第69話 俺だけの物に(※2019/09/20内容修正)


※お知らせ


第69話ですが、内容が少し過激だったらしくまた警告を受けてしまいまして、9月20日現在を持ちまして後半の内容をまたもや一部差し替えさせて頂きました。

読者の皆様、大変申し訳ございません……。



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 1




 魔物二匹を引き取ったロビンと別れ、トキとセシリアの二人はカーネリアンの宿の中に足を踏み入れる。


 外から見た限りでも随分大きな建物だと思っていたが、やはり中もそれなりに広かった。疎らに人の姿があり、小さな子どもがはしゃいで走り回っている。それを微笑ましく眺めるセシリアとは対照的に、トキはうざったそうに眉を顰めていた。



「……ふふ、可愛いですね」


「……別に……」



 子どもなんてうるさいだけだろ、と言いかけて、トキはその言葉を飲み込んだ。はしゃぐ子どもを見つめるセシリアの表情は穏やかだったが、どこか儚げで、一瞬寂しそうに見えて。

 ふと彼女の視線を追えば、その先に居たのは若い夫婦だった。どうやらロビーを走り回っている子どもの両親らしい。母親らしき女性の腕の中には、まだ幼い赤ん坊が抱かれて眠っている。



「……」



 そこでようやくトキはセシリアが何を思っているのか察してしまい、彼もまた表情を曇らせて視線を落とした。


 ──“アルタナ”である彼女には、生殖能力がない。


 どこにでも居る“普通の女の子”が夢見るような、幸せな結婚も、血の繋がった子どもも、成す事は叶わないのだ。──無論、自分とも。



「……」



 トキは視線を落としたまま、不意に手を伸ばすと黙って彼女の手を取った。はた、と瞳を丸めて振り返ったセシリアと目を合わせる事なく、トキは何も言わずに指を絡めるとその手を引いて歩き始める。


 唐突な彼の行動にセシリアは困惑したが、何か言えば繋がっている手が離れてしまうかもしれない。それはなんだかとてつもなく勿体無い事のように思えて、彼女は口を閉ざした。頬に集まる熱を俯いて誤魔化しながら、彼と共に受付のカウンターへ向かって歩いて行く。



「──いらっしゃいませ、何部屋ご利用でしょうか?」



 受付の女性がにこやかに応対して、セシリアはすぐに顔を上げた。明るいその声に答えるように、セシリアもにこりと笑顔を浮かべる。



「あ、二部屋で──」


。空いてるか」



 答えようとした彼女の声を遮ったのはトキだった。唐突な彼の発言にセシリアは目を見開いたが、そんな彼女の視線を無視してトキは淡々と手続きを進める。



「はい、一部屋ですね。空きはございますよ」


「じゃあそこにしてくれ、いくらだ?」


「……ちょ、ちょっ、トキさん……!?」



 慌ててセシリアが口を挟むが、繋がっている手を強く握られた事で彼女は思わず口を閉ざした。ちらりと向けられた視線に貫かれ、「いいから」と小声で囁かれてしまっては、もうそれ以上何も言えなくなってしまう。


 ──その後もトキの主導で淡々と手続きが進み、程無くして受付の女性から手渡されてしまった部屋の鍵の数は、案の定

 手の中に受け取ったそれを指の先でくるりと回し、彼はセシリアの手を引いて客室への階段を上がり始めた。



「……なあ、」



 トキは指先で器用に鍵を回しながら口を開く。セシリアが顔を上げれば、手を引く彼の跳ねた襟足が視界に入った。振り向かないまま彼は続ける。



「アンタ、は出来てんのか?」


「……え……」


「言っただろ、俺」



 早足で歩くトキを必死に追い掛けていると、彼は一つの客室の前でふと立ち止まった。かと思えば、すぐさま指先で回していた鍵を持ち替え、扉の鍵穴に差し込む。



「次の街に着いたら──」



 ガチャン、と扉が解錠した瞬間、セシリアの腕は突然トキの手によって強く引っ張られた。小さく悲鳴を上げた彼女はそのまま扉の奥へと引き込まれ、ドン! と室内の壁に背中を押し付けられる。


 腕を押さえ付けたトキの端正な顔が至近距離に迫り、セシリアが戸惑いがちに肩を震わせた頃、彼は耳元で囁いた。



「──アンタを抱く、って」


「……!」


「その覚悟は出来たんだろうな?」



 色を孕む声が耳元で囁き、セシリアは迫り上がる頬の熱を感じながら視線を泳がせる。



 ──抱きたい……から、抱く。次の街に着いたら。



 いつか彼が言ったそんな言葉がセシリアの脳裏を過ぎった。かあ、と頬を真っ赤に染め上げた彼女は、何も言えずに黙って俯く。



「……セシリア」


「……」


「……何も言わないんなら、勝手に抱くぞ」



 耳元でトキがそう宣言するや否や、彼の手はするりと背中に回って彼女のワンピースのファスナーに手を掛けた。びく、と身を強張らせたセシリアだったが、器用な彼の指先はすぐさまファスナーを背中まで下ろすと、続いて下着の留め具にまで手を伸ばす。



「やっ、ま、待って! トキさん、待ってください……!」


「……無理」


「あ……!」



 ぱちん、と一瞬で下着の留め具が外され、セシリアは慌てて胸を押さえ付けた。「ダメです……!」と訴え、触れさすまいと固く身を守って震える彼女に、トキは眉を顰めてぼそりと口を開く。



「……怖いか……? 俺の事……」


「……、え……」


「この前、無理矢理……アンタの事、襲ったから……」



 ぽつぽつと、こぼれ落ちたのはそんな言葉だった。トキは切なげにセシリアを見つめ、そっと彼女の背中に腕を回す。



「……!」


「……悪かったと思ってる。……あれは全部、完全に俺の八つ当たりだ……俺が全部悪い」


「……」


「……もう、あんな怖い思いさせないって誓うから……」



 抱き寄せられ、低い掠れ声が耳元で囁いた。ストールを巻いていない彼の首元に頬が触れると、安心する彼の匂いがする。



「……俺に、抱かれてくれないか」



 普段よりも弱々しく紡がれた言葉の後、背中に回された腕に力が篭った。それはまるで、俺を受け入れてくれと懇願しているように感じてしまって。


 セシリアは視線を泳がせ、やがておずおずと口を開く。



「……お、おふろ……」


「……?」


「……お風呂だけ、入らせて、くれませんか……?」



 お願いします……、と訴える翡翠の瞳に、トキは更に眉を顰めた。



「……俺は今すぐ抱きたい」


「……だ、だめ……お風呂……」


「アンタ、風呂長いだろ」


「すぐ済ませるので……!」



 お願い、と再度縋るように訴え掛けられ、流石のトキも口を閉ざした。前回の情事の弱みがある分、今は彼女に対して強く出る事が出来ない。


 トキは暫し黙った後、はあ、と嘆息し、抱き寄せていた彼女の体を解放した。



「……早く済ませろよ」


「……! はい!」



 途端にセシリアは安堵したように頬を緩め、トキから離れると慌ただしく荷物を降ろして中から着替えを取り出し始める。そのまま立ち上がり、ぱたぱたとシャワールームに駆け込んで行く背中を見送った後、トキは大きく溜息を吐き出してベッドの上に倒れ込んだ。



「……今、よく耐えたな、俺……」



 手癖悪いくせに……、と踏みとどまった己を密かに賞賛しつつ、彼はセシリアの帰りを待つ。──しかしそんな待ち時間ですらも愛しく感じてしまうものだから、ああ、これはだいぶ重症だな、と彼は自分に呆れるばかりなのであった。




 2




 ──結局、セシリアが風呂から出た後、トキもシャワーを浴びる事にした。


 カチカチと身を強張らせ、緊張した面持ちでシャワールームから出て来た彼女を見た時には思わず吹き出しかけたが、時間が経って少し冷静になった彼は髪を濡らしたままのセシリアの頭にタオルを投げ付け、「ベッドで待ってろ」とだけ耳打ちしてシャワールームに入った。

 セシリアとは違い、体を洗う事に時間を掛けないトキはほんの数分でシャワーを浴び終えてしまう。手早く汗を流し終えた後、濡れた体の雫を適度に拭い、下半身だけ着替えを施して、上半身は裸のまま彼はシャワールームを出たのであった。


 ──そして彼が見たものは、毛布を頭まで深く被ってベッドの隅で丸くなり、小刻みに震えているセシリアの滑稽な姿で。



(……何だ、あのイモムシは……)



 ぷるぷると震えて毛布の中に丸まっている芋虫さながらのセシリアに、彼は思わず笑いそうになった。余程緊張しているらしい。

 ふっ、と耐えきれなかった笑いを漏らしつつ、トキは芋虫の居るベッドにギシリと腰掛ける。



「……セシリア」


「……っ」



 彼女が丸まっているベッドの中に潜り込み、随分と身を固くして縮こまる先入者イモムシへと腕を伸ばす。毛布を取り去り、簡素なノースリーブワンピースから曝け出された白い二の腕に触れれば、分かりやすくその肩が跳ねた。そんな初々しい反応につい喉の奥を鳴らしてしまいながら、指の先でそろりと柔肌を撫でる。



「……っ」



 縮こまる彼女の呼吸が、僅かに震えたのが分かった。トキは探るように指を折り曲げ、そろそろと着実に前方へ向かって触れる位置を移して行く。反対を向いたまま振り向かないセシリアの体のラインを確かめながら、薄暗い中でも赤く色付いている事がよく分かるその耳に唇を寄せた。微かに漏れた上擦った声に、彼の口元が満足げに弧を描く。



「……ん……!」



 慌てて下唇を噛み、セシリアは声を押し殺す。しかしすぐさまトキの唇が薄く開き、赤く染まった耳を軽くんでなぶった。ぞくぞくと肌が波立ち、彼女はきゅっとベッドのシーツを握り締める。


 セシリアが耳に気を取られている隙を付き、トキは彼女の着ている薄手のワンピースの紐を器用に解いてその肌を空気に曝した。果物の皮を剥くよりも簡単に、あっさりと布の下に隠されていた素肌が露わになる。暗闇に慣れた目にその白さが眩しく映り込んで、トキは目尻を緩めた。



「……へえ。下着、付けてないんだな。……下も履いてないのか?」


「……っ、……そ、そっちは……履いてます……」


「何だ、脱いでて良かったのに」



 意地の悪い言葉を吐きつつ、白い素肌に視線を向ける。自分とは正反対の、傷一つない滑らかな背中。それがとてつもなく旨そうに思えて思わず喉が鳴ってしまう。


 するするとワンピースを下ろし、細い脚を通して下着と共にその布を取り去れば、とうとう彼女の全貌が目の前に曝け出される。流石に全身に何も纏わないのは抵抗があるのか、セシリアは身を隠そうと更に縮こまってしまった。



「……怖いか?」



 先程も尋ねたその言葉を耳元で囁けば、セシリアはぴくりと反応して伏せていた睫毛を震わせる。ややあっておずおずと瞼が開き、ふるりとかぶりを振った。



「……こ、怖くない、です……」



 ──嘘つけ。


 喉元までその言葉が迫り上がったが、なんとか声には出さず飲み込んだ。前回、あんな酷い奪い方をしたのに、怖くないはずが無い。



「……嫌なら、やめるけど」



 そんな心にもない言葉を吐くと、セシリアは大きく首を横に振った。自分で言っておきながら、やめないで、と訴えかける彼女を期待していただけに、その反応がどうしようもなく嬉しくてトキの心を満たしてしまう。トキは口元が緩みそうになるのを誤魔化すように、再び彼女の耳を食んで舌を這わせた。



「あ……っ」


「……こっち向けよ」


「……や、恥ずかし……」


「今からもっと恥ずかしい事すんだろ」



 そろりと指先で曲線を描く素肌をなぞり、空いた手で肩を引いてセシリアの体を仰向けに向き直らせる。耳元から唇を離してその白い裸体に覆い被されば、備え付けのランタンに灯る心許ない明かりが、震えるセシリアの肌を艶やかに照らし出していた。


 ──女の裸を見るなんて事は、別に珍しくない。セシリアの肌だって、これまでに何度か見た事はある。だから今更、たかがこんな事で、動揺などするはずもないと思っていたのに。



「……っ」



 揺れる光に照らされた、緩やかにしなるくびれと、小振りながらも形の良い控えめな膨らみ。普段はけして人前に晒すことのないその場所を華奢な脚で隠しながら細やかに震えるセシリアの姿に──トキは思わず生唾を飲み込んだ。



(……あ、まずい。これは、まずいな……)



 今すぐにでもその体を抱き潰してしまいたい衝動がトキの情欲に囁きかけるが、なんとか理性を引っ張り出して寸前で踏み止まる。──このまま欲望のままに抱いてしまったら、それこそ前回と同じだ。


 残る理性に鞭を打ち、トキはあくまで冷静を装いながら震える彼女の耳元に囁き掛けた。



「……力抜けよ。大丈夫だから」


「……」


「……優しく、するから……」



 女を抱くのに気を遣った経験など、ついぞ無い癖にそんな言葉を吐いた。しかし優しくしてやりたいと思うこの心は間違いなく本心で、いつからこんなに甘くなったのやらと呆れてしまう。

 セシリアの肋骨から胸にかけてを指先でなぞり、震えて強張る体をほぐすように、頬に、額に、顎の下に──トキは次々と口付けを落として行く。そしてとうとう彼の唇がチョーカーで隠された彼女の首元に辿り着いた時、セシリアはびくっとあからさまに身体を震わせて彼を拒んだ。



「あ、や、だめ……っ」



 その場所は見られたくないのだと、セシリアの手がトキの頬を掴んでチョーカーに触れるのを阻む。よく見れば彼女の手首も包帯で隠されており、何を今更、とトキは呆れた。



「……いいから、見せろよ。全部脱げ」


「……っ」


「……俺は、アンタの全部が見たい」



 至近距離で見つめるアメジストのような瞳が、不安げに震えているセシリアを貫く。セシリアはしばらく戸惑ったように視線を泳がせていたが──ややあって意を決したのか、おずおずとチョーカーの留め具に手を伸ばした。


 ──カチッ、


 音と共に、留め具が外れる。震える手で外されたチョーカーの下から現れたのは、浅黒くはっきりと残された、彼女の忌々しい刻印。



「……」



 黙り込んでしまったセシリアの首元に、トキはそっと唇を近付けた。薄く開いた唇で軽く吸い付けば、セシリアの肌がぴくりと反応する。



「……っ……」


「……痛くないか?」


「……い、痛くは、ない、です……」


「……ん」



 かり、と軽く歯を立てながら、セシリアの首筋に舌を滑らせる。その度にセシリアは恥ずかしそうに身をよじり、手の甲を自らの唇に当てて漏れる吐息を押し殺した。


 彼女がこうして自らの傷痕をさらけ出してくれる事が、どうしようも無くトキの心を満たして行く。彼女の全てを掌握したかのような自惚れた錯覚が胸に満ち、トキの与える甘やかな刺激を受け入れようと羞恥に耐える姿に堪らなく興奮してしまって。


 幾度となく女は抱いたはずなのに、こんな感情は初めてだった。奪う事を繰り返して生きてきた自分が、こんなにも欲しくて仕方が無い獲物を目の前にしているのに、安易に奪い取る事はしたくない、だなんて。


 首元を這っていた舌は徐々に位置を下げ、鎖骨を伝って吸い上げる。その隙にずっと焦らすように腹やあばらをなぞっていた指を控えめな膨らみの上に滑らせれば、セシリアの唇から切なげな吐息が漏れた。



「……は、ぁ……」


「……セシリア」


「……ん……」



 やんわりと膨らんだ山を手のひらで包み、ゆっくりとその形を崩して行く。そっと口に含んだ後、漏れる嬌声を耳に流し入れながら舌先で包み込んだ。

 優しく啄み、時折吸い上げながらセシリアの強張った身体を綻ばせて行く。トキは口で彼女の胸を愛撫しつつ、空いた手で滑らかなくびれをなぞった。徐々に手の位置を下へと移し、ぴたりと閉じ切っている脚の間にそろりと指先を忍ばせる。



「……ひ……っ」


「……脚開いて、力抜け」


「……っ、う、ぅ……」


「……慣らしとかねーと、後で痛いぞ」



 意地悪く言い聞かせて、涙目になる彼女の脚をゆるゆると開かせる。僅かに開いた隙間にトキの手は滑り込んだ。

 漏れそうになる声を押し殺しながら恥ずかしそうに涙ぐむセシリアに口付け、探るように、出来る限り優しく、痛々しいほど強張る彼女の緊張を解いていく。時折重なっている唇の隙間から吐息混じりの声が漏れて、切なげに腰が動く様はじりじりとトキの欲を煽った。自分の与える施しが彼女の呼吸を乱しているのだと考えると、この上なく興奮してしまう。


 このまま、さっさと彼女の中に入ってしまいたい。だが、まだ駄目だ。トキは己の欲を制し、疼く渇きを誤魔化すようにセシリアの唇を深く貪って行く。



「……は……、セシリア……」



 身じろぐ彼女を捕まえて、ただただ欲するままに口付けていれば、やがて背中に回された手に力が篭ってセシリアの腰が浮いた。汗ばんだ身体が細やかに震え、熱を帯びた吐息に混じる嬌声が大きくなる。


 彼女の反応が変わったのを皮切りに弱い場所を狙い撃てば、後は早かった。身体を大きく震わせ、あっという間にセシリアの熱は弾ける。消え去りそうな悲鳴を上げ、背を仰け反ったセシリアはトキの胸に縋り着いたまま限界を迎えた。


 短く呼吸を繰り返す彼女の頬に軽く口付け、トキは余韻に震える彼女の耳元に囁く。



「セシリア……」


「はあ……、はあ……っ」


「……可愛い」



 ぽろりとこぼれたトキの本音が耳に届いて、セシリアの心臓が跳ね上がる。そんな胸の高鳴りの後、また唇を優しく塞がれて──なぜだか、涙が出そうになった。



「……っ、ふ……ぅ……」



 唇が離れ、再び肺に空気を取り込んだ時、くたりと力の抜けた身体にはまだ溶け落ちそうな程の熱が残っていた。乱れる呼吸を繰り返しながらベッドに倒れ込む間、トキは何度もセシリアの耳元で「大丈夫」を繰り返す。



「……あ……」


「力抜け、大丈夫だから……」


「……トキ、さ……」


「怖くないから」



 優しくする、と囁いて、トキはセシリアの身体を抱き締める。密着する温度の中、伝わる彼の熱がとてつもなく愛おしく感じて、セシリアは涙の張った瞳からぽろりと一粒の涙を滑り落とした。──途端に、トキはぎくりと表情を強張らせる。



「……っ、な、何だ、どうした? 痛いのか?」


「……ううん……」



 小さく首を振って、セシリアはトキの背中に回している腕に力を込めた。彼を想ってはいけないと、頭では分かっている。首元に残る刻印がそれを許さない。


 けれど、それでも。



「……嬉しいの……」



 古傷の多い背中も、少し荒い言葉遣いも。彼の全てが、愛おしいと思う。



「……私、トキさんに会えてよかった」


「……」


「……こんなに、幸せで、いいのかな……」



 涙を浮かべた目尻を緩めて呟けば、目の前のトキの表情が切なげに歪んだ。今にも泣き出しそうな彼の視線の先には、浅黒い刻印の浮かぶ彼女の首元。



「……っ」



 迫り上がる群青の塊に気が付かない振りをして、トキはセシリアの唇を塞いだ。舌を絡め取って混じり合う中で、こぼれてしまいそうな感情を押し留める。唇の端から漏れる嬌声すらも奪い取って、彼は腕の中の彼女を強く抱き締めた。


 こうして触れ合う熱はとてつもなく気持ちがいいのに、切なさがずっと蔓延って、ずっと拭えない。



(……このまま、時が止まればいいのに)



 つい、そう思ってしまった。そうしたらずっと、彼女はここに居る。自分の物で居てくれる。


 けれどいくら貫いて、欲を深く沈めても、愛をその耳に語り掛けてやる事すらしてやれない。彼女は、絶対に手に入らない“幻”だから。


 でも、今だけでいいんだ。



(……今だけ……今だけでいいから……)



 ──どうか、俺だけの物になってくれ。


 口に出来ない言葉を飲んで、蔓延る哀しみを誤魔化して。彼だけの物になった幻は、ただ哀しげに微笑んで、彼に与えられる儚い幸せを噛み締めた。




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