第76話 畏怖との邂逅


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 黒いレザーグローブの上から手を引かれるまま、ばたばたと懸命に足を動かす。細い通路を駆け抜けるセシリアは息を荒らげ、振り向きもせず目の前を走る彼に向かって声を発した。



「ま、待ってください、どこまで行くんですか……! !!」



 呼びかければ、セシリアの手を引いて走っていた“トキ”がピタリと足を止める。そのまま無言で振り向いた彼の表情はいつもと変わらない仏頂面だったが、不意に腕の中のアデルが「ウゥゥ……」と低い声で唸り始めた。

 何かを威嚇するかのようなそれに、肩で呼吸を繰り返しながらセシリアは眉尻を下げる。



「……? どうしたの、アデル……」


「グルルルル……」



 低く唸るアデルの背を撫で、「大丈夫よ、落ち着いて。さっきの爆発でびっくりしたのね」とセシリアは困ったように笑った。そしてふと、彼女は背後を振り返ってハッと目を見張る。



「と、トキさん、大変です! ステラちゃんがついて来てない……! ロビンさんとトムソンさんも!」



 セシリアは声を張り上げ、キョロキョロと周囲を見回した。──先ほどの謎の爆発の後、トキに手を引かれるまま走って来たため全く気が付かなかったが、背後に居たはずの仲間の姿がどこにもない。どうやらはぐれてしまったらしい、とセシリアは不安げに表情を歪ませた。



「どうしましょう……戻って探しに行かないと! さっきの爆発を起こした人に捕まってたら、大変……っ」


「……」


「……、トキさん?」



 しかしトキはその声に答えず、黙ってその場に立ち尽くすばかり。セシリアは訝しげに眉を顰め、彼の顔を覗き込んだ。



「……? トキさん……どうしました……?」


「……セシリア」



 トキは切なげに目を細め、そっと彼女に手を伸ばす。──しかしその瞬間、アデルが牙を剥き出してその腕に勢い良く噛み付いた。皮膚を突き破り、ガリィッ! と深く食い込んだ牙にトキは表情を歪めて手を引っ込める。



「──いっ……!!」


「きゃあ!? ちょ、ちょっと、アデル……!」


「グルルルル……!」



 アデルはあからさまに牙を剥き出し、トキに向けて明確な敵意を放っていた。普段では考えられないその様子に、セシリアはようやく状況の違和感を覚え始める。


 ──アデルは、信用している人間に噛み付いたりしない。つまり目の前の彼が“トキ”なのであれば、噛み付いたりするはずがないのだ。


 しかし、彼が、“トキ”ではないとしたら。



「……誰……?」



 セシリアは腕の中のアデルをぎゅっと抱き締め、小さく声を発した。



「……貴方、誰ですか……?」


「……!」


「トキさんじゃない……。アデルは、トキさんに噛み付いたりしません。……貴方、昨日の偽物さんでしょう?」



 凛と澄んだ真っ直ぐな瞳を向け、セシリアは静かに言い放つ。トキ──否、“トキに扮していた男”は、動揺したようにその場から数歩後ずさった。

 アデルに噛まれたその腕からはぽたぽたと血が流れ落ちていて──途端にセシリアは、悲痛に表情を歪める。



「……あ、待って! 血が出てます……! ごめんなさい、アデルが噛んでしまって……見せてください、すぐに治療しますから」


「……っ、は……? 何言ってんだよ……状況分かってないの? 僕はアンタの仲間のフリして、アンタを連れて来た。煙幕玉を投げつけたのも僕だ。……つまりアンタは、僕に騙されたんだよ。それなのに……」


「でも、貴方は悪い人じゃありません! だって、私の事を守ってくれたでしょう? ベッドに倒れた時……私が、怪我しないように。……だから、」



 ──私は、貴方を悪い人だと思えないんです。


 そう続いた言葉の後、やんわりと細められた翡翠の瞳。彼女の言葉に男は目を見開いて声を詰まらせ──やがて居心地悪そうに視線を逸らした。素直なその反応は“本物”の彼とは随分と違って、ふふ、と微笑みながらセシリアは“偽物”であるトキに手を伸ばす。



「さ、怪我を見せて下さい。すぐ済みますから」


「……」



 伸ばされた華奢な手。優しい微笑み。

 偽物の彼は何か眩しいものでも見たかのように目を細めた。そのまま引き寄せられるように、血の滴る腕が彼女の元へと伸びて行く。──しかし、その刹那。



 ──ドスッ。



 彼の耳に届いたのは、柔肌を貫く鈍い音。



「──……、」


「……っ!!」



 見開かれた翡翠の瞳。消える笑顔。

 やがてふるりと震えた彼女の唇の端から、真っ赤な血液がどろりとこぼれ落ちた。反射的に視線を落とすと──セシリアの腹部を、見覚えのある黒い刃が深く貫いていて。



「……、あ……」



 伸ばした手が細い腕を掴む間も無く、セシリアの体は前方に傾いてどさりと地面に倒れる。その瞬間、彼の背筋にはぞっと冷たいものが押し寄せた。

 声も出せず、浅い呼吸を繰り返し、腹部と口元からおびただしい量の血を流して倒れ込んでしまったセシリア。そんな彼女に向かって吠える仔犬の悲痛な鳴き声が、耳の奥に突き刺さる。



「……せ、セシ、リ……」



 彼女の名を紡ぎ掛けた彼だったが──その声を遮り、その場に響いたのは聞き慣れた女の声で。



「あははっ! ベンジー、なーにモタモタしてるの〜?」


「!!」



 男──ベンジーは蒼白に染まった顔を即座に持ち上げた。すると楽しそうに舌舐めずりをするテディが、恍惚と蕩けた表情でその場に立っていて。

 彼女の右脚の先は黒く鋭い鋭利な刃物へと変貌しており、切っ先からは今しがた貫いたセシリアの血液がぽたぽたと滴り落ちて地面に血溜まりを作っている。



「……て、テディ……! お前……っ、何してるんだよ!!」



 ベンジーは震える声で彼女を怒鳴りつけた。対するテディは「ん〜?」と不思議そうに首を傾げる。

 彼は戦慄わななく両手を握り締め、きょとんとしている彼女を睨み付けた。



「この子は……、セシリアは! 導師様の所に連れて行くんだろ!? なのに、どうしてこんな……!」


「あ、なーんだ、その件か〜。なんかねえ、導師様が言ってたんだけど、この子って“アルタナ”なんですって〜」


「……っ、アルタナ……!?」


「そうそう。だから多少“雑”に扱っても大丈夫らしいからさ〜、つい♡」



 くすくすとテディは笑い、刃へと変貌していた片脚を元に戻す。コツコツと踵を響かせてセシリアに近付く彼女に仔犬姿のアデルが低く唸って威嚇するが、テディは楽しそうに舌を出すと「グルルル……」と牙を剥き出して敵意を放つアデルの体を蹴り飛ばした。「キャウンッ!」と悲鳴を上げ、小さな体が壁に叩きつけられる。



「……っ、ア、デ……ル……!」


「あは、何あの可愛いワンコ! 白銀の毛が素敵ねっ! あとで私の新しい帽子の材料にしちゃおっかな〜」


「ぅあっ……!!」



 テディは倒れているセシリアの背を踏み付け、先程自身が貫いた傷口にかかとを押し付けて血の吹き出すその場所をぐりっ、とえぐった。身をつんざくような激痛に「ああぁぁっ!!」と叫ぶセシリアに頬を緩ませ、テディは赤い目を細める。



「うふふっ、良い声で鳴くじゃなーい! 初めまして、本物のセシリアちゃん♡ 私ね、テディっていうの。今から、貴女をとーっても素敵な導師様の所に運んであげるから、よろしくねー?」


「……ひ、っ……、う……ぁ……」


「あは、痛かった? でもどうせ治るし、いいでしょ? 羨まし〜な〜、傷も痣も治っちゃうんなら、お肌いつでもすべすべって事? こーんなに綺麗なお肌がキープ出来ちゃうなんて、素敵ぃ〜」



 くすくすくす。テディは楽しげに笑いながらセシリアの髪を掴むと無理矢理その顔を引っ張り上げた。セシリアは口元に血を滲ませ、涙の溜まった虚ろな瞳で遠くに倒れているアデルを見つめる。



「……っ……」


「あ〜、もしかしてあのワンちゃんが心配? 可愛いワンちゃんだものね〜」


「……っ、やめ、て……! アデル……には、何も、しないで……」



 短く呼吸を繰り返し、消え去りそうな声でセシリアはテディに懇願した。悲痛に訴えかける彼女の表情に、テディは「あはっ」と熱を帯びた吐息を漏らしつつ口角を上げる。



「ああん……その顔とっても可愛い〜! セシリアちゃんはやっぱり、苦痛に歪む顔が似合うのねっ♡ 私の見立てに狂いはなかったわ〜」


「……っ」


「あは、もっと見たくなっちゃうなぁ〜……。ねえ?」



 ──ぱちん、と鳴らされる指。

 その瞬間、どこからともなく現れた無数の黒蛇が、倒れているアデルの元へと群がった。「キャウッ……!」と力無く鳴いて蛇に首を締め上げられた彼に、セシリアは目を見開いて掠れ声を張り上げる。



「アデルっ……!!」


「あははは! 魔物なんか心配しちゃって、セシリアちゃん優し〜! あのワンちゃんが死んじゃったら、もっと泣き叫んでくれる?」


「やめて……っ! お願、っ……やめてぇ……っ!!」



 セシリアは重たい腕を懸命に持ち上げ、縋るようにテディの衣服を掴んだ。「やだ、シワになっちゃう」とテディは眉を顰め、セシリアの横腹をバキッ、と豪快に蹴り飛ばす。

 為す術も無く地面に叩きつけられた彼女はゴホゴホと咳き込み、激痛と共に迫り上がる血反吐を地面に吐きこぼしながら倒れ伏した。朦朧とする意識の中、薄く開いた瞳に悶え苦しむ相棒の姿が映り込む。



(……アデル……!)



 このままでは、アデルが絞め殺されてしまう。セシリアはグッと歯を食いしばり、途切れそうな意識に鞭を打って震える手のひらに魔力を込めた。

 そこに宿った白い光は徐々に鎖の形を形成し、やがて蛇の群がるアデルの元へと一直線に放たれる。



「!」



 突如放たれた魔法の鎖に、テディの瞳が大きく見開かれた。

 聖なる“光”の魔力で作り出された鎖は“闇”の魔力で生成された黒蛇の群れを蹴散らし、アデルを捕捉すると一気に蛇の中から引っ張り出す。そのまま通路上に投げ落とされたアデルは金の瞳を力無く開き、倒れているセシリアへと視線を向けた。



「……逃げ、て……アデル……」


「……」


「トキさん達の、ところに……」



 早く……、と弱々しく紡いだ所で、再びセシリアはテディによって髪を掴み上げられた。痛みによって魔法の鎖が途切れた頃、アデルは彼女の指示通りに地面を蹴って一目散に走り出す。

 去って行くその背中に「あーあ、ご主人様を置いて逃げちゃった〜。見捨てられて可哀想に、セシリアちゃん」と笑うテディだったが、自分を置いて逃げてくれた事にセシリアは心底安堵していた。──仔犬の姿のアデルでは、彼らとは戦えない。ここにいては無残に殺されてしまうだけだ。


 そう考えた頃、丁度セシリアの腹部の傷が青い光を纏って塞がり始めた。「うう……っ」と小さく呻いて傷が塞がって行く彼女の様子に、テディは感心したように瞳を輝かせる。



「あー! すごい! 本当に傷が塞がるのねっ!」


「……っ、はあ……っはあ……!」


「ねえ、これって限界は無いの? どんどん傷増やしても良いの? あはは!」



 テディは高揚したように声を張り上げ、セシリアの体を力一杯壁に叩き付けた。ガンッ、と全身を強打し、打ち付けられた頭が割れるような痛みに襲われる。背中を丸めてその場に蹲ったセシリアはゴホゴホと噎せ返り、恐怖に慄きながら一歩一歩近付くテディを見上げた。

 真っ赤に色付いた両の目を大きく見開き、「あーっ、楽しー!」と高らかに笑って、再びテディは刃と化した右脚を振り上げる。



「せっかくだから〜、死なないギリギリまで、殺してあげちゃお……♡」


「……っ!」



 鋭い漆黒の切っ先が迫り、セシリアは次に来るであろう痛みを覚悟してぎゅっと目を閉じた。──しかし、その身をテディの刃が貫く事は無く。

 ガキィン! と耳を劈くような金属音がすぐ近くで響いて、セシリアはぎゅっと閉じていた瞼をおずおずと持ち上げる。


 すると目の前には、テディと同じくを黒い刃に変えたベンジーが、“トキ”の仮面を脱いだ本来の姿でセシリアに振り下ろされた一閃を阻んでいた。



「……!」


「……テディ、遊び過ぎだよ。少し落ち着け」



 声を低め、ベンジーはテディを睨む。“楽しい遊び”を邪魔されたテディは、真紅の瞳をゆらりと彼に向けた。



「……なあに? ベンジー。どうして私の邪魔するの?」



 ピリ、とその場の空気が一気に張り詰める。ベンジーは一瞬息を飲んだが、冷静に彼女を睨み付けたまま低く声を発した。



「……。ほら、導師様がお待ちかねでしょ? よく考えてよテディ。早くこの女連れて行けば、導師様に喜んで貰えて、もしかしたら頭撫でて貰えるかも──」


「──頭ナデナデ!?」



 ベンジーの発言にテディが即座に反応する。彼女は頬を紅潮させ、うっとりと目尻を緩めた。



「ああん……! 導師様にそんな事されたら、テディすぐイっちゃう……」



 恍惚と頬を上気させる彼女の反応を眺め、ベンジーは密かに口角を上げた。

 テディはこう見えて単純だ。甘やかされたい欲求が強く、子供っぽい。──双子であるだけに、彼女の扱いは嫌という程心得ている。



「……頭ナデナデされるために、そろそろ遊びはやめて戻ろうよ。五体満足で連れて行かないと怒られちゃうかも」


「あは、そうねっ!」



 ベンジーの言葉に満面の笑みを振り撒き、すぐさまテディは踵を返した。上機嫌で離れて行く彼女の様子にベンジーはほっと胸を撫で下ろし、その場に座り込んでいるセシリアの体を抱き上げる。



「……いっ……!」


「……ごめん。少し我慢して」


「……」



 セシリアは力無く彼を見上げた。

 テディと同じ、亜麻色の髪と赤い瞳。長い前髪を流して片方の目を隠している。年齢はセシリアと同じか、少し下ぐらいだろうか。中性的な顔立ちの彼は、気まずそうにセシリアから目を逸らしていた。



「……偽物さん……って……」


「……」


「……本当は、そんな顔、していたんですね……」



 弱々しく紡がれた声に、ベンジーは黙り込む。ややあって、「……アンタの連れみたいに男前じゃないから、がっかりしたでしょ」と続けた彼に、セシリアは小さく首を振った。



「ううん……。優しそうで、安心しました……」


「……優しくなんか……」



 ない、と続くはずだったベンジーの言葉だが、それは声になる事なく即座に飲み込んでしまう。──というのも、抱き上げているセシリアの顔が想像以上に近い位置にあり、こちらをじっと見つめていたからで。

 途端にベンジーの頬は紅潮し、心臓が早鐘を刻み始めた。



「……っ」


「……? あの……?」



 どうしたんですか……? と純粋に向けられる丸い瞳。ベンジーは手のひらに汗を滲ませ、彼女から顔を背ける。



「な、な、な、何でも、ない……!」


「……あの、もしかして、まだ体調悪いんですか……? 昨日、少し様子がおかしかったですし……」


「違……、あれはアンタの紅茶を飲んだからで……」


「……え?」


「い、いや! ……何でも無い……」



 ぼそぼそと声を紡ぐベンジーにセシリアは首を傾げる。するとその時、「あー! 導師様ぁー!」とテディが声を上げた事でベンジーはハッと身を強張らせた。

 恍惚と熱視線を向けるテディの瞳の先には、“セシリアを連れてこい”と命令した張本人である導師の姿。ベンジーは息を飲み、腕の中のセシリアを隠すように強く引き寄せる。



「導師様、わざわざここまで足を運んで下さったの〜!? テディちゃん感激しちゃう! 私に早く会いたかったのかなあ、なんて……♡」


「ええ。もちろん君にも会いたかったですよ、テディ」


「はぅんっ……! テディ嬉しい……っ」


「ふふふ。本当は、君たちの帰りをもう少し待ってるつもりだったんですがねえ。ついつい、甘い匂いに誘われてしまって……」



 くすりと微笑み、導師はベンジーの腕の中に居るセシリアに視線を向けた。頭から血を流し、くたりと力無く抱えられている彼女を見つめ、導師は嬉しそうにその目を細める。



「……ああ、やっぱり間違いない、この匂い。甘い、甘い、お菓子のような……、やっと見つけた……」


「……?」


「さあ、僕と一緒に帰りましょうか。今まで一人にしてごめんなさい。きっとずっと、心細かったでしょう?」



 導師は呆然としているセシリアに手を伸ばし、にたりとその口元を吊り上げた。──その瞬間、セシリアの背筋にゾッと悪寒が駆け抜ける。


 彼女の脳裏を過ぎったのは、下卑た笑みを浮かべる。見覚えなどないはずのその男の姿が脳裏に焦げ付き、セシリアは言葉も発する事が出来ずに震え上がった。


 感じたのは、明確な、恐怖。



(……何……っ、怖い……! この人、誰……!?)



 脳裏で笑うでっぷりと太った大男と、目の前で微笑む男には共通点など一切感じられない。しかし、セシリアは彼に強い既視感を覚えていた。


 体が勝手に震え始め、はあ、はあ、と短い呼吸が唇から漏れる。恐怖の色を濃く孕ませた双眸は男の姿を捉えたまま、逸らす事が出来ない。

 セシリアはぎゅっとベンジーの衣服を握り締め、震える唇を噛み締めて彼の胸に縋り付いた。


 そんな彼女の様子に、導師がきょとんと瞳をしばたたく。



「……おや? 暫く見ない間に、随分と雰囲気が変わってしまいましたねえ? 僕の事が分からないようですし……」


「……っ」


「ふふ、まあいいでしょう。怯えて可哀想に。ほら、おいで。一緒に帰りましょうか、可愛い僕の──」



 ──“ドルチェ”。



 どくん、とセシリアの胸が大きく跳ねる。どこかで聞き覚えのある名前に、セシリアは言葉を失ったまま目を見開いた。



『──ドルチェ』



 その名で呼びかける野太い男の声が、頭の中で木霊する。


 重たい手足。ジャラ、ジャラ、と耳に纏わり付く鎖を引きずる音。げっそりと痩せ細った自分の腕には、赤黒くこびり付く渇いた血痕。

 太った大男の下卑た視線に晒された後、芋虫のような太い指が身体の上を這う。身に纏った“衣服”とも言い難いボロボロの布切れを捲りあげられて、興奮したように鼻息を荒くする男を睨んで。血の味で一杯の舌の上に、男のものが捩じ込まれる。


 ──ねえ、もう、しにたいよ。


 か細く呟く、幼い少女の声が、耳に届いた。

 次いで、覚えのある少年の声も。



『君が死ぬ事はないさ』



 ──邪魔なものは、殺してしまえばいいんだから。



「う、あ……っ」



 ガタガタとセシリアは震え、頭を押さえてベンジーに強く縋り付いた。そんな彼女の様子を満足げに眺めて、導師はにっこりと破顔する。



「やっぱり、なんだか雰囲気が変わりましたねえ。でも、君はドルチェだ。間違いなく、ね」


「う、うぅ……っ」


「そうだなあ……。まずは、僕とお話ししましょうか? そして、しっかり教えて貰わないとね」



 導師は微笑み、涙を流して震えるセシリアの頬を撫でた。



「──盗んだを、何処にやったのか」



 畏怖する彼女の翡翠の瞳が、更に大きく見開かれる。得体の知れない恐怖で心が塗りつぶされたセシリアの目尻からは、大粒の涙が一筋伝って、地面にこぼれ落ちて行った。




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