返す、彼女の手。トキは目を見開き、「セシリア……?」と彼女に呼び掛ける。


 すると、今まで一切交わらなかった視線が、ゆっくりと交わり──セシリアの瞳に、涙の粒が浮かんだ。



「……、ごめ、……なさ、……」


「……セシリア……」


「……ごめん、なさい……トキさん……」



 セシリアは震える声でトキの名を紡ぎ、苦しげに表情を歪める。



「……あなたの、願いには、私……きっと、答え、られない……」


「……っ」


「……もうすぐ……私……消えてしまいます……、これが……最期、かも……」



 途切れ途切れに発せられる言葉が、トキの胸を貫いて抉った。嫌だ、と声を返そうにも、それは音にすらならない。

 代わりにトキの視界は急速に滲み、溢れ出た涙が頬を伝って落ちて行った。



「……っ、ふ……、っう……」


「……ねえ……トキさん……。私ね……貴方が、大好きでした……」


「……っ嫌、だ……聞きたく、ない……っ」


「……貴方と、ずっと……一緒に、居たかった……」


「──やめろよ!! 別れの言葉なんざ聞きたくねえって言ってんだろ!!」



 トキは怒鳴り、先程指輪を通したセシリアの左手を握り締める。セシリアは瞳を潤ませたまま嗚咽を飲み込み、泣き崩れるトキの手を力無く握り返す。



「……っう、……く……っ」


「……トキさん……」


「嫌だ……っ、嫌だ、セシリア……」


「……トキさん、ごめんね……」



 今にも消えそうな呼吸を、震える声を。これが最期だなんて信じたくないと、トキの耳がどれほど拒んでも。嫌でも、それは耳に届く。



「……ごめん、なさい……ごめんなさい、トキさん……」


「うっ……、う、ぁ……っ」


「私が消えても、どうか……女神様を、責めないで……」


「……っ、何が、神だよ……! 神、なんか……」



 ──そんなもん、居るもんか。


 そう紡ぎかけた瞬間、彼はセシリアに優しく唇を塞がれた。触れるだけの、柔らかな熱。トキは一瞬息を呑み──すぐに、再び視界を涙で滲ませる。


 君を救いたいと、何度も願った。

 だけどいつも苦しめるばかりで、何も、守れなくて。


 どうにもならない現実と己の無力さに、ぼろぼろと溢れた雫が頬を伝って滑り落ちて行く。触れていた唇が離れて、情けない泣きっ面を彼女に晒していると分かっていても、涙が、止まらない。



「……トキさん、あのね、」



 トキの胸に寄りかかったセシリアの体からは、徐々に力が抜け始めた。ああ、やめろ。まだ、行かないでくれ。



「……トキさん、は……」



 呼吸の音が。

 彼女の声が。

 遠くなって、離れて行く。



「……わたし、の……」



 消え去りそうな声が、何かを言いかけて──セシリアの体は、遂にくたりと力を無くして動かなくなった。トキは声を震わせ、「セシリア……?」と呼び掛ける。しかし彼女の瞳は閉ざされ、やはり、ぴくりとも動かない。



「……おい、セシリア……」


「……」


「……嘘……嘘だ……、やめろ……セシリア……っ、なあ……!」


「……」


「ふざけんな、起きろ!! 頼むよ……っ、頼むから……っ」



 額を合わせ、トキは泣き縋る。鼻先が触れ合い、絶え間なく嗚咽がこぼれた。閉じられた彼女の瞳には、涙の粒が光っている。


 ──まだ、行かないでくれ。


 もう握り返してくれる事の無い彼女の左手を握り、肩を震わせながらセシリアを抱き締めた。


 まだ、何も果たせていない。

 まだ、何も抗えていない。


 トキはセシリアの頬に自身の頬を寄せ、彼女の涙に触れた。閉じ切った目元に光っていた涙の粒は、トキの涙と混ざり合い、頬を滑り落ちる。



「嫌だ……っ、嫌だ……!」


「……」


「セシリアぁ……ッ!!」



 悲痛に彼が叫んだ瞬間──混ざり合った二人の涙が、地面にぽたりと落とされた。


 ──刹那。

 トキの首に下げられていた“女神の涙”が、突如まばゆい閃光を放つ。



「──っ!?」



 カッ、と青い光がほとばしり、トキは大きく目を見開いた。よく見れば、先程地面へと落ちた涙の跡も青くまばゆい輝きを放っている。



「……っ!? な、何が……っ」



 一体、何が起こった……!?


 トキはセシリアを抱き締めたまま困惑し、その場で硬直した。しかし程なくして、更に強い光が彼らの背後でひらめき、トキは弾かれたように振り返る。


 すると女神像の前に置かれていた“白い布に覆われた何か”が、青い輝きを纏っていた。



「……!?」



 暗闇に包まれていた礼拝堂を照らす、青い光。トキはふらつく脚で立ち上がり、何かを覆っているその白い布に手を伸ばす。ややあってごくりと生唾を嚥下すると、彼は一気にそれを取り去った。


 直後、トキの視界に入ったのは──大きく、青い、宝石の結晶。



「……っ、これは……!」



 トキが驚愕に目を見開いたのも束の間、青い結晶は一際強く輝き、あまりの眩しさにトキは「うっ……!」と硬く両目を閉じる。その瞬間、目の前で温かな風を感じた。



「──ようやく会えましたね、トキ・ヴァンフリート」



 続いて彼の耳に届いたのは、聞き覚えのない美しい声。己の名を紡ぐその声に導かれるように、トキは恐る恐ると瞼を持ち上げた。


 まばゆい光の中、彼がその瞳に映したのは、慈愛に満ちた微笑みを浮かべる美しい女性。先程までその場にあったはずの宝石の結晶は、どこにも見当たらない。



「……っ? あ、アンタ……誰だ……?」



 トキは動揺しながらも、何とか声を絞り出した。美しい女性は優しく目尻を緩め、答える。



「私は、あなた方が“神”と呼ぶ者」


「……!」


「許されぬ恋をし、最愛の人を殺され、涙の結晶の中で眠りについた、愚かな者──」



 白く長い髪が揺らめき、彼女は胸の前で両手を握った。トキは目を見開き、言葉をなくして彼女を見つめる。



「──私は、大地の女神。名を、ヴィオラと申します」



 目覚めた女神は微笑み、透き通るようなその瞳の中に、愕然と立ち尽くすトキの姿を映していた。




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