第70話 扉の奥の誰か
1
──やりすぎた、と後悔したのは朝になってからだった。
普段、東の空に日が昇るのと同時に起床するはずのセシリアは、日の位置が東から南側へ随分と傾いた頃になっても一向に目を覚まさない。丁度その頃になって目を覚ましたトキは、静かに眠っている彼女の肌に残った赤紫色の無数の花弁を視界に入れて思わず頬を引き攣らせた。
(……いや、いくらなんでも付けすぎだろ、俺……)
盛りの付いたガキかよ、と頭を抱え、昨晩の己が残した所有印の数に小さく嘆息する。──昨晩の彼女との情事は一回程度では到底収まりが付かず、合間に休憩を挟みつつも、結局のところ三回程まぐわってしまったのだった。
長い間飢えていたとはいえ、幾ら抱いても足りないと感じてしまう己の性欲にほとほと呆れる。猿でもこうはならないんじゃないだろうか。優しくするだなんて何の手立ても考えずに口にしたものの、最後までそれを宣言通りに貫き通せた自信はない。三回目ともなれば流石にセシリアの息も絶え絶えで、もはや自分が何を口走っているのかも分からない様子だった。
それ故、こうして今も深い眠りから目覚めないでいるのだろう。普段の寝相の悪さが嘘のように、今は静かだ。
(……まあ、でも……、ヤバかったな……)
昨晩の彼女の様子を思い出してしまい、トキは思わず片手で口元を覆う。与えられる快楽に喘ぎ、息を乱しながら何度も己の名を呼ぶセシリアの姿は酷く官能的で、彼の飢えた情欲を歓喜で満たして行った。──その結果として、盛りの付いたガキさながらに抑制が効かなくなってしまったわけだが。
「……悪い、やりすぎた……」
どうせ聞こえていないだろうとは思いながらも、眠る彼女の耳に謝罪を告げる。セシリアは穏やかな寝息を繰り返し、未だに夢旅の中を彷徨っているらしく起きる気配はない。起きたらさぞ身体の節々が痛む事だろうと些か不憫に思いつつ、華奢なその身を腕の中に抱き寄せた。
「……ん……」
少し身体を動かしたせいか、セシリアの唇からくぐもった声が漏れる。起こしたか、と彼女の顔を覗き込むが、どうやらそういう訳ではないらしい。少し身じろいでトキの胸に頬を寄せ、セシリアは再び幸せそうな表情で夢の中に沈んだ。
「……セシリア?」
「……」
「……ふっ、まだ寝るのかよ……」
微かに笑みをこぼし、トキは眠るセシリアの耳に唇を寄せる。もう少し寝かせてやりたいのは山々だが、昼過ぎにはロビンが迎えに来てしまうのだ。綺麗好きな彼女の事だからシャワーぐらいは浴びたいだろう。「セシリア、」と小さく彼女に呼び掛ければ、閉じた瞼がぴくりと動いた。「んん……」と短く声を漏らしたセシリアに、トキは続ける。
「……起きろよ」
「……ん、ぅ……」
「……さっさと起きないと悪戯するぞ」
くすりと微笑み、トキは
「……っふ、ぅ……、?」
「……起きたか?」
「……、? トキ、さ……?」
ぽや、と寝惚け眼を
「っ、や……!? と、トキさん!? やめてっ……!」
「アンタ、ほんと耳弱いよな」
「あぅ、ぅ……!」
湿り気を帯びた舌の感触にセシリアはぎゅっと目を閉じる。とことん感じやすい彼女の反応に再びトキの情欲が顔を出しそうになるが、流石にこれ以上はまずいだろうと己を抑制して唇を離した。
「ほら、起きろ。もうだいぶ遅い時間だぞ」
「……え……あ……、ほ、本当ですか? ごめんなさい……」
「……まあ、別にそれはいいんだが……俺も無理させたし……。体は大丈夫か?」
「…………」
軽く上体を起こしながら問いかける。はらりと落ちた毛布の中から何も見に纏っていないトキの上半身が
「……っ……!!」
昨晩、二人の間で何が行われたのか。
それを鮮明に思い出してしまい、セシリアは頬を真っ赤に染め上げると咄嗟に毛布の中に身を隠した。その際、背中と腰が痺れるように痛んだが、そんな事すら気に留めていられない程に今は羞恥心が勝ってしまっている。
(わ、わ、私、トキさんと、あんなっ……!!)
記憶の限りではあるが、生まれて初めてあんな風に激しく男の人に乱されてしまった。普段あまり表情を表に出さない彼の汗ばんだ切なげな顔と、息を乱しながら名前を呼ぶ掠れた声が脳裏に蘇る。
思い出すと鼓動がばくばくと高鳴って、隣にいるトキの顔をまともに見ることも出来ない。
(……ど、ど、どんな顔をすれば……!)
毛布の中で蹲っていると、不意に肩を引き寄せられた。ぎく、とセシリアが身を震わせた頃、「おい、」とトキは彼女の顔を覗き込む。
「……アンタ、大丈夫か? どこか痛むのか?」
「……っ」
目が合ったトキの顔が、瞳が、キラキラと輝いて見えた。無造作に跳ねた髪、幾つもの古傷が目立つ上半身。皺を刻む眉間ですらも、セシリアの胸をきゅんと締め付けて。
(……か……かっこい……)
思わず、息を飲んでしまう。昨日までどうやって、こんなにかっこいい人と顔を合わせていられたのか全く思い出せない。消えてしまいたいぐらい恥ずかしいのに、でも、傍に居て欲しくて。
──しかしやはり、まともに目も見れない。
「……っ、だ、大丈夫、です……」
絞り出すようにそう言って、セシリアは毛布の中に深く顔を埋める。途端にトキは眉根を寄せ、眉間に皺を刻みながら舌を打つと──唐突に彼女から毛布を奪い取った。
「ひゃあああ!!?」
「おい、アンタ嘘ついてるだろ。こっち見ろ」
ずい、と不機嫌そうな顔が近付く。セシリアは自身の肌を両腕で隠し、必死に顔を逸らした。
「い、嫌! ダメです! 見れないです!」
「……はあ? 何?」
「と、トキさんがっ……!」
トキさんが、かっこよくて……! と消え去りそうな声がぼそぼそと紡がれる。トキは一瞬大きく目を見開き──やがて沸々と頬に熱を帯びると、即座に口元を手で覆い隠した。
「……は、はあ!? アンタ、何言って……!」
「ごめんなさい! でも本当なんです! かっこよくて見れません……!」
「や、やめろ……! バカなのかよ……!」
素直に本音をぶちまけるセシリアにトキは眉根を寄せ、赤らむ顔を隠すように彼女から離れる。緩みそうな頬を何とか引き締め、彼はベッドから立ち上がった。
「……っ俺は、先にシャワー浴びるから……馬鹿な事言ってないでさっさと起きろよ、もうすぐ昼だぞ」
「……あ、は、はい……っ」
「……ああ……それと、」
トキは立ち上がり、気まずそうに首元を掻きながらセシリアを一瞥する。きょとん、とセシリアが瞳を瞬いた頃、トキは目を逸らして小さく彼女に口を開いた。
「……その……身体の痕は……俺も少しやり過ぎたと思う……、悪い」
それだけをぼそぼそと告げ、トキはシャワールームに入って行く。一方その場に残されたセシリアは、彼の言葉に首を傾げていた。
(……身体の……痕……?)
何のことだろうかと不思議に思いつつ、不意に視線を自身の肌に落とす。──そして、彼女は目を見開いた。
「……えっ、ええええーッ!!?」
白い肌の上に残された無数の所有印の数々に悲鳴のようなセシリアの声が上がった頃、トキは逃げるように、浴室へと消えて行ったのであった。
2
「おーぅ! 二人ともお待たせ! 昨日はよく眠れたか?」
「……あ……えと……はい……、とても……」
数時間後。
爽やかな笑顔と共に宿のロビーにやって来たロビンの言葉に、セシリアは頬を赤らめながらおずおずと対応する。トキはソファ席に腰掛けたまま彼の言葉には答えず、気怠げに窓の外を眺めていた。
たどたどしい彼女の様子もロビンは気に留めていないのか、「よく眠れたなら良かったぜ。久々にベッドで寝れて気持ちよかったろ?」と笑う。その発言にもセシリアはぎくりとたじろぎ、頬を染めて視線を泳がせた。
思い出してしまったのはやはり、切なげにセシリアの名前を囁きながら与えられた、昨晩の彼の熱。
「……っ、は、はい……」
「ん?」
「……気持ち、よかった、です……」
頬を染めて告げる彼女の発言にトキはぴくりと反応し、僅かに顔を上げた。気持ちよかった──というのは、昨晩の自分の施しが、という意味に捉えても良いのだろうか。
「……」
耳まで赤く染まった恥ずかしそうな横顔が、その答えであるような気がして。つい頬が緩んでしまう。それを悟られないよう引き上げたストールで口元を隠した頃、「おー、そりゃよかった!」と微笑んだロビンが不意に踵を返した。
「じゃ、早速着替えだな。とりあえずどっちかの部屋に行くか。どっちの部屋がいい?」
「あ、その、私達同室で──むぐっ!?」
「俺の部屋でいい。二階の二○二号室だ」
同室で部屋を取った事を口走ろうとしたセシリアの口を即座に塞ぎ、素早くトキが会話に割り込んだ。突然口を塞がれた事で困惑するセシリアだったが、「バカ、同室で部屋取ったのバレたら色々面倒だろ」と耳打ちされた事ですぐさま納得する。
単純なロビンは特に不思議にも思わなかったのか、「オッケー、二〇二な!」と笑って歩き始めた。バカで助かったな、と胸を撫で下ろし、トキはセシリアの口から手を離す。
「……ご、ごめんなさい……」
「別にいい。どうせあいつバカだから気付かねえよ、バカだから」
「……も、もう。言い過ぎですよ」
ロビンに対してやたらと当たりの強いトキを
え、とセシリアが振り返った時、そっと寄せられた彼の唇は、彼女の耳元で小さく音を発した。
「……そんなに、“気持ちよかった”?」
「……っ、え……!?」
「……俺も」
小声で耳打ちした直後、ぱっと離れた彼は素知らぬ顔で前を歩き始める。
セシリアはその場で暫し硬直してしまったが、ようやく引いたと思っていた頬の熱が沸々と再び迫り上がった頃。真っ赤に染まった顔で「ばか……」と呟きながら、彼女は二人の背中を追い掛けて行った。
3
程無くして部屋に入った三人だったが、場の空気は早速最悪の状況に陥っていた。
ロビンの胸ぐらに掴みかかったトキは眉間に深い皺を刻み、今にも殴りかかりそうな雰囲気である。そんな彼をセシリアが必死に止めるが、聞く耳すら持ってくれなかった。
──その原因は、ロビンが用意したセシリアの衣装にあるわけで。
「おいふざけんな筋肉ゴリラ! こんな露出高い服アイツに着せれるわけねえだろ、殺すぞ!!」
「い、いやあ~、ほら、よく考えてみろよトキ。聖職者ってバレないようにするにはさ、やっぱ神聖さから程遠い衣装の方がいいかなって思わない? 俺は思うなァ~」
「テメェそれらしい事言って正当化しようとしてんじゃねーぞ! 下着とほぼ変わんねーだろうがこんなもん!!」
「……お、落ち着いて下さい、トキさん……!」
怒鳴り散らすトキの怒りを鎮めようとセシリアは奮闘するが、彼の苛立ちは一向に治まる気配がない。
と言うのも、ロビンが用意した衣装のどれもが、一瞬下着なのではないかと見紛う程度には露出の激しいデザインの物ばかりだったのである。もはや肌を隠す気も無さそうな際どい衣装もあり、それを見たセシリアが硬直した頃、トキはロビンに掴み掛かっていたわけで。
一方のロビンは胸ぐらを掴むトキに対して「違うんです!! 疚しい事など考えていません!! 決して下心はありませんので!!」などと弁解していたが、「鼻の下伸びてんだよテメェ! 下心しかねえだろ!」と怒鳴られて更にキツく胸ぐらを掴まれていた。ぐええ!! と死にかけたカエルさながらの叫び声を聞きながら、焦ったようにセシリアがトキを宥め始めたのである。
そんなやり取りを、かれこれ数十分繰り返していて。そろそろロビンが殺されてしまいそうだとセシリアは危ぶんだ。
「と、トキさん! 私は大丈夫ですから! ほら、これなんかは結構布が多いし……!」
先程から何度も「助けて」と目で訴えかけて来るロビンを憐れみつつトキに笑いかけてみれば、途端にぎょろりと鋭い目で睨まれる。「何でアンタはこいつを庇ってんだ、あ?」と低い声が返され、セシリアはびくーっ! と肩を震わせた。
「い、いえ、その、ほら、ロビンさんも忙しい中で時間作って選んでくれたんですし、そんなに拒まなくても……!」
「じゃあアンタ、着ようってのかよ、これを」
「え、ええと……」
トキが鷲掴んだのは黒いレースのついた、一見ただの下着にしか見えない際ど過ぎる衣装。もはや何も着ない方が恥ずかしくないのではないかというレベルのそれにセシリアが頬を引き攣らせると、トキは不服気に眉根を寄せてそれを投げ捨てた。
「ふざけんな、絶対着るなよ。このゴリラに土下座されても着るんじゃねーぞ」
「えー、でもさあ、トキも見たくない? エッチな下着姿のセシリア」
「テメェ普通に“下着”って言ってんじゃねえか!! やっぱ分かってて持って来やがったな!!」
「ギャーーーッ!! バレたーーー!!」
自ら墓穴を掘ったロビンに再びトキが掴み掛かる。いよいよ殴り合いに発展しそうな勢いの彼らを止めようと大慌てでセシリアが割り込んだが、男二人の掴み合いに細身の彼女では太刀打ちなど出来るはずも無い。
しかし数分余りの時間をかけ、何とかセシリアは二人を引き剥がす事に成功した。勿論トキの苛立ちが治まるはずもなく、彼は掴み合いによって乱れたストールを巻き直しながら舌打ち混じりに口を開く。
「……チッ、こんなもん時間の無駄だ。俺が街で選んで来る、それ全部返却しろ、要らねえ」
「えっ、嘘、エッチな下着マジで着せないの!? 高かったんだけど!?」
「知るかよ、着せるわけねーだろ。テメェそろそろ下半身削ぎ落とすぞ」
冷たく睨んだトキの発言に、ロビンは股を押さえて「ゴメンナサイ」と即座に謝った。それを冷ややかに見下ろした後、彼はセシリアに視線を移す。
「アンタはここで待ってろ。その格好のまま昼間の街をウロウロすんのはまずい」
「あ、はい。分かりました」
「部屋から一歩も出るなよ。あと誰が訪ねて来ても開けるな、分かったな」
念入りに言い聞かせ、セシリアが深く頷いたのを確認するとトキは部屋を出るべく扉に手を掛けた。──しかし不意に彼は動きを止め、再び振り返る。
その視線の先に座り込んでいたロビンは、一切立ち上がる気配も無く、当然のように部屋に居座る気満々の様子だったのだが。
「……何当然のように座ってんだ、お前も外に出ろクソゴリラ」
「……え!? 何でッ!?」
「逆に何で居座れると思ってんだよ」
テメェみたいなケダモノとセシリアを二人で部屋に置いて行けるわけねえだろ、とトキは嘆息し、渋るロビンの耳を掴むと強引に引きずった。「いだだだだぁ!! 耳ちぎれる!!!」と絶叫する彼を無視してトキはロビンを部屋から引きずり出す。
──こうして、二人は部屋を出て行った。
(……大丈夫かなあ……)
慌ただしく出て行った彼らをセシリアは心配そうに見送ったわけだが、果たして二人だけで外に出して大丈夫だったのだろうか、と彼らが出て行った後で不安感に苛まれる。街中でいきなり喧嘩とか、しなければ良いんだけれど……。
(……だ、大丈夫よね……二人とも、一応大人なんだし……)
ふう、と溜息を漏らし、セシリアは扉の鍵をカチリと施錠した。そのまま二人の帰りを待つべく、彼女は踵を返した──のだが。
──コン、コン。
「……、え?」
ぴたり。セシリアの足が止まる。
不意に部屋に響いたのは、軽いノックの音。
今しがた施錠した扉に再度視線を戻し、セシリアは訝しげに眉を顰めた。
──コン、コン。
そしてまた、ノックの音が響く。
(……誰……?)
セシリアは両手を握り締め、不安げに扉を見つめる。当然、この街に知り合いなど居ない彼女である。部屋を訪ねるような人物に心当たりなどない。
先程、トキから「誰が訪ねて来ても開けるな」と忠告されているだけに、セシリアは黙ってその場に立ち尽くしていた。このまま応えなければ諦めてくれるだろうと、そう考えて。
──しかし、続いて扉の向こうから聞こえた“声”によって、彼女の警戒はいとも容易く解かれてしまうのであった。
「──セシリア。開けてくれよ」
「……、……え? トキさん?」
きょとん、とセシリアの瞳が丸くなる。耳に届いたのはトキの声だった。とは言え、彼はたった今この部屋を出て行ったばかりなのだが。
(……? 忘れ物でもしたのかな……?)
扉の前に居るのがトキだと分かるや否や、彼女は容易く警戒を解いてぱたぱたと駆け寄って行く。そのまま鍵を開け、扉を開くと──やはり、そこに立っていたのは見慣れたトキの姿だった。
「トキさん、どうしたんですか? ロビンさんは……?」
「……ああ、ちょっとね。アイツとは揉めて帰って来たんだ。中に入れてくれる?」
「……? あ、はい……どうぞ……?」
何処と無く話し方に違和感がある気がしつつも、セシリアはトキを部屋の中に招く。彼は「どうも」と薄く微笑みながら、部屋の中へと入り込んだ。
──ぱたん。
軽い音を立てて、部屋の扉が閉まる。
彼女の居る部屋の中へと侵入したトキは、小さく微笑みを浮かべ、扉の鍵を施錠したのだった。
.
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