第89話 涙の魔法


 1




 ──バキィ!


 静寂に包まれた丘の上に、鈍い音が響き渡る。

 ふらりとよろけた男の胸倉を掴み上げ、トキは今しがた殴り付けた“師”の頬に向かい、再度拳を振り上げた。


 だが振り下ろされたそれはマドックの手によって阻まれ、瞬く間に腕を取られたかと思えばすぐさま捻り上げられて組み伏せられてしまう。



「っ、い……!」



 肩に痛みが走り、トキは忌々しげにマドックを睨んだ。しかし彼は涼しい表情で嘆息し、トキを組み伏せたまま殴られた頬を摩る。



「……はあ。三発程度なら存分に殴らせてやろうかと思ってたんだが……やっぱ二発目以降はナシだ。思ったより痛え」


「……っ、この、クソ野郎!! 離せ!!」



 トキが怒鳴れば、「口の利き方が相変わらずなっちゃいねーな」と再び嘆息したマドックによって首根っこを掴まれ、頭を強く地面に叩き付けられた。顎と鼻を強打し、トキは苦悶の表情を浮かべて彼を睨む。



「……っ、クソが……!」


「おいガキ……お前、思ったより身長伸びなかったんだな。最後に会った時とあんまり変わらないんじゃないか? どうせまた甘いもんばっか食ってたんだろ。乳製品と魚も食えって言ったじゃねーか、好き嫌いしやがって」


「うるっせえ黙れよ!! ナメやがって!! 死ねこの裏切り者!!」



 興奮した獣のように息を荒らげ、眼を血走らせたトキは怒鳴り散らしながら押さえ付けられた体を動かそうと藻掻く。しかし、マドックは更に強くトキの腕を捻り上げた。



「……っうあ……!!」


「お前、ほんと変わってねえんだな。頭に血が昇ると後先考えず突っ込んで行く癖まだ治んねえのか?」


「黙れっ……! 黙れクソ野郎……!!」


「師匠に『クソ』言うの禁止」


「何が師匠だ!! 俺を置いて消えただろうが!!」



 恨みの籠った訴えに、マドックは「ああ、やっぱ怒ってたんだな、お前」と表情一つ変えずに呟く。他人事のようなその態度にトキの苛立ちは募るばかりで、彼は奥歯を軋ませた。


 ──すると不意に、トキの右手の指輪がカッと青い光を放つ。



「……!!」


「──ふん。ようやく戻って来よったか、この風来坊」



 ふわり。突如指輪の中から飛び出して来た三番目の魔女・ドグマは、呆れたように口を開いた。

 ゆらゆらと揺れる青い火の玉を視界に入れ──マドックは僅かに目を見開く。



「……? その声……、お前、まさかドグマか?」


「他に誰がおると言うのだ。我に決まっておろう」


「……は? いや冗談だろ。……だって、お前……、何だ? その滑稽こっけいな姿は」



 訝しげにマドックが問う。するとドグマは一際大きく燃え上がり、トキとマドックの周りを飛び回りながら怒鳴った。



「そんっなもん、我が一番聞きたいわァ!! この甘ったれの小僧の魔力が少な過ぎるせいで、姿でしか具現化出来んのだこっちは!! 最初このガキが持ち主になった時に我は絶望したぞ!!」


「熱ッ!!」



 べしっ、べしっ! と火の玉ドグマは憎らしげにトキの後頭部に体当たりする。「熱ィんだよ、やめろ!!」とトキが怒鳴るが、「生意気な口を叩くな小僧!!」と一蹴されて再び殴られてしまう。


 そんな魔女と弟子を見下ろしながら、マドックはやれやれと呆れた。



「……なんだ。高飛車なドグマを置いて来ちまった時には多少心配もしたが、割と仲良くやってたみたいだな、お前ら」


「仲良いわけあるか!!」



 トキとドグマが同時に食い掛かるが、マドックは「息ピッタリで反論されてもな」と肩を竦めるばかり。やがてドグマは不服げに眉を顰めたトキから離れ、宙を舞ってマドックへと近寄る。



「……まあ、あのクソガキは後でぶん殴るとして……、マドックよ。貴様、その様子だとは手遅れだったようだな」


「……」



 ドグマの言葉に、マドックは一瞬視線を落として黙り込んだ。ややあって、「どうだろうな……」と顔を上げる。



「……俺があの場所に辿り着いた時には……もう、何も無かった」


「……ふん。そうか」


「旅の途中では頂いたがな」



 マドックはそう言って右手の小指を掲げる。その場所には、赤茶けた銅の指輪が嵌っていた。



「──ほう。六番目ゼクスのアウロラか」


「……!」



 トキは目を見開き、彼の指輪を見つめる。六番目ゼクスのアウロラ──すなわち、〈魔女の遺品グラン・マグリア〉だ。


 マドックは指輪をそっと撫で、「こいつ、寝坊助なんだよ。今も寝てやがる」と呆れたように肩を竦める。



「ハッ。アウロラは昔から惰眠ばかり貪って居たからな。遺品になっても相変わらずか。まあ、我は六番目ゼクス風情のアウロラなどに興味はない。顔を見る価値もないわ、寝ておって構わん」


「お前も相変わらず偉そうだな。弟子の苦労が目に浮かぶ」


「なんっだとこのロクデナシの根無し草が!! 我の許可も得ず、勝手にこの小童こわっぱに指輪を譲り渡したのは貴様だろうが!! 偉大な魔女である我にこんなドブネズミの世話を押し付けよって、貴様いつか必ず消し炭に変えてや──」


「──だが、そいつが生きてここまで来たって事は、ちゃんとお前がしてくれてたって事だろ? ドグマ」


「……っ!」



 早口で怒鳴り散らしていたドグマの声を遮り、マドックが淡々と告げれば彼女は珍しく声を詰まらせた。途端に沈黙してしまった火の玉は、やがてぶるぶると小刻みに震え始め──青かったその炎の色が、徐々に赤みを帯びて行く。



「〜……っ、し……、し……、」


「……ん?」


「──死ねェ!! このクソだぬき!!」



 遂に真っ赤に染まった炎を大きく燃え上がらせたドグマは、暴言を吐き捨てると逃げるように指輪の中へと戻って行ってしまった。その様子にマドックは嘆息し、「だから、クソって言うなって……」と不服げな声をこぼしてトキの腕を解放する。



「……っ、いって……」


「ったく……相変わらずやかましい女だったが……、まあ、懐かしい顔が見れたし良しとするか。……ん? いや待てよ……あれって顔か? ただの火の玉だったよな……」



 そう独り言を呟きつつ、マドックはトキの元から離れて行く。そんな彼の背中を睨み、トキは忌々しげに奥歯を軋ませた。

 力の入らない足を踏ん張り、ふらふらとその場に立ち上がる。そのまま再び殴りかかろうと拳を握り込んだトキだったが、すぐさまマドックが口を挟んだ。



「もうやめとけ、クソガキ。〈魔女の遺品ドグマ〉が出て来たせいでお前の魔力、だいぶ持って行かれただろ」


「るっせえ……! 黙れクソ野郎……!」


「だから師匠に『クソ』って言うな。このクソガキ」


「テメェもクソって言ってんだろうが!! つーか何でテメェがこの町に居るんだよ!!」



 トキは敵意を露わにして怒鳴り付ける。彼の問い掛けにしばし口を噤んだマドックだったが、程なくして「さあ……何でだろうな」とどこか遠くを見つめながら答えた。



「……勝手に出て行って怒らせちまった手前、少し言いにくいんだが……結局、俺の旅の目的は果たせなくてな。気付いたらこの町に居た。ただそれだけだ」


「……はあ……!?」


「本当、偶然ふらっと流れ着いただけで、二、三日したらすぐ出て行く予定だったんだよ。……そしたら、こんなとこで弟子の墓なんか見つけちまってな。それで、お前の生まれ故郷だって気付いた」


「……!」



 マドックは呟き、並んだ四つの墓の前にしゃがみ込む。破壊されて崩れた十字架に刻まれた『トキ・ヴァンフリート』の名を指先でなぞり、彼は続けた。



「お前の故郷だって気付いた時は、正直驚いたぞ。話に聞いてた町と随分違うんでな」


「……っ」


「だが、まあ……お前の家族には一言謝らねえと、ってずっと思ってたし、丁度良かったんだが」


「……、謝る……?」


「……」



 マドックは黙り込み、弟子の墓の隣に並ぶ三つの十字架を見下ろす。しかし彼はそれ以上深く語る事はなく、その場から腰を上げた。



「……腹減った。俺は宿に戻る。じゃあなクソガキ」


「……は、はあ!? 待てよマドック! まだ俺の話は終わってな──」


「──トキさん!」



 ふと、その場に響いた鈴の音が二人の鼓膜を震わせる。トキはその声に逸早く反応し、弾かれたように振り返った。



「……っ、セシリア……」


「……!」



 その場に現れた少女の名を呼べば、マドックは僅かに目を見開いて彼女の姿を見つめる。思わず足を止めて硬直してしまった彼だったが──そんなマドックに構わず、トキは駆け寄って来たセシリアの手を取った。



「はあ、はあ……。やっと見つけた……」


「……アンタ、何しに来たんだよ。一人にしてくれって言っただろ……」


「だって、いつまでも帰ってこないから……心配で、つい……」



 眉尻を下げ、肩を落とした彼女が「ごめんなさい、迷惑でしたか……?」と不安げに尋ねる。トキは視線を泳がせつつ、「……いや、別に迷惑とかじゃねーけど……」と居心地悪そうに声を紡いだ。


 そんな彼にセシリアがホッと胸を撫で下ろした頃、その翡翠の瞳がもう一人の男の姿を捉える。



「……あ……」


「……」


「……あ、あの、トキさん……、この方は……?」



 セシリアがこそりと耳打ちする。トキは彼女の視線の先を一瞥し、「ああ……」と口を開いた。



「こいつは、俺のし──」



 師匠、と言いかけて、トキは寸前でそれを飲み込む。なんとなくマドックを「師」と呼ぶ事に抵抗を感じてしまい、彼は数回視線を泳がせた後、声を低めて再び言い直した。



「……俺の、……みたいな……奴」


「ああ、お知り合いだったんですね!」



 苦し紛れに言い放った言葉だったが、セシリアはそれを信じ込んだ。次いで彼女はマドックに顔を向ける。



「あ、あの、初めまして! お話ししてるところにお邪魔してすみません。私、彼と一緒に旅をしているセシリアと申します」


「……」


「……? あ、あの……?」



 マドックからは何の反応もなく、ただ呆然と黙り込み、セシリアの顔を凝視している。そんな彼に彼女は困惑しながら首を傾げた。トキもまた訝しげにマドックを見上げ、「……おい、マドック……?」とつい声を掛ける。


 するとようやく、彼は我に返ったようだった。



「……、ああ……悪い……。クソガキの癖に、昔よりも随分と女の趣味が良くなったなと思って……少し感心していた」


「……え?」


「ば……っ! 余計な事言うなよテメェ!!」



 思わぬ発言にトキが声を荒らげる。しかしマドックは更に続けた。



「……? 本当の事だろ。お前、昔は誰とでも寝るような乳のデカい女ばっかり引っ掛けてよろしくやって──むぐっ」


「馬鹿!! 黙れ!!」



 余計な事ばかりを口にするマドックを押さえ付け、トキは恐る恐るとセシリアの方を振り返る。だが、幸い彼女の耳にマドックの言葉は届かなかったらしく「あの、今何とおっしゃいました……?」と首を傾げていた。トキは即座にかぶりを振る。



「い、いや、何でもない。気にしなくていい」


「……?」



 訝しげに眉を顰めたセシリアだったが、本来単純な性格の彼女は深く追及するつもりはないようで。「そうですか、分かりました」とあっさり身を引いた彼女に、トキはホッと安堵した。


 その様子を一通り眺めていたマドックは興味深そうに目を細める。



「……へえ。お前、あの頃と全く変わっちゃいねえと思っていたが……少しは成長したんだな」


「……ハァ?」



 不機嫌そうに低音を返したトキがマドックを睨み付ければ、「ああ、なるほど。俺への態度だけ酷くなってんのか」と嘆息してトキから離れた。そのまま二人をその場に残し、マドックはゆっくりと丘を下って行く。



「じゃあな、馬鹿弟子。俺は宿に戻る。何かあったら訪ねて来い」


「誰が訪ねるか! 二度とツラ見せんなクソ野郎!!」



 トキが怒鳴れば、「だめですよ、そんな言い方したら!」と横からセシリアがたしなめる。「いいんだよ」と吐き捨てるトキに困ったような視線を向ける彼女の姿をちらりと盗み見て、マドックはその場から去って行ったのであった。


 ──程なくして、丘の上に静寂が戻った頃。

 相変わらず不機嫌そうな彼に、セシリアは小さく溜息をこぼす。



「……もう。トキさんは言葉が乱暴すぎますよ。本当は優しいのに……」


「……優しくねえよ、俺なんか」


「……」



 投げやりに吐き捨て、トキはふいっと顔を逸らした。その表情はどこか憂いを帯びていて、セシリアは心配そうに彼の顔を覗き込む。



「……あの、トキさん……大丈夫ですか……?」


「……は?」


「……実は、私……さっきそこで、アレックスさんにお会いして……」


「!」


「……ここが、元々トキさんのお家があった所だって……教えて貰ったんです……。この丘の上に、トキさんが居るって……」



 セシリアはそっと歩き出し、朽ちた十字架の前で立ち止まった。彼女は先程のマドックと同じように、そこに刻まれたトキの名前を見つめる。



「……ここ、トキさんの故郷なんですよね」


「……」


「……それから、こちらが……トキさんのご家族」



 錆び付いた三つの十字架を見下ろし、セシリアはそっと目を閉じると胸の前で両手を握った。それは普段彼女が神に祈る際の所作とよく似ていて、やがてセシリアは柔らかく微笑む。



「……こちらから、トキさんのお父様、お母様。そしてこちらは、お姉様……ですかね」


「……、ああ……」


「お姉様……ジュリアさんというんですね。素敵なお名前です」



 セシリアはそう言って十字架の前に膝を付き、静かに祈りを捧げた。

 風のない丘の上は沈黙に包まれ、己の家族の墓に向かって祈る彼女の華奢な背中を、トキはただ黙って見つめる。


 すると、不意にセシリアが口を開いた。



「……私、今日、ここに来れて良かった」


「……は?」


「ずっと、お会いしてみたかったんです。トキさんのご家族に。一度、どうしてもお礼が言いたくて」


「……お礼?」



 訝しげにトキが問う。セシリアは優しく笑みをこぼし、「はい」と頷いた。



「トキさんを、この世に産み落としてくれてありがとうって。こんな素敵な人に出会わせてくれたご家族の皆さんに、そうお礼が言いたかったんです」


「……!」


「私、貴方が居なかったら、きっともう魔女に殺されてしまっていましたから……トキさんは私の恩人なんですよ。だから私、トキさんのご両親やお姉様に、こうしてご挨拶が出来て良かった」



 ふふ、と破顔して再び祈り始めたセシリアに、言い様のない感情が迫り上がって──トキは俯いた。


 彼の脳裏によぎったのは、先ほどのアレックスの言葉。



『──心底、あわれだと思ったんだ……お前が……』


『何で死んでねえんだろうって……、あん時くたばってりゃ、誰もお前の“生”を望んじゃいねェって、こんな滅びた町に戻ってまで知る必要も無かったのに……ってな……』


『お前、あの日死んでりゃ良かったんだよ……。死んだ方がマシだったんだ……。自分でも思うだろ……? その墓ん中で、お前の家族と仲良く眠っちまえば、それで良かったんだよ……』



 ──“死んだ方が良かった”、と繰り返された、そんな言葉達だった。



「……アンタは……」



 ぽつり。掠れた声を絞り出せば、セシリアが顔を上げる。しかし彼女が振り向く前に、トキはその華奢な背中を腕の中に閉じ込め、自身の顔を強く押し付けた。



「……っ、と、トキさん……?」


「……アンタは……俺が……」


「……!」


「……“生きてて良かった”って……思って、くれるのか……?」



 問い掛ける声が震えていて、セシリアは息を呑んだ。背後から強く抱き締める無骨な手。彼女の衣服を掴むその手の甲に、やがてセシリアはそっと自身の手のひらを重ねる。



「……うん。何度でも言えますよ」


「……っ」


「他の誰がどう言おうと、貴方自身がどう思おうと……私は、貴方が生きていてくれて良かった。それはずっと変わりません」



 ず、と鼻を啜り上げる音が耳に届いて、セシリアは微笑んだ。「トキさん、たくさん頑張ったんですね」「本当はずっと苦しかったんですよね」そんな言葉と共に寄り添われて、ついに睫毛の手前で塞き止めていた群青の塊が溢れ出す。


 彼女の言葉は優し過ぎるのだ。

 薄汚れた醜い自分の心を、すぐに甘やかす。


 吐息を震わせるトキの方を振り向かずにいてくれるのも、彼女なりの優しさだと気付いていた。



「……っ、俺……が……っ」


「……」


「俺が……っ、俺の、せいで……、家族も、この町も……死んだんだ……」



 そしてとうとう、トキは嗚咽を混じえながら、ずっと黙っていた過去の過ちを彼女に語り始める。ぽつり、ぽつり、紡がれていく彼の言葉を、セシリアは黙って聞いていた。


 愛する家族がいた事。

 町の子供たちから虐められていた事。

 アルマと出会った事。

 彼を信じたせいで、みんな──死んでしまった事。


 一通り話し終えて、それでも彼女の肩口から顔を上げられずにいるトキを、セシリアは急かす事も咎める事もせず、ただ黙って傍に寄り添う。やがて、彼女は口を開いた。



「……私、やっぱり、トキさんの故郷に来られて良かったです」


「……」


「貴方の事、また一つ知る事が出来たもの。教えてくれてありがとう、トキさん」


「……」



 レザーの手袋に包まれた手が、トキの頭をゆっくりと撫でる。するとまた目頭が熱くなって、彼は歯を食いしばった。


 風のない丘。姉がいつも迎えに来たこの丘。

 幼い頃、ここに蹲って泣きじゃくるトキを見つけるのは、いつだって姉のジルだった。黒い髪をふわりと揺らして、大丈夫だよと微笑んで。そして彼女はいつも、泣いているトキのひたいに口付けをくれる。



 ──泣き虫さん専用の、涙の止まる魔法だよ。



 そう言って、いつも。



「……なあ」



 掠れた声で呼びかければ、セシリアは遠慮がちに振り向いた。泣き腫らした顔を見られる事には多少の抵抗も感じたが、目が合った彼女の慈しむような視線があまりに眩しく見えて、僅かな抵抗感などどうでも良く思えてしまう。


 トキは目を細め、彼女に向かって口を開いた。



「……俺の、ひたい、に……」


「……額?」


「一瞬で、いいから……口付けてくれないか……」



 そう尋ねれば、セシリアは一瞬ぽかんと瞳を瞬いた。だが、ややあってすぐに優しい微笑みを浮かべる。



「……ええ。いいですよ」


「……」


「……失礼します」



 トキと向かい合ったセシリアは、無造作に伸びた彼の長い前髪を掻き分けた。直後、額に彼女の唇がゆっくりと押し当てられる。


 それは、もう二度と会えない姉が教えてくれた、涙が止まる“魔法”の口付け。



 ──ほら、どう? 止まった?



 そう微笑む彼女の声が聴こえた気がして──トキはセシリアの背中にそっと腕を回した。そのまま華奢な体を強く抱き締めれば、閉じ込めた腕の中で困惑した声を発した彼女がもぞりと動く。



「……と、トキさん?」


「……、変、だな……」


「え?」


「涙が、止まる……魔法、なのに……」



 くぐもった声が耳元で囁き、セシリアの肩口に雫が落ちた。冷たいそれはぱたぱたとこぼれ落ち、彼女のワンピースに滲んで行く。



「……アンタのは……俺の姉貴に似て、優しすぎて……、逆に泣けてくる……」



 か細い声が続いて、彼は再びセシリアの肩に顔を埋めた。抱き締めた腕の中の暖かさすらも、遠い昔に消えた姉を思い出させて自然と涙が溢れてしまう。


 この温もりも、いつか消えてしまうのだと思うと、尚更。



「……セシリア……」


「……」


「……俺を置いて行くなよ……」


「……」


「……一人に、するなよ……」



 弱い心を曝け出して、こぼれ落ちた本音。以前、雨の街でセシリアが彼にそう懇願した時とはまるで立場が逆になってしまった。


 風のない丘の上には、トキの震える呼吸と、微かな嗚咽の音だけが響いている。



「……トキさん……」


「……」


「……ごめんね」



 泣きすがって身を寄せる彼の耳に、セシリアはただ一言、謝る事しかできなかった。




 .

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る