第59話 いつか私の王子様
1
壁際に背中を押し付けられて、一体どれほどの時間が流れたのだろう。思ったよりも時間は経っていないのかもしれない。けれどお互いの唇の熱を味わうこの時間が、まるで永遠のように感じてしまって。
唇が離れ、冷たい夜風が現実を引き連れて二人の間を吹き抜ける度、胸の奥が締め付けられたように苦しくなる。彼にもっと触れてほしい、もっと一緒に居たい──そう思ってしまっている事が視線で伝わってしまったのか、じっと見上げた先のアメジストが柔らかく細められて再び彼女の唇を塞いだ。
そのまま舌が入り込み、強引だけれど優しい口付けをまた繰り返して──やがてようやく、二人の唇が離れる。
「……も、終わり、ました……?」
長い口付けに呼吸を乱しながら問い掛けるセシリアは、くたりと力無く壁に凭れて潤んだ瞳をトキに向けた。彼は片手でセシリアの頬や耳を撫で、彼女の瞳を見つめる。
「……まだ。足りない」
「え……っ!? あ、あの、でもここ、通路なので……! 誰かに見られたら……!」
「じゃあ俺が苦しくて死んでもいいのか?」
そんな意地の悪い言葉を吐けば、セシリアは困ったように眉尻を下げて「え、ええ〜……?」と困惑した。そんな事で死ぬわけない、とでも言いたげな表情だが、そんな反応ですらも彼の情欲をそそるもので。再び彼女の唇に近付けば、困った顔をしつつもセシリアは目を閉じて彼を受け入れた。
「……ん……」
「……でもアンタ、好きだろ? キスするの」
軽く唇に触れながら揶揄うように問い掛ける。するとセシリアは閉じていた瞳を薄く開き、恥ずかしそうに目を泳がせて小さく頷いた。
「……トキさんの、なら……好きです……」
「……」
かあ、と頬を赤らめるセシリアの発言に、トキの思考が凍りつく。しかしやがてじわじわと熱が迫り上がり、むず痒い胸の感覚に彼は顔を顰めた。
「……ばか、何言ってんだよ……」
「だめですか……?」
「……っ」
不安げに揺れる瞳がおずおずと持ち上がり、トキは言葉を詰まらせて息を飲む。ややあって彼は眉間を寄せたまま深く溜息を吐きこぼすと、セシリアの額に自身の額をこつんと押し当てた。
「……だめじゃない」
「……」
「アンタは、俺以外知らなくていい……」
端正に整った顔が近付いて、再び優しく唇に触れる。もう何度目だが分からないほどに繰り返した口付けだというのに、回数を重ねる度に柄にもなく緊張してしまうのは、気のせいだろうか。
(アンタは、このまま……)
──俺のことだけ考えてろよ。
唇を啄みながら、そんな言葉を胸中で思い描いた時──ドサッ、と重たげな何かが地面に落ちる音が耳に届いた。その瞬間、トキの意識は現実へと引き戻される。
ハッと目を見開いた直後、ふと振り返った彼の視界には暗い影が落ちて。
──ドゴッ!!
「──ぐ……!?」
「きゃあ!?」
突如背後から凄まじい勢いで蹴り飛ばされ、トキは中庭に続く階段を派手に転がり落ちた。セシリアはすぐさま「トキさん!!」と悲鳴のような声を上げたが、突如伸びてきた手に強く胸ぐらを掴まれた事で言葉を詰まらせる。怒りに燃える青い双眸と目が合った瞬間、セシリアの頬には鈍い痛みが走った。
──バシィンッ!!
「……っ!」
左頬を強く殴られ、セシリアの体がぐらりと傾く。倒れかけた彼女だったが、掴まれた胸ぐらを更に強く引かれた事で強引に体勢を戻され、再び怒りに満ちた瞳と視線が交わった。
「──何してるんだ、セシリア」
低い声がこぼれ落ち、セシリアの背筋に冷たいものが走る。殴られた頬が痛みを放つのを気にしている余裕もなかった。胸ぐらを掴み上げている彼──マルクは、冷たい表情でセシリアを見下ろしている。
「ま……マルク……」
「何をしているのか聞いてるんだ。答えろ」
「痛……っ!」
髪を引きちぎらんばかりの力で掴み上げられ、セシリアは痛みに表情を歪めた。震える彼女を血走った目で睨み、マルクは僅かに血の滲んでいるその唇を指でなぞる。
「……なあ、今、あの男と口付けをしていただろ……? お前、何考えてるんだ? 自分が“何”なのか忘れたのか?」
「……い、……っあ……!」
切れた唇の傷口を指で抉られ、セシリアは痛みに身をよじって声を漏らした。じわりと滲む血が溢れ出し、口の端から滑り落ちる。その血を眺め、マルクは口角を上げて乾いた笑みを漏らした。
「……いや、セシリアから求めるわけないか。あの賊に無理矢理迫られたんだよな? だったら話は早い、お前に近付く悪は俺が全員殺してやる」
「っ……、ち、違う……! マルクやめて! 違うの!」
腰に携えた剣を引き抜こうとするマルクの腕をセシリアが掴んで止める。しかし彼はセシリアの腕を振り払い、再び彼女の頬を殴った。
背後の壁に頭を打ち、セシリアは「うぅ……」と小さく呻いて力無くその場に座り込む。
「邪魔するな。お前を穢す者は俺が許さない。あの男は俺が粛正する」
「……っ、ぅ、……だ……め……」
「お前は黙ってそこで見ていろ。あの男を殺した後で、お前の事は俺がすぐに消毒してや──」
マルクがそこまで口にした時、ふと背後から凄まじい殺気を察知して彼は目を見張った。すぐさま剣の柄を掴むが、それを引き抜くよりも早く重たい左拳がマルクの頬を捉える。
──バキィ!!
「……っ!」
鉛のように重たい一発にマルクの身体が弾き飛ばされ、ぐらりと傾いてその場から数歩後ずさった。彼を殴ったトキは血の混じった唾を通路に吐き捨て、額を切ってしまったのか流血した状態で鋭くマルクを睨み付ける。
「……人の連れに手ェ出してんじゃねえよ、殺すぞ」
低い声でマルクを牽制し、トキは殺意すら篭った瞳で彼を見下ろした。セシリアの前に立ちはだかるトキを、忌々しげにマルクが睨む。
「……この、ドブネズミが……! 殺してやる……!!」
「それはこっちの台詞だクソ野郎。テメェが死ね」
トキは冷たく吐き捨て、今にも剣を抜きそうなマルクに明確な殺意を向けた。一触即発の空気に焦燥を抱いたセシリアは、すぐさま立ち上がってトキの前に飛び出す。
「だめ!! やめて二人共……!」
「……!」
「マルクお願い、トキさんには何もしないで……! 私の事はいくらでも傷付けていいから……っ」
「何言ってんだ、ふざけんな!!」
セシリアの言葉にトキが怒鳴る。びくりと震えた彼女の肩を強い力で掴み、薄紫の双眸が彼女を睨み付けた。
「勝手な事言ってんじゃねえよ!! アンタが怪我するのなんざ俺は真っ平御免だぞ!!」
「……と、トキさ……」
「いつもそうだアンタは! そうやって自分を犠牲にして俺を守ろうとすんじゃねえ!! アンタの信じる神がそれを許そうが、俺は望んでない! 俺はアンタの血も、涙も、見たくない……っ」
悲痛に訴える彼に、セシリアの胸が強く痛みを放つ。肩を捕まえている手は少し震えているように感じた。
何も言えずに黙るセシリアの背後で、マルクが口を開く。
「……哀れな男だな、貴様は」
「……!」
「セシリアの事を何も知らないから、そう言えるんだ」
マルクはぼそりと声を発したが、興が冷めたのか結局剣を抜く事はしなかった。そのまま彼は踵を返し、トキを蹴り飛ばす前に自身が取り落とした黒い本をそっと拾い上げる。──その表紙に刻まれた“逆さ十字”の紋章に、トキは眉を顰めた。
(……あれは……“黒魔術書”……!?)
見えたのは一瞬だったが、彼は見逃さなかった。“逆さ十字”の紋章──それは使用する事を固く禁じられている、神に仇なす魔術の印だ。
この世の
マルクはその本を隠すように懐にしまい、暗い廊下を歩き始めた。
「俺は、貴様とは違う。セシリアの全てを知っている」
「……」
「俺は例え彼女を深く傷付けてでも……セシリアを守る。セシリアを救う。そしてずっと傍に居るんだ……。それが、どんな形だとしてもな」
低い声が通路に寂しく響いて、マルクは音もなく廊下の奥へ消えて行く。トキは眉を顰めたまま、彼の隠した魔術書の表紙を思い描いた。
神の道理に反する事を示す、“逆さ十字”の紋章を。
(……アイツ、あの魔術書をどうする気だ……?)
ゆらりと亡霊のように去っていった不気味な背中を見送り、トキの胸中には嫌な予感が蔓延ってしまう。だが、いくら禁術の載った黒魔術の本と言えども、“読むだけ”であれば問題は無い。
日毎に魔法文化が衰退していくシズニアだが、聖職関連の職や田舎には未だに根強く魔法文化が残っている。黒魔術の基礎を応用した実験や開発なども合法的に行われる昨今では、例え一般人が黒魔術書を持っていたとしても罪にはならないのだ。
(そもそも、黒魔術の使用には膨大な魔力が必要だと聞く……。使用するにあたって必要な“対価”や“代償”も大きいって話だからな……)
使用するにはリスクがあまりにも大きすぎる。実際に使用する可能性はまずないだろう──が、妙な胸騒ぎがするのは確かだ。
「……おい」
「……!」
「アンタ、もうアイツに近付くな」
トキは警告するかのように声を低める。セシリアは視線を泳がせ、悲しげに眉尻を下げた。
「……言いたい事は分かります。でも、彼も本当はあんな人じゃないんです……。正義感の強い、優しい人で……」
「アンタにこんな怪我させる奴がか?」
「……!」
トキの表情が険しくなり、ぶたれて血が滲んでいる唇の端を見つめる。セシリアは彼が“女性の血”に対して苦手意識が強い事を思い出し、慌てて自らの両頬に手をかざした。
治癒魔法を唱え、暖かい光が腫れた頬と唇の傷を包み込んだ途端、痛々しかった傷が一瞬にして消える。
「わ、私は大丈夫です! すぐに治せますから! ほら、ね?」
傷の消えた頬を綻ばせ、いつも通りの笑顔を見せるセシリアだったが──トキの表情は晴れるどころか曇るばかりだった。
「……そういう問題じゃない。すぐ治せるからって、傷付いていいとか……そんな訳ないだろ」
「……!」
「……他にもあるんじゃないのか。そうやって消した、アイツに付けられた傷が」
薄紫の双眸に射抜かれ、セシリアは言葉を詰まらせる。何も言えない彼女の様子を肯定だと捉えたのか、トキは眉間を寄せて「気に入らねえ……」と不服げに低音を発した。
「何でアンタは、そうやって傷付こうとするんだ。一人で背負えばいいとでも思ってんのか。偽善も大概にしろよ」
「……」
「そんな風に自分を犠牲にして守られて、俺が喜ぶわけねえだろ。俺の代わりに傷付こうとするな。俺の知らないとこで、勝手に……誰かに傷付けられてんじゃねえよ……」
徐々に尻すぼみになる声を絞り出し、トキはセシリアの手を引くと自身の腕の中に閉じ込めた。彼の体温に包まれて、セシリアは零れてしまいそうな群青の塊を睫毛の手前に塞き止めながら強く唇を噛み締める。
これ以上、のめり込んではいけない。彼を深く傷付けてしまう。
そう分かっているのに、胸の奥から溢れ出す愛しさに抗う事が出来ない。
「……トキさん、」
小さな声で呼び掛ければ、端正に整った顔がセシリアを覗き込む。彼の顔を見上げると胸の奥がきゅんと切なく締め付けられて、セシリアは彼の首の後ろに手を回した。
トキを捕まえ、自分よりも少し高い彼の背に近付くように踵を上げる。爪先立ちで彼の体にぎゅっと抱き着いて、彼女は口を開いた。
「……私、」
驚いたように丸くなるトキの瞳。しかしややあってゆっくりと、トキの手は優しく彼女の後頭部を撫で始めた。そんな彼の温もりに、ほんの少しだけ頬を緩めてセシリアは続ける。
「……やっぱり、王子様は貴方がいいです……」
柔らかく微笑んだ彼女から告げられた言葉に、トキは眉を顰めて瞳を
「……ふふ。そう言うと思いました」
「悪かったな。どうせなら金髪碧眼でサラサラヘアーの、白馬に乗った王子が良かったんだろ」
「ううん。……私は、この王子様がいい」
ぎゅう、とトキの胸に頬を寄せ、セシリアは告げる。
「黒髪で、癖っ毛で、ちょっと口の悪い……優しい貴方がいい……」
「……」
トキは一瞬黙り込み、頬に熱が帯びるのを感じながら「馬鹿じゃねーの……」と返すのが精一杯だった。セシリアの柔い髪を撫で、腕の中に閉じ込めた体を更に強く抱き寄せる。
──こんな薄汚れた自分が、王子であるはずがない。そんなもの柄じゃない。明るい陽の下で光り輝く彼女を、夜道ばかりを歩いて生きて来た自分が迎えに行けるはずも無いのに。
けれど彼女の隣に居る時だけは、その温もりを独り占め出来るのではないかと錯覚してしまう。だから、もしかしたら、いつか本当の彼女の王子とやらに──。
そんな馬鹿馬鹿しい妄想をトキがかぶりを振って散らした頃、ゴーン、ゴーン、と鐘の音が響いた。セシリアはその音を静かに耳で拾い上げながら、そっとトキから体を離す。
「……もうそろそろ、部屋に戻らないと」
「……」
「……あ、最後にトキさんの怪我、治しますね。額と目の上が切れてるみたいなので……目を閉じて、少し屈んで頂けますか?」
ふわりと、優しく微笑む彼女が頬に触れる。トキは黙ったまま指示に従い、セシリアの目線の高さに合わせて背中を丸めた。
続いて、いつものように治癒魔法を唱えた彼女の暖かな光が傷口を癒す。心地よい光に包まれた傷口が癒えた頃──トキはゆっくりと閉じていた目を開いた。
すると目の前に、ふっと暗い影が落ちてきて。
──ちゅ。
触れた唇の柔らかさに、トキは目を見開いた。
「……、…………」
「……よ、よく眠れる、おまじない、です」
自分でやっておきながら羞恥心が込み上げたのか、セシリアは頬を真っ赤に染め上げると逃げるように彼から離れた。そのまま恥ずかしそうに「おやすみなさい!」と吐き捨て、彼女は小走りでその場から逃げ去って行く。
残されたトキは、そんな彼女の背中を呆然と見つめることしか出来なかった。
「…………」
やがて沈黙が辺りを包み、ふらふらと彼はその場にしゃがみ込む。彼女が触れた唇を片手で押さえ、情けない程に緩む口元を必死で噛み殺した。
普段、受け身のセシリアからこうして自然に口付けをする事は、滅多にない。“彼女から口付けをして来た”という、ただそれだけの事で──驚く程に強い高揚感がトキの胸を満たしていた。
(……まずい……ニヤける……)
誰に見られているわけでもないのに顔を上げる事が出来ず、トキはその場に座り込むばかり。すると彼の右手中指の指輪が突然光り、青い火の玉がケタケタと笑いながら飛び出して来た。
「くーっくっくっく! 愉快愉快、これは面白い物を見た! これまで女など腐る程抱いておきながら、たかが小娘の接吻ごときでその有様とは! 情けないな小僧!」
「……っ、ドグマ……!」
げらげらと笑う三番目の魔女・ドグマに、トキはあからさまに嫌そうな表情を向けて眉根を寄せる。ドグマは未だにげらげらと笑い、トキの周りを飛び回った。
「くーっくくくっ! あの小娘、大概男を見る目が無いな! 貴様のような小汚いドブネズミを“王子様”とは……、プフーッ! しかもそれを貴様も間に受けて……ぶふふーっ!! 世の中の優男を全く知らない小娘で良かったなァ小僧! くーっくっくっく!!」
「……黙れ、水ん中に沈めんぞ……」
ギロリと青い火の玉を睨み付ける。低い声で脅すトキだったが、偉そうな古代魔女にそんな脅しなど通用するはずも無く。「口に気を付けろ、この
一頻り笑い終えたドグマは、不機嫌そうに舌を打つトキの前をふわりと漂いながら再び声を紡ぐ。
「……まあ、冗談はこれくらいにして。本題でも話すとするか……、ぶふふ……っ!」
「……」
未だに笑いを噛み殺せていないドグマを睨むが、もう相手にすまいと彼は何も言わなかった。ドグマはくすくすと笑いを漏らしながらも、ようやく「本題」を語り始める。
「おい、小僧。貴様そろそろいい加減にした方がいいぞ。最近全く“節制”が出来ておらんようだからな」
「……!」
「あの娘に対する依存症状が進行しておる。自分でも分かっておるだろう?」
青い火の玉はふわりと舞いながら忠告する。トキは苦々しく表情を歪め、黙って目を逸らした。
「……何を勘違いしておるのか知らんが、貴様のそれは偽りの感情だぞ、小僧。あの娘に執着しているのは、全て貴様が小娘の魔力に依存しているからだ」
「……」
「我は貴様に忠告したはずだ。“過剰に摂取を続ければいずれあの娘を壊し、貴様も壊れる”と。忘れたのか」
トキは目を逸らしたまま答えない。ドグマは呆れたように嘆息した。
「……はあ、全く。貴様は事の重大さを分かっておらんようだな。依存がこのまま進行するとどうなるのかを」
「……」
「良いか。今の貴様は小娘の唾液を摂取することで、その渇いた喉を潤せておる。だが、最近は少し物足りなさを感じておるだろう?」
「……!」
「一概に“光属性の体液”と言っても、摂取出来るのは唾液だけに限らんからなァ? 唾液で満足出来なければ、次は別の“体液”を求める」
どくん、とトキの鼓動が跳ねた。まさか、と嫌な想像が胸に満ちた頃、その疑念の解をドグマが導く。
「最終的に行き着くのは──“血”だ」
告げられた言葉に、トキの背中が冷たく凍り付いた。柔らかく微笑むセシリアの顔が、ふと彼の脳裏を過ぎる。
「血液中には、特に多くの魔力が含まれておる。その味を知ってしまえばもう後戻りは出来ん」
「……っ」
「依存が進行すれば貴様はあの娘の血液を欲し、娘の身を引き裂いてその血を求める。血を摂取してしまうと依存の進行度は格段に上がる。いつか必ずその手で、貴様はあの娘を殺す事に──」
「そんな事するわけねえだろ!!」
トキはドグマの声を遮って叫んだ。座り込んだまま自身の額を押さえ、「……そんな事……絶対に、しない……」と力無くこぼす彼を、ドグマはじっと見下ろす。
「……ふん。あの娘に手を掛けたくないなら、せいぜい摂取量を抑える努力でもする事だな」
「……っ」
「足掻いてみせろ、小僧。我と“師”を失望させるな」
青い火の玉は呟き、フッと溶けるように消えて行った。トキは額を押さえて俯いたまま、脳裏でセシリアの微笑みを思い描く。──次いで、自分に世の中の生き方を叩き込んだ、“師”と称される男の顔も。
「……何が、師だ……勝手に消えたくせに……」
藍色のストールを
けれど。
「……マドック……」
彼がいれば、自分に道を示してくれただろうか。
そんな馬鹿馬鹿しい考えを一蹴して、トキは暗い夜空を仰いだのだった。
2
コツ、コツ、コツ。
薄暗い廊下を早足で歩きながら、セシリアは火照る頬を両手で押さえ付けていた。先程の行動を思い出す度、顔から火が出そうな感覚に陥ってしまう。
(……と、トキさんに、引かれてませんように……!)
かあ、と頬を色付けながらセシリアは祈った。「傷を癒す」という口実を立てて瞳を閉じさせ、勢いで唇を奪ってしまった自分の行動を今更悔やむ。──とは言え、普段から口付けはしているし、何なら数十分前にはもっと深い口付けを交わしていたわけだが。
そう考えると、あんな稚拙なキスなど彼は気にも留めていないかもしれない……と、それはそれで落ち込んでしまう。
(うう、どっちなの……! 気にされたいの、気にして欲しくないの……!?)
自分でもハッキリとした答えの出ない問いを繰り返し、頬を押さえて困惑したままセシリアは長い廊下を歩いて行く。
彼女の死角で待ち構え、黒い布を手に持って近寄る影の存在にも、気が付かずに。
「──王子様との最後の逢瀬は楽しかったか? セシリア」
「……!?」
突如背後から声を掛けられ、セシリアは目を見張って振り返った。しかし即座に口元に黒い布を充てがわれ、声と共に四肢の自由も奪われる。
「んんっ……!?」
「ああ、暴れるな。すぐに楽になる」
「……っ、ん、う……!」
「大丈夫、怖がらなくていい。お前を俺のものにする時が来たんだ……予定より、少し早いけどな」
至近距離で囁く声はマルクの物だった。抵抗しようと身をよじる彼女だったが、布から香る甘い匂いが脳に満ちて身体の力が抜けて行く。
「……っ」
「あと少し、血が足りないんだ……今日は多めに貰うとするよ。大丈夫だ、お前の血は無駄にしない。流し過ぎた分は、俺が全部舐め取ってやる」
「……ん、んん……」
「愛してるよ、セシリア。俺とずっと一緒にいよう」
口元を押さえ付けていた布が離れ、ぐったりと力の抜けた身体をマルクが支える。霞み行く意識の中、ゆっくりと近付いて来る彼の顔が見えた。
そのまま唇が重ねられ──セシリアの指が、彼を拒もうと一瞬動く。しかし拒絶する心とは裏腹に、体には力が入らない。
(……ト、キ、さん……)
薄れゆく意識の中で愛しい彼の名前を紡ぎ、目尻から溢れ出した一筋の涙がぽろりと滑り落ちた。
呪いの果実を口にしたセシリアの意識は、深い眠りの中へと溶けて行く。
いつか私の王子様が、再び目覚めさせてくれるのだと、そう信じながら。
.
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