第77話 貴方の傍に居たい


 1




「チッ、どこ行きやがった……!」



 薄暗い通路を駆け抜け、トキは苦々しく声を紡いだ。前方を走るロビンも額に汗を滲ませながら、薄暗い通用口に繋がる扉を次々と蹴破って行く。



「あー、くそっ、ここにも居ねえ……! ターミナルの外には出てないだろうし、こういう隠れやすい通用路のどっかに居ると思うんだけどな……っ」


「……チッ」



 ロビンが悔しげに唇を噛んだ頃、トキは足を動かしたまま彼に視線を向けた。そしてふと、「そう言えば、あいつは一人にして大丈夫だったのか」と尋ねたトキに、ロビンは一瞬きょとんと瞳をしばたたく。

 しかしややあって、彼がトムソンの事を言っているのだと理解した。



「……ああ、トムソンか。あいつ、魔力はそこそこあるけど“変化属性”の魔法しか使えねーからなあ……。危ないとこには連れて行けねーよ」


「……“変化属性”……」



 呟きながら、トキはアデルの首に巻かれていた黒いリボンの存在を脳裏に思い起こす。“変化属性”の魔力が付与されているという、いわゆる魔法具。──昨日対峙したテディが、それと全く同じ物を太腿に巻いていた事も、彼は同時に思い出していた。



「……おいゴリラ。お前が持ってた“変化リボン”って、あのモヤシが作ったって言ってたよな」


「え? ……あー、うん、そうだぜ。トムソンって意外とそういう才能あってさ、偶然あの魔法具作り出したんだよ」


「……その時、作ったリボンは一つか?」


「いや? 多分全部で三つはあったような……。そのうちの一つは俺が貰ったんだけど、残りの二つはつい一週間ぐらい前に知らない男に売っちまったんだよな、確か」



 ロビンは細い通路を駆け抜けながら顎に手を当て、一週間程前にトムソンに声を掛けてきた見知らぬ男の姿を思い返す。丁寧な語り口調で声を掛けてきたその男は、黒いフードを目深に被り、首に金の首飾りを掛けた物腰柔らかな雰囲気の男だった。



「リボンが欲しいって言われて、トムソンは渋ってたんだけど……結構すげえ額で買い取ってくれるって言うからさあ。つい、そのぉ……」


「……そいつに売ったのかよ」


「う、売りました……」



 金に目がくらんで……、と気まずそうに続けた彼の言葉を耳に流しつつ、トキは眉を顰める。──あのリボンを買った“知らない男”というのが、テディの仲間である事はおそらく間違いない。



(俺のフリしてた野郎も、そのリボンで化けてたってとこだろうな。女の方のリボンは燃やしたが、もう一つはまだ残ってる。……という事は、あの爆発の中でまた偽物に騙されてセシリアが連れて行かれちまった可能性が高い)



 煙幕玉が投げ込まれた時、セシリアは暴れたり悲鳴を上げたりといった“抵抗”をしなかった。それはつまり、身の危険を感じる事無く連れて行かれたという事だ。──おそらく、トキに扮した何者かを、“トキ”だと思い込んで。



「……いけ好かねえな」


「……えっ!? 俺が!?」


「お前の事は元々嫌いだ」



 バッサリと即答したトキにロビンが「がーん!!」とあからさまにショックを受ける。そんな彼を冷たくスルーしてあしらった直後、トキの耳は消え去りそうなか細い声を拾い上げていた。



「クゥーン……クゥーン……」


「……!!」



 ハッ、と目を見開いて彼は足を止める。「おい、どうした!?」と同じく足を止めて振り返ったロビンをやはり無視して、トキは声の届いた方へと身を翻して走った。


 すると狭い通路の壁に凭れ、力無く倒れている白銀の仔犬が視界に飛び込む。



「──アデル!!」



 トキは思わず彼の名を叫び、即座に駆け寄って倒れているアデルを抱え上げた。短く呼吸を繰り返す小さな体は傷付き、金の瞳が弱々しく持ち上がる。



「……っ、おい! しっかりしろよ……!」


「……クゥン……キャゥ……」


「……アデル……!」



 悲痛に表情を歪めながら小さなその身を抱くと、不意にグッとストールを引かれた。傷付いたアデルはトキのストールを噛み、ぐいぐいと引いて彼をどこかへいざなおうとする。アデルの言わんとしている事を、トキは逸早く察した。



「……あっちに、セシリアが居るのか……!?」



 問いかければ、主人とよく似た曇りのない瞳が真っ直ぐとトキを見つめる。それを肯定だと捉えたトキは立ち上がり、アデルを抱いたまま地面を蹴った。途端に、風のような速さで彼は走り出す。


 凄まじい速度で通路を駆け抜けて行くトキの背を慌てて追うロビンだったが、本来“賊”である彼のスピードには到底追い付けない。一瞬で視界から消えたトキに向かって、ロビンは腹の底から叫んだのであった。



「トキお前、そんな足速ぇぇのぉぉぉ!!?」




 2




「……っ、う、ぁ……」



 苦しげに呻く声が薄暗い通用路に響く。塗装の剥がれた壁に凭れかかったセシリアは、青い光に包まれて傷を塞いでいる最中だった。

 額に汗を浮かべて苦しげに呼吸を繰り返す彼女を、ベンジーが心配そうに覗き込む。しかし傍にテディや導師が居るため、下手に彼女を擁護する事は出来なかった。ベンジーは手のひらを強く握り、悔しげに唇を噛む。


 ──そもそも一体なぜ、自分がこの状況をこんなにも歯痒いと感じてしまうのか、彼には理解が出来なかった。



(……僕、何で、たかが人間の小娘の事……こんなに心配してるんだろ……)



 ベンジーは視線を落とし、不可解な自分の行動に顔を顰める。──この身は人間とは違う。魔女に生み出された、だというのに。

 “毒蛇”と呼ばれる彼らは、感情を持ち、自らの意思で物事の判断が出来るとはいえ、魔女マスターの気分次第ではいつでも抹消する事が出来てしまう──そんな半端な存在なのだ。


 生きてないし、死んでもない。

 魔女に作られた、彼女の玩具ペット


 自分も、テディも、エドナも、アルマも。



(……僕達ペットの目的は、〈最初の涙プリミラ〉の原石を探し出し、結晶になった女神を蘇らせて──殺す事だ……)



 それを遂行するために、彼らはイデアと共に存在している。魔女のが解かれ、女神が自らの涙と共に眠った、あの日からずっと。


 他の古代魔女の邪魔な遺品グラン・マグリアを壊し、魔女の手駒として、〈最初の涙プリミラ〉の在処を探し続けた。──そしていつだったか立ち寄った街で、とある宗教を率いている男が〈最初の涙プリミラ〉についてよく知っているらしいと、彼らは小耳に挟んだのだ。


 情報を集めるつもりで踏み込んだ、“カルラ信仰”を掲げる組織。そこで出会った男というのが、この導師だった。



『我々はヴィオラ女神信仰は意味の無い物であると考えます。女神は我々を見守ってなど居ません。何故なら、もうとっくに死んでいるのですからね』



 にこりと優しげに破顔したその男は、絹のように流れる栗色の髪が印象的な優しげな青年だった。黒いフードや布で顔を隠す信徒達に向かい、穏やかな口調で語り掛けていたのを覚えている。



『ですから我がカルラ教は、女神ではなく“王”を崇拝しているのです。遥か北の地で栄え、女神の死と共に滅亡した、亡国カルラディア。“自由”を謳い、十二人の古代魔女を生み出した古代の国王・カルラが遺した〈万物の魔導書オムニア・グリム〉は、亡国カルラディアのどこかに眠っています』



 青年の言葉を、信徒達は黙って聞いていた。神でも見ているかのような盲目的なその視線が彼に向かって集中している様は、今思い返してもゾッと背筋が凍ってしまう。不気味だ──そう思ったベンジーだったが、隣のテディは登壇している男の顔が好みだったのか恍惚として熱視線を送っていた。



『女神は既に死にましたが、王の血を引く末裔はまだどこかで。我々はカルラの末裔を崇拝するのです。〈万物の魔導書オムニア・グリム〉を開く事が出来るのは、王の血を引く者だけ。カルラの血筋を探し出し、〈万物の魔導書オムニア・グリム〉の力を利用すれば、我々の手で新たな世界を創り出せる』



 男はよく通る穏やかな声で語り、その目尻を緩めた。



『──つまり、我々は“神”を創るのです。もはや、世界には大地の女神も古代の魔女も必要ない。望むのは新たな“神”。私はをよく知っている』



 ──さあ、我々と共に世界を創りましょう。


 そんな胡散臭い言葉を耳の中に流し込んで、馬鹿馬鹿しいと思いつつも、ベンジーとテディは〈最初の涙プリミラ〉の情報を得るべく彼の信徒となったのだ。


 しかし今となっては──特にテディの方が──どっぷりと宗教にハマってしまい、〈最初の涙プリミラ〉の捜索はそっちのけになってしまっている。


 だが、導師の話によると、どうやらセシリアが〈最初の涙プリミラ〉について何かを知っているらしいのだ。それ故、こうして今も彼女への尋問は続いている。


 導師はセシリアの傷が癒えるのを静かに眺め、再びゆっくりと彼女に近寄った。



「……う、ぅっ……」


「さあ、ドルチェ。もう一度聞きましょうか。君があの時、“最初の涙プリミラの原石”はどこにやったんです? 本当は知ってるんでしょう?」


「……知り、ませ、……っ、私……本当に何も、覚えてなくて……」



 ──バキッ。


 彼女の言葉の全容も待たず、今しがた傷が言えたばかりの腹は導師に蹴り飛ばされた。セシリアは真後ろの壁に背中を打ち付け、ずるずると力無くその場に倒れる。内臓が抉れ出るような痛みに耐えるが、呼吸すらままならず、彼女は目尻に涙を浮かべてその場に蹲った。


 いくら“アルタナ”であるとは言え、身体の内側の痛みまでは消す事が出来ない。ただでさえ寿命が程近い彼女の身体では、傷を癒す度に大きな負荷がかかってしまう。



「……はっ……、あっ……」


「ドルチェ、嘘はいけないよ。君はあの時、持っていったでしょう? 大きな青い宝石を。それをどこに隠したのか、そろそろ正直に教えてごらん」


「……っ、そんなに、大きな宝石……本当に知らないの……、本当です……! 私は、小さな……女神の涙は、持っていましたけど……魔女に、盗まれて……もう……っ」


「そんな小さな物じゃない。もっと大きな、神秘的な輝きを持つ宝石だよ。……本当にどうしたんです? ドルチェ。以前の君は、そんな目では無かったのに」



 顎に手を添えられ、セシリアは強引に顔を上向かせられる。唇を震わせて恐怖におののく彼女を、導師は悲しげに見下ろした。



「……ああ……変わってしまったのですね。以前はもっと光のない瞳をしていたのに。深海のような、深い闇を映していた君が恋しいな」


「……っ」


「先程、“以前の記憶が無い”と言いましたね、ドルチェ。……でしたらもう少し、を再現して思い出させて差し上げましょうか」



 導師は穏やかな笑みを浮かべ、蹲るセシリアを無理矢理突き飛ばすと、仰向けに倒れた彼女の頭を足で踏み付けた。セシリアは逃れようと身をよじるが、導師の靴底が彼女の横面を抉るように甚振いたぶる。「あう……っ」とセシリアが力無く声を発した頃、導師は彼女の腕を取った。



「……!」


「“アルタナ”というのはね、傷だけでなく骨まで修復出来るのですよ。例えばこうやって、」


「……っ、あ、ああぁ……!」



 本来とは真逆の方向に腕を反らされ、セシリアの身体が強張る。折られる──そう彼女は危ぶみ、その手を振り払おうと抗うが、逃れる事が出来ない。



「あああっ……!!」


「ふふ。相変わらず、君はいい声で叫びますねえ。ほら、もうすぐ折れますよ」


「いやぁっ!! やめっ……あ、ぁ……っ!!」



 ぎりぎりと、骨が軋む。セシリアはぼろぼろと涙を落とし、地面に額を擦り付けながら彼の拘束を脱しようともがいた。だがやはり彼の手中に囚われたまま彼女は身動きが取れず、悲鳴を上げる声すら掠れて行く。



「う、あ、あぁぁ……っ!!」


「ほら、もう少し」


「ああぁああっ!!」



 断末魔のような悲鳴が喉を潰さんばかりに飛び出して。もうダメだ──と心すらも真っ二つに折れかけた、その時。


 ビュンッ、と風を切る音が、セシリアの耳には届いた。


 次いで、ドスッ、と何かが突き刺さる鈍い音と共に、折られかけていた腕の痛みが緩和される。



「──っ、ぐああぁッ!!?」



 それと共に響いたのは、今の今までセシリアを甚振っていたはずの導師の叫び声。その瞬間、掴み取られていた腕は解放され、彼はセシリアの上から退しりぞいた。



「う、うぅ……ぐっ!」


「導師様!!」



 テディが悲鳴のような声を上げる中、何が起きたのか分からぬまま荒い呼吸を繰り返していたセシリアの体が抱き上げられる。ふわりとよく知っている匂いが鼻を掠めた途端に──彼女はドッと安堵して大粒の涙を滑り落とした。



「……っ! トキ、さ……っ」


「はあ……っ、セシリア……!!」



 彼女を抱き上げたのは、やはりトキだった。


 息を荒らげ、額に汗を浮かべたトキは傷付いた彼女を見下ろしてギリッと歯噛みする。直後、彼はセシリアとアデルを隠すように腕の中にしまい込み、カルラ教の面々を睨み付けながら即座に地を蹴って駆け出した。──殺してやりたい程の怒りを感じてはいたが、まずはセシリアとアデルを安全な場所へ避難させなくてはならない。そう判断出来るだけの冷静さはまだ残っている。


 先程トキが投擲した短剣によって、導師は肩を深く貫かれていた。彼は憎らしげにトキの背中を睨み、逃げる彼らにテディとベンジーを差し向ける。



「あの男を殺せ! ドルチェを奪い返せ!!」



 その指示を受け、テディはにんまりと口角を上げてトキを追って走り出した。ベンジーは些か迷ったが、奥歯を噛み締めつつ彼女の後に続く。


 迫り来る二つの気配にトキは舌を打ち、スピードを上げて細い脇道へと逃げ込んだ。入り組んだ通用路を駆け抜け、二人を撒こうと考えるが、セシリアとアデルを抱えているため思うように速度が上がらない。徐々にそのスピードは落ち、追っ手を振り切る前にトキは一度足を止めて物陰へとその身を潜めた。



「……っ、はあ……はあっ……」



 上がる息が追ってくる彼らの耳に届かぬよう抑えつつ、トキはセシリアとアデルの体を強く抱き寄せてその場に座り込む。不安げなセシリアもまた、トキに身を寄せてアデルの体を強く抱き締めた。


 カツ、カツ、と響く二つの足音。「トキさーん、セシリアちゃーん? 出ておいで~?」と楽しげに呼び掛けるテディの声が近付き、トキは武器に手を掛けて身構えながら気配を押し殺す。


 ──カツ、カツ、カツ。


 ヒールを打ち鳴らす音が、彼らのすぐ近くで止まった。



「……っ」



 息を呑み、トキはセシリアを更に抱き寄せる。バレたか──そう危ぶんだ頃、ふと彼らのいる場所を覗き込んだのは、ベンジーの方だった。

 彼は物陰に身を潜めている一行の姿を視界に入れ、その目を大きく見開く。



「──!」


「ベンジー!」



 一瞬硬直してしまった彼だったが、そんなテディの声によってハッ、と我に返る。

 即座にベンジーは振り返った。しかし一体何を思ったのか、カツカツと踵を鳴らして近付いてきたテディの目から隠すように、彼はトキ達の潜む場所の前に立ちはだかると「何?」と涼しげに首を傾げる。



「こっちには居ないっぽいんだけど、そっちはどうー? 居そうな感じー?」


「……いや。ここには居ないみたい」


「──!」



 ベンジーの出した答えに、トキは目を見張った。セシリアは薄く瞳を開き、亜麻色の髪を持つ彼の後ろ姿を黙って見つめる。



「……あれえ? おっかしーなぁ、こっちに来たと思ったけど〜」


「……」


「じゃあ、もう一つ向こうの通路かしら。行ってみましょ、ベンジー」


「……うん、そうだね」



 ヒールの踵を響かせて離れるテディの言葉に頷き、ベンジーはトキとセシリアが隠れているその場所を再度一瞥した。今度はしっかりとトキと目が合ったが──やはり彼は何も報せず、先を行くテディの後を追ってその場を離れて行く。


 やがて彼らの足音が遠くへと消えた頃、トキは強張らせていた肩の力を緩めて眉を顰めた。



「……? アイツ、何で俺達を見逃したんだ……?」


「……あの人……、きっと、そんなに悪い人じゃ、なくて……っ、う……」


「! おい、大丈夫か……!?」



 苦悶の表情を浮かべてトキに凭れかかったセシリアに、アデルが「アゥン……」と弱々しく声をこぼす。「あ……大丈夫です……」と力無くセシリアは笑ったが、トキは表情を歪め、その体をやんわりと引き寄せて抱き締めた。



「……!」


「……馬鹿……無理してんじゃねえよ……」


「……トキさん……」


「痛いなら痛いとか、辛いなら辛いって、ちゃんと言え……。俺をもっと頼れよ……余計な心配しちまうだろ……」



 苦くこぼれる言葉の後、切なげに細められた瞳。トキはセシリアを抱き締めたまま、同じく心配そうな表情で見上げるアデルの体も優しく腕の中に収めた。



「……正直、焦った……かなり……」


「……」


「犬が倒れてんのを見た時も、アンタの叫ぶ声が聞こえた時も……本気で心臓止まるかと、思った……」



 珍しく不安げな声で語るトキは、片手でアデルの首元を撫でながらもう片方の手を痛々しく腫れ上がったセシリアの頬に添え、互いの額をコツンと合わせる。彼女の肌に残った痣を切なげに見つめて、トキは鼻同士が触れ合うような距離感で口を開いた。



「……痛いか?」



 掠れ声が尋ねて、セシリアはやんわりと頬を緩ませる。──不謹慎かもしれないが、こうして彼が自分やアデルの身を案じるような言葉を素直に掛けれるようになった事が、ほんの少しだけ嬉しかった。



「……はい。少し、痛いです」


「……治せ、ちゃんと……。傷、残すなよ……」


「ふふ、残しません。大丈夫」



 微笑みと共に答えた後、交わるのは互いの視線。そのまま二人は一瞬の沈黙を挟んで──セシリアの方から、そっと目を閉じる。

 まるでそれが合図であったかのように、トキは──さり気なくアデルの両目を片手で覆い隠して──ゆっくりと彼女に顔を近付けると、血の滲んだその唇を優しく塞いだ。

 押し当てるだけの熱。それが離れると、セシリアは瞳を薄く開き、トキの胸に寄りかかった。



「……トキさん、あのね……」


「ん……何」


「……私、やっぱり……“セシリア”じゃ、ないみたいなんです」



 紡がれた彼女の言葉に、トキは声を詰まらせて目を見開く。セシリアはトキの胸に顔を埋め、続きを口にした。



「……私、“ドルチェ”って名前なんですって……。私を捕まえた男の人……私の事、知ってた……。やっぱり私……あんまり綺麗な過去じゃなかったんです……」


「……思い出したのか?」


「いいえ……。でも、少しだけ……」



 セシリアの頭の中で、でっぷりと太った男が下卑た笑みを浮かべる。自分の着ているボロボロの衣服を裂き、のしかかってくる巨体。──そんな憶えのない記憶が断片的に脳裏に流れ、セシリアは震えながらトキに縋り付いた。



「……っ、私……っ、やっぱり、奴隷でした……」


「……」


「きっと、たくさんっ……汚い事……っ」



 涙声を紡いでしゃくり上げ、トキの胸で泣き始めた彼女をアデルが「クゥン……」と心配そうに見つめる。小さな体で擦り寄り、涙の伝う頬を舐め取るアデルの背中を支えつつ、トキはセシリアの後頭部を不器用に撫でた。



「……俺は、“ドルチェ”なんて女、知らねーよ」


「……!」


「俺は“セシリア”しか知らない。……アンタだって、“俺”しか知らないだろ」



 トキは震えるセシリアをアデルと共に腕の中に閉じ込め、痣の残る彼女の顔に頬を寄せる。



「俺は、“セシリア”を選んだし、“セシリア”が俺に誓った。俺の呪いを解くってな」


「……っ」


「だから他の奴は知らねえ。たとえそれが、過去のアンタの姿でも……今は“セシリア”だ。俺は、」



 ──今のアンタが傍に居れば、あとはどうだっていい。


 耳元で紡がれる言葉に、セシリアはぼろぼろと涙を落とした。四肢に響く痛みを無視して、彼の背に腕を回す。



「……私が、過去に、汚い事してても……?」


「ああ」


「……っ、一緒に、居てくれるの……?」


「何度も言わせんなよ、そう言ってるだろ」



 呆れたようにこぼして、彼は震えるセシリアの唇を掠め取った。涙でぐちゃぐちゃの彼女にトキは微笑み、「泣くなよ、不細工」と揶揄を紡いで再び口付ける。



「……っ、ひ、……ぐす……っ」


「俺は、アンタと居る。置いてなんか行かない。……アンタが、この世界に居る限り」


「……っ、わた、しも……」



 あなたの、傍に居たい。


 涙の溜まる目尻を緩めて、セシリアは微笑んだ。彼女の答えにトキは「知ってる」と意地の悪い笑みを向け、最後にまた一つ口付けを奪うと、その手を取って立ち上がる。



「ほら、さっさと逃げるぞ。さっきの連中が戻って来たら厄介だ。行けるか?」


「……はい、大丈夫です……っ、行きましょう!」


「キャン!」



 尻尾を振るアデルを抱き、目尻に浮かぶ涙を拭ったセシリアは凛とした強い瞳で頷いた。彼女の手をしっかりと握り、その手を引いて、トキは物陰から飛び出す。


 薄暗い通用路に出た二人と一匹は、追っ手に見つからないよう身を潜めながら、誰も居ない通路を駆け抜けて行った。




 .

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る