最終章. 亡国と女神の涙
第95話 涙の恋人
──むかし、むかし。
お城へやって来た黒い蛇が、国の王様に言いました。
『王子は女神とまぐわっている。このままではシズニアの大地に災いが降り注ぐ。許されぬ恋人同士を引き離し、女神を投獄してしまいなさい』
王は蛇の言う通り、王子と女神を引き離し、女神を地下に投獄しました。離れ離れの日々が何年も続き、ついに王子は耐えきれず、女神に会いに行ってしまいます。
また、黒い蛇は言いました。
『王子は王を裏切った。早く殺してしまいなさい』
離れ離れの恋人が、ようやく再び会えた時。王子は首を跳ねられ、女神の目の前で死にました。
愛する王子を目の前で殺された女神は、深い哀しみに暮れ、大粒の涙を流します。最初に地面に落とされたその涙の一粒は、流れた王子の血の中で、大きな魔力を秘めた美しい宝石となりました。
哀しみの色に染まる宝石の力で、女神は青く輝く宝石に埋もれてしまい、結晶となって永遠の眠りにつきます。
王子と女神の悲しい恋の神話は、後に『
* * *
ジャラ、ジャラ。
暗闇の中、セシリアの耳に重たげな鎖の音が響く。顔を上げれば、もう一人の“自分”が暗闇の中で座り込む彼女に近付いて来ていた。痩せ細った手足。抜け落ちた髪。今にも飛び出そうな眼球をギョロりと動かして、彼女は笑う。
「久しぶりね、“セシリア”。気分はどーぉ?」
「……」
セシリアは黙って顔を上げ、彼女を見つめる。自分と同じ翡翠の瞳と視線を交え、口を開いた。
「あなた、“ドルチェ”……?」
問えば、少女は笑顔を崩す事無く黙り込む。両手脚に
「……そうよ、セシリア」
「……!」
「私の名前は、ドルチェ・カルラ。古代の王、カルラの末裔。つまりはお姫様なの、凄いでしょ?」
おどけて肩を竦める彼女──ドルチェに、セシリアは一瞬息を呑む。暫しの間を置き、彼女は悲しげに視線を落とした。
「……ドルチェ……、さん」
「ふふ、何よ改まって。そんな硬っ苦しい呼び方しなくていいわ。仮にも自分よ?」
「……ドルチェ」
セシリアは視線を上げ、ドルチェを見つめる。そして、重々しく口を開いた。
「……あのね、ドルチェ。私、少しだけ、思い出したの」
「……!」
「あなた、本当は……二度目、なんじゃない?」
──あなたが死んだのは、二度目ではないのか。
そう言いたいのだろう、彼女は。
ドルチェは浮かべていた笑みを消し、黙り込む。口を開かない彼女に、セシリアは続けた。
「……少し、おかしいと思ったの。ドルチェは一度死んでしまって、その後、レオノールの禁術によってこの世に呼び戻されたんでしょう?」
「……」
「でも、私の思い出した記憶の中で、あなたは自ら死を選んでいた。青い宝石で、自分の胸を貫いて……」
「……」
「……その記憶が見えた時、宝石の尖端を自分に向けるあなたの腕も一緒に見えた。……手首には、ちゃんと……アルタナの刻印があったわ」
セシリアは冷静に語り、蘇った記憶の断片を思い返す。鋭く先端が尖った、大きな青い宝石。それを自らに向けて振り下ろす手首には──“逆さ十字”の刻印があった。
それはつまり、彼女がアルタナとなった後に死んだという事実に他ならない。つまり彼女は、二回死んでいるという事になるのだ。
しかし、だとしたら、どうして。
「……どうして、私……今、生きているの?」
「……」
「あの時、あなたはちゃんと……心臓に宝石を突き刺していた。アルタナは心臓に穴が空けば死ぬんでしょう……? だとしたら、私がこうして生きているのはおかしいわ」
「……」
「だって、神の道理に背いたアルタナは……死んでしまったら、もう、次はない。孤独な暗闇に落とされて、二度と生まれ変わる事もない。……そうじゃ、なかったの……?」
恐る恐ると、セシリアは問いかける。ドルチェは暫く黙り込んだまま彼女を見つめ──やがて、ふふ、と自嘲的な笑みをこぼした。
「……ほんとに馬鹿ね、セシリアは。知るのが怖いくせに、そんな事聞いて」
「……怖いよ。でも、私は……知りたいの」
セシリアは呟き、凛と澄んだ瞳でドルチェを見つめる。同じ翡翠の瞳。強い意志を感じるセシリアの瞳は、同じ“自分”であるはずの己には無いもので、ドルチェは眩しそうに目を細めた。
「……そんなに知りたい? 奴隷だった頃の記憶よ? ろくなものじゃないわ」
「……ドルチェ。私ね、記憶を取り戻したいわけじゃないのよ」
「……は?」
「私は、自分の事を……いいえ、あなたの事を知りたい。そして、救いたいの」
凛と放たれるセシリアの言葉に、ドルチェは硬直する。暫し呆然と彼女を凝視していたが、程なくして馬鹿馬鹿しいと一蹴した。──今更、何を救おうというのか。もうとっくに死んでしまっているというのに。
「……綺麗事がうまくなったわね、ほんと」
呆れたように言えば、セシリアは静かにかぶりを振る。「綺麗事じゃないよ」と続けた彼女は、腹が立つほどに優しい目でドルチェを見つめていた。
「──私は、あなたを救いたい」
「……」
「“ドルチェ”と、向き合いたいの」
慈愛に満ちたその瞳に、ドルチェはやはり目を細める。この場所はこんなにも暗いのに──いや、こんなにも暗いせいだろうか。彼女が、あまりにも眩しく見えてしまって。
「……私が、“セシリア”を望んだの」
気が付けば、ぽつりと真実を口にしていた。セシリアは僅かに目を見開く。
「……え?」
「私が、“セシリア”を望んで……そして、作り出した」
「作り出した……?」
「いえ。正確には、作ってくれたのよ」
──
そう続いた言葉に、セシリアは今度こそ大きく目を見張った。ドルチェは鎖を引きずりながら彼女に近付き、更に続ける。
「あの日、私は伯爵邸から逃げ出そうとしたの。主人である伯爵を眠らせて、大きな青い宝石を盗んで……外へ逃げ出したのよ」
「……」
「でも、ダメだった。伯爵邸の外は断崖絶壁で、周りは海に囲まれてて……どこにも逃げ出せなかったの。それで、もうダメだと思った」
──あの日。
当時十三歳になる直前だったドルチェは、伯爵邸から逃げ出した。
先程セシリアには“伯爵を眠らせた”と説明したが、実際は事前に用意していた布で首を締め上げて、彼を殺した。
死んだ他の奴隷を焼却炉に棄てる事はあっても、誰かを殺めた経験などドルチェにはない。初めて他人を殺めた恐怖は、今でも鮮明に思い出せる。動かなくなった大男の、生気を無くした眼球は、呼吸を忘れるほどに恐ろしかった。
震える体に鞭を打って立ち上がり、部屋に飾られていた青い宝石を盗んで──そのまま、ドルチェは伯爵邸から飛び出したのである。
手に取った大きな宝石が一体何なのか、その時のドルチェには全く分からなかった。行く宛もない彼女は、外へ出たらその宝石を売り飛ばして路銀にしようと考えていたのだ。
だが、いざ外に出てみれば、目の前は断崖絶壁。邸宅の周りは海に囲まれ、逃げ場などなかった。
──このままでは、すぐにレオノールや他の使用人に見つかって、連れ戻されてしまう。
性奴隷としてぞんざいに扱われて来た地獄のような日々を思い返し、あの生活に戻るぐらいならばと、ドルチェは手にしていた宝石の尖端を己に向けた。
『──私、やっと、死ねるのね』
死ぬ事に対して、
ただ、一つだけ、心残りがあって。
(……お父さん……)
幼い頃、確かに注がれていた両親からの愛情。ドルチェ、と優しく呼び掛けて頭を撫でる大きな手。幸せだった、僅かな日々。
母が殺された時の事は鮮明に覚えていた。だが、父の生死に関しては全く分からない。
まだ、父はどこかで生きているのではないか。ずっと、自分の事を探してくれているのではないか──そう考えると、手の先が震えた。
母が殺された後、父は薄暗い水路の隅でドルチェの手を離した。金はいらないと、そう言って見知らぬ男に引き渡し、抵抗も出来ぬままドルチェは連れて行かれた。
何度「おとうさん」と叫んで、泣いてみても、彼にその手は届かない。伸ばした小さな手の先で、彼女と同じ金の髪を揺らした父は、いつも無表情だったその顔を泣き出しそうなほどに歪めてドルチェを見つめていた。
酷い別れだったと思う。だが、父を恨んだ事など無かった。だって、いつか必ず迎えに来てくれると──ずっと信じていたから。
(……けど、もう、無理よね)
ふ、と小さく微笑み、ドルチェは己に向けた青い宝石の尖端を見つめる。ごめんね、と、生きているのかすらも定かではない父に向かって謝った。
ごめんね、お父さん。
待っていられなくてごめんね。
会いに行けなくてごめんね。
でも、もし──
『もし、また、生まれ変われるなら、』
──穢れのない、世間の事なんか何も知らない、ただただ優しい、そんな女の子になって、
『……お父さんに、会いに行きたい』
そう呟いたのを最後に、鋭く尖った宝石の切っ先で、ドルチェは自身の胸を貫いた。そして、彼女は絶命する──はずだったのだ。
ところが、その直後。
彼女は薄れ行く意識の中で、青く輝く閃光を見たのである。淡く輝く、優しい光を。
──やっと会えたね、愛しい人。
女性の美しい声が、耳元でそう囁き──ドルチェの意識が途切れる間際、貫いた胸の奥へと染み入るように、暖かな何かが注ぎ込まれた。
そして、彼女が──“セシリア”が、生まれたのだ。
「──私はあの時、宝石……
「……!」
「前に私、あなたに言ったことあったでしょ? 『セシリアの中に、余計な物が紛れ込んだ』って」
ドルチェはそう語り、痩せ細った手でセシリアの頬に触れた。
「……余計な物っていうのは、あなたの中にある、私が突き刺して注ぎ込んだ
「……っ、私の中に、女神の涙があるって……そういう事……? 本当に……?」
「ええ。あなたの中には、女神の涙がある。……と言うより、あなた自身の人格が、女神の涙の力で作られたの」
目を見開いたまま硬直するセシリアの頬を撫で、ドルチェは顔を近付ける。痩せ細り、髪も抜け落ちたその顔は、確かにセシリアと同じ顔をしていて胸が苦しくなった。
「……セシリアは、『ラクリマの恋人』って知ってる?」
不意に、ドルチェはそう問い掛けた。セシリアはきょとんと瞳を瞬き、おずおずと頷く。
「……え、ええ、もちろん……。王子様と、女神様の、哀しい恋の神話でしょう?」
「ふふ、神官だものね。知ってて当然よね」
「……」
「じゃあ、私達が、あの神話に出てくる“女神に恋をした王子の末裔”だって事も分かってる?」
続けて問われ、セシリアは目を見開く。
言われてみれば、そうだ。ドルチェは古代の王・カルラの末裔である。神話に出てくる王子は、青の王国・カルラディアの王子。──つまり、ドルチェとセシリアはこの王子の末裔でもある。
些か間を置いて頷けば、ドルチェは更に続けた。
「……あなたの中にあるのは、女神の涙だけじゃない。決して叶わぬ恋をした、王子の血も共に流れている」
「……!」
「離れ離れだった恋人同士は、あなたの中で、ようやく一つになったの」
──やっと会えたね、愛しい人。
ドルチェが
あれはきっと、女神様の声。この身を作った、ヴィオラの声だった。
何かの答えに行き着き、セシリアは目を見開いたまま硬直する。そんなセシリアに、ドルチェはそっと腕を伸ばした。
「……あなたは、私が望んで作り上げた、もう一人の私」
骨と皮だけのドルチェ腕が、セシリアの背に回される。カシャン、と揺れて触れた鎖の冷たさに、つい目頭が熱くなった。
「その体の内側に、哀れな王子の血と、悲劇の女神の涙を宿している」
告げるドルチェの声を聞きながら、じわりと、セシリアの目尻には涙が浮かぶ。
王子の血と、女神の涙。
つまり、それを併せ持った、彼女自身が──
「そうよ、セシリア。あなた自身が──」
──ラクリマの恋人。
ぱたりと涙が落ちた瞬間、彼女の意識は闇の中に溶けて行った。
.
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