第86話 煙の奥の毒牙


 1




「……トキさんのばか」



 ぽつり。ワンピースの上からトキのケープを羽織らされたセシリアが涙目でこぼす。インナーの上からストールを巻いたトキは上機嫌で彼女に近付き、華奢な背中を抱いて引き寄せた。



「んだよ、怒ってんのか? 聖女様」


「……ばか。あんぽんたん」


「ふっ……悪かったな、あんぽんたんで」


「……」



 余裕の表情で返すトキに不服げな視線を向けるが、彼と目が合った途端に先程までの情事を鮮明に思い出してしまい──セシリアの頬は更に赤々と紅潮する。

 耳まで真っ赤に染め上げて俯いた彼女を、トキは心底楽しげに眺めた。


 ──結局あの後、二人はぬるま湯の中で最後まで行為に及んでしまったわけで。

 押しに弱いセシリアはあれよあれよと言う間に彼の口車に乗せられ、思い出す事もはばかられるような恥ずかしいアレコレにすっかりと溶かされてしまったのだった。


 神に仕える身として軽率過ぎます……、と落ち込む彼女だったが、背後で密着する彼は上機嫌にくつくつと喉を鳴らすばかり。



「おいおいセシリア、何拗ねてんだ? そんなに冷たくすんなよ、傷付くだろ? 俺が傷付いて泣いてもいいのかよ」


「……」


「ああ、それとも何だ、今更恥ずかしがってんのか。……まあ、アレは恥ずかしいよなァ。神に仕える聖女様が、野外で後ろから突かれて何度もイッちまっ──」


「ばかあ!!」


「いってえ!!」



 ──ばっちーーん!!


 渇いた音が、静寂に包まれた薄気味悪い森の中によく響く。のそりと起き上がったアデルが「アゥ……」と目を細める中、デリカシーの欠如したトキに平手打ちを放ったセシリアは涙目で彼を睨んだ。



「ばかばかばか! トキさんのえっち! 変な事言わないで下さい! あんぽんたん!!」


「……アンタ、本当にそれしか悪口知らねえんだな」


「う、うう~……! へ、変態!! ばかぁ!!」



 余程恥ずかしかったのか、セシリアはトキの胸をぽかぽかと叩いて瞳に涙を浮かべている。そんな表情ですら可愛いと感じてしまうもので、これは相当重症だとトキは自分に呆れたが、不思議と嫌ではない。


 未だにポコポコと胸板を叩く彼女を軽くあしらい、先程引っぱたかれた頬をさすりながら、トキは再びセシリアへと顔を近付けた。急激に近付いてしまった互いの距離に、彼女はぎくりと身構える。



「……っ」


「……ところで聖女様。俺はそろそろ今夜のを貰いたいんだが」


「……はい!?」



 顎を捕まえ、唇を近付けるトキにセシリアは息を呑んだ。瞬時に「だめです!」と彼の胸を押し返せば、不服げな視線がじとりと向けられる。しかし、負けじとセシリアも潤んだ瞳でトキを睨み付けた。



「も、もう十分キスしたじゃないですか! これ以上はだめです!」


「そんなにしてないだろ」


「し、しました!」


「へえ。俺は足りない」



 そう言い切ったトキは、セシリアの後頭部を片手で押さえつけて強引に唇を塞ぐ。強制的に抗議の声を奪われてしまったセシリアは、「んん〜……!」とくぐもった悲鳴を上げてトキの胸を押し返すが──勿論華奢な彼女の力ではびくともしない。


 やがてトキの舌が口内に捻じ込まれ、セシリアの舌を掬い取って絡まる。後頭部に回された手の指先は弱い耳元をなぞり、その度に彼女は熱を帯びた吐息を漏らして身をよじった。徐々に抵抗する力すらも入らなくなり、くたりと力無く背後の木に寄り掛かったセシリアは、トキから与えられる口付けを大人しく受け入れるしかない。



「……ふ……、ぅ……」


「……あー……またヤりたくなって来た」


「……だ、だめ……です……」


「嘘つけ、まんざらでもねーだろ」



 薄紫の瞳が細められ、セシリアは頬を紅潮させて彼から目を逸らす。彼から与えられる快楽に溶かされてしまっているのは紛れもない真実で、ハッキリと否定する事は出来なかった。


 そんな素直な反応に気を良くしたトキは、再び唇を重ねると舌を割り入れて深く口付け、自身で彼女に羽織らせたケープの中に空いた手を滑り込ませる。僅かに抵抗は感じたが、強く拒む様子は無い。トキは口角を上げ、セシリアの唇を啄ばみながら控えめな胸元へと手を伸ばし──たのだが。



「──ブフォッ……!?」



 不意に、その場に響いた第三者の声。

 二人は目を見開き、即座に唇を離して振り返った。


 するとそこには、血走った眼球を丸々と見開き、たった今吹き零されたと思わしき鼻血を止めようと片手で口元を覆い隠して二人を凝視している──ロビンの姿が。



「……」


「……あっ、やべ。見つかっ……」


「……っ、きっ……!」



 ──きゃああああああーーッ!!!


 断末魔さながらのセシリアの悲鳴が、森の静寂を裂いて響き渡った。




 2




「──なるほど、話は分かった 」



 地面に胡座をかいて座り込むロビンが深く頷く。そんな彼の左頬は大きく腫れ上がり、つい先程セシリアに殴られた際の威力の凄まじさを物語っているようだった。

 同じく正面に座り込んでいるトキの頬も腫れ上がっており、「何で俺も殴られるんだよ……」と不服気に眉根を寄せている。そんな中、ロビンは続けた。



「つまり、お前が魔女から受けた呪いの進行を遅らせるには、光属性……すなわちセシリアの体液を定期的に摂取する必要があると」


「……ああ……」


「さっきのキッスはそういう治療の一環であり、お前らは定期的に物陰でこっそりキッスしていると……、なるほど、分かった」



 ふむふむ、と頷き、不意にロビンが真剣な表情でトキを見つめる。キリッと目尻を吊り上げ、神妙な面持ちで彼は続けた。



「──つまり、すごくエッチって事ですよね?」


「お前何も分かってねーだろ」



 真剣な表情で言い放つロビンをトキが一蹴する。するとロビンは黒い目を血走らせ、彼の肩に掴みかかった。



「うるっせえええこのイケメンがぁぁ!! 何だその羨ましい呪いは!? 若くしてクスリ漬けなんて可哀想に……って同情してた俺の心配を返せ!! つーか俺にもその呪いを分けろ!! 俺もキッスしたい!!!」


「うるせえ暑苦しいんだよクソゴリラ! 離れろ!」


「わああん!! セシリアぁぁ俺にもキッスして!! 出来れば濃厚なヤツでお願いします!!」


「おいふざけんなテメェ、それは俺限定だからな!! 指一本でも触れたら殺すぞ!!」



 ぎゃあぎゃあと騒がしく揉める二人を遠くから眺め、セシリアはアデルに抱き着いたまま困ったように眉尻を下げる。その頬は赤く染まり、口元はへの字に曲がっていた。



「……二人とも、えっちな事するから嫌です。ばか」



 短い沈黙の末、ぷく、とセシリアが涙目で頬を膨らませる。──どうやら、トキとの“クスリ”のやり取りをロビンに見られた事が余程恥ずかしかったらしい。


 しかし彼女の“女心”を汲み取れるはずもないトキは、拗ねているセシリアの顔をぽかんと凝視して──やがてあざけるように笑い、彼女の言葉を一蹴した。



「はあ? 何言ってんだアンタ、最近は自分から求めて来る癖に。イヤイヤ言う割に、実は満更でもな──」



 ──ゴンッ!


 全て言い切る前に飛んで来た枯れ木の枝が、トキの顎へと直撃する。「いってええ!!」と蹲ったトキを睨む聖女様は、頬を真っ赤に染めて瞳に涙を浮かべていた。



「と、トキさんはデリカシーが無さすぎです!! もうっ、ばかばか!! 二人ともばか!! あんぽんたん!!」



 セシリアは声を張り上げ、すぐさま立ち上がって逃げるように空き家へと駆け戻って行く。アデルはオロオロと困惑した表情で彼らとセシリアを交互に見つめていたが、やがて大人しく彼女の背中を追い掛けて行った。


 残されたトキは顎を押さえ、「あいつ、普段運動神経悪いくせに……」と自らの顎へ枯れ木を直撃させたセシリアに半ば感心しながら苦々しくこぼす。

 そんな彼の横で、「まあ、今のはトキが悪いな!」とロビンは深く頷いていた。いやお前もデリカシーねえだろ、とトキは不服気に睨む。



「……つーか、そもそもお前が覗き見したのが悪いんだろうが。空気読んでどっか行くだろ普通。馬鹿なのかよアホゴリラ」


「いやあ、興奮しました」


「お前その正直過ぎるとこどうにかなんねーの?」



 げんなりした表情で彼を睨めば、ロビンからは下卑た笑みが返ってきた。あ、面倒な事になる、と察した頃、筋肉質な腕がガシリとトキの肩を抱く。



「……それにしても、“体液の摂取”って事は~……」


「……」


「それはそれは、とーってもキッスしてらっしゃるんでしょぉ? 旦那ぁ」


「ウザいキモいどっか行け」


「へぶ!!」



 ゴスッ! とトキの鉄拳がロビンの顔面にめり込み、ロビンは堪らずその場に蹲った。「いってええ!! また鼻血出たらどうすんだよ!?」と騒ぐ彼を無視してストールを巻き直すと、トキは静かに踵を返す。

 そんな彼の態度に「冷たくない!? そろそろ俺泣いていいかな!?」と騒いでいるロビンの言葉は当然のように聞き流して──ふと、トキは足を止めて口を開いた。



「……そんな事よりお前、体は大丈夫なのかよ」


「んえ?」



 ぽつり。振り向きもせず問い掛けたトキに、ロビンがきょとんと瞳を瞬く。訪れた沈黙の合間で、彼は「んー……」とこぼしながら自身の体をとりあえず動かしてみた。

 拳を開いたり、握ったり。時折肩を回したり──そんな事を一通り繰り返し、やがてロビンは八重歯を覗かせて破顔する。



「おう! バッチリ元気だぜ!」


「……あっそ」


「あれ、何? 心配してくれてんの?」


「するわけねーだろ」



 きっぱりと言い切り、トキは去って行く。ロビンは焦ったように「え、ちょっ!? こんな気味悪いとこに一人で置いかないで!!」と声を張り上げ、その背中を追い掛けて行った。


 やかましく騒ぎながら駆け寄って来る足音に、トキが内心ホッと安堵していた事を、ロビンは知らない。




 3




 ──ごうごうと視界を奪う雪が吹き荒ぶ、シズニアの大地の北の果て。

 生命の息吹すらも凍らせる森の中にそびえる、今にも崩れ落ちそうな漆黒の古城の内部で、煙草の煙を吐き出しながら男はくつくつと喉を鳴らした。



「──ベンジーが死んだってなァ? 可愛子ちゃん」



 男──アルマの言葉に、ちょうど城の内部へと足を踏み入れていた少女が微笑む。ウェーブのかかった亜麻色の髪を耳に掛け、真っ赤な両眼を細めて、彼女──テディは舌舐めずりをした。



「あは、アルマったら情報早~い。テディちゃん、お腹の奥がキュンキュンしちゃった」


「エドナが触れ回ってたぜ。双子ツインズの片割れが死んだって」


「あっは! エドナってそういうのすぐ言い触らすんだよね~」



 くすくすと、楽しげにテディは笑う。アルマは壁に凭れ、煙を吐き出しながら彼女に視線を向けた。



「……のか、ベンジーを」



 静かに問えば、テディは暫し口を噤む。だが程無くして再び口角を吊り上げ、狂気を孕む双眸を見開いて首を傾げた。



「……蛇ってねえ、交尾したら相手の事どうするか知ってる? 食べちゃうの、より強く生きるために」


「……」


「……ま、種類によって違うんだけどね? そういう蛇も居ますよ〜ってお話。──で、テディちゃんはぁ、」



 口から赤い舌をこぼし、テディは恍惚と頬を染める。ベンジーと同じ色の眼球をぎょろりと動かして、彼女の口元は弧を描いた。



「──ぜーんぶ、食べちゃう蛇さんなの♡ だって私達、元はみーんな一つでしょ? 元々一つだった体を私の中に戻してあげただけじゃなーい?」


「……は、なるほど」


「アルマの事も、食べてあげよっか♡ 私と一緒にイッてくれる?」



 ギラついた真紅の瞳が、爛々と輝きアルマを映す。──今彼が映っているその瞳は、テディの物か、それともベンジーの物か。

 アルマは口端を僅かに上げ、凭れていた壁から背を離した。



「……いーや、俺は遠慮しとくわ。どちらかと言えば“喰いたい派”なんでね」


「やーん、つれなーい」


「それよりテディ、“最初の涙プリミラ”探しはどうなってんだ? なんか最近サボって妙な宗教に入り浸ってるって噂聞いたぜ?」



 煙草の灰を落としながら、アルマは尋ねる。「え~、別にサボって無いよ?」と愛らしく首を傾げ、テディは続けた。



「何かぁ、最初の涙プリミラがどこにあるのか知ってるっぽい女の子が居てね? その子捕まえてたんだけど、何か勝手にベンジーが逃がしちゃったわけ。だからついベンジー殺しちゃった♡」


「……最初の涙プリミラがどこにあるか知ってる女……?」



 何気なく彼女の口からこぼれた発言に、アルマはぴくりと眉を顰める。テディは楽しげに目を細めて頷いた。



「そー! セシリアちゃんっていう、可愛い女の子なんだけど〜。あの子、苦しんでる顔がとっても素敵なのよね〜っ! もっと虐めたかったなあ、あはっ!」


「……、セシリア……?」



 どこかで聞いた覚えのある名前。

 アルマは煙草を咥えたまま眉根を寄せ──ややあって、真実の森で出会った可憐な少女の姿を思い出した。



(……そういや、トキの連れてた女の名前がそんな感じじゃなかったっけな)



 朧気な記憶を辿り、煙を吐く。

 だが、おそらく彼女とは別の「セシリア」だろう。なぜならあの少女はアルマが首を裂いて崖から突き落とし、殺してしまったのだから。


 真っ赤な血飛沫を散らして落ちて行く彼女の姿を、アルマはよく覚えていた。それを追って崖から飛び降りた、弟分トキの姿も。


 虚空を見つめ、アルマがぼんやり考え込んでいると──不意にテディが声を張り上げる。



「──あ! そういえばね、セシリアちゃんと一緒に居た男、アルマの事知ってたわよ」


「……は?」



 唐突に告げられたテディの言葉に、アルマはぽかんと瞳を丸めた。

 俺の事を知ってる? どういう事だ? ──そう訝る彼の事などお構い無しに、テディは下唇に手を当て、「あの子すっごい格好よかったな~」と頬を染める。



「あの男ね〜、黒髪の癖毛で目付きが悪くて、口も態度も悪いんだけど、好きな女の子には甘くて可愛いのっ! ついドキドキしちゃって、テディちゃんうっかりイッちゃいそうになっちゃった♡」


「……」


「せっかくだし、一回ぐらい抱いてもらえばよかったな〜。あーあ、勿体なーい」


「……なあテディ。そいつ、〈魔女の遺品グラン・マグリア〉持ってた?」



 口から煙草を離し、アルマがぽつりと問い掛けた。するとテディは破顔し、こくりと頷く。



「あはっ、やっぱり知り合い? そうそう、忌々しいドグマクソババアの指輪持ってたよ〜。あのババアに私の皮膚燃やされちゃったんだから、ぷんぷん!」


「……」


「……あれ? アルマどーしたの?」



 ──楽しそうな顔してるよ?


 そう続いたテディの言葉に、アルマはくつくつと喉を鳴らした。短くなった煙草を指の先で押し潰し、じりじりと焦げ落ちる皮膚の向こうから黒蛇の鱗が密やかに覗く。


 静かな空間に吐きだした煙の奥で、彼の毒牙が僅かにその姿を見せた。──アイツが、生きてる。そう確信し、ついつい喉の奥が鳴る。



「……どこまでもしぶといなァ、あのガキは……」


「ん? 何?」


「いーや、こっちの話だが……ったく、おじさん楽しくなって来ちまったよ。──なあテディ、そいつらどこに逃げたか分かるか?」



 赤い双眸を持ち上げ、アルマが尋ねるとテディは不思議そうに瞳を瞬いた。「なんかよく分かんないけど〜」と呟き、彼女は微笑む。



「あの子達の乗ってた魔導飛空機は、多分“死の谷”付近で墜ちたみたいよ? あの谷底、狭すぎて大型飛空艇じゃ降りれなかったから追い掛けるのはひとまず諦めたのよね〜」


「……死の谷……、あー、か」



 死の谷、と聞いて、アルマは何やらピンと来たらしい。「そりゃまた最高のお膳立てだな」とこぼし、彼はテディに背を向けた。



「んん? どこ行くの、アルマ」


「いやあ? ちぃーと興味が出たんでな。最初の涙プリミラの事知ってるっていう“セシリアちゃん”に。……ああ、それから──」



 アルマは楽しげにこぼし、口角を更に吊り上げる。遠くを見つめるその眼の奥に宿るのは、まるで少年のような、あどけない好奇心。



「──可愛い弟分にも、挨拶しに行かねえと」



 毒牙を覗かせた蛇は笑い、潰れた吸い殻を廊下に投げ捨て、暗闇の奥へと消えて行った。




 .

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る