第62話 導きの鐘と信じる心
1
──ゴーン、ゴーン、と、遠くで鐘の音が聴こえる。
その音を聴きながら、セシリアは真っ暗な空間の中で閉じていた瞼を開いた。──何も見えない。しかしこの感覚には覚えがある。おそらくここは夢の中だ。
「……私、眠ってしまったの……?」
セシリアは目を伏せ、マルクにローゼリアの花で貫かれた胸にそっと手を添えた。
──トキとの逢瀬の後、マルクに連れ去られた彼女は知らない部屋の中で目を覚ました。甘い匂いの充満する部屋の中。祭壇のような場所で手足を拘束され、「今からお前は永遠の眠りにつく」と告げたマルクに剣を向けられて──酷く戦慄したのを覚えている。
助けは来ないと、すぐに悟った。ここまで強い匂いが充満しているのだから、アデルの鼻は効かない。長く修道院で過ごしていたセシリアですらここが何処なのか分からないという事は、おそらく他の修道院の人々にも分からない。マルクだけが知っている場所なのだ。
震えている間に、セシリアは着ていた衣服を引き裂かれ、恐ろしい目をしたマルクに唇を奪われた。手足を縛られているために抵抗も出来ず、口内で蠢く舌の感触にゾッと不快感が蔓延る。
嫌だ、としか思えなかった。とにかく怖くて、ひたすらに気持ち悪い。強い罪悪感が胸に満ちて、自然と涙が溢れた。トキの姿が脳裏に浮かんで、また更に涙が迫り上がって。
無意識に、縋るように、彼の名前を呼んでしまった。「トキさん、」と、助けを願うように。──その瞬間、マルクの目の色が変わったのだ。
「……そんなにアイツが好きなら、特別にアイツの物で傷を付けてやるよ」
そう宣言された後、マルクは自らの剣をしまい、見覚えのある短剣をセシリアに突き付けた。──それがトキの物だとすぐに分かって──彼女は戦慄する。彼の物をこんな事に使ってはいけない。自分の物でセシリアが傷付けられた事を知れば、優しい彼はきっと傷付くだろう。
しかし、やめて、といくら泣いて縋ったところで無駄だった。トキ短剣はセシリアの肌を裂き、悲鳴と共に真っ赤な血で汚れて行く。ややあってセシリアの傷が癒えると、また肌を引き裂かれて血が流れた。何度もそれを繰り返して、最早声すら出せなくなった頃、赤黒く色付いたローゼリアの花を手にしたマルクが恍惚とした表情で告げたのだ。
──おやすみ、俺のセシリア。
その一言を最後に、鋭利に尖ったローゼリアの花で胸を貫かれた。どくどくと、何か生温いものが注ぎ込まれて行く感覚が体内を巡って──そこからはもう、何も覚えていない。
「……私、死んだのかな……」
ボソリと、セシリアは不安げに声を発して俯く。暗い空間に一人座り込み、泣きだしそうな表情で彼女は自らの唇に触れた。
──トキでは無い人に、唇を奪われてしまった。
その事実が酷く彼女の胸を締め付けて、耐え切れずセシリアは涙を落とす。覚悟も出来ぬまま迎えた最期が、こんな酷すぎる結末だなんて。
「……う、ぅ……っ」
もう二度と、トキに会えないのだろうか。やっと再会出来たアデルにも、自分を慕ってくれるステラにも、気さくに笑いかけてくれたロビンにも、二度と。
──嫌だ。
こんな形で、終わりたくなかった。誓いを果たせぬまま、死にたくなんかなかった。
「……うっ、ひっく……ぅぅ……」
暗闇の中で一人座り込み、小さく震えて嗚咽を漏らす。──すると不意に、パタパタと軽快に駆け寄って来る足音が耳に届いてセシリアはハッと目を見張った。
彼女が顔を上げた先から勢い良く飛び込んで来たのは──。
「泣かないでセシリアぁぁぁ!!」
「んぶ!?」
──むにぃ!!
自分には無い豊満な二つの膨らみが、突如セシリアの顔面に押し付けられる。泣きっ面を覆うように力強く抱き寄せられた事で、セシリアは何事かと混乱しつつじたばたともがいて豊満に膨らんだ胸から顔を出した。
すると目が合ったのは、先日顔を合わせたばかりの若草色の少女──
「──アルラウネ……!?」
「セシリアぁ、泣かないで……! セシリアが泣いたら私も悲しいよぅ……!」
「んむっ!」
再びムニィッ、と胸で顔を押し潰される。セシリアは再びじたばたともがいて「し、死んじゃう! 息が出来ない!」と必死に訴え、渋る彼女を何とか引き剥がした。
貫かれたはずの胸にようやく酸素が入り込み、セシリアは深く安堵の息をつく。
(……し、死んじゃったはずなのに、また死ぬかと思った……)
ぜえぜえと肩で息をしながら呼吸を整えていると、浮かんでいた涙すらも引っ込んでしまった。アルラウネはぴったりとセシリアの腕に引っ付き、すりすりと甘えるように白い二の腕に頬を寄せている。
「はうぅ……セシリア、守ってあげられなくてごめんね……痛かったよね……本当にごめんね……」
「……アルラウネ……」
「……チッ、あの糞デコッパチのクズ野郎……私のセシリアに手を出しやがって……。男じゃ無かったら私の力で八つ裂きにしてやったのに……」
「……え? で、でこっぱち……?」
唐突に声色を変え、冷たい瞳に殺意を滲ませたアルラウネに困惑していると、けらけらと愉快そうな笑い声が背後から響いた。次いで、ジャラジャラと引きずられる鎖の音も。
「あっははは! デコッパチだって、面白! アンタって本当に“男嫌い”なのね、アルラウネ!」
「──!」
掠れた声、骸骨のような痩せ細った身体。ジャラジャラと鎖に繋がった手足を引きずって近寄る少女は、当然いつもの“彼女”だった。セシリアの中に住まう、もう一人の“自分”。
そんな彼女に、アルラウネはむぅっと頬を膨らませる。
「えー、だってキモいもん、本当に最低最悪最強に気持ち悪い。男とか全員滅べばいいのよ。木の根の先でも触れたくないわ」
「……え、えと……アルラウネ……? 男の人が苦手なの?」
「うん、大ッッ嫌い!! 気持ち悪い!! だからセシリアを傷付けたあのデコッパチの四肢を引き裂いて内蔵を引きずり出して目玉を抉り取りたい!!」
満面の笑みで恐ろしい言葉を口にするアルラウネに、セシリアはゾッと肝を冷やしながらも「そ、それは流石にだめよ……」と引き攣った笑みを返した。しかしアルラウネは不服げに唇を尖らせる。
「えー、いいじゃん。何なら私、セシリアといつも一緒にいるあのロクでなしの糞野郎もソッコー殺したいもん。あーホント、私の可愛いセシリアと毎日のようにキッスしやがって羨ましい殺したい……! しかもドグマ姉様まで味方に付けやがって……チッ、忌々しい……!」
「……あ、あの、もしかして、トキさんの事言ってる……?」
「大丈夫よ、“セシリア”。その子、口ではそんな事言ってるけど実際に男が居ると表に出れないから」
不意に痩せ細った少女が会話に割り込み、どこか小馬鹿にした様子でアルラウネを見つめた。
「アルラウネは生粋の男嫌いらしくてね。近くに男が居ると拒絶反応が凄くって、指輪から一切出れないんですって」
「……指輪から出れない……?」
ぱちりとセシリアは瞳を瞬き、自身の右手の薬指を見下ろした。──確かに、アルラウネと初めて出会ったのはトキと離れ離れになった際の森の中で、周囲にはステラ以外に誰も居なかった。どうやら普段は男──つまりトキが傍にいるため、全く姿を現さないらしい。
むすーっと膨れっ面のアルラウネを見つめ、少女はケラケラと愉快に笑う。
「もう、ほんと最高に面白いのよ! “セシリア”があの賊とキスする度、アルラウネったらここで阿鼻叫喚の大騒ぎなんだから!」
「……っ、ちょ、ちょっと待って、どういう事!? いつも見てるの!?」
「何言ってるのよ。私達、“セシリア”の中にいるんだから当然じゃない」
「……っ!」
かあぁ、とセシリアは頬を真っ赤に染め上げ、普段の口付けや恥ずかしいアレコレが覗かれているという事実にどっと汗を吹き出す。激しい羞恥心に苛まれ、恥ずかしさで死んでしまう……、と考えたが──もう死んでるじゃないか、と気が付いて、セシリアの心は急速に冷たさを取り戻した。
「……」
「……? どうしたの、セシリア」
黙り込んでしまったセシリアを、アルラウネが不思議そうに見つめる。セシリアは視線を落としつつ、震える声をぼそぼそと紡いだ。
「……私……もう、死んじゃったのよね……?」
「……はあ?」
彼女の発言に呆れた声を返したのは痩せ細った少女だった。「まーたそんな事言ってるの」と肩を竦め、少女はセシリアに近付く。
「やっぱり馬鹿よね“セシリア”は。生きてるに決まってるでしょ。
「……でも……マルクが言ってたわ。私、永遠に眠るんでしょう……? どうやって目覚めたらいいの?」
「だーいじょうぶ、安心してセシリア!」
腕に引っ付いているアルラウネが明るく声を上げ、むにっと豊満な胸を押し付ける。
「セシリアはね、強い“味方”が周りにたっくさん居るんだよ? 偉大ですんごい古代魔女様が傍に居るってこと、忘れてなーい?」
「……古代魔女……〈
「そう! 私もそうだし、ドグマ姉様もそうよ! それにここには“光”があるもの。セシル姉様という、一番目の魔女の“導きの光”がね」
アルラウネは微笑み、座り込むセシリアの腕を引いた。セシリアは彼女に促されるまま立ち上がり、不安げに瞳を
そんなセシリアをつまらなそうに眺め、痩せ細った少女は頬杖を付いてぽつりと呟いた。
「……それに、そろそろ迎えに来るんじゃない? ちょっと薄汚れた、“セシリア”の王子様が」
「……! トキさん……!?」
「うっげー、あの糞ネズミが王子様とか有り得ない……」
あからさまに声を低めて舌を出したアルラウネの横で、セシリアはふるりと瞳を震わせる。──また、彼に会えるのだろうか。そう考えると涙がこぼれ落ちてしまいそうで、セシリアはぐっと唇を噛んだ。
「……私、目を覚まして、いいの……? 彼の所に戻っても……いいの……?」
「……当たり前でしょ、何を迷ってるの。早く行ったらいいじゃない。……こんな所で終わらせるために、私は“セシリア”を望んだわけじゃないわ」
少女はセシリアと同じ翡翠の目玉をぎょろりと動かし、真っ直ぐと彼女を見つめた。
「──生きなさい、“セシリア”。“貴女”の階段を最後まで降りなさい。途中の
「……っ」
セシリアは表情を歪め、頬に流れた冷たい雫を慌てて手のひらで拭い取った。唇から零れ落ちてしまいそうな嗚咽を何とか飲み込み──ややあって、こくりと深く頷く。
ゴーン、ゴーン、と遠くから鐘の音が響いたのも、丁度その時で。
「……“導きの鐘”の音がする。呼んでるわ、セシル姉様が」
アルラウネは呟き、そっと微笑んでセシリアの背中を優しく押した。若草色の髪をふわりと揺らし、瞳を細めるアルラウネをセシリアは不安げに見つめる。
「ふふ、大丈夫! この鐘の音がする方向に走って行けばいいわ、セシリア。暗くても怖くないよ、きっと姉様が貴女を導いてくれる」
「……っ、うん……!」
「さあ、行って?」
「……あのっ、二人とも……!」
セシリアは瞳に溜まった涙をゴシゴシと拭い、やんわりと目を細めて暗闇の中の二人に視線を向ける。
──ずっと、怖がっていた。“思い出したい”と願う心とは裏腹に、過去に目を向ける事からも、自分の運命を認める事からも……ずっとずっと、逃げていた。
でも、もう。
「……ありがとう……、私ね……!」
「……」
「もう、怖がらないよ……もう隠さない。私、ちゃんと“セシリア”を、受け入れるわ。……そして──」
──ちゃんと“私”の階段を、最後まで降りてみせるから。
セシリアは涙声で微笑み、それだけ伝えると暗闇の奥へ向かって走り出した。ゴーン、ゴーン、と響く鐘の音の導きの先へ消えて行く彼女の姿を見送りながら、つまらなそうにセシリアの背中を見つめている少女にアルラウネは口を開く。
「……貴女は、セシリアが羨ましい?」
「……そうね」
意外にもあっさりと肯定した少女に、アルラウネはぱちりと瞳を丸めた。少女は痩せこけた目を細め、セシリアと同じ翡翠の瞳を寂しげに伏せる。
「……“私”の時は、求めてくれる“味方”なんて誰も居なかったから。素直に“セシリア”が羨ましいわ」
「……ふーん?」
「……ま、もう終わった事だし、どうでもいいけど」
少女はつまらなそうに吐きこぼし、重い腰を上げた。そのまま立ち去ろうとする背中に、「ねえ、」とアルラウネが呼び掛ける。
「貴女も、名前ぐらいはあるんでしょ? どうせなら教えてよ」
投げられた問いに、少女は鎖を引きずっていた足を止める。やがて、彼女は嘲るように笑った。
「……忘れたわ、そんなの」
寂しくこぼれた答えに、ええ〜? と不服げにアルラウネは首を傾げる。しかし痩せ細った少女はそれ以降何も語る事は無く、ジャラジャラと鎖を引きずって、闇の奥深くへ消えてしまったのであった。
2
──ゴーン、ゴーン。
重たいけれど優しい、鐘の音が徐々に大きくなる。セシリアはその音に導かれるまま、暗闇の中を駆け抜けた。
もう、逃げない。
もう、隠さないから。
自分の過去も、未来も、受け止めてみせるから。
だから、もう一度──帰りたい。
そう強く願った時、暗闇に響く鐘の音の向こうで、聞き慣れた彼の声が聴こえた気がした。
──セシリア。
「──!」
即座に足を止め、微かに耳に届いたその声を探す。少し低く掠れた、優しい声。
「……トキさん……!」
暗闇に呼び掛けるが、返事はない。しかしすぐにまた、どこからともなく彼の声が囁いた。
──アンタ、意外と頑固だからな。俺との誓い、守るために戻ってくるだろ。
「……っ」
聞こえる。近くにいる。
セシリアは再び地面を蹴り、優しく囁くトキの声に導かれるように走り出した。鐘の音は、もう聞こえない。代わりに、彼の声が、セシリアを導くように耳に届く。
──セシリア──
トキさん。
──俺は、アンタの事を──
私は、貴方の事を、ずっと。
「……信じてるから」
耳元で、声が聞こえる。
刹那、閉じ切っていた瞼の裏が真っ白に明るく色付いて、冷たく凍り付いていた身体の感覚が徐々に血の巡りを取り戻し始めた。──唇に感じるのは、確かな温もり。優しくて愛しい、知っている感触。
感じる温もりに導かれるように、セシリアは重たい瞼をゆっくりと持ち上げた。ぼんやりと白む視界の中。まるで宝石のような、美しい薄紫の双眸が徐々に鮮明に色付いて、端正に整った彼の顔がハッキリと視界に映る。
沈黙の中、柔らかく細められた瞳と、不意に視線が交わって──彼はゆっくりと唇を離し、その口を開いた。
「──お帰り、セシリア」
ずっと不安で苦しくて、張り裂けそうだった心が──彼のそんな言葉一つで、一瞬にして和らぐ。セシリアはふわりと泣きだしそうな顔で微笑み、近くにあるトキの頬にそっと手を伸ばした。
「……ただいま、トキさん」
トキは頬に触れたセシリアの手を取り、優しく微笑んで再び彼女に触れるだけの口付けを落とした。その温度を感じながら、セシリアは静かに目を閉じる。
(ああ、ほらね、)
──やっぱり貴方が、私の王子様だったよ。
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