第90話 本当の言葉

 1




 結局、トキの涙は数分間止まる事はなかった。セシリアは縋るように身を寄せる彼の抱擁ほうようを黙って受け入れ、時折強く抱き締め返してくれる。


 この温もりが、優しさが、ただの幻だとは到底信じ難くて、切ない。いつか居なくなると分かっているのに、彼女への思いは日毎に膨らんで行くばかりだ。


 やがて、彼の嗚咽がようやく止まった頃。

 おずおずと彼女の体から離れたトキは、気まずそうに目を逸らしていた。



「……悪い……」


「……ううん。大丈夫」



 セシリアは優しく微笑み、「落ち着きましたか?」と問い掛けて彼の赤くなった目尻に浮かぶ雫を指先で拭う。トキは鼻をすすり上げながらこくりと頷いた。


 その様子を客観視してしまうと、酷く己が情けなく思えてしまって失望する。彼女の優しさに甘えてばかりだと自身を責めるトキだったが、そんな彼の心情など知る由もないセシリアは微笑みながら問い掛けた。



「……ねえ、トキさん。どんな人だったんですか?」


「……?」


「トキさんの、お父様やお母様って」



 そう続けた彼女だったが、本来トキは自身の過去や素性を他人に詮索せんさくされる事を嫌うと知っているため、「あ、で、でも、言いたくないなら無理に答えなくて大丈夫なので……!」と慌ただしく付け加える。


 するとやはり、トキは暫し口篭った。だが、ややあってその口がおもむろに開く。



「……父親は、少し抜けてて、能天気。いつも笑ってて、深く考えずに何でも受け入れて肯定しちまうような人で……母親からよく怒られてた」


「……!」


「母親は、逆に短気で……いつも怒ってたな。笑ってる顔より、不機嫌そうな顔の方がすぐ思い出せる。俺が町で悪さしたり、怪我したりするとすぐ怒るんだ。危ないだろ、って、誰よりも心配して……」



 ぽつぽつと言葉を紡ぎ、トキは地面を見つめながら懐かしむように目を細めた。優しい父と、少し怖い母。いつだって、自分の全てだった二人。


 そのまま黙り込んでしまったトキの手を、セシリアがやんわりと握り取る。



「……やっぱりトキさんは、ご両親にとても愛されていたんですね」


「……“やっぱり”?」


「うん。私、貴方に初めて会った時から思っていたんです」



 静かに語る彼女へと視線を向ければ、穏やかな微笑みを浮かべるセシリアと目が合う。視線を交えたまま彼女は続けた。



「あの頃のトキさんは、態度も言葉遣いも乱暴で、少し怖い印象もありました。……でも、根はとても優しい人だって気付いた時に、思ったんです」


「……」


「ああ、この人は、とても素敵なご両親の元で、愛情深く育てられた人なんだろうな……って」



 セシリアはトキの手を握ったまま、愛おしげに彼を見つめる。



「私には、保護して育ててくれた家族のような人達は居ましたけど、本当の両親はいません。だから、ご家族に愛されていたトキさんの事が、少し羨ましいです」


「……」


「……私の本当の両親も、どこかで……私の事を想っていてくれたらいいな」



 セシリアは切なげにそうこぼした。トキは黙ったまま、彼女から目を逸らす。


 ──これまでの経緯から彼女の過去を推測する限り、セシリアはおそらく“アルタナ”となってこの世に呼び戻される前から、奴隷としてその身を売りに出されていた可能性が高い。

 亡国カルラディアの血を引く王族の末裔であり、〈万物の魔導書オムニア・グリム〉を開く事が出来る唯一の存在。その事実が、彼女の言葉を容易く一蹴してしまう。



(……王族の末裔が他に居ないってんなら、おそらくもう、こいつの両親も死んでる)



 例え生きていたところで、奴隷として幼い娘を売りに出すような両親だという事になる。トキは視線を落としたまま、静かに奥歯を噛み締めた。



「……想って、くれてるだろ……きっと」



 心にもない嘘を告げて、トキはセシリアの手を強く握った。顔を上げたセシリアは切なげながらも嬉しそうに微笑んでいて、たった今うそぶいてしまった己の胸が僅かに痛む。



「……、そろそろ帰るぞ」



 居たたまれずにそう声を発してきびすを返せば、セシリアは素直に頷いて彼の後を追った。繋がったままの手を引いて、灰になった町の中を歩き出す。


 やがて風のない丘には、再び痛い程の静寂が戻った。




 2




「……何してんだ、お前ら」


「おーう! トキぃ! 遅かったじゃん!」


「プギー!」


「アゥーン!」


「……」



 二人が宿に戻ってくるなり、上機嫌に片腕を挙げた陽気なロビンが酒を飲みながらへらへらと笑いかける。卓上にはハムやサラダやチーズフォンデュなど、比較的豪華な食事が並んでおり──何故か彼の向かいに、マドックが腰掛けて酒を飲んでいた。


 途端に、トキの表情が険しさを増す。



「……あァ!? なんッッでテメェがコイツと酒飲んでんだよ、マドック!!」


「……」


「トキ~、マドックさんってお前の師匠なんだって~? イカした師匠じゃーん! 酒もご飯も恵んでくれるし~! 俺もこんな師匠欲し~い」


「師匠なんかじゃねえ、こんな奴!!」



 茶化すロビンに怒鳴るが、既に酔いが回っている筋肉ゴリラはへらへらと笑うばかりで聞く耳を持たない。チィッ! と盛大に舌打ちを放つトキの背後で、セシリアは「え、お師匠様だったんですか……?」と瞳を瞬かせていた。


 すると不意にロビンがその場に立ち上がり、トキとセシリアの肩を掴むと強引に椅子に座らせる。



「まあまあ、そんな怒んなよトキ! ほら、セシリアも座れって! ほらほら」


「このっ……! 酒くせえんだよ、酔っ払いが! あと近ェ! 寄んな!」


「そう言うなよ~、トキくぅ~ん。……、あれ? トキ、お前何か目ぇ赤くね?」


「!!」



 ぎく、とトキは身を強張らせた。

 至近距離で凝視して来るロビンに先程泣いてしまった事を悟られるのはどうにもプライドが許さず、トキは咄嗟に彼の顔面を殴り飛ばす。「へぶう!?」と奇声を上げたロビンは真後ろに吹っ飛び、壁に激突した。



「……いっ、てええ!? 何すんだよ!?」


「う、うるせーこの酔っ払い! 常々思ってたが距離感が近ェんだよテメェ、いい加減にしろ気色悪い!!」


「プギャギャギャ!!」


「アゥ~ン! アゥアゥ!!」


「……!?」



 ふと、彼らの背後で魔物二匹の上機嫌な鳴き声が響いた。トキは訝しげに眉を顰め、飛び回るステラと駆け回るアデルに視線を向ける。


 アデルとステラはいつもより幾分か高揚した様子で「プギョギョ~!」「アォォ~ン!」と騒いでおり、随分と落ち着きがない。よく見れば、床には何やら液体が注がれた小皿が置かれていた。


 まさか、とトキは頬を引き攣らせ、すぐさま立ち上がると即座に皿の中身を確認する。


 やはり、それはどう考えても。



(さ、酒だ……!)



 明らかなアルコール臭を放つそれに、トキは盛大に眉根を寄せた。どうやら酒を飲み、アデルとステラまで酔っ払っているらしい。トキは額を押さえ、沸々と怒りを募らせる。


 彼らに酒を与えたであろう人物は、もちろん一人しか考えられない。



「テメェ……マドック……!」



 怒りを孕ませた目を血走らせ、トキはマドックを睨み付けた。しかし対するマドックは、殺気立つ弟子の鋭い眼光を受けても尚、涼しい表情で酒をあおっている。



「……ああ、悪い。間違えた」


「間違えた、じゃねーよ!! テメェまだその間の抜けたとこ治ってねえのか!?」



 激昂し、トキはマドックの胸ぐらを掴み上げた。しかし悪びれる様子もない師は「おいやめろ、服が伸びる」と的外れな答えを寄越すばかりで、トキの苛立ちが増して行く。



「テメェ、ナメやがって……! あのクソゴリラはともかく、魔物に酒なんか与えんなよ! 体に合わなくて死んじまったらどうすんだ!?」


「あいつら旨そうに飲みやがるから、まあいいかと思って」


「こいつ……!!」



 表情一つ変えずに言い放つマドックを睨み付け、一発ぶん殴ってやろうとトキは拳を握り込んだ。


 しかしその瞬間、ガシャン! と近くで大きな音が響き、彼は弾かれたように視線を移す。すると視線の先で、セシリアが机に力無く突っ伏してしまっていた。


 ──その手に、液体の入ったグラスを握って。



(……ま、まさか……)



 トキは頬を引き攣らせ、彼女のつむじを見つめる。暫くその場に沈黙が流れるが、程無くして机に突っ伏していたセシリアの顔がゆっくりと持ち上がった。


 とろん、と目尻を緩ませ、頬を赤らめた彼女と目が合った瞬間──まずい、とトキは察する。



「……トキさん、これ、苦いれす……」



 へにゃ、と情けない程に間の抜けた笑顔を浮かべ、セシリアは言葉を紡いだ。苦い、と言いながらも更にグラスを口元へ近付けようとする彼女の行動を逸早く察し、トキはマドックを突き飛ばして即座にセシリアの元へ詰め寄ると彼女の手からグラスを奪い取る。



「あーっ! わたしのー!」


「バカ、これ酒だろうが!! マドック、テメェふざけんなよ!?」



 猫がじゃれつくようにトキのケープを掴み、むー! と不服げに声を発する酔っ払いセシリアからグラスを遠ざける。酒を差し向けた犯人であろうマドックを睨み付ければ、やはり何の悪びれも無く「ああ、間違えた」と答えるばかりだった。



「こ、この野郎……!」


「トキさん、かえしてぇ……」


「あァ!? ダメに決まってんだろ! アンタ酒飲めねえんだから飲むな! 今も酔ってんだろうが!」


「酔ってないれす!」


「呂律回ってねえんだよ、バカ!」



 苛立ちをあらわにして怒鳴るトキだったが、ふと視線を下ろすと潤んだ瞳で見上げてくるセシリアと目が合ってしまい、途端に声を詰まらせる。うぐ、とあからさまにたじろいだ彼の視線の先で、それまで不服げだったはずの彼女は突如ふにゃりと幸せそうに破顔した。そして、セシリアは口を開く。



「ふふっ……。わたし、トキさん、すきー……」


「……!!?」



 あまりにも唐突な告白に、トキの思考はぴしりと固まった。ややあって彼の思考は再び働き始めたものの、その頬は熱を帯びて赤く染まってしまう。



「……っ、……な、何……」


「ええー!? セシリア、俺はー!?」



 しどろもどろに声を発しようとしたトキだったが、背後からロビンの声が割り込んだ事でそれをさえぎられてしまった。すると酔っているセシリアはやはり頬を緩め、こてんと愛らしく首を傾げる。



「ロビンさんも、すきー」


「え、マジで!? 結婚する!?」


「しませんー」


「ガーン!!」



 笑顔でフラれたロビンは、大袈裟にショックを受けてぱたりと机に突っ伏す。そんな彼の赤髪を踏み付け、顔を赤くしたステラが鼻を鳴らして手足をばたつかせた。



「プギ! プギギ!!」


「ふふ、ステラちゃんも、アデルも、みーんなだいすきよ」


「プギ!」


「アゥ?」


「ふふふっ。みーんな、みんな、だいすき……」



 トキのケープに顔を埋め、セシリアは幸せそうにそう繰り返す。そんな彼女に、トキの胸はちくりと痛みを発した。


 ──みんな大好きなのに、ずっと一緒には居られない。


 そう言っているように、聞こえてしまって。



「……」



 トキは表情を歪めて奥歯を噛み、寄り掛かる彼女を抱き上げる。「んむ……」とくぐもった声を漏らした彼女を横抱きにした彼は、途端に「あー! ずるいぞトキ、お持ち帰りする気だー!」と騒ぎ始めたロビンを無視して歩き出した。


 眠たげに瞳を瞬かせるセシリアは、不思議そうにトキの顔を見上げる。



「……トキさん……?」


「……もう寝ろ。後で部屋に飯持って行ってやるから」


「……んー……」



 こて、とセシリアはトキの肩口に顔を埋めた。熱を帯びたその頬にトキは嘆息し、彼女を抱いたまま部屋を出て行く。


 その場に残されたロビンは悔しげに下唇を噛み、同じく目を血走らせているステラと共に地団駄を踏んだ。



「ちくしょー! トキばっかりずるい! 俺もセシリアをお持ち帰りたいー!」


「プギー!!」


「ガウ?」


「……」



 騒ぐ仲間たちを無視して出て行った弟子と少女の背中を、マドックは黙って見つめる。やがて彼は目を逸らし、再び酒を呷ったのだった。




 3




 ぎし、ときしむ質素なベッドにセシリアを降ろし、トキは彼女の顔を覗き込む。火照った頬を指先で撫で、眠たげに瞬く瞳を見つめた。



「……大丈夫か? アンタ」


「……んー……大丈夫……」



 ふにゃ、と間の抜けた笑顔を浮かべ、セシリアは目を細める。幸いにも悪酔いする程の量の酒を飲んだわけではないらしく、トキは密やかに胸を撫で下ろした。



「はあ……、あの馬鹿マドックには後で俺が説教しとくから、アンタはとりあえず寝ろ。ほら、水もちゃんと飲め」


「……ん」



 あらかじめ卓上から拝借して来た水の入った革袋を彼女に手渡し、蓋を取り外す。しかし意識が朦朧としているらしいセシリアは、革袋の飲み口に唇を当てがうものの、ちびりと口に含むばかりでなかなか水を飲み込もうとしない。


 その焦れったい行動にトキは舌を打ち、彼女から革袋を奪い取った。



「そんなチンタラ飲んでて酔いが醒めるかよ! 口開けろ、俺が飲ませてやる」


「うー……」



 言うやいなや、トキは革袋の中身を呷って自らの口に水を含む。直後、きょとんとしているセシリアの顎を掴むと無理矢理その口をこじ開けて唇を重ねた。強引に割入れられた舌の感触と共に、ぬるい水分が口内へと流れ込む。



「ん、う……」


「……全部飲めよ、ちゃんと」


「……んー」



 気管に入り込まないようセシリアの上体を片腕で支えて起こし、トキは再び水を口に含むと彼女に口付けて流し込んだ。互いの口の端からたらりと流れ落ちる水滴が、喉を伝って衣服に染みを作って行く。


 何度か口移しでの水分補給を繰り返し、トキが唇を離せば、セシリアは相変わらずぽやんと力無く彼を見上げていた。



「……ちゃんと飲んだか?」


「……んー……トキさん……」


「ん?」


「すき……」



 ぽつりとこぼされた言葉に、トキは息を呑んで言葉を詰まらせる。セシリアはトキの背に腕を回し、彼の胸に擦り寄った。



「すきです……すき……」


「……お、おい……」


「いや……いやだよ、はなれたくない……」


「……、セシリア……?」


「……しにたく、ない……」


「……!」



 続いた言葉に、トキの目が見開かれる。セシリアは声を震わせ、トキの胸に顔を埋めて更に声を紡いだ。「しにたくない……」「しにたくないよ……」と譫言うわごとのように繰り返す彼女に、トキは何の言葉も告げられないまま硬直する。


 ──普段の彼女であれば、きっと、こんな事は言わない。


 自らの運命を受け入れた素振りに徹して微笑み、本当の思いを告げる事なく、浮かべた笑顔の裏に本音をしまい込んで隠し通しただろう。


 けれど、こうして酒に呑まれた今。

 抑えていた彼女の本当の言葉が、その唇の上に乗せられて紡がれて行く。



「……トキさん、こわいよ……私、きえたくない……」


「……」


「どうして、私は普通じゃないの……? 普通の女の子だったら、トキさんの、恋人にだって……なれたかもしれないのに……」


「……セシリア」


「こんなに辛いなら……っ、“セシリア”なんて、生まれなければよかったのに……!」



 嗚咽をこぼして泣きじゃくり始めた彼女に、トキは奥歯を軋ませる。縋り付くセシリアを抱き寄せ、彼もまた震える声を発した。



「……俺は、セシリアが居てくれて、良かった……」


「……!」


「アンタが居なかったら……俺はきっと……あのまま、ずっと死ぬまで……誰かを信じる心なんか、取り戻せなかったと思う……」



 でも、彼女が居たから。

 魔女に呪いを掛けられたあの日に、ろくでもなかった自分について来てくれたから。


 つぼみのまま咲く事のなかったこころが、こうして今、やっと花開いたんだ。



「……俺の人生に、アンタが居ないと……俺は嫌だ……」


「……」


「……俺は、アンタの……人生が、欲しい……」



 抱き寄せる腕の力が強まり、セシリアはトキの顔を見上げる。酷く歪んだ苦しそうな表情が彼女の視界に飛び込んで、セシリアは耐え切れずに大粒の涙を滑り落とした。


 ──彼女は、自身の死を恐れている。

 けれどそれ以上に、彼も、彼女の死を恐れているのだ。


 締め付けられる胸の奥で、どうにもならないこの現実に歯痒さばかりが蔓延はびこる。彼の欲しがる彼女の人生は──もう、既に存在していないのだから。



「……う……うぅ……っ」


「……」


「う、あ……っ、うわあああん……っ!!」



 セシリアはトキの胸に縋り付き、彼の前で初めて、声を上げて泣いた。トキは彼女の華奢な体を強く抱き、柔い髪に指を滑らせて、縋り付く愛しい人の後頭部を撫でる。


 彼はセシリアを抱き締めたまま、泣きじゃくる彼女が眠ってしまうまで、その涙を受け止めていた。




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