第81話 それぞれの誓い


 1




 飛空艇の発着口へと続く扉をそっと開き、ロビンとトムソンは広い空間に足を踏み入れた。物影に身を潜め、体勢を低くして飛空艇の周囲に視線を向ける。そこではやはり、黒いローブを身に纏ったカルラ教徒らしき集団が白鯨ヴァラエナを取り囲んでいた。

 各々が武器を所持している事も確認しつつ、ロビンは眉を顰める。



(……見張りが十人程度か。武器は持ってっけど、あの感じは戦闘慣れしてない素人だな。警備にしちゃ配置が滅茶苦茶だ、あれじゃ突破される)



 人数はそこそこ居るようだが、正面にばかり寄せ固まって後方の人員が不足していたり、数人が談笑していたり。“警備”にしては手緩い。おそらく適当に割り振られた人員だろう。

 あれなら容易く突破出来そうだな、と考えるロビンだったが、このまま不用意に突っ込むわけにも行かなかった。単独行動ならまだしも、今はトムソンとステラを引き連れてしまっている。



(こいつらを守りながら十人以上も相手取んのは、そこそこキツい……。飛空艇内にも連中の仲間は居るだろうし、騒ぎになったら面倒だ。出来る限り戦闘は避けんのが妥当だろうな、俺の武器かなり音デカいし)



 ふう、と小さく息を吐きこぼしてロビンはホルダーに収まっているリボルバーを撫でた。一応ナイフも携帯してはいるが、やはりこれの方が落ち着く。

 ちらりとトムソンを一瞥すれば、彼はステラを抱いて不安げに両手を握り締めていた。お前ほんとに男か、と思わず溜息が漏れそうになるが、これもいつもの事なので今更気にはしない。


 ふと、そんな彼の耳に談笑している見張りの男達の会話が届いた。ロビンは息を潜め、静かに耳を傾ける。



「……なあ、あのデカい狼と黒髪の男まで捕まえる必要あったのか? ひとまず全員まとめて貨物庫の中に放り込んでおいたが……」


「あの狼ヤバかったな、眠らせなかったら鉄網ごと噛み千切る勢いだったぞ」


「何ビビってんだよ、鉄網なんだから噛み切れるわけねーだろ」



 ははは、と片方の男が笑った。「いやまあ、そうなんだけどさぁ……」ともう一人の男は腑に落ちていない様子だったが、やがて「まあいいか」と溜息混じりに呟くとその場を離れて行く。

 ロビンはその姿を密やかに眺め、今しがた得た情報を整理しつつ眼を細めた。



(……鉄網……貨物庫……、あいつらやっぱ捕まってんのか。どうやら殺されては無さそうだったけど……五体満足かどうか……)



 眉を顰め、ロビンは徐ろにトムソンへと視線を移す。怯えるように固く身を強張らせている彼に軽く苦笑した後、ロビンは彼に囁きかけた。



「……やっぱ、あいつら捕まってるみたいだ。俺が白鯨ヴァラエナの中に入って助け出して来る。トムソンはここで待ってろ、今度は絶対付いて来んなよ」


「……っ、待ってロビン、無茶だよ……! 見張りの人数も多いし、さっきの蛇の化け物みたいな二人も中にいるんだよ……!? 一人で突っ込むなんて……!」


「心配すんな、俺だって不用意に突っ込むわけじゃねえ。そこまで馬鹿だと思うか?」


「思う……」


「プギ……」


「思うんかいっ」



 当然のように頷いたトムソンとステラの頭へと交互にチョップを放ち、痛がる彼らに嘆息しながらロビンは再び飛空艇へ視線を戻す。

 飛空艇内部へと繋がる出入り口は、見る限り厳重に見張られている正面の入口のみ。おそらく緊急用の脱出口もどこかにあるとは思うが、悠長にそれを探している時間などない。つまり、見張りの目を掻い潜って正面から侵入する他に手立てはないのだ。



「……白鯨ヴァラエナに入るんだったら、正面から堂々とお邪魔するしかねえ。だがいくら見張りが素人とはいえ、騒ぎになると色々まずい」


「……うん……」


「そこで、お前に頼みがある」


「……え……、僕に? 頼み?」


「ああ」



 頷いたロビンは自身の武器の位置を確認しながら、不思議そうに瞳を瞬いているトムソンへと視線を向ける。



「……俺に、をかけて欲しいんだ」


「……!」



 ロビンは真っ直ぐとトムソンを見つめて言い放った。彼は一瞬目を見開いたが、すぐにロビンの意図を察したらしい。



「……なるほど。カルラの信徒に変装して紛れ込むんだね?」


「そーいうこった。理解が早くて助かるぜ、相棒」



 に、と八重歯を覗かせてロビンが破顔する。トムソンは「あ、相棒なんて照れちゃうなあ……」とはにかみ、そっと彼に向けて手のひらをかざした。

 しかしいざ魔法を唱えようと構えたところで、彼は一度その言葉を飲み込む。



「……ロビン、あのさ」


「ん?」



 不意に口を開いたトムソンに、ロビンは小首を傾げた。するとトムソンはポケットに手を入れ、透明なガラスケースに入った“お守り”を取り出す。



「……これ。持って行って」


「……は? 何言ってんだお前、これ大事な物なんだろ?」


「うん。……大事な物だから、しっかり持って行って欲しいんだ。そしてちゃんと、僕に返して欲しい」



 やんわりと目尻を緩め、トムソンはロビンの大きな手のひらを開いてドライリーフの入ったケースを握らせた。ロビンは黙ったまま、それに視線を落とす。



「……ねえロビン、約束して。必ず無事で帰って来て、それを僕に返してくれるって。それを約束してくれたら、僕、君に魔法をかける」


「……何言ってんだ、当たり前だろ? どんなに酔い潰れても家には帰るって決めてんだぜ、俺は」


「……ふふ、そうだね」



 破顔し、トムソンは改めてロビンに手を翳すと呪文を唱えた。うっすらと煙に包まれたロビンの衣服がカルラ教徒の物と同じ黒いローブに変貌する。仮面で素顔を隠し、彼は注意深く白鯨ヴァラエナの周囲を観察した。



「……やっぱ、後方ケツの警備は薄い。ひとまずそっちに回り込むわ。うまくタイミングを見計らって、飛空挺の中に侵入する」


「……うん。気を付けて」


「おう。お前はここにちゃんと隠れてろよ」



 ロビンが指先でフードを摘みながら笑うと、それまでトムソンの腕の中で大人しくしていたステラが突如翼を広げた。「うお!?」と思わず声を上げかけたロビンが慌てて自身の口元を塞いだ隙に、ステラはロビンのフードの隙間から彼のローブの中に滑り込む。



「……っ、ちょ、ステラ……!?」


「プギギギ!」


「……何だよ、連れてけってか?」


「プギ」



 ステラはフードの中からぴょこんと顔を出して頷いた。ロビンは嘆息し、「仕方ねえなァ……」とステラを撫でてフードを深く被る。



「ちゃんと大人しくして、しがみついてろよ?」


「プギ!」


「よし、良い子だ」



 仮面の下で八重歯を覗かせて笑ったロビンは立ち上がり、トムソンから受け取ったお守りをポケットにしまった。そのまま飛空挺に再び視線を戻した彼は、白鯨ヴァラエナ後方の警備に隙が生まれるタイミングをジッと見計らい──やがて音もなく、地を蹴って白鯨ヴァラエナに接近する。


 そんな彼の背中を黙って見送り、トムソンは物陰に身を潜めながらぎゅっと両手を握り締めた。


 そして、静かに目を閉じる。



「……女神様。どうか、」



 ──ロビンが無事に帰って来れるように、お守りください。


 両手を胸の前で強く握り締め、彼は天に向かって祈った。




 2




 ──ぽた、ぽた。


 近くで水滴の落ちる音がする。

 トキは覚束無い頭でぼんやりと考え、どこからともなく届くそれに黙って耳を傾けた。


 これは雨漏りの音か、それとも緩んだ蛇口から落ちる雫の音なのか。確かめようにも体が随分と重く感じて、固く閉じた瞼が持ち上がらない。


 ぽた、ぽた。


 また近くで水滴が落ちて、手のひらが濡れた。これは雨粒の落ちる音か。ただの水の音なのか。──それとも、血の滴る音、なのか。



(……いや、違うな)



 この音は知っている。前にも、一度あった。


 トキは固く閉ざしていた瞼を持ち上げ、ぽたぽたと落ちる水滴の正体を探す。そうして辿り着いた柔い頬を指先で撫でれば、濡れた素肌がぴくりと反応した。



「──泣くなよ……」



 セシリア、と小さく呼びかければ、ぼろぼろと涙を滴り落としていた翡翠の瞳が悲痛に歪む。



「……っ、トキ、さ……っ」



 震える声が名を紡ぎ、直後、がばりと両腕を広げた彼女の暖かい温もりの中に閉じ込められた。その優し過ぎる温もりも、よく知っている。



「トキさ……っ、トキさんっ……! う、良かっ、えぐ……っ」


「……泣くなって」


「だって……っ……すごく、酷い、怪我してっ……! 顔色も真っ青で、血がいっぱい、出て……! 本当に、死んじゃうかと、思……っ」


「……ああ。心配かけて、悪かった」



 ひっくひっくと嗚咽を零しながら泣きじゃくる彼女は震える両腕でトキの体を抱き締め、良かった、良かった、と繰り返す。どうやら酷い怪我を負っていたらしいが、おそらく彼女が魔法で治したのだろう。──あの時と全く同じだな、とトキは苦笑し、震えているセシリアの背を撫でた。



「……前にも、同じような事あったよな」


「……、え……?」


「旅を始めたばかりの頃。辺境の村に着いて、俺が村人にボコられて……目を覚ましたら牢の中。……で、アンタが泣いてた」



 トキは数ヶ月前に立ち寄った村での一件を思い起こしながら、まだ少し痛む上体を持ち上げる。

 同時にアデルの姿を探せば、彼は二人から離れたところに倒れて寝息を立てていた。ひとまず無事である事に安堵し、泣き腫らしたセシリアの濡れた目尻を指で拭う。続いて、その体を強く抱き締め返した。



「……っ!」


「……あの時も、アンタは俺に抱き着いて泣いてただろ。無事で良かった、って繰り返して」


「……」


「あの時……本当は、嬉しかった。……でも、アンタをこうして抱き返せなかった。ずっと他人の優しさから逃げてたんだ、俺は。……けど、もう逃げない。言い訳もしない。余計な気を回して、自分の気持ちを塞ぎ込む事もやめる」



 抱き締める腕に力が篭もり、セシリアはハッと目を見開く。彼が何を伝えようとしているのかを察してしまい、彼女は拒むようにトキの胸を押し返した。



「……ま、待って……!」


「待たねーよ。俺はしつけの良く出来た大人じゃないんだ、何度も言ってるだろ? ……アンタが嫌がっても、聞く耳なんか貸してやらない」



 耳元で低音が囁き、薄紫の瞳と視線が交わる。セシリアは顔を逸らしたが、トキの手がそれを強引に引き戻した。



「……っ」


「……聞けよ、俺の言葉」


「……だめ……っ、だめですトキさん! 私、貴方の事をいずれ裏切ってしまうのに……!」


「裏切ってもいい」



 はっきりと、トキは口にした。

 セシリアは顔を上げ、途端に目が合った彼の吸い込まれそうなその瞳に息を呑む。黙り込んだセシリアに向かって、彼は更に続けた。



「……俺は、アンタに裏切られてもいい。俺の言葉に答えてくれなくてもいい。……ただ、聞いて欲しい。やっと、誰かを信じる意味が分かったんだ」


「……」


「依存やら、運命やら……そんなもんがどれだけ俺とアンタを蝕もうが、知らねえよ。どうだっていい。……俺は……俺はただ、」



 ろくでもない生き方をして来た。汚いことだと分かっていても平気で手を染めた。


 そんなろくでもない男だから、純粋だった彼女を何度もよごして、泣かせて、傷付けて。無垢な笑顔すらも歪めるばかりだった。そうして旅を続けるうちに転がり込んだのは、胸の奥に焦げ付いた、眩し過ぎてずっと直視出来なかった感情。ずっと目を逸らしていた本音。


 それをやっと、正面から見る事が出来たんだ。やっと認められたんだ。


 だから、聞いて欲しいと思ってしまう。

 たとえ幻でも──叶わなくても。




「──アンタが好きだ……セシリア……」




 言えずに隠していた言葉を告げて、トキは不意に泣き出しそうになった。気を抜けば漏れてしまいそうな嗚咽を飲み込み、彼は強くセシリアを抱き締める。

 一度唇からこぼれた思いは、もう止まる事を知らない。



「……好き。セシリア……好きだ……」


「……っ」


「俺は、もう……アンタじゃないと、ダメなんだよ……」



 掠れた声が囁く度、セシリアは悲痛に表情を歪めた。唇を噛み締め、手を強く握り込んで、溢れ出す愛おしさを抑止しようと抗う。──けれど。



「……っ、わた、しも……」



 駄目だと分かっているのに、舌が、唇が。

 勝手に動いて、言葉を発してしまう。



「……私……私もっ……、貴方が、好き……」


「……!」


「私だって……っ、本当は、貴方とずっと……、一緒に、居たいよ……っ」



 とうとうセシリアは顔を覆い、大粒の涙を落とした。細やかに震える彼女の吐息が耳に届き、トキの視界もぐらりと滲んでしまう。



「……っ、一緒に、いろよ……」



 消え去りそうな声が耳に届いて、セシリアは力無く首を振った。だめです、と弱々しく紡がれた言葉が、トキの胸を抉って、貫く。



「私……もう、死んでいるんですよ……! 本当は、この世界のどこにも、存在してない……。ずっと貴方の傍に居る事なんて、叶わないの……」


「……っ」


「だから……トキさんは他の人と、幸せに……」


「無理に決まってんだろ……!」



 トキはセシリアの手を強く握り、今にも泣きだしそうなその顔を上げる。既に泣いている彼女の額に自身の額を当てがって、トキは震える声を絞り出した。



「……アンタの代わりなんて、居ない……俺が求めてんのは“セシリア”だ……。他の女にアンタの影を重ねるぐらいなら……幸せなんかいらない……」


「……でも……っ」


「……いいのかよ。俺が別の女にこうしても」



 不意に顔が近付き、トキの唇が重なる。同時に肩を強く押され、バランスを崩したセシリアはされるがままにその場で押し倒された。

 彼女を組み敷いたトキはそのまま唇を啄み、酸素を求めて開いた彼女の唇の隙間から舌を捩じ込む。はあ、と時折こぼれる切なげな吐息に、セシリアはぽろりと涙を落とした。



「……っ、トキ、さ……」


「……俺は嫌だ……アンタが他の男とキスすんのも……アンタ以外の女とこうするのも……」


「……」


「……だから、他の女と幸せになれなんて、言うな……。アンタに言われると、キツい……」



 トキは弱々しくこぼし、彼女を抱き締める。

 ちゃんと思い合っているのに、こうして腕の中にいるのに、届かない。不安定な二人の愛を閉じ込めるように、彼は再びセシリアの唇を塞いだ。柔らかな唇を食んで口付け、彼女の涙を指先で拭う。


 好きだと伝えれば、何かが変わると思った。──けれど、現実はやはり何も変わらない。


 彼の愛した幻は、幻のまま。


 だが、それでも。



「……俺は、アンタを諦めたくない……」


「……」


「この呪いが解けようが、解けなかろうが……俺は、セシリアの居る世界を望む」



 トキはセシリアの右手に指を絡め、細い薬指をそっと撫でた。黒いレザーグローブの下には、アリアドニアで得た“伝説の結婚指輪アルラウネ”が嵌められている。



「……俺は、アンタと生きたいんだ」


「……っ」


「アンタの居ない世界に、意味なんかない。アンタと共に生きるために、アンタの居る未来を信じるって……俺に誓わせてくれよ……」



 セシリアの薬指を撫でながら額同士をこつりと合わせ、トキは涙のこぼれ落ちる翡翠の瞳を切なげに見つめた。



「……セシリア……」


「……」


「……愛してる」



 囁き、彼はゆっくりと彼女の唇に触れる。“クスリ”のやり取りとは違う、軽く重ねるだけの口付けを施して、トキはセシリアの背に回した手で彼女の体を優しく引き寄せた。



「……なあ、さっきの、もう一回言って」


「……え……」


「俺の事、好きって……」


「……っ」



 戸惑ったようにセシリアの視線が泳ぐ。「……私、貴方の恋人には、なれませんよ……?」と悲しげに呟いた彼女の頬を撫で、「……それでもいいから」と囁いて、トキはセシリアの目を見つめた。


 セシリアはそれでも少し迷ったようだったが、やがて泳がせていた瞳を上げ、アメジストのようなトキの瞳と視線を絡める。


 出会った頃は、こんな風に切なげな、愛おしげな視線をこの人に向けられる日が来るなんて思いもしなかった。


 見えない孤独を抱えて、他人を遠ざけて、ずっと何かに怯えていた人。そんな彼と過ごすうちに、駄目だと分かっていても、惹かれてしまう自分がいて。


 自分は誰かを愛してはいけない。

 のめり込む程、相手を不幸にする。


 そう分かっているのに、彼の事が──。



「……好きです……」



 ぽろりと本音がこぼれ落ちて、心の中で神に謝罪を告げた。



「貴方が、好きです……心から……」


「……」


「……大好きです……っ」



 声を震わすセシリアを、トキは優しく抱き寄せる。「泣くなよ、」とその耳に告げて、彼はセシリアの手に指を絡めた。



「……アンタ、最近泣きすぎだぞ。そろそろ涙枯渇するんじゃないのか」


「……だって……」


「まあいいけど」



 ふ、とトキは微笑み、セシリアに唇を重ねる。暫く彼女の熱を味わうように優しく啄んで、やがて離せば困ったように見上げるセシリアと目が合った。



「……何、足りない?」


「ち、違います、逆です! トキさん、最近キスの頻度が多すぎます……!」


「そうか? 俺はまだまだ足りないんだが……何ならこのまま色々触ってアンタに突っ込みた……」


「ばかぁ!!」


「いってえ!!」



 ばっちーん!! という良い音が狭い空間に響く。

 思いっきり頬を平手打ちされたトキは不服げに眉を顰めてセシリアを睨んだ。しかし、頬を真っ赤に染めたまま目を逸らしている彼女を視界に入れた途端、頬を叩かれた苛立ちすらもどうでもよく思えてしまう。

 はっ、と鼻で笑い、彼は再び彼女に顔を近付けた。



「……んだよ、満更でも無いくせに」


「……」


「……可愛いな、アンタ」



 顔を逸らしているセシリアの顎を捕まえて上向かせ、空いている手がセシリアのワンピースの中に滑り込む。びく、と身をよじらせつつも抵抗しない彼女の様子に気を良くした彼は、柔肌を指先で撫でながら再びゆっくりとその唇に口付け──



「プギーーーッ!!」



 ──ようとした直後、突如扉が開き、そんな間の抜けた鳴き声が響いた。それとほぼ同時に、彼の脇腹には強い衝撃が走っていたのだった。




 3




「──……キさん、トキさん……! 大丈夫ですか!?」



 ゴホゴホと咳込み、トキは苦しい呼吸を何とか落ち着かせた。蹲ってしまっている彼の背をセシリアが優しく摩るが、じわじわと響く内蔵へのダメージが未だに燻り続けている。


 突っ込んで来た犯人は、やはりアイツで。



「……っ、テッメェ……この、クソ豚……!」


「プギュ!!」


「いっ、てえぇ!?」



 がぶぅ!! とトキの指に、犯人──ステラが更に噛み付く。トキは「テメェ殺すぞ!!」と憤慨しつつステラの羽根を鷲掴んで引き剥がすが、プギプギと怒っているらしいそいつは今にも泣き出しそうな潤んだ瞳で彼を見つめていた。その視線にたじろいだのはトキの方で。



「……っ、何だよ……」


「……プギ……プギギ……」



 短い手足を力無く投げ出し、尻尾を下げたステラが小さく鳴く。やけに大人しい子豚の様子に、セシリアは優しく微笑んだ。



「……ふふ。ステラちゃん、きっとトキさんの事が心配だったのね」


「……!」


「あ〜、多分そうだと思うぜー? お前らの匂いに気付いた途端、いきなり飛び出して行きやがったし……」



 直後、不意に割り込んだ声。二人がハッと顔を上げれば、開いた扉の向こうにカルラ教徒の黒いローブを羽織った男が立っていた。一瞬身構えた二人だったが──彼が被っていたフードと仮面を外した瞬間に、その緊張感も解ける。



「──ロビンさん!」


「よっ、お二人さん。イケメンヒーローが助けに来たぜ!」


「何がイケメンヒーローだ、クソゴリラが……」



 調子のいいロビンにトキが悪態をつくが、その表情にはどこか安堵の色が浮かんでいた。ロビンは二人が無事である事を確認しつつ、ふと、後方で寝息を立てているアデルに視線を向ける。



「……アデルも一応無事みてーだな。麻酔薬打たれて寝てるって聞いたから心配してたけど」


「……プギ!?」



 その時、ステラはようやくアデルに気が付いたらしくビクッと体を震わせた。現在、アデルは仔犬化していない。仔犬の姿だった時は仲良く接していた二匹だったが──やはりアデル本来の姿だと怖いのか、ステラはぷるぷると震えだした。


 だがアデルの事はそれなりに心配らしく、トキの手を離れたステラは恐る恐ると眠っているアデルに近付く。寝息を立てているアデルの湿った鼻に自身の鼻を擦り寄せ、ステラは不安げに尻尾を下げた。



「……プギ〜……」


「……大丈夫よ、ステラちゃん。眠ってるだけだから」


「プギギ……」


「この様子だと、アデルは暫く起きねえな……。トキ、アデルの変化リボン、まだ持ってるか?」


「ああ」


「じゃあそれ巻いて、仔犬のまま抱いて連れて行こうぜ。この部屋見張ってた外の見張りは片付けといたし、脱出経路の算段は立ってる。さっさとここを脱出して──」



 ──と、ロビンがそこまで語った直後。


 ゴォォォッ! と突如大きなエンジン音が響き、部屋の床がぐらりと傾いた。「うわ!?」と目を見開いた一同は咄嗟にその場にしゃがみ込む。



「……っ、まずい、もう飛んじまったか!?」


「な、何だ、何が起きてる!? どういう状況だ……!?」


「ここ、白鯨ヴァラエナの中なんだよ! カルラの連中が飛空挺を乗っ取ったんだ!!」



 ロビンの言葉にトキは息を呑んだ。白鯨ヴァラエナをカルラが乗っ取った──つまり自分達はカルラ教の連中と共に、飛空挺に乗せられて飛び立ってしまったという事になる。


 だとすれば、行先は、おそらく──。



「……北の亡国……“カルラディア”に向かうつもりだ……!」


「は……っ? 何?」


「セシリアの力で……〈万物の魔導書オムニア・グリム〉を開こうとしてやがるんだ、アイツら……」



 苦々しく呟かれたトキの言葉。ロビンはよく理解していないようだったが、セシリアは表情を曇らせて俯いた。不安そうに瞳を揺らす彼女の手に、トキは自身の手のひらを重ねてセシリアの顔を覗き込む。



「……心配すんな、セシリア」


「……トキさん……」


「俺が守る。必ず」



 ふ、と優しくトキが微笑み、重ねた手のひらに力を篭める。そんな二人に向かって、ロビンもニッと八重歯を覗かせて破顔した。



「俺も俺も! 飛び立っちまったモンはしょーがねえよな! なんかよく分かんねーけど、俺もアイツらから二人を守ってやるぜ!」


「……お前は賞金が欲しいだけだろ」


「ぎくり。……まあ、それもあるけどさァ……」



 へらりと苦笑して、ロビンは揺れる床を踏みしめながら立ち上がった。窓が無いため、どの程度の高度を飛行しているか分からない。しかしおそらく、もう随分と高い位置を飛んでしまっているだろう。


 ロビンはふとポケットに手を突っ込み、先程トムソンから預かった“お守り”を指先で撫でた。約束して、と微笑んだ彼の事を思い出し、ロビンは目を細める。



(……お前、分かってたんだな、トムソン)



 ──白鯨ヴァラエナに潜入すれば、おそらくそのまま、ロビンも北の大陸へと飛び立ってしまう事を。


 トムソンは全て分かっていた。だからきっと、ロビンに大切なお守りを渡したのだ。「必ず生きて帰ってきて、返して欲しい」と──彼が無事であるように願いを込めて。


 ロビンは扉の向こうに視線を向ける。姿の見えない友人の頼りない横顔を心の中に思い描いて、彼は笑った。



「……ちょっくら、遠征してくるわ」



 呟き、手の中のお守りを強く握り締める。──必ず帰ってくると、心に誓って。




 4




(──ああ、行っちゃった)



 ヒレのような翼を羽ばたかせて飛び立って行く、白いクジラのような大きな船体を眺めながらトムソンは目を細めた。


 ロビンは、無事に潜入出来ただろうか。

 トキやセシリアと、合流出来ただろうか。


 募る不安が大きく膨らみを増す。しかしそれを振り払うように、トムソンは首を振った。



(……ううん、大丈夫。だってロビンは強くて、大きくて、いつだって……帰って来てくれるから)



 やんわりと微笑み、トムソンは人の居なくなったターミナルに足を踏み出す。大空へと飛び立つ白いクジラを眩しそうに見上げて、彼は口を開いた。



「──行ってらっしゃい、ロビン」



 ずっと、待ってるから。


 様々な思いを胸に抱えた彼らを乗せた飛空挺は、大空に翼を広げ、情熱の街・カーネリアンを後にする。


 極寒の北の果て──世界を創った魔導書の眠る、亡国へと向かって。




 .


〈情熱の街と自由の信教者……完〉

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