第74話 苦味の裏側


 1




「……はあっ、はあ……!」



 藍色のストールを風に靡かせ、黒髪を揺らして、日の暮れ始めた大通りの人波を押し退けながら駆け抜ける。時折背後を振り返り、誰も追ってきていない事を確認すると、トキ──否、は、僅かに表情を緩めて人の居ない脇道へと逸れた。


 暗く細い道を進み、喧騒から離れたところで彼は安堵したように座り込む。上がる息を整え、早鐘を打つ胸を押さえた。──すると不意に、地面を踏み締める足音がその耳に届く。



「なぁにー? 随分疲れてるみたいじゃない、ベンジー」


「……! テディ……!」



 通路の奥から現れたのは、彼の連れであるテディだった。テディは男──ベンジーの様子をじろじろと眺め、ふーん、と赤い目を細める。



「……怪我はしてないみたいだけど……、あ、でも頬が少し腫れてるわね、殴られた?」


「おい、どういう事だよテディ! あのトキとかいう男、いきなり部屋に戻ってきたじゃないか! お前、さては楽しむだけ楽しんで殺し損ねたな!?」


「あ、バレた? だって格好良かったんだもの、ドキドキしちゃって〜」



 逃げられちゃった、と悪戯っぽく笑うテディに、ベンジーはへなへなと脱力しながら嘆息した。彼はそのまま徐ろにストールを抜き取り、首に巻かれていた“黒いリボン”を解く。

 するとその姿は一瞬で煙に包まれ──やがて、さらりと揺れる亜麻色の髪と赤い瞳を持つの姿が現れた。“トキ”の仮面を脱いだベンジーに、テディが唇を尖らせる。



「あーん、前の方が男前だったのにぃ……」


「……悪かったな、実物は男前じゃなくて」


「えー? でもベンジーの顔、私に似て可愛いから好きよ? 流石は私の“双子の弟”ね!」


「……可愛いって言われても嬉しくない……」



 今度はベンジーがムスッと唇を尖らせる番だった。女顔を指摘されるのを嫌う彼の様子に“双子の姉”であるテディが楽しそうに笑う。


 ──そんな双子ツインズの会話に、もう一つの声が割り込んだのも、丁度その頃で。



「……おや、二人とも。こんな所に居たのですか」


「……! 導師様!」



 現れた男に、テディが嬉々として声を上げる。黒いマントのフードを深く被り、首に金の首飾りをかけた男は彼女に向かって薄く微笑んだ。

 “導師”と呼ばれた彼の微笑に、テディは頬を染めて恍惚と舌舐めずりをする。



「はぁん……やっぱり、導師様が一番素敵……」


「おや、テディ。貴女、を新しくしたのですか? 少し匂いが変わりましたね」



 鼻をすんすんと近付けながら尋ねる導師の言葉に、テディははにかみながら頷いた。



「ええ、前の皮は忌々しい魔女のせいで燃えてしまいまして……醜くなってしまったので、脱皮して新しくしました……♡」


「そうですか。脱皮する前も良い香りでしたが、今も良いですね。素敵です」


「はぅん……っ! そんなに褒められたらテディ、嬉しくて濡れちゃいますぅ……」



 ハァハァと息を荒らげ、此れ見よがしに腰をくねらせるテディにベンジーは頬を引き攣らせる。しかしそんなテディのアピールに優しい微笑みだけを返した導師は、彼女から目を逸らすとすぐにベンジーに視線を向けた。



「……君も、随分と変わった匂いを持って帰って来たようですね? ベンジー」


「……、えっ?」


「この匂い、僕はよく知っていますねえ。……甘い甘い、お菓子のような……」



 導師はベンジーに近付き、彼の肩を掴んで顔を近付ける。すんすんと鼻を鳴らす導師にベンジーは冷や汗を浮かべてたじろぐが、「……ああ……間違いない……」と呟いたその口元がにんまりと弧を描いたのを彼は見逃さなかった。



「……“甘いお菓子”の匂いだ……やっと見付けた……。カルラのお導きに感謝しなくては……」


「……ど、導師様……?」


「ベンジー」



 導師は再び顔に優しい微笑みを貼り付け、ベンジーを見つめる。ギクリと身を強張らせた彼に、導師は囁いた。



「君、可愛らしい女性に出会ったでしょう? 翡翠の瞳をした、あの子に」


「……!」


「僕、その子に用があるんですよ。だから、」



 ──明日、その子を連れて来なさい。


 その言葉を最後に、導師の体が離れる。そのまま踵を返して歩き始めた彼にテディも寄り添い、ベンジーの元から去って行った。



「……」



 ベンジーは視線を落とし、黙って地面を見つめる。彼の脳裏を過ったのは、心配そうに向けられた翡翠の瞳。


 彼女に手渡されて飲まされた、不味い檸檬の味が未だに残っているような気がする舌の上。抱き締めた際、暖かな温もりを感じてしまった己の手のひらを、ベンジーは強く握り締めた。



「……明日、飛空艇に乗るって、言ってたな……」



 セシリアの言葉を思い出しながら呟き、ベンジーはゆっくりと歩き始める。先行く二人を追い掛けて、彼もまた、通路の奥の闇の中へと消えて行った。




 2




 ──ガンッ!


 カウンターテーブルに乱暴に置かれた木製のジョッキ。

 中の麦酒が飛散し、びちゃりとテーブル上に酒が散るのもお構い無しに、男は赤い顔で虚空を睨んでいた。酒場の店員は「あーあ、珍しく飲んだくれて……」と呆れたように彼を見つめている。



「おいロビン、いい加減にしろよ。明日後悔すんぞ」


「うるへー!! 飲んでねーとやってられねーんだよ、ひっく!!」


「あーあ、ダメだこりゃ。ゲロ吐くまで飲んだくれるな、こいつ」



 やれやれと肩を竦め、男は呆れたようにロビンから離れて行った。ロビンは虚ろな瞳でそれを見送り、再び酒に口を付ける。ぐびーっと弾ける気泡を喉の奥に流し込んだ後、げふりとゲップを吐きこぼして彼は口を開いた。



「……う、うう……セシリアに『頭悪い男は嫌い』って言われた……もう生きていけない……」



 昼間、セシリア──に扮していたテディ──から『頭悪そうな男』と冷たく称されたロビンは深く傷心してしまい、こうして夜まで一人で酒場に入り浸っていたのである。ぐずぐずと鼻水を垂れ流しながら飲んだくれる彼の様子に、カウンターに座っていた他の客は頬を引き攣らせて帰って行ってしまった。


 店員もその様子に呆れるしかなかったが、ロビンのヤケ酒は止まらない。残っていた麦酒を一気に呷り、彼は乱暴にジョッキを置くとゴツン! と額を打ち付けてカウンターに突っ伏す。



「……うう……いいよなあ、トキは……! あの後結局帰ってこなかったし、絶対どっかでセシリアとイチャイチャしてたんだぁぁ……クソォォ~……俺もセシリアとイチャイチャしたいぃぃ……! トキの野郎ふざけんな、イケメンこじらせてくたばっちまえ……」



 ぐでぐでと酔っ払って突っ伏したまま愚痴を吐きこぼしていると、不意に後方で別の店員が「ちょっとお客さん、アンタもそれ以上飲むと明日に響きますよ」と困ったように呼び掛けている声が耳に届いた。一瞬自分に言っているのかと思ったが、どうやらそうではないようで。


 俺以外にも飲んだくれがいるのか、とぼんやり考えながらロビンは顔を上げる。すると後方のテーブル席で、見慣れた男がジョッキを掴んだまま、ロビンと同じようにその場に突っ伏していた。


 無造作に跳ねた黒い癖毛に、夜色のストール。薄汚れた大判のケープに身を包んだその見窄らしい後ろ姿を、彼が見紛うはずもない。



「──は!? トキぃ!?」



 ギョッと目を見開き、思わずロビンは声を張る。すると哀愁漂うその背中はぴくりと反応し、薄紫色の虚ろな瞳と目が合った。



「……、あぁ……? ゴリラ、何してんだ……?」


「いやお前が何してんだよ!! 何で一人でこんなとこに……って、酒臭ッ! どんだけ飲んでんの!?」


「うるせークソゴリラ……ゴリ臭ェんだよ、森に帰れバァァカ……」


「何!? ゴリ臭いって何!?」



 ぐったりとテーブルに突っ伏し、トキはぼそぼそと声を発している。そのただならぬ酔いどれっぷりに、ロビンの酔いも一瞬で冷めてしまった。

 ひとまずロビンは彼の隣に腰掛け、ジョッキを握り締めているトキの手を緩める。



「んだよクソゴリラ、触んじゃねー……」


「おいおい、飲み過ぎだって……! どうしたんだお前、何かあったのか?」


「……」



 問えば、トキは黙り込んでしまった。──決して素直では無い彼だが、意外と態度は分かりやすい。ロビンは頬杖を付いて彼の後頭部を見つめると、ぽつりと口を開いた。



「……セシリアと喧嘩したとか?」


「……、違う」


「あれ、そーなの? じゃあ……」


「──俺が、一方的に傷付けた」



 言いかけた言葉を遮り、覇気のないトキの声が返ってくる。頬杖をついたままのロビンが瞳をしばたたいた頃、彼は更に続けた。



「……アイツに……最悪の言葉、吐いちまって……、そのまま、逃げて来た……」


「……」


「……けど、アイツ……笑ってて……。多分、かなり……傷付けたのに……」



 ──アンタの存在自体、全部嘘だ、なんて。そんな言葉を浴びせてしまって。


 傷を隠した彼女のいびつな微笑みが深く胸を貫き、向けられる優しさに耐え切れずに──トキは宿を飛び出した。


 そのまま辿り着いたのが、この酒場である。行き場の無い後悔を誤魔化すように、手当り次第に強い酒を呷った彼だったが──久方振りの飲酒だというのに、喉を通るそれは酷く苦かった。酒は好きだったはずだが、何故こんなにも不味く感じるのだろうか。

 トキは舌を打ち、テーブルに突っ伏したまま拳を強く握り締める。



「……くそ……何でこうなるんだよ……」


「……」


「俺なんか、嫌いだ……いつもそうだ……。結局、アイツを傷付けるばっかりで……、何も……守れない……」



 舌に残る苦味を吐き出すように、トキの唇からは弱音がこぼれた。彼の脳裏に過ぎるのは、失ってしまった大事な物。


 ──父も、母も、ジルも。

 自分が弱くて愚かだったから、死んでしまったんだ。


 師匠マドックだってそうだ。

 きっと自分が何も出来なかったから、見切りをつけて離れて行った。


 そして、セシリアも──いつかは消えてしまう。

 だからそれまでは、せめて自分の手で守ってやりたいと、彼女には笑っていて欲しいと、そう思うのに。



 ──アンタの存在自体、全部、嘘だろうが……!



 数時間前に吐き捨てた己の言葉が、呪いのように耳にまとわりつく。



「……あんな事……言うんじゃなかった……」



 愚かな自分は、いつまでも愚かなままで、弱い。


 トキはテーブルに顔を伏せたまま、拳を更に強く握り締めた。いつに無く弱気な彼の言葉。それをロビンは黙って聞いていたが、やがて「トキってさぁ……」と口を開く。



「……セシリアの事……、めっちゃ好きじゃね?」


「…………」



 手のひらに食い込んでいた爪が緩み、徐ろに顔を上げたトキはじとりとロビンを睨み付けた。焦点の合わない虚ろな瞳にロビンもまた視線を合わせれば、トキは不機嫌そうに口を開く。



「……だったら、何なんだよ」


「お! 認めんの!?」


「……悪いのか」



 ぶす、と唇を尖らせて彼は顔を背けた。その頬がほんのりと赤い気がするのは、酒のせいか、はたまた照れているのか。──おそらく後者だろうと考えて頬を緩ませたロビンは、「んだよ、惚気かよぉ」とニヤつきながらトキの肩を抱く。



「いーじゃん、喧嘩ぐらい! セシリアなら許してくれるって! 元気出せよ!」


「……うるせえよ、何も知らねーだろ口出して来んな」


「ったく、弱気になっちまってらしくねーなー。お前が口悪いのはいつもの事だろ? 謝ればいいんだって! 『ごめんねハニー、愛してるぜ!』って言ってやれば万事解決! 仲直りハッピーエンド!」


「……言えねーよ、そんな事」



 弱々しく声が紡がれる中、ロビンはカウンターに向かって「麦酒おかわり!」と叫んだ。まだ飲むのかよ、と呆れる店主の声を聞き流しながら、彼は気落ちしているトキの背をぽんぽんと叩く。



「んだよ色男、昼間は俺を放置してセシリアと消えちまったくせによー! いざ喧嘩すると弱気になって落ち込みやがって! セシリアに『頭悪い男は嫌い』って言われた俺の切ないハートを少しは労われよ!! このイケメンが!!」


「……ああ、あのセシリア、偽物だったぞ」


「……ん!? どゆこと!?」



 ロビンはトキの発言に眉を顰めて身を乗り出したが、説明するのも面倒だな、とトキは彼から顔を逸らした。丁度そのタイミングで運ばれて来た麦酒がテーブル上に置かれ、ロビンは早速ジョッキに口を付ける。

 トキも先程まで飲んでいた麦酒を手に取り、すっかり常温になったそれを喉に流し込んだ。



「……あー、でもお前やっぱセシリアのこと好きなのか〜。いいな〜、絶対両思いじゃん。羨ましいぜ俺はぁ……」


「……何も良くねえよ……」



 ジョッキから唇を離し、ぼそりと答える。──例え本当に彼女と思い合っていたとしても、セシリアがトキの気持ちを受け入れてくれる事は、きっと無い。逃れられない運命を背負った優しい彼女は、「恋人」という鎖でこの心を縛り付けてしまう事を懸念しているだろうとトキには分かっていた。


 そしてトキもまた、実らないと分かっている思いを彼女に押し付ける事はしたくないのだ。別れの日が来た時、この気持ちを知られてしまっていてはセシリアが心を痛めてしまう。彼女はきっと、この世から消えるその瞬間まで、馬鹿正直でお人好しのままだろうから。



(……消える……)



 トキさん、と優しげに微笑んで呼びかけるあの鈴の音が、もう二度と聴けなくなってしまう。そう考えてしまってトキはかぶりを振った。──やめろ、そんな事考えたく無いんだ。


 胸に蔓延る群青の塊を散らそうと、トキは残っていた麦酒を一気に呷る。温くなった不味いアルコールが喉を滑り落ちて、余計な感情で埋まる思考を徐々に麻痺させて行く。



「……あー、でもさー、セシリア可愛いよなあ〜。俺もセシリア好き〜可愛いし優しいし〜、天使かな〜女神かな〜」


「……分かる」



 再び酔いが回ったのかへらへらと頭を揺らしながら語るロビンに、トキはぼそりと同意した。「ほへ?」と間の抜けた声で聞き返すロビンの肩に腕を置き、トキは朦朧とした意識の中で言葉を続ける。



「……あいつ、可愛いよな……可愛い……」


「お? あれえ? トキくぅん、やけに素直じゃねえ〜? 」


「うっせー……好きなんだから仕方ねーだろ……」



 こちらも完全に酔っ払っているのか、トキはダダ漏れの本音をこぼしながらロビンの麦酒を奪い取った。「あー! 俺の酒!!」と耳元で喚くロビンに構わずそれを飲み干し、空になったジョッキをテーブルに置くと彼はくつくつと笑う。



「あー……何かもうどうでもいい……。消えるとか、幻とか……余計な事考えんの、疲れた……」


「テメエ!! よく分かんねーけど人の酒飲み干すなよ!!」


「取られる方が悪ィんだろうが、バァァ〜カ」



 挑発的に笑うトキに「この野郎……」と頬を引き攣らせたロビンだったが、少しはその表情に覇気が戻ったように感じて、彼は密やかに安堵の溜息を吐きこぼした。──やはりトキは、しおらしいよりも小生意気な方がしっくりくる。



「……俺さ。セシリアの事も可愛くて好きだけど、お前の事も大事に思ってるぜ、トキ」


「……はあ? キモいんだよクソゴリラ」


「ひっでえ!!」



 せっかく良い事言ってやったのに! と喚くロビンを無視して、トキは店員に向かって追加の酒を催促する。──その口元が少しばかり柔らかく緩んでいた事に、ロビンはおろか本人までも気づかぬまま、二人の酒宴は続くのであった。




 3




 結局、深夜まで二人の酒盛りは続いた。

 終いにはロビンが酔い潰れて寝てしまい、トキも千鳥足でふらふらと立ち上がって、潰れているロビンに勘定を押し付けたのちに店を出た、というのが数分前。


 覚束ない足取りで宿まで帰って来たトキはセシリアが居るであろう部屋の前でぴたりと足を止めると、途端に手のひらに汗が滲んでその扉を開ける事を躊躇した。それまで酔いが回っていた頭も冷え、喉がカラカラと渇いていく。



(……流石に、寝てるよな……)



 あんな情けない飛び出し方をしてしまった手前、どうにも顔を合わせ辛い。しかしいつまでもこの場で立ち尽くしている訳にもいかず、やがて彼は意を決したようにドアノブに手をかけた。


 ──キイ……。


 静かにそれを回し、恐る恐ると室内を覗き込む。部屋の中は暗かったが、夜目の利く彼の視界にはベッドの上で眠るセシリアの姿が確認できた。眠っている事にひとまずは安堵し、彼は音もなく室内に入り込む。


 あれだけ酔っていても少しの緊張感ですぐさま冷静さを取り戻してしまう己の頭に些か感心しつつ、トキは気配を殺し、眠るセシリアの元へと慎重に歩み寄った。ギシリと軋むベッドに腰を下ろし、彼女の顔を覗き込む。その目元が少し赤く腫れているように感じて、ああやっぱり泣かせてしまった、と胸が強く痛んだ。



「……セシリア」



 小さく呼び掛けるが、返事は無い。むしろ無い方が良い。今は彼女に合わせる顔などない。

 トキはそっと手を伸ばし、閉じた瞼の裏で見ているであろう彼女の夢をさえぎってしまわぬよう、さらりと流れる金の髪を指先で掬い上げた。──ああ、俺、いつからこんなに罪悪感なんかで胸が痛むようになったんだろうな。



「……ごめん」



 今にも消え去りそうな、か細い声で、それだけ告げる。面と向かって詫びる勇気のない自分が心底情けないと考えながら項垂れていると、不意に暖かな温もりが彼の両頬を包み込んだ。トキは即座に目を見開き、顔を上げる。



「……っ!」


「……怒ってないですよ、私」



 視線の先には、いつも通りの穏やかな優しい微笑み。腫れぼったい目尻を細め、トキを見つめる翡翠の瞳に彼は思わず表情を歪めた。

 普段はレザーの下に隠している暖かな温もりが、トキの頬を静かに撫でる。



「……寝たフリとか、卑怯だろ……なんで起きてんだよ……」


「……帰って来ないから、心配で……」


「……やっぱ、バカだなアンタ……心配とかすんなよ……」



 あんな事言ったんだぞ、と弱々しく声を紡ぐトキに、セシリアはやはり優しく微笑んだ。そのまま彼を引き寄せ、その背中に腕を回す。



「……!」


「本気で、あんな事思ってないでしょう? トキさんは優しい人だもの」


「……」


「それに、ちゃんと謝ってくれたから……」



 だから大丈夫、と囁いて、セシリアはぎゅっとトキの体を抱き締めた。その暖かな体温が、遠い昔に失った母親を彷彿とさせてしまって。トキの唇は僅かに震えたが、こぼれ落ちそうなそれを何とか噛み殺して耐える。

 トキは彼女を抱き返し、その肩口に顔を埋めた。



「……俺が……悪かった……」


「……」


「勝手にキレて、八つ当たりして……、泣かせて、ごめん……」


「……ううん。トキさんは、私の無防備なところを心配してくれたんでしょう? ごめんなさい、心配かけて」



 ──違う。勝手に独占欲に溺れて苛立ちをぶつけただけだ。


 そうは思ったが、それを言葉にする事など出来ずにトキは顔を上げた。至近距離で交わる彼女の視線があまりに眩しく見えて、いっそ腹立たしい。これが惚れた弱みというやつなのだろうか。──どう心を殺そうとしても、彼女の事が、愛おしく感じてしまって。


 ほとんど無意識に、吸い込まれるように。トキの唇は彼女の唇へと近付いて行く。それに気が付いたセシリアもそっと目を閉じ、優しく触れる彼の口付けを黙って受け入れた。


 少し怯えているようなその口付けが、まるで彼の反省の色を表しているみたいに感じてしまって。思わずセシリアが小さく笑うと、トキは「……何?」と眉を顰める。



「……ん……何だか叱られた後の子供みたいで、可愛いなって思っちゃって……」


「……こんなに酒臭ぇガキがいるかよ」


「ふふ、本当ですね。飲み過ぎですよ、お水飲まないと」


「……いい。こっちの方が酔いも冷める」



 そう告げて再び唇を塞ぎ、口内に舌を滑り込ませる。セシリアは一瞬身を強張らせたが、すぐに彼を受け入れると自身もたどたどしく舌を絡めた。

 混じり合う互いの熱と、酒の苦味。このまま二人一緒に溶け合って死んでしまえたら幸せなのかもしれないと、らしくもない考えが浮かんでトキは彼女を強く抱き締める。


 例え二人で一緒に溶けて消えたとしても、“アルタナ”である彼女と同じ場所には逝く事が出来ないのに。



(……苦ェな……)



 あの世でも、この世でも。二人はきっと一緒になれない。──愛してるという一言すらも、重たすぎて旅立つ彼女に持たせてやれない。


 交わる舌の上に残った酒の苦味の裏側に、伝えられない愛の言葉をそっと隠して、忍ばせて。どうか気付かないでくれと願いながら、流し込んだそれに蓋でもするかのように、トキは彼女の唇をんで飲み込ませた。




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