第88話 俺のせい
1
──トキ、おいで。
風そよぐ草原で蹲って泣きじゃくるトキを見つけるのは、いつだって姉のジルだった。擦り傷だらけの手を引いて、額にそっと“魔法”をかけて。優しい風に背中を押されながら、幼いトキを導いてくれた。
彩り豊かな草花はいつもトキの足元に広がっていて、風に吹かれてふわりと揺れる。桃色のアズリ、白いプシュカ、黄色のリーズレットに、背の高いジュリエット。それから薄紫の花弁を広げたトーキットの花を追い越して、歩む道の先には、愛おしい家族の待つ小さな家。
──父さん。母さん。
呼び掛けて、走って行く。外に衣類を干していた母は飛び込んできたトキを優しく抱き締め、擦り傷だらけのトキの頬を呆れたように撫でた。
──アンタ、また町の子達と喧嘩したんでしょう。
──はは、やっぱり男の子だなあ。トキ、傷を見せてごらん。消毒しようか。
頭を撫でられ、父に手を引かれる。また迫り上がってくる涙を片方の手で拭い、俯いたまま付いて行けば、父はやはり柔らかく微笑んだ。
やり返さなかったのかい? と父に問われ、トキは涙目で頷く。父は笑い、すり潰した薬草をトキの傷口に塗ると、そうか、と目尻を緩めた。
──トキも、ジュリアも、優しい子だね。だから風に愛されるんだ。
──……風?
──そう。この町は風の魔女様に守られている。魔女様は心が優しい者の味方だ。だからきっと、トキが困った時は風の魔女様が助けてくれるよ。
大きな父の手がトキの頭を撫で、目尻に浮かぶ涙を拭う。この手の温もりが、トキは好きだった。いつしか口には出せなくなってしまったけれど。
ふと、トキは背後に視線を向ける。
穏やかな風が吹き、草花が揺れるだけの
いつも見てきた、風の町──アドフレアの姿だった。
これは、彼の知る故郷。
幾度となく夢に見た町。
──けれど、現実は違う。
「……」
ジャリ、ジャリ……。
歩を進める度に、ひび割れて枯渇しきった地面の砂が無機質な音を立てる。
森は枯れ果て、草花は育たず、風化した建築物が朽ちたままいくつも放置されている。それらを視界に入れる事が出来ず、トキは俯いたまま先に進んだ。
ここは、灰の町アドフレア。
再会したアレックスはそう言った。
トキは歯噛みし、十二年前、アルマに家族を惨殺されて崖から突き落とされたあの日の事を思い出す。
『──じゃあな、トキ』
その一言の後、トキは突き飛ばされて崖下へと真っ逆さまに落下して行った。
凄まじい速度で流れて行く景色と共に遠くなるアルマを睨んで、絶叫しながら涙の粒を散らして。やがて彼の意識が薄れた頃、背中に包み込むような風を感じた事を僅かに覚えている。
アルマによって〈
(……俺は……あの風に、生かされたのか……?)
暗い瞳を静かに持ち上げ、灰になった町を見つめる。不意にトキは、記憶の中に残る父が優しい笑みを描きながら語っていた言葉を思い出した。
──きっと、トキが困った時は風の魔女様が助けてくれるよ。
「……」
父の言っていたように、あの日、自分は風の魔女に助けられたのかもしれない。
しかし、それを確かめる術など無い程に、故郷の姿はあまりにも変わり果ててしまっていた。トキは再び視線を落とし、俯いたまま歩き始める。
壊滅状態のアドフレアには、人々の姿が
アレックスと同様に痩せこけた住人達は、体を包帯で覆われ、髪も抜け落ち、苦しげに呻きながら横たわっている。その姿はまるで亡霊さながらだった。
老人や子供の姿は無く、転がる人々の性別すらも分からない。荒れ果てた道の脇には、乱立した墓ばかりが目に付いた。
セシリアとロビンは悲痛な表情でそれらを見つめ、普段脳天気なアデルですらも、耳や尻尾が垂れ下がってしまっている。ステラは相変わらず震えたまま、トキのケープへと潜り込んでいた。
「……この町は……十二年前、〈
不意に、前を歩いていたアレックスの口が重々しく開く。トキは黙ったまま、彼の話に耳を傾けた。
「……この谷は、元々“死の谷”って呼ばれてたぐらい……大昔は、草木も生えねェ地獄の谷だったらしい……。鉱山から有毒ガスが出てるらしくてなァ……そいつを、風の魔女様の力で、ずっと防いでくれてたんだとよ……」
「……」
「……だが、十二年前に……偉大な魔女様も壊されちまった……。お前ん家に住み着いてた、気味の悪い男のせいでなァ……トキ……」
「……!」
恨み辛みが込められたかのような低音に、ぴくりとトキは反応する。うちに住み着いていた気味の悪い男──それは明らかにアルマの事を示していて、彼は奥歯を噛み締めた。
その時ふと、周囲から向けられる視線を感じて、トキは俯いていた顔をハッと持ち上げる。
「……っ」
目が合ったのは、薄暗い中から向けられる敵意の籠った無数の視線。汚れた包帯の奥で睨む眼が、「お前のせいでこうなった」と、暗に告げているような気がして。
じわりと冷たい汗の浮かぶ手のひらを握り込み、トキはやはり何も言えずに俯いた。渇いた地面に転がる石や枯木の枝ですら、己を責めているような気がする。
(……俺が……あの日……アルマを、信じたから……)
──俺のせいで……滅びたんだ、この町は。
地面を見つめ、そんな答えに辿り着く。
喉がカラカラに渇いて、息の仕方すら分からなくなり始めた。周囲から向けられる視線が、あの日のアルマの笑い声が、潰れてしまいそうなトキの心を追い詰めて行く。
「──トキさん」
「……っ!」
不意に呼び掛けられ、トキは我に返った。おずおずと顔を上げれば、心配そうに彼を覗き込むセシリアと目が合う。
「……大丈夫ですか……? 顔色が良くないですよ……」
「……」
「少し、休んだ方が……」
セシリアはトキに手を伸ばした。
しかしそれが触れる寸前のところで、トキはその手を拒むように振り払う。
「……!」
「……悪い。……少し、一人にしてくれ……」
力無くそう言い、トキは自身のケープの中で震えているステラを掴んで引きずり出した。「プギッ!?」と動揺して手足をばたつかせる子豚をセシリアに預け、彼はふらりと背を向ける。
「あ……! トキさん!」
彼女の呼び掛けにも答えず、トキは足早に歩き去って行ってしまった。セシリアはステラを抱き、荒廃した町へと消えて行くその背中を不安げに見つめる。
「……、トキさん……」
「プギ……」
「……大丈夫だって、セシリア。一人になりてえ時もあるんじゃねーの、アイツも。……暫くしたら、いつもみたいにふらっと帰って来るだろうし……そんな不安そうな顔すんなよ」
「……、うん……」
元気付けるように肩を叩いたロビンにセシリアは頷き、ぎゅっと腕の中のステラを抱き締める。
そんな彼らの姿を一瞥しつつ、アレックスはトキが去って行った方角を見つめた。
「……」
アレックスは黙り込んだまま、何事も無かったかのように再び前に進み始める。セシリアとロビンも彼の背中を追い、重たげな足取りで、灰色の町を歩いて行った。
2
──ざく、ざく、ざく。
砂利を踏み締め、トキは早足で町の中を進んで行く。嫌な鼓動はどくどくと繰り返し早鐘を打ち、トキは俯いたまま緩やかな坂道を登って行った。
「おまえのせいだ」
「おまえのせいで町はほろびたんだ」
「なのにどうして、おまえが生きている」
そんな声がどこからともなく聞こえてくるような気がして、トキは耳を塞ぎながら更に歩く速度を速める。
「……はあっ……はあっ……」
澱んだ空気を肺に取り込み、息が苦しい。
行く宛もないというのに、逃げるように町の端を目指した。朽ちた家屋や風車の残骸が、眠らせていた過去の記憶の蓋をこじ開けようとする。
変わり果てた景色の中。しかし確かに見覚えのあるその光景に、トキは戦慄するばかりだった。
(……っ、本当に、アドフレアだ……)
隅々まで確かめれば、実は別の町なのではないか──そんな淡い期待すらも、儚く崩れ落ちて行く。
この場所が自身の生まれ故郷であると認めざるを得ず、トキは枯れ落ちて砕けた巨木の傍にふらふらと座り込んだ。羽のように軽いその木片を手に取れば、砂のように脆く、すぐさまボロボロと崩れてしまう。
「……何だよ、これ……っ」
木片を乱暴に投げ捨て、トキは頭を抱えて項垂れた。風のない町の中は静か過ぎて、あの日の光景を思い出してしまう。
血溜まりだらけの家の中で、事切れた両親に縋って、泣き叫ぶ自分の姿を。
──ごめんね、トキ。
そう言って、自らの命を絶った姉の姿を。
(……もう、過去には縛られないって、決めただろ……)
ぐしゃりと前髪を握り込み、忌々しげに奥歯を軋ませる。トキは先程向かおうとしていた進行方向に一瞬だけ目を向けたが、やがて表情を歪めると小さくかぶりを振った。
(……ああ、くそ……だめだ……。もう、これ以上は……)
そう考え、深く嘆息する。──その時ふと、トキは人の気配を察知してハッと息を呑んだ。
「……!」
「……あぁ……。何だよお前……随分と、警戒心強くなったんだなァ……トキ……」
「……っ、アレックス……」
現れたアレックスはくつくつと喉を鳴らし、歩きづらそうに
「……アイツらはどうした」
「……くく……、そう怖ェ顔すんなよ……。お前の連れなら、ちゃんと宿に送り届けたさ……」
睨むトキの問いに答え、アレックスの口元は
「……やっぱ、ここに居やがったんだなァ……、予想通りで笑えるわ……」
「……」
「……上には、行かねえのか?」
「……」
アレックスの言葉に、トキは黙って俯く。上、というのは、目の前の坂道を登った先の事だ。
彼がその先に進む事を
「……まあ、行った所で、この先にゃ今は何も無ェがなァ……」
「……!」
「……燃やされたよ、お前ん家は」
淡々と告げられた言葉に、トキは目を見開いて言葉を失う。アレックスは構わず、更に続けた。
「……十二年前、ヴァンフリート一家が惨殺されてるのが見つかった時にゃあ……町の住人も多少哀れんで、お前ら家族の墓を作ったんだがな……。だが、風が止んだせいで、疫病が蔓延し始めてからは……町の住人の怒りは、全部お前ら一家に向いちまった……」
「……っ」
「……風の魔女の遺品を壊した男を、町に引き込んで
くく、と笑い、アレックスは楽しげに言葉を紡ぐ。続いて彼は何も答えないトキに背を向け、坂道をゆっくりと登り始めた。
「……ついて来な、トキ……」
「……」
暗い眼を持ち上げ、トキは跛行する彼の背中を見つめる。アレックスは振り向きもせず、トキに告げた。
「……お前の家族の墓ぐらいは、教えてやる……」
3
何度も夢に見たはずの丘の上は、風も無く花も咲いていない。脆い枯れ木の枝を踏み潰し、トキは澱んだ空気の中を歩き続ける。
本来小さな家が建っていたはずのその場所には、本当にもう、何も無かった。ひび割れた地面が続くだけの、ただの更地。衣類を干す母の姿も、それを手伝うジルの笑顔も、二人を幸せそうに眺める父の横顔も──もう、存在していない。
トキは拳を強く握り込み、奥歯を噛んで目を逸らした。家の跡地から目を背けたトキは、前を歩くアレックスに黙ってついて行く。
「……ここだ……」
「……」
父、母、ジル──それから、もう一つ。
トキは朽ちた十字架に刻まれた己の名前を、何も言わずに暗い瞳で見つめる。
「……お前の遺体は見付からなかったが……状況的に、死んだとしか思えなくてなァ……お前の分の墓もある……。中身は空だがな……」
「……」
トキはしゃがみ込み、『トキ・ヴァンフリート』の名が刻まれた十字架を撫でた。錆び付いたそれを見下ろし、表情を歪ませて俯く。
「……ハッ……泣くのか? 泣き虫トキ……」
「……へえ。随分ご立派になりましたねェ……」
「……こうなったのは、全部、俺のせいだろ……俺に泣く権利なんかねえよ……」
「……」
「お前も俺を恨んでるんだろ、アレックス。俺なんか、死んでりゃ良かったのにって、思ってんだろ……」
振り向きもせず、トキは弱々しい声を紡いだ。アレックスは暫く黙っていたが、やがて嘲笑混じりに口を開く。
「ああ……思ってたよ……。このクソ野郎、あの世に行っても死んじまえってな……。もし生きてたら、俺の手で殺してやろうと思ってた……」
「……」
「……だがなァ……。お前が生きて現れた時……俺、全然殺す気になれなかったんだよ……。今も全然、殺そうと思えねぇ……」
そんなアレックスの発言にぴくりと反応し、トキはゆっくりと振り向いた。すると汚れた包帯の向こうから、酷く哀れみに満ちた視線がトキを貫く。
「──心底、
「……っ」
「……お前、あの日死んでりゃ良かったんだよ……。死んだ方がマシだったんだ……。自分でも思うだろ……? その墓ん中で、お前の家族と仲良く眠っちまえば、それで良かったんだよ……」
「……」
「そう思ったら、殺す気にもならねえ……」
アレックスはそう告げ、自身の腕を覆っていた包帯を緩めた。「……まあ、殺す力自体、もう残っちゃいねェしなァ……」と続けた彼は、徐々に腕の包帯を外して行き、その下に隠されていた素肌を曝け出していく。
そして完全にそれが外された瞬間、トキは目を見開いた。
「──っ……!?」
「……ハッ……。何、間の抜けたツラしてんだよ……」
「……お、お前……その腕……」
震える声を発したトキの視線の先にあったのは、痩せ細り、所々が崩れた──まるで石灰さながらの腕だった。色は白く濁り、随所が砂のように脆く零れ落ちている。少し衝撃を加えるだけで、今にも砕けてしまいそうだ。
トキが言葉を失って愕然と立ち尽くしていると、アレックスは口を開く。
「……言ったろ、“灰の町”だって……。鉱山から出てる有毒ガスのせいで……この町に長く居ると、こんな奇病が発症しちまう……」
「……っ」
「放っとくと、全身が灰になって砕けるんだ……。便利だろ? わざわざ火葬しなくても、勝手に灰になってくれるんだぜ……? ウケるよな」
どこか諦めたように笑って、アレックスは背を向ける。トキは何も言えず、その場に立ち尽くしたままだ。
「……俺は、もう長く持たねえ……左腕は動かねえし、左脚もそろそろ限界だ。脚がやられたら、あとはその辺に転がるだけ……死ぬのを待つだけだ……」
「……」
「さぞ滑稽だろうなァ、トキ……。昔、散々お前に石投げ付けて、
「……笑え、ねえよ……」
弱々しくそうこぼしたトキを、アレックスは振り向きもせずに鼻で笑った。「……泣かねえし、笑わねえし、つまんねえなァ、お前……」と、それだけ告げた彼はゆっくりとその場を離れて行く。
「……気が済んだら、戻って来な……。お前の連れが心配してたぜ……」
「……」
「……じゃあな」
アレックスはそれだけを言い残し、跛行しながら坂道を下って行った。
程無くして戻って来た静寂が、あまりにも耳に痛い。澱む空気を吸い込まぬよう口元を押さえ、彼は視線を落として立ち尽くす。
「……」
丘の上に暫し立ち尽くしていたトキはやがて振り向き、瓦礫の中にひっそりと建っている四つの墓を今一度見下ろした。壊れた十字架の前に座り込み、表面に刻まれた錆び付いた名前を指先でなぞる。
「……父さん……、母さん……、ジル……」
消え去りそうな声で名を紡ぎ、最後に、自分の名を刻んでいる小さな墓に触れた。ひんやりと冷たい十字架が、お前もここに眠るべきだったと、己を責め立てる。
(……あの時、俺も死んどけば、今頃……)
──父さんや母さんやジルと、笑えていただろうか。
そんな馬鹿馬鹿しい考えが脳裏を巡り、トキは歯噛みして渇いた土を握り込んだ。
その時ふと、彼の視界に黒い影が落ちる。
「邪魔だぞ、クソガキ」
「──!?」
何者かの気配に気が付き、トキはハッと弾かれたように顔を上げて身を
しかし彼が振り向く間も無く、横腹に足がめり込んでトキの体は蹴り飛ばされる。
「……ぐ、っ……!?」
──ドサッ!
受け身も取れず、渇いた土の上を転がる体。トキは大きく舌打ちを放ち、即座に体勢を整えて愛用の短剣を引き抜いた。
しかし直後、目が合ったその人物の姿に、彼の思考は動きを止める。
「……!?」
「……ふん。相変わらず腑抜けだな、お前は。簡単に背後取られやがって」
「……、マ……」
──マドック……?
肩まで伸ばした金の髪に、切れ長の眼。
七年振りに顔を合わせた師の名を紡ぎ、トキは彼から譲り受けた短剣を、その場に滑り落とした。
.
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