第94話 彼にとっての光

「……“女神の涙”が……セシリアの中に……?」



 トキは呟き、愕然として座り込んでいるセシリアを見つめる。ロビンはワケが分からないという表情で眉を顰めていたが、壁に凭れるマドックは何かを察しているようだった。


 アルマはくつくつと喉を鳴らし、獲物を見るような眼で彼女を映す。



「……そうだよなァ? セシリアちゃん。アンタの中にあるんだろ、“最初の涙プリミラ”の原石が。どういう経緯でそうなったんだか知らねえが、あの欠片はアンタのに反応して輝いた」


「……そ、そん、な……私……」



 そんなの、知らない。


 そう口走ろうとした瞬間──彼女の脳裏に過ぎったのは、青く輝く宝石。セシリアは大きく目を見開き、言葉を飲んだ。


 覚えのない光景が断片的にフラッシュバックする。強く頭が痛み出し、「うう……っ」と呻いてよろける彼女に心配そうなアデルが寄り添った。


 閉じた瞼の裏を見つめながら思い返す、知らないはずの、誰かの記憶。



『──私、やっと、死ねるのね』



 骨と皮だけの痩せ細った自分の腕が見える。手首には“逆さ十字”の忌々しい刻印。そしてその手が握っているのは、まるで氷柱つららのように犀利さいりに先端が尖った、青く輝く大きな宝石だった。


 記憶の中の“自分”は、鋭い宝石の尖端を迷わず己に向けて微笑む。



『もし、また、生まれ変われるなら──』



 まだ幼さの残る、掠れた声。

 その声が脳裏に響いた直後──セシリアの記憶は、ぷつんと途切れた。彼女は閉じていた目を開け、怯えるように自身の手を見下ろす。



「……わた、し……」



 レザーグローブに包まれたその手が震え、徐々に血の気が引いて行く。今のは、間違いなくセシリアの──否、ドルチェの記憶だ。


 、自分の。



「私……あの日……っ」



 震える手を見下ろし、じわじわと炙り出されるように蘇る記憶に戦慄する。


 そうだ、あの日。

 私は、あの青い宝石を、自分の胸に突き付けて──



「……自分で、死を……っ」



 ──刹那。


 セシリアの足元が一瞬で黒く染まり、大きく盛り上がる。マドックは壁に凭れたまま目を見開き、トキに向かって叫んだ。



「トキ! 下だ!!」


「っ……!」


「……もう遅いぜ?」



 くく、と不気味に笑むアルマ。直後、盛り上がった床を突き破って巨大な黒蛇が出現した。大蛇は牙の覗く口をがばりと大きく開き、硬直していたセシリアの体を呑み込む。



「セシリアッ!!」



 トキとロビンは同時に叫んで地を蹴った。しかしセシリアを丸呑みにした蛇は、そのまま床に潜ると音もなく姿を消してしまう。



「……っ、セシリ──」


「──ドルチェ!!」



 苦く発したトキの声を遮り、マドックが叫んだ。珍しく焦ったような表情で大声を発した彼に、トキは目を見張る。


 そんな彼らをアルマが嘲笑った頃、彼の体は黒い霧のような粒子に包まれ始めた。



「くくっ……、じゃあな無様な人間共。大事なは頂いて行くぜ」


「……っ、アルマ、テメェ!!」


「おーおー、そこで吠えてろ死に損ないのクソガキ。お前の大事なお姫様は、俺がたっぷり愛でて可愛がってやるよ」



 そう告げて消えて行く彼にトキは瞳孔を見開き、まずい、と即座に駆け出す。黒い霧に包まれるアルマを捕らえようと手を伸ばした彼だったが──楽しげな笑い声と共にアルマの姿は忽然と消え去り、トキの手は空を掴んだ。


 やがて、室内に戻ってきたのは静寂。

 トキは悔しげに奥歯を軋ませ、近くの椅子をガンッ! と豪快に蹴り飛ばす。表情を歪め、「くそ!!」と腹の底から叫んだ彼は、ぐしゃりと前髪を握り込んでその場に座り込んだ。すぐさまロビンが駆け寄り、口を開く。



「お、おい、トキ! どうする、セシリアが……!」


「るっせえ!! 今考えてんだよ!!」



 八つ当たりでもするかのように怒鳴り、彼は眼を血走らせた。すると不意に、床の上にぽつんと置き去りにされた青い宝石がトキの目に止まる。



「……!」



 トキは即座に立ち上がり、宝石──女神の涙を拾い上げた。セシリアと出会ったあの日に魔女から奪われたそれを、トキは強く握り締める。彼の脳裏を過ぎったのは、雨の街でセシリアに誓った己の言葉だった。


 ──俺は、必ずアンタから“女神の涙”を奪う。……だから、アンタは必ず俺の呪いを解け。



「……っ、女神の涙を奪い返したって……アイツが奪われてちゃ、意味ねえだろ……!」



 トキは悲痛に呟き、ようやく手に入れた女神の涙を握る。アルマの言うように、本当にセシリアの中に“最初の涙プリミラ”が隠されているのだとしたら──おそらく、彼女の身は無事では済まない。



「……取り返す……」



 トキはぼそりと低い声を発した。



「……俺が、“女神の涙ラクリマ”を……セシリアを取り返す……!!」


「……トキ……!」


「行くぞゴリラ! アルマの居場所は、災厄の魔女が棲む北の果てだ! そこを探し出して──」


「──魔女が居るのはカルラディアだ」



 ばっさりと、トキの言葉をマドックが遮る。トキは目を見開き、彼を見据えた。



「……は?」


「北の果て、高く聳える山々を越えた、静寂の森の奥。亡国カルラディアはそこにある」



 そう言い、マドックは懐から取り出した何かをトキへと投げ渡した。トキはそれを掴み取り、確認する。ひし形に形成された黒い石──それに逸早く反応したのはロビンだった。



「あ! 転移石てんいせき!? しかもめっちゃデケェ! これ、めちゃくちゃ高いヤツだぜ!?」


「……その石の転移先をカルラディアにしておいた。それを砕けば転移できる。使え」


「……」



 トキは訝しげに眉を顰め、マドックへと視線を戻す。



「……転移石ってのは、にしか転移出来ないはずだろ。なのにカルラディアを行先に指定出来るって事は……、アンタ、カルラディアに行った事あるのか?」


「……」


「さっきもそうだ。アンタ、セシリアの事を“ドルチェ”って呼んだだろ。何でアイツの本当の名前を知ってる?」



 トキは鋭く目を吊り上げ、未だに壁に凭れているマドックの元へと歩み寄った。彼は何も言わず、トキから目を逸らす。



「……そういやアンタ、あいつが“アルタナ”だって事も、すぐ見抜いたよな」


「……」


「なあ、マドック。答えろよ。……アンタ、本当は最初から知ってたんじゃないのか?」



 ──セシリアの事。


 鋭い目でトキが問えば、マドックはやはり黙り込む。

 やがて、彼は重々しいその口を開いた。



「……少し、昔話をしようか」


「……、は?」


「昔々、シズニアには──」


「テメェ! 話題逸らすなよ!」


「いいから聞け、馬鹿弟子」



 怒鳴るトキをぴしゃりと制し、マドックはじろりと彼を睨む。鋭い眼光に射抜かれたトキは息を呑み、思わず口を噤んだ。



「……を知るには、これが早い」



 そう言い、マドックは続ける。



「遥か昔。この世界“シズニア”には、二人の女神がいた──」



 ──昔々。シズニアには、二人の女神がいました。


 一人は、大地の女神・ヴィオラ。もう一人は、空の女神・イディアラ。二人の女神は共に助け合い、この世界、シズニアを守っていました。


 しかし、民は美しいヴィオラだけを崇拝し、いつしかイディアラは存在を抹消されてしまいます。怒った彼女は大きな災いを呼び寄せ、人々を苦しめはじめました。

 度重なる大地震、噴火、大嵐。それらによって、シズニアの大地はとうとう二つに裂けました。一つは南のガルシア大陸に。もう一つは、北のニルヴァン大陸に。


 危機を感じた女神・ヴィオラは、シズニアの大地を守るため、一人の人間の青年に自らの魔力を分け与えました。後にシズニアの王となる、彼──カルラは、ヴィオラから譲り受けた魔力を使って〈万物の魔導書オムニア・グリム〉を創り出し、この世界に十二人の魔女を生み出したのです。


 カルラとヴィオラは“災厄”となったイディアラを封じるため、十二人の魔女のうちの三人を指輪に変えました。三番目の魔女・ドグマ、六番目の魔女・アウロラ、十二番目の魔女・アルラウネ。ヴィオラはイディアラを小瓶の中に封じ込め、指輪となった〈魔女の遺品グラン・マグリア〉を小瓶に嵌めて、暗く冷たい闇の中へと封印しました。


 その際、イディアラの大きすぎる憎しみに〈万物の魔導書オムニア・グリム〉が反応し、小さな黒蛇を生み出してしまっていた事には──誰も気が付きませんでした。


 それから数百年後。

 カルラディアという王国の心優しき一人の王子が、女神・ヴィオラに恋をした事で悲劇は起こります。


 蛇の姿となったイディアラは王子をそそのかし、彼に「渡せば必ず成就する結婚指輪」を手に入れ、ヴィオラに渡すよう吹き込んだのです。素直な王子はそれを信じ込み、イディアラが封印されている小瓶に嵌められた“十二番目の魔女・アルラウネ”の指輪を持ち出してしまいました。


 指輪が持ち出された事で、ついに長年の封印が解かれ、イディアラは“災厄の魔女・イデア”として、この世に蘇ります。そして彼女はカルラディアを滅ぼし、王子の首を跳ね、哀しみによって宝石となったヴィオラを、どこかへと持ち去ってしまったのです──。



 長い話を終え、マドックは小さく息を吐いた。訝しげに見下ろすトキに視線を向け、彼は更に続ける。



「……“災厄の魔女”とは、馬鹿な王子がアルラウネを持ち出した事で長い封印から蘇った、空の女神・イディアラだ。馬鹿な王子の色恋のせいで、世界はまた災厄に包まれた」


「……」


「そして、そんな馬鹿な王子のが──俺だ」



 淡々と告げられた事実に、トキは大きく目を見開く。「は……?」と声を発すれば、マドックはどこか遠くを見つめた。



「……俺は、イデアの封印を解いたカルラディアの王子の末裔。つまり、十二人の魔女を創り出した古代の王……カルラの末裔だ。ヴィオラ教徒による王族の虐殺から生き残り、賊なんぞに成り下がった、唯一のな」


「……は……? お、おい……待て……、アンタが、カルラの……王族の末裔? じゃあアンタ、まさか……」



 セシリアの──とトキが続ける前に、マドックは「ああ、そうだよ」と表情一つ変えず肯定した。やがて彼は視線を落とし、目を細める。



「……セシリア……、いや、ドルチェは……」


「……」


「──俺の、実の娘だ」



 告げられた真実に、トキは目を見開いたまま硬直した。マドックは自身の左手の薬指に嵌められた指輪を見つめながら続ける。



「二十年ぐらい前か……。俺はアイツの母親と結婚して、娘を……ドルチェを授かった。わりと幸せに、細々と暮らしてたんだが……ドルチェが五歳にもならない頃、ヴィオラ教の連中が王族の末裔である俺の居場所を突き止めて殺しに来てな」


「……」


「妻は、俺を庇って目の前で殺された。俺はドルチェだけでも守ろうと、幼いアイツを抱いて逃げて……。冷たい水路の隅に隠れてたんだ。そしたら、偶然……そこに奴隷商の男が通りかかった」



 マドックは薬指の指輪を撫で、瞳を伏せる。



「俺と共に居れば、同じ血を引くドルチェも目を付けられて確実に殺される。少しでも生き残る可能性があるのならと、俺は奴隷商の男に幼いドルチェを託した」


「……っ」


「俺はあの時、本当は死ぬはずだったんだ。だが、俺は偶然にも生き延びちまって……ドルチェとは、そのまま生き別れた」



 ──その後は、素性を隠し、賊としてディラシナに身を潜めてたんだよ。


 そう説明し、マドックは目を細めてトキを見つめる。



「……ディラシナに居た頃、俺はもう、ドルチェの事をほとんど諦めてた。どこに売られて行ったのかも分からねえのに、再会するなんて無謀だと思ってな」


「……」


「……だが、ある日俺はディラシナの酒場で聞いちまったんだよ。“北の大陸の大富豪が、カルラの血を引くアルタナの奴隷を飼ってる”ってな。それを聞いたのが、ちょうどお前の前から姿を消す晩の事だ」


「……!」



 トキは息を呑み、七年前にマドックが居なくなった日の事を思い出す。『一人前になったらお前にやる』と告げられていた短剣と、ストール、そしてドグマを置いて、彼が消えた日の事を。



「……カルラの血を引く奴隷なんて、ドルチェ以外に有り得ない。俺はお前を置いて、ドルチェを探しに行ったんだ」


「……」


「だが……俺が数年かけて、ようやくその大富豪の屋敷を見つけ出した時には、既に手遅れでな。ドルチェの形跡どころか……そこにはもう、何も無かった」


「……」


「だから、あの丘の上でお前と再会して……“セシリア”が駆け寄って来た時は、そりゃあ驚いたさ。一目見て、すぐにドルチェだって分かった。……俺の死んだ妻と、瓜二つだったからな」



 そう続けたマドックは指輪を一瞥し、僅かに口角を上げた。切なげな笑みを描く彼に、トキは唇を噛み締める。



「……言ったろ、クソガキ。お前は女の趣味だけは俺に似たって。お前みたいな悪ガキに娘をやるのは少し気に入らねーが、どこぞの馬の骨とも知らん男にやるぐらいなら、知ってる馬の骨にやった方がマシだ」


「……」


「俺の娘を頼むぞ、馬鹿弟子」


「……んだよ、それ……」



 トキは小さく呟き、マドックを睨む。彼は未だに壁に凭れたまま、立ち上がらない。



「俺に、全部丸投げにしてんじゃねえよ……このクソ野郎……! アンタが何年もかけて、探し続けた娘なんだろうが……!」


「……」


「あいつはアンタに……自分の親に会いたがってたんだぞ! 気付いてたんなら名乗り出ろよ! 今からでも追い掛けて、あいつを取り戻し──」


「俺は行けねえ」



 マドックは声を被せ、はっきりと明言する。トキは言葉を呑み、「は……?」と顔を顰めた。



「……アンタ、何言ってんだ……?」


「俺はカルラディアには行けない。お前らだけで行け」


「はあ!? マドック、正気か!? ずっとアイツの事探してたんじゃねえのかよ! 今度こそ本当に殺されるかもしれないってのに、アンタ何を言っ……」



 トキはマドックの胸ぐらに掴みかかり、声を荒らげる。しかしその際、マドックの体の下に降り積もっている物が視界に入り、彼は続くはずだった言葉を飲み込む。


 壁に凭れるマドックの傍には──が、積もっていた。



「……、おい、マドック……」


「……」


「アンタ、ちょっと服脱げ」


「……あ? 悪いが、俺にそういう趣味は無──」


「るっせえ!! いいから脱げ!!」



 トキは怒鳴りつけ、マドックのインナーの裾を掴むと強引に捲り上げる。そうして顕になった肌に、トキは苦々しく表情を歪めた。背後で一連のやり取りを眺めていたロビンも目を見張り、彼の腹部を凝視する。



「……ま、マドックさん……! アンタ、肌が……!」


「……」


「……灰に……!」



 ロビンは声を震わせた。

 彼の言うように、マドックの腹部から胸にかけ、その肌の色は鈍色にびいろに変色している。先程アルマに殴打された際の衝撃のせいか、彼の体は既に所々が崩れ落ちていた。


 この町で蔓延する奇病。先程アルマによってその身を砕かれたアレックスの姿を思い出し、トキは奥歯を軋ませてマドックのインナーを強く握り込む。



「……アンタ……いつから、此処アドフレアに居たんだ……」


「……」


「一週間やそこらで、こんなに奇病が進行するわけねえ……。いつから居たんだよ……この町に……!」



 トキの言葉にマドックは暫し目を背けて黙っていたが、やがて「さあな……」と溜息混じりにこぼした。眉を顰めるトキから目を逸らしたまま、彼は続ける。



「もう、何年になるんだか覚えてねえ。三年ぐらいは経ってんじゃねえか」


「……っ、三年……? 馬鹿なんじゃねえのか!? こんな町に三年も居たんじゃ、体が……!」



 そこまで声を発して、トキはふと丘の上で彼に出会った時の事を思い出した。


 怒りに任せてマドックに殴り掛かった際、『三発程度なら存分に殴らせてやろうかと思ってたんだが……やっぱ二発目以降はナシだ。思ったより痛え』となされた事を。


 あの時、既に彼の体は灰に侵されていたのだ。トキが殴り掛かった事で灰と化した体が崩れぬよう、二発目以降の殴打をなしたのではないか。


 そう悟ったトキは唇を噛み締め、拳を握り込んで俯く。



「……なんで……三年も、居たんだよ……。自殺行為じゃねえか……」



 掠れた声でトキが問う。マドックは目を細め、俯いたトキの髪をくしゃりと撫ぜた。



「……言ったろ。お前の親に謝りたかったんだよ」


「……!」


「──大切な息子さんを拾っちまったのが、俺みたいな無法者ですみません、ってな。死にかけてたお前を生かしたあの日から、ずっと謝りたかった」



 マドックは視線をトキへと移し、無造作に跳ねた彼の黒い癖毛を指に絡める。



「妻を失って、ドルチェも手放して……俺にはもう、何も残ってなかった。このまま死んだ方がマシだと思って、あの日……本当は死のうとしたんだ。そしたら、死にかけてるお前が転がってた」


「……」


「……『このまま俺に殺されるか、この街で死んだように生きるか選べ』……そう言っただろ、俺。……あれな、本当は、俺自身に問い掛けてたんだ。お前が死にたいって言ったら、俺は死を選ぶつもりだった」


「……」


「……なのに、お前と来たら……」



 マドックは懐かしむように目尻を緩め、フッ、と小さく笑う。



「迷わず『死んででも生きる』って言いやがるし、泣き虫のくせに強がって、俺に物怖じしねえし。時が来たらどこかの裕福な家にでも譲り渡す気でいたってのに、だんだん手癖は悪くなるし、いつも喧嘩に負けてボロボロで可愛げねえし、口調まで俺に似てくるしで……貰い手がいなくなっちまった」


「……」


「お前の親御さんには、申し訳なくて仕方ねえよ。俺なんかと一緒に居たせいで、こんなにロクでもねえクソガキに育っちまった。……そんなお前が、だんだん本当の息子みたいに思えて来るのが……俺は怖かったんだ」



 ぽた、と灰になったマドックの腹部に雫が落ちる。じわりと水滴が染み込んで、彼はトキの頭を乱雑に撫でた。



「……死んだ方がマシだと思ってた俺の人生を、意味のある物に変えたのはお前だ。お前が居たから、俺はここまで生きた。娘にも、最後に会えたしな」


「……っ……ざけんな……」


「だから、もう十分だ」


「ふざけんなよ、このクソ野郎!!」



 震える吐息が耳に届き、俯いたまま怒鳴ったトキにマドックの視線が向けられる。トキは声を震わせ、「ふざけんな……」と弱々しく繰り返した。



「……っ、アンタは……っ、アンタはいつもそうだ!! 俺に何も言わずに、ふらっと居なくなって……っ、いつも、俺を一人で、置いて行く……」


「……」


「俺は……っ、俺はずっと、アンタを待ってた! あのクソみたいな街で、一人で……っずっと待ってたんだ!! 俺が……、俺がになったら、アンタが戻って来るって……思って……!」



 ぎゅう、とトキはマドックのインナーを握り締める。灰となって崩れて行く彼の体に奥歯を噛み締め、目尻から溢れた雫を止める事も出来ない。



「……また、置いて行くのかよ……」


「……」


「……置いて行くなよ……クソ野郎ぉ……」


「──トキ」



 肩を震わせて蹲ったトキの髪を撫でながら、マドックが優しく呼び掛ける。「俺はもうすぐ死ぬ」と続いた言葉に、トキの視界は更に滲んだ。



「ドルチェの事は頼んだぞ」


「……っ、う、ぐ……っ」


「ドグマとアウロラも、お前に託す」


「……う、あぁ……っ」


「……お前は、もう一人前だ」



 嗚咽を繰り返し、縋るようにマドックの衣服を握り締めたトキに、マドックは微笑みを浮かべながら語り掛ける。彼は紫色の宝石が埋め込まれた短剣をトキへと手渡すと、その手に強く握らせた。



「約束しただろ、七年前」


「……っ」


「お前が一人前になったら、この短剣をやるって」



 トキは短剣の柄を握り締める。埋め込まれた紫の宝石は、以前よりも一層輝きを帯びて見えた。



「……その短剣は“特別”だ。お前なら、きっとうまく使う」


「……っ、う……っ、ぅ」


「トキ。お前が居てよかった。死んだ方がマシだとすら思えた、クソみたいな日々の中で──お前だけが、俺の光だったんだ」


「うう……っう……」


「……トキ、」



 ──生きろ。


 耳元でそう告げ、マドックの手が離れる。トキは暫くその場に蹲ったまま嗚咽を繰り返していたが、やがて強く短剣を握り込むとその体を持ち上げた。



「……っ、俺は……っ」


「……」


「俺は……っ、アンタの娘を、必ず……魔女から、奪い返す……!」



 トキは顔を上げ、強い決意を秘めた眼でまっすぐとマドックを見つめる。涙の浮かぶその瞳はディラシナで過ごしていた頃と何ら変わりなくて、マドックは眩しそうに目を細めた。「……ああ。頼むぞ」と彼が頷いた頃、トキは床に落ちていたドグマとアウロラを拾い上げてその場に立ち上がる。涙を拭い、譲り受けた短剣をしまって、彼は転移石を握り締めた。



「……ゴリラ、アデル、ステラ。行くぞ、カルラディアに」


「……で、でも、トキ……! マドックさんは……」


「……っ、いいんだよ……!!」



 トキは悲痛に表情を歪め、声を絞り出す。ロビンは言葉を詰まらせ、眉根を寄せて俯いた。


 震える手を握り締め、トキは振り返る。壁に凭れかかるマドックは、まるで我が子を見るかのような眼差しを彼に向けていた。



「……マドック……」


「……」


「……アンタ、確かにロクでもなかったし、飲んだくれのクソ野郎だった……、けど……」



 トキは転移石を持った手を持ち上げる。

 脳裏に浮かぶのは、ディラシナで彼と過ごした日々。彼が消えた後、いつか殴ってやろうと考えながら、帰りを待っていた日々。


 喧嘩で負けたトキをおぶって帰る、その大きな背中に──もう一度、追い付きたくて。



「……俺は、アンタが……」


「……」


「アンタが、俺の師で……っ、良かった……!」



 ──ぱきん。


 直後、トキが足元に投げ付けた転移石が割れる。その瞬間、トキとロビン、そしてアデルとステラは部屋の中から一瞬でその姿を消した。


 しん、と静まり返る室内。

 マドックはフッと微笑み、誰もいなくなった部屋の中、崩れ落ちて行く自らの腹部に手を触れる。



「……最期まで、嘘吐きのロクでなしだな、俺は」



 自嘲し、彼は天井を仰いだ。


 何が、『お前の両親に謝りたかった』、なんだか。嘘ではないが、そんなものは所詮ただの建前だというのに。



(……この町に三年も居た、本当の理由は──)



 ──ここにいれば、いつかお前に会えるんじゃないかと思っていたから、なんて。


 言えるわけ無いな、とマドックは苦笑する。

 ふと、そんな彼の脳裏を過ぎったのは、丘の上にあるトキの名が刻まれた中身の無い墓だった。マドックは目を細め、天井を見上げながら呟く。



「……お前の入る墓は、ここには無い」



 重い腰を上げれば、灰と化した体がばらばらと大きく崩れた。派手に動くとすぐ胴体が無くなっちまうな、と考えつつ、慎重に彼は立ち上がる。



「お前の名が刻まれた、あのから墓穴はかあなには──」



 マドックは足を踏み出し、壁を伝ってふらつきながら、ゆっくりと前に進んだ。



「──俺が、埋まってやる」



 呟き、彼は歩き始める。風のない丘の上、弟子の名が刻まれた、中身の無い十字架の元へ。


 師の歩んだ最期の道筋には、こぼれ落ちた灰が、ぱらぱらと降り積もっていた。




 .


〈白鯨の飛空挺と灰の町 …… 完〉

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