第73話 檸檬の切り方


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「……ごめんなさい、トキさん。紅茶、そんなにとは思わなくて……もう少し冷ましてから渡せば良かったですね……」



 いや、熱いとかそういう問題じゃねえわこのクソ女!! と、トキに扮した男は眉間を寄せて涙目になりながら目の前のセシリアを睨み付ける。つい先程、セシリアの手渡した紅茶──という名の劇物──に口を付けてしまった彼は、この世の物とは思えないその味に一瞬意識を失いかけたのであった。

 未だにゴホゴホと噎せ返る彼の背を慌ててさすり、「大丈夫ですか?」と問い掛けて来るセシリアを恨めしげに睨む。大丈夫なわけないだろ! と怒鳴りそうになるが、彼はグッと堪えた。ここで激昂してしまっては怪しまれる。しかし先程の強烈な味がなかなか舌の上から消えず、彼は口元を手で押さえた。



「……っ、う……気分悪……っ」


「えっ、体調悪いんですか!? 大変……! 少し横にならないと……!」


「誰のせいだと思ってんの……」



 わたわたと慌てるセシリアに呆れてしまう。元はと言えばアンタの紅茶がクソ不味いのが悪いんだろうが! と胸中だけで怒鳴り付けながら、男はふらりと立ち上がった。



「……うぇ……ホントに気持ち悪……、ちょっと、水とかないの……」


「あ、さっきの紅茶の残りがそろそろ冷めた頃──」


「あの紅茶はもういい! 水! 普通の水をくれ!」



 再び劇物を差し出そうとする彼女の言葉を必死で遮り、男はセシリアに“水”を要求した。セシリアはきょとんとしながらも「え、ええ……」と頷き、再びキッチンに消える。



(……二度もあんなもん飲んだら、今度こそ死ぬ……! 何なんだよこの女、怖すぎだろ……!)



 彼の味覚を──無自覚に──殺そうとするセシリアに、いっそ恐怖心すら湧いてくる。人間怖い。マジで怖い。


 そうこう考えているうちに、今度は「きゃあっ!」と叫ぶセシリアの悲鳴が耳に届いた。──ゴトンッ! という、不吉な音と共に。



(……何だよ、今度は……)



 ひくりと頬を引き攣らせる。……水を汲んでるだけだよな? 何だ、今の音は。

 嫌な予感をひしひしと感じながら、男はキッチンを覗き込んだ。するとその場には、包丁を持ったセシリアが困ったような表情で立ち尽くしていて。すぐ側にあるまな板の上には果汁が飛散し、半分潰れかけた黄色い物体が乗っている。



「……、何してんの……?」



 状況がよく分からず、つい声を掛けてしまった。するとセシリアは振り返り、「あ、トキさん……」と困り顔で苦笑する。



「あの、気分が優れないようだったので……どうせなら檸檬れもん水にしようかと思って、檸檬を切ってました」


「え、それ檸檬……? めっちゃ潰れてない?」


「この包丁、切れ味が悪くて、力み過ぎちゃって……。檸檬も四分の一程度しか残ってなかったから、少し切りにくいですね」



 ふふ、と微笑み、セシリアは勢いよく包丁を振り下ろした。ゴトン! と鈍い音を立てて彼女の指スレスレのところに叩き付けられた刃は、形の悪い檸檬をぶちゅりと押し潰して更に果汁が飛散する。

 あまりにも危なっかしいその手つきに、男は慌てて彼女の腕を掴み取った。



「ば、バカなの!? アンタ指切れるって!!」


「きゃ!?」


「出来ないならすんなよ、危なっかしくて見てられねーわ! だいたい普通に切りゃいいだろ!? ほら、僕の手を見てろ、こうするんだよ!」



 男はセシリアの背後へ回ると、彼女の両手に自身の手を添えて潰れた檸檬に刃を当てがう。そのままセシリアの手を誘導し、ゆっくりと檸檬に刃を通した。

 五ミリ程度の厚さに切り取られたそれを満足そうに眺め、男はフンッ、と得意げに鼻を鳴らす。



「ほら見ろ、簡単じゃん」


「わあ、凄い! やっぱりトキさんは器用ですね!」


「いや器用っていうか、これ普通に誰でも出来──」



 る、と言いかけたところで、不意に至近距離にあるセシリアの瞳と視線が交わった。はっ、と彼は我に返り、即座にセシリアの手を離すとすぐさま後退して彼女から距離を取る。ドッ、ドッ、ドッ、と心拍数が上がり、手のひらにじわりと汗が滲んだ。



「……っ!」


「……? どうしたんですか、トキさん……体調、やっぱり優れませんか……?」


「い、いや、」


「本当に? 顔、少し赤い気が……」



 熱があるかもしれません、と心配そうに見上げるセシリアの視線に、どくんと彼の心臓は跳ね上がった。──遊び人のテディとは違い、彼は異性に対する免疫がない。ついテディやエドナと居る時の、妹と接するような感覚で密着してしまった己の軽率な行動に強烈な羞恥心が襲う。



(……な、何やってんだ、僕は……!)



 心配そうに見上げるセシリアは、様子のおかしい彼に首を傾げるばかり。「……本当に、大丈夫ですか……?」と不安そうな彼女から目を逸らし、男はなんとか声を絞り出した。



「……っ、い、いいから! 水! 早くくれよ!」


「……え? ……あ、はい。すぐ用意します」



 苦し紛れに怒鳴れば、セシリアは慌ただしく踵を返した。そわそわと落ち着かない胸を押さえ、男は眉根を寄せる。



(……何だよ、何してんの僕……。くそ、せっかく虐めて遊んでやろうと思ったのに……何だこれ、最悪)



 男はぐしゃぐしゃと自身の髪を乱暴に撫ぜ、水を持ってパタパタと駆け寄ってくるセシリアを不服げに睨んだ。「はいどうぞ、お水です!」と差し出されたグラスの底には、先程切り分けられた檸檬の他に潰れた檸檬まで沈んでいる。



(……いや、どう見ても檸檬入れ過ぎだし……)



 細かく切る意味なかっただろこれ……、と男は頬を引き攣らせたが、目の前のセシリアは真剣に心配しているようで、喉元まで出かかっていた苦言も引っ込んでしまった。

 男は渋い表情で深く溜息を吐きこぼし、手渡されたそれに手を伸ばす。結局そのまま、彼の口からは何の悪態も飛び出す事は無く、彼女の作った不味そうな檸檬水を素直に受け取ったのであった。



「……ありがと」


「……あの、本当に大丈夫ですか? それ飲んだら、今日はもう寝た方がいいですよ。明日の午後には飛空挺に乗らないといけないわけですし、風邪を引いてしまっては大変です」


「ああ、そうだね……」



 彼女の言葉を適当に聞き流しながら手渡された檸檬水に口を付ける。案の定、口に含んだそれは強い酸味ばかりが主張していて男はつい眉間を寄せた。しかし先ほどの紅茶の味に比べれば遥かにマシだとさえ思えて、彼は一気にそれを喉に流し込む。



「……ごちそうさま……」



 檸檬の残骸が残ったグラスをシンクに置き、彼はふらふらとキッチンを出た。するとやはり心配そうなセシリアが彼に駆け寄り、その背を支える。



「……っ!」


「トキさん、顔が青くなったり赤くなったり、やっぱり変ですよ? なんだかいつもより態度も素直すぎる気がするし、熱で頭がぼうっとしているのかも……」


「ば、ばか! 引っ付くなよ! もっと恥を持て、女だろアンタ!」


「ほら、やっぱり言ってる事もおかしい……いつもは自分の方からくっついて来るじゃないですか。……昨日の夜だって、その……、あ、あんな事したのに……」


「……!!?」



 かあ、と頬を紅潮させて視線を逸らしたセシリアに、男の心臓が急発進する。──え、“あんな事”って何……もしかして事? そんな関係なの? え、じゃあ何、昨日の夜こいつらこのベッドで、そういう……、とそこまで考えたところで、女性経験の無い彼の頬にはみるみると熱が集中し、あっと言う間に耳まで真っ赤に染まり上がってしまった。

 わなわなと手が震え、汗が滲んで、男はセシリアからそっと顔を背ける。



(……こ、この女、可愛い顔しといて、やる事はしっかりやってんのかよ……!)



 赤く頬を染め、恥ずかしそうに目を逸らし、こんなにも初心うぶな反応を見せておいて。清純そうな見た目をしていながらこの女も、テディと同じで本性はとんでもない性悪しょうわるなのではあるまいか。僕の事を手の平の上でもてあそんで、密かに嘲笑しているに違いない──と、男は在らぬ誤解を加速させながら生唾を飲み込む。


 そんな彼の考えなど知る由もないセシリアは、黙りこくってしまった男を困ったように見上げた。「どうしたんですか……?」と声を掛ければ、彼はぎくりとたじろいでその場から後ずさる。



「い、いや、何でもない……! 何でもないから、ちょっと離れて……!」


「でも、トキさん何か変……」


「うわ、ちょ……!」



 ぐっと至近距離に詰め寄る彼女の可憐な顔に、男の鼓動が早鐘を打ち始める。あまりの距離の近さに思わず息を飲んだ頃、一歩後退した彼は不意に足をもつれさせ、バランスの崩れた体がぐらりと傾いた。突如感じた独特の浮遊感に焦りばかりが先行し、「わ、わ……!」と声を漏らしながら男は反射的に目の前のセシリアの腕を引っ掴む。



「……きゃ!?」


「わあぁ!?」



 ──ボスンッ!


 当然、セシリアの華奢な体ではトキの体重を支えられるはずも無く。結局二人は共にベッドへと倒れ込んだが、セシリアの体を押し潰してしまわぬようにと、男は倒れる直前に彼女の体を無意識に腕の中に抱き込んでいた。


 大して柔らかくもないベッドの上に倒れこんだ二人。暫く沈黙が続く中、ややあって我に返った彼はハッと目を見開いて、無意識に抱き寄せてしまっていたセシリアの体を解放する。



「──ごっ!? ごごご、ごめ……っ!」


「……ふふふっ……びっくりしちゃった」


「……っ」


「ごめんなさい、トキさん。私が怪我しないように守ってくれたんでしょう? ……ありがとう」



 嬉しそうに、優しく微笑む彼女。さらりと流れる髪から漂う良い香り。それらが彼の心拍数を上げて行く。


 互いの鼻同士がくっ付いてしまいそうなほどの距離にあるセシリアの表情は柔らかく破顔し、「あ、重いですよね。今退けますから」と告げて仰向けに倒れている彼の上からその体が離れた。しかし何故だか、離れて行くその重みを手放すのが──酷く勿体無いように思えて。



「……ま、待って」


「……え?」


「離れないで」



 無意識に、口走っていたのはそんな言葉。


 つい真っ直ぐと伸ばしてしまった彼の手は、長いレザーの手袋に覆われた彼女の手を掴み取る。そのまま彼はセシリアの手を引き、小さな悲鳴と共に傾いた彼女の体をベッドに倒すと四肢の自由を奪ってその場に組み敷いてしまっていた。一体自分は何をしているのかと、そんな事を考える前に目の前の華奢な体は再び己の腕の中に収まっていて。



「……、トキさん……?」



 戸惑ったように紡がれた声を、赤く染まる耳が拾い上げる。



「……トキさん、どうしたの……?」


「……っ」



 おずおずと持ち上がる翡翠の瞳。交じり合う視線。トキに扮した男はセシリアと密着したまま、思わずごくりと生唾を飲んだ。

 まっすぐと見つめる瞳が、可憐な表情が。彼女はあくまで仮初かりそめの自分に対してその視線を向けているのだと分かっているのに、“トキ”の向こう側に存在する“僕”を見ているのではないだろうかと、錯覚してしまって。



「……セシリア……」


「……、トキ、さ……」



 彼はセシリアの頬に手を添え、まるで吸い寄せられるように、艶めかしいとすら思える薄桃色の唇へと顔を降ろす。


 徐々に迫る唇。

 それがセシリアの唇と重なるまで、あとほんの数センチ──というところで。爆音と共に扉が開いた。


 ──ドォン!!



「!!?」



 今まさに唇が触れ合う、という直前。

 突如部屋の扉が蹴破られ、二人は目を見開いて顔を上げた。しかし男が驚いている間も無く、その横っ面は振り上げられた脚に蹴り飛ばされてしまう。


 ──バキィッ!!!



「がっ!?」


「きゃあッ!? トキさん……っ!!」



 何者かに蹴り飛ばされたトキが吹っ飛んだ事で、セシリアは悲痛な悲鳴を発した。──しかし、今しがた彼を蹴り飛ばした人物を視界に入れた途端、その瞳は更に大きく見開かれる。


 なぜならその場に立っていた彼もまた──だったのだから。



「……えっ!? と、トキさん!? ……え!? どういう事ですか!?」


「はあ、はあ……っ! 偽物に、まんまと騙されてんじゃねーよ……っ、このバカ……!」


「……ニセモノ!?」



 部屋に飛び込んで来た“本物”のトキは息を乱し、驚愕しているセシリアの様子に眉根を寄せると不服げに舌を打った。──眉間に寄った皺、不機嫌そうな顔、舌打ち。確かに言われてみれば、こちらのトキの方が普段の彼っぽい……ような。



(……でも、あの人……)



 セシリアは困ったように眉尻を下げ、壁際に凭れて蹴られた頬を押さえながら忌々しげにトキを睨んでいる“偽物”に目を向ける。その視線に気が付いたのか、彼もまたセシリアへと視線を移したが──交わった瞬間ぎくりと苦い表情を浮かべて視線を泳がせると、逃げるように立ち上がって背を向けてしまった。


 そのまま“偽物”の男は部屋の窓を開け、素早く外へと飛び出してしまう。



「テメェ、逃がすか!!」



 トキは怒鳴り付け、後を追おうと即座に床を蹴ったが、走り出したその体は縋るように飛び込んで来たセシリアによって止められてしまった。「待ってください!」と必死に訴える彼女に、彼の鋭い眼光が突き刺さる。



「ああ!? 何してんだ、離せ!」


「だめ……っ、待って! あの人、悪い人じゃないんです……!」


「はあ!?」


「あの人……」



 セシリアはトキの腰元に縋り付いたまま、男が出て行った窓の奥を見つめた。



「……私に、檸檬の切り方、教えてくれた……から……」



 セシリアはゆるゆると力を緩め、視線を落とす。──トキは一瞬黙り込んだが、やがて低い声で「……何言ってんだ、アンタ」と冷たく吐き捨てた。



「そんなもん、アンタに怪しまれないように優しく振舞ってただけに決まってんだろ。それだけで“良い人”か? あいつ魔女の仲間なんだぞ」


「……で、でも、本当にずっと優しくて、私に対して酷い事なんか何もしてないんです……。それに体調も悪かったみたいだから、少し心配で……」


「──何だそれ」



 ピリッ、と、一瞬。

 その場の空気が凍り付いたのが分かった。


 セシリアはハッと我に返り、レザーの下の手のひらに汗を滲ませながら顔を上げる。すると冷たい瞳をこちらに向けた彼が、怒気の篭った視線でまっすぐとセシリアを貫いていた。



「……と、トキさん……?」


「“本物”より“偽物”の方が、優しくしてくれたとでも言いてえのかよ。……ハッ、まあそうだよな、“本物オレ”はアンタに酷い言葉しか吐けねえもんな」


「なっ……! ち、違います! そんなつもりで言ったわけじゃ……」


「何慌ててんだ聖女様、事実だろ。優しく接してもらえて良かったじゃねーか。それとも何だ、なんか疚しい事でもあるってのか? あいつに“クスリ”でも渡したとか?」


「……!」



 突き放すように発せられる彼の言葉に、セシリアの胸が強い痛みを放つ。愕然とその場に立ち尽くし、彼女は表情を歪めた。



「……そんな……そんな事してません……!」


「どうだか。ベッドの上で抱き合ってただろうが」


「あれは、あの人がつまずいて倒れてしまったんです! それで偶然、私も巻き込まれて──」



 ──離れないで。



「……っ……!」



 ふと、セシリアの脳裏には先程の男の言葉が蘇った。緊張したように声を詰まらせ、小さく発せられたその一言。強く抱き締められて見上げた先の、瞳に宿る寂しげな色。



「……」



 セシリアは黙り込み、再び視線を落としてしまった。そんな彼女にトキはますます苛立ちを募らせる。



「……何だよ、黙りやがって。やっぱ何か疚しい事があんだろ」


「……な、ないです」


「ハッ、嘘だな。どこまでやったんだよ。“お優しい俺”は上手だったか? アンタは迫られると流されるからな、どうせいつもみたいにすぐ股濡らしたんだろうが」


「そんな事してません!!」



 トキの口から次々と飛び出す皮肉じみた言葉に、とうとうセシリアは強く声を張った。泣き出しそうに瞳を潤ませる彼女を見下ろし、彼は口を閉ざす。


 ──本当は、こんな事が言いたいわけじゃない。ちゃんと分かっている。セシリアはきっと、あの男とは何もなかった。分かっているんだ。


 しかし先程まで共に居た“トキ”が“偽物”なのだと分かっても尚、彼を庇おうとする彼女に苛立ちが膨れ上がってしまって。普段彼女が己に向けている信頼や慈愛に満ちた視線が、例え一瞬だったとしても、そのまま丸ごと他の男に奪われたのだと思うと──トキの胸が黒い感情で覆われて行く。



「……何怒ってんだよ、聖女様。“優しくない俺”には嫌気が差したか?」



 唇の上を伝う嫌味が、苦くこぼれて。傷付けたい訳じゃないのに、彼女の心に棘を突き付ける。しかしセシリアは彼を咎める事無く、ただ静かに鈴の音を紡いだ。



「……嫌気なんか、差すわけないです。ただ、私は……あの人とは何もしてないって、信じて欲しい……」



 ──信じてるに決まってるだろ。


 トキは声を発する事無く、胸の内だけで彼女に答える。しかし子供じみた独占欲に占拠された彼の胸からは、ぽつぽつと降り注いで溜め込んだ要らない感情がこぼれ落ちるばかりで、止まらなくて。

 信じているのに、信じたいのに、口が勝手に正反対の言葉を紡いでしまう。



「……今更、信じられるわけないだろ……」



 黒く濁った水溜まりに片足を突っ込み、紡がれていく苦い棘。よせばいいのに、こんな時ばかり憎らしい程に饒舌な彼の唇は、一度発した声を止める術など知らない。



「だって、アンタは、」



 頭の悪いガキさながらの独占欲で、胸が、頭が、黒く染まる。余計な事ばかりが胸を支配して、自分は何一つ彼女に与えてなどやれないんだ。──優しく、“檸檬の切り方”を、教えてやる事さえも。




「──存在自体、全部、“嘘”だろうが」




 黒くけぶる感情のまま、苛立ちに流されるまま。

 そう口走って、痛い程に耳を突き刺す静寂と共に──彼は後悔した。ハッと我に返った彼が背筋を凍らせながら顔を上げれば、愕然と立ち尽くすセシリアと目が合う。



(……今……、俺……)



 何を言った。何を言ってしまったんだ。


 冷静さを取り戻した頭が、恐ろしい程急速に温度を無くして行く。──違う、そんな事、言いたかったわけじゃない。そうは思っても、もはや唇から溢れた言葉の矢は放たれた後で。



「……」



 流れるのは、長い沈黙。

 しかしふと、そんな沈黙をセシリアの微かな笑い声が打ち破った。逸らしていた視線を彼女に戻せば、セシリアはただ、いつも通りに微笑んでいて。



「……そうですね。……ごめんなさい」


「……っ」



 優しくて穏やかな微笑みが、やけに哀しく弧を描いてトキの胸が締め付けられる。彼は奥歯を噛み、彼女から顔を背けると逃げるように床を蹴った。



「っ、トキさん!!」



 背後で叫ぶセシリアの声も無視して、トキは部屋を飛び出して行く。バンッ! と乱暴に扉を閉め、彼は宿の廊下を走り抜けて行った。




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