第8章. 白鯨の飛空挺と灰の町

第82話 鯨の腹の中


 1




 ターミナルから飛び立ち、雲の中を突き進む白鯨ヴァラエナは、白い大きなヒレのような翼を羽ばたかせて空を泳ぐ。操縦席に座るのは、本来その操縦桿を握るはずのない男達だった。黒いローブに身を包む彼らは大きな船体を操り、北の地を目指す。



「──導師様」



 不意に背後から呼び掛けられ、流れて行く空の景色を眺めていたレオノールは振り返った。その視線の先には、やはり黒いローブ姿の仮面の男──つまりカルラ教団の信徒の一人である男が立っている。



「どうしました?」



 穏やかに微笑み、レオノールが問う。仮面の男は頭を下げ、言葉を続けた。



「貨物庫に捕らえている二人と、狼の魔物ですが……如何いたしましょう。狼は麻酔で眠らせていますが、かなり凶暴です。殺しておかなければ危険なのでは」


「ああ、そうですねえ……金髪の娘以外は殺しても構いませんが……。しかし生かしておけば、後々ドルチェをになるかもしれませんしねえ……」



 導師は微笑んだまま言葉を紡ぎ、「まあ、暫く様子を見てみましょうか」と結論を出した。



「ドルチェのあの様子だと、本人を痛め付けるよりも仲間を甚振いたぶった方が効果がありそうでしたからね。あの男と狼を利用させて貰う事にしましょう」


「承知しました」


「ああ、しかし妙な動きをするようであれば殺して貰っても構いませんよ。あの娘に関しても、何をしても構いません」



 ──別に、四肢が無くとも〈万物の魔導書オムニア・グリム〉は使えますからね。


 レオノールは穏やかに続けて、再び雄大な空の景色へと視線を移す。仮面の男は頷き、一礼してその場を離れた。


 やがて男の姿がその場から消えた頃、レオノールは窓の外の白い雲間に視線を走らせながらくすりと柔らかな笑みを漏らす。──長年探し続けた“王家の血”を、ようやく手に入れた。そう考えると、無意識のうちに口元は緩むばかりだ。



(……準備は整った。あとはカルラディアに向かい、ドルチェがどこかに隠した“女神の涙プリミラ”さえ僕の元へ戻ってくれば──)



 ──眠った女神を呼び覚まし、〈万物の魔導書オムニア・グリム〉の場所を突き止めることが出来る。


 くく、と喉の奥が鳴る。レオノールは緩む口元を片手で押さえ、眼下に広がる青い海を見下ろしながら、野望の炎に飲まれたその瞳を細めた。




 2




「……揺れがだいぶマシになったな」



 物が散乱した貨物室の中──トキは静かに呟いた。白鯨ヴァラエナが飛び立った後、ぐらぐらと暫く揺れ動いていた床がようやく安定したらしく彼はその場に立ち上がる。

 セシリアは眠っているアデルと不安げに寄り添い、ステラと共に床に座り込んだままだ。トキは周囲を注意深く見回しながら、細やかに振動している壁に手を付いて眉を顰める。



「……これ、本当に空飛んでんのか? 外が見えないせいで、いまいち実感がないんだが……」


「いや、普通に飛んでるぜ。ただ、あんだけ揺れたって事はかなりの速度で荒く飛び出したんだろうな……普段はこんなに揺れないし、何かしらの合図はあるはずなんだ」



 トキの疑問に、近くの壁に凭れて座り込んでいたロビンが答えた。彼は険しい表情で更に続ける。



「操縦席に座ってんのも、おそらくカルラの連中だろうな。元々の船長は……この様子じゃもう……」


「……」


「奴らの狙いは何だ? やっぱセシリアなのか?」


「……ああ、だろうな」



 ロビンの問いにトキは表情を曇らせたまま頷いた。セシリアもまた俯き、腕の中のステラを強く抱き締める。しかしややあって、「……いえ、違いますよ」と声を発した彼女に、トキとロビンは顔を向けた。



「あの人達の目的は、きっと、私じゃありません。……私の中に流れている、“血”さえあれば……私の力さえあれば、それでいいんです」


「……」


「それから、多分──“女神の涙”も……」



 セシリアが続けた言葉に、トキはぴくりと反応する。



「は? 女神の涙だと?」


「……はい。私が、ディラシナの街で魔女に取られてしまった宝石があるでしょう? ……あれが、特別な宝石だったらしいんです。〈最初の涙プリミラ〉と呼ばれていました」


「プリミラ……!?」



 トキは目を見開き、思わず大きな声を発してしまった。「知っているんですか?」とセシリアが尋ねれば、彼は眉根を寄せたまま頷く。



「……ああ。〈最初の涙プリミラ〉ってのは、稀少な“女神の涙”の中でも特に輝きの強い……しかないと言われているの原石だ。……つまり、本物の“幻の宝石”」


「……幻の、宝石……」


「まあ、俺もあのドブ川の街に居た頃に他人からの情報で得た少ない知識しか持ってないんだが……〈最初の涙プリミラ〉の原石はどっかのに買われて、そいつの屋敷にあるって話だったぞ」


「……!」



 どこかの大富豪──その一言に、セシリアは息を呑む。脳裏に過ぎったのは、下卑た笑みを浮かべて近寄って来る男の姿。でっぷりと太った体を煌びやかに着飾った──“ドルチェ”のご主人様。


 セシリアは体の内側から凍り付くような恐怖を感じ、ステラの体をぎゅっと抱き寄せた。──いやだ。思い出したくない。



「……だが、よく分かんねーな。アンタがあの時持ってた女神の涙、本当に〈最初の涙プリミラ〉なのか? 噂で聞くような大粒には到底見えなかったが」



 訝しげに眉を顰め、トキは続ける。セシリアは震えそうになる体を何とか制し、ステラを抱き締めたまま俯いた。



「……私も、よく分かりません……でも……」


「でも?」


「魔女が、言ってたんです。ディラシナの街で、私から宝石を奪う時……『残りはどこにやったのか』って……」



 セシリアは細やかに振動する地面を見つめ、女神の涙が魔女に奪われた“あの時”の事を思い返す。


 ──あの日。アデルと二手に分かれてディラシナの街へと逃げ込んだセシリアは、暫く使われた形跡のない倉庫の中で身を潜めていたのだ。

 しかし魔女はすぐさま彼女を見つけ出し、首を締め上げると倉庫の壁にセシリアの体を押し付けた。恐怖に慄くセシリアに、災厄の魔女・イデアは楽しげに口角を上げて、こう問い掛けたのである。



『──残りはどこにやったの?』



 地面に付いてしまいそうな長い黒髪に、真紅の瞳、青白い肌。黒いドレスを身に纏った魔女の問いの意味が分からず、セシリアは困惑するしかない。



『……っ、何の、事ですか……?』


『あら、とぼけるつもり? 貴女の持ってる、青い宝石。元々はこんなに小粒じゃ無かったでしょう?』


『……う、うぅ……!』



 首を締め付ける力が強くなり、セシリアは苦しげに声を発した。『さ、この宝石の原石はどこ?』と再び問い掛ける魔女に、セシリアは震えながら必死に言葉を紡ぐ。



『……知ら、な……、私、記憶がなくて……っ、覚えていません……っ』


『あらやだ、嘘が下手ね。覚えてないなんてあるわけないじゃない』


『……っ、うぅ……違っ……、私、本当に……昔の記憶が……、ぅ……』



 ギチギチと、魔女の手が容赦なくセシリアの首を圧迫する。

 あの時、セシリアは心の底から死を覚悟していた。いくら“アルタナ”と言えど、その能力は自身の外傷が癒えるだけであり、“死なない”というわけではない。首を折られれば勿論、心臓を貫かれても死ぬし、窒息や飢餓でも死ぬ。不死身ではないのだ。


 しかしそんな時、彼が現れた。

 物陰から飛び出し、魔女に死の呪いを掛けられて、共に旅をする事になった彼が──。


 ──そんな出会いの日を思い出して、セシリアはつい頬を緩める。ふふ、と小さく笑った彼女に、トキは眉を顰めた。



「……? 何だよ」


「ううん、ごめんなさい。ちょっと、あの日の事を思い出して……やっぱり私、トキさんに出会えて良かったなあって思ったら、つい……」


「……っ、は、はあ!? ……あ、アンタいきなり何言ってんだよ……!」



 唐突な発言に、トキの頬がじわりと熱を帯びる。それを隠すように彼はストールを引き上げたが、「だって、あの日トキさんに出会えてなかったら、私死んじゃってます」「貴方は命の恩人です」と素直に続ける彼女の優しい微笑みがあまりに眩し過ぎて、トキはひたすら視線を泳がせるばかり。──やがて、彼は赤い頬を隠したままボソボソと声を発した。



「……命の恩人って……それはこっちの台詞だ……」


「え?」


「……、何でもない」



 ──アンタに出会えて良かった、なんて。


 二人きりの時であればまだしも、ロビンの見ている前でそんな小っ恥ずかしい台詞が言えようものか。

 案の定、壁に凭れながら二人のやり取りを眺めていたロビンはニヤニヤと小憎たらしい笑みを浮かべている。セシリアに抱かれているステラに至っては、ゴミでも見るかのような呆れた視線をトキに向けていた。



「いやあ~、甘酸っぱいな~お二人さん。胃もたれしそうだわァ、独り身にはツラいぜ~。……あ、俺の事はお気になさらず。もっと続けてどうぞ」


「殺すぞ、このクソゴリラ……」



 ニヤついたまま冷やかすロビンを睨めば、「おー怖い怖い」と肩を竦めて彼は立ち上がった。──かと思えば、彼は突如トキに向かって何かを投げ付け、トキは目を見開きつつも反射的にそれを受け取る。


 手の中に収まったそれは──カルラ教団のローブと仮面。そして、トキの愛用している短剣だった。



「それ、さっきここの貨物庫を見張ってた奴らから拝借しといた。とりあえず格好だけでも奴らを真似てれば、暫くバレずに飛空艇内を移動出来るだろ? あと、武器も取り返しといたぜ」


「……は? 移動って……ここから逃げてどこ行くつもりなんだよ。空の上だぞ」


「安心しろ、空の上だろうが脱出は不可能じゃねえんだ。さっき脱出経路の算段はあるって言ったろ? 俺に任せろ」



 八重歯を覗かせて笑うロビンに、「……いや、お前に任せるの、正直不安しかないんだが……」とトキは頬を引き攣らせる。それを知らん顔で聞き流し、ロビンはセシリアにも同様にローブと仮面を投げ渡した。



「大丈夫だって。何度かギルドの依頼で飛空艇には乗った事あるし。中の構造は覚えてるぜ、何となくだけど」


「……。ついでに聞くが……この後、具体的にはどうする気なんだ?」


「飛空艇の後部に、緊急脱出用のがあるはずだ。それをかっぱらって逃げる」


「……おい、ちょっと待て」



 トキは眉根を寄せ、ロビンの言葉を遮る。



「魔導飛空機って……それ、誰が動かすんだ」


「え? 俺?」


「……実際に運転した経験は?」


「ない」



 きっぱりと述べたロビンに、トキは思わず額を押さえた。「あ、でも運転の基礎は習ったぜ! 座学で!」と付け加える彼だったが……不安要素しかない。


 とは言え、この状況での脱出手段は限られている。この男に命を委ねるしかないのか……、と途方に暮れつつ、半ば諦めたトキは苛立ったように後頭部を掻きながら舌を打った。



「……チッ。正直かなり不本意だが……ひとまずその案に乗る。セシリア、これアデルの首に巻け」


「……は、はい!」



 投げ渡された“変化リボン”を受け取り、セシリアは眠っているアデルの首にそれを巻き付ける。途端に白い煙に包まれたアデルは、ややあって仔犬の姿へと変貌した。



「プギー!」



 仔犬になったアデルの姿にステラは瞳を輝かせ、ぴょんぴょんと嬉しそうに飛び跳ねながら白銀の柔毛に擦り寄る。セシリアは微笑み、先程受け取ったローブを身に纏うと、寄り添う二匹を優しく抱き上げて仮面を被った。



「全員、準備出来たな。……あ、ステラはこっち来い。俺のローブの中に隠れてろ。それかトキのでもいいけど」


「……プギ~……」


「……こっち見て嫌そうな顔してんじゃねーよ、このクソ豚が……」



 ステラは不服気に睨むトキに嫌そうな視線を向け、ぷいっとその顔を逸らすと翼を広げてロビンの元へと飛び移った。そんなステラの態度にトキは舌打ちをこぼし、不機嫌そうに顔を背ける。



(……やっぱ可愛くねー、あの豚……)



 ふん、と互いに顔を逸らしているトキとステラに、セシリアは仮面の下で苦笑するばかり。「どっちも素直じゃないんだから……」と呆れつつ、彼女は抱いているアデルをローブの中に隠して立ち上がった。



「……よし。船体の揺れもだいぶマシになってる。誰かが来ちまう前に行くか」


「そうだな」



 未だに不服気な表情を浮かべながらも、トキは頷いて仮面を被った。髪の色をフードで隠し、武器の位置を確認して──彼はロビンの後に続く。



「不本意だが、ここはテメェだけが頼りだクソゴリラ。頼んだぞ。……不本意だが」


「うっせーな、何度も言うなよ! 行くぞ二人とも!」


「はい、行きましょう!」


「プギー!」



 カルラ教の一団に扮した三人は貨物庫の扉を開け、ついに飛空艇の内部へと足を踏み出す。彼らは細い通路を速足で突破し、巨大なクジラの腹の中を移動し始めたのであった。




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