第49話 胸の奥の太陽


 1




 東の空に陽が昇り、神に祈りを捧げた後。セシリアはロビンと共に森の中を歩き、はぐれたトキの姿を懸命に探し回った。しかし昼を過ぎ、夕刻が近付き始めても彼の姿は見当たらない。ステラが空を飛び回って匂いを辿っても、彼の痕跡が見つかる事はなかった。


 結局、何の手がかりも得られぬまま陽は暮れ落ち、再び森の中は闇に包まれる。



「……トキさん……どこに行っちゃったの……?」



 ぽつり。川端に座り込み、水浴びを終えたセシリアは暗い顔を洗い流しながら小さく呟いた。汚れたワンピースはまだ乾いていないため、彼女はロビンから借りた衣服に袖を通して再び俯く。


 借り物の衣服はどれもセシリアにはサイズが大きく、ダボッとした綿素材のシャツとブカブカで緩いズボンの裾を折り曲げて、何とも滑稽な着こなしになってしまっていた。何から何までお世話になりっぱなしのロビンに、セシリアは申し訳無さを募らせるばかり。


 昨晩から一日、ロビンと共に過ごしてみて、彼がとても良い人物だという事が分かった。セシリアよりも先に彼と過ごしていたであろうステラはまだ少し警戒心が残っているものの、優しく接してくれる彼に割と懐いているように見える。「俺、昔から動物に好かれるんだよなー!」と得意げに彼は語っていた。

 そんな彼にセシリアは穏やかな微笑みを返していたが、頭の隅ではどうしてもトキの安否ばかりが気になってしまって。



(……トキさん……)



 トキと離れ離れになって、少なくとも今日で六日目。光魔法のキャンディーもそろそろ底をついてしまう頃合だというのに、彼の姿はどこにもない。じわりと涙が滲んで、それがこぼれぬようセシリアは両手で顔を覆う。ぎゅっと強く握りしめたのは、唯一残された彼のストール。



(無事でいて、くれるよね……)



 アデルも、トキも、居なくなってしまった。このまま二人とも見つからなかったら──自分は、これからどうしたらいいのだろう。



(……誓ったのに……私が、必ず、トキさんの呪いを解くって……)



 ぎゅっとストールを抱き締めたまま、胸の前で両手を握る。ぽたぽたと涙を落としながら、水面に映る月に向かって彼女は祈った。



「神様、どうか、トキさんをお守り下さい……」



 肩を震わせ、セシリアは小さな声を絞り出す。──すると不意に、背後でパキリと枝を踏み締める音が響いた。



「──セシリア? 大丈夫か?」



 は、とセシリアは目を見開き、ごしごしと慌てて涙の浮かんだ目元を擦る。耳に届いたのはロビンの声だった。長く戻って来ない彼女を心配したのか、様子を見に来たらしい。



「……は、はい! 大丈夫です! すみません、遅くて……!」


「……いや、無事ならいいんだけどさ。そっち行っても大丈夫か? もう着替えた?」


「あ、はい、どうぞ……!」



 鬱蒼と茂る木々の向こう側から問い掛けてくる声に答えれば、そろりそろりとロビンが木の影から姿を現す。そして川辺に座り込むセシリアと目が合うと、彼は頬を赤らめて一瞬たじろいだようだった。


 そんな彼の様子に、セシリアは首を傾げる。



「……? どうかしましたか? ロビンさん」


「……え!? あ、い、いや~……」



 へら、とぎこちなく笑い、ロビンはどぎまぎと目を泳がせながら彼女の横に腰を下ろした。暫くへらへらと不自然に笑っていた彼だったが、やがて視線をセシリアへ戻すとじいっとその姿を見つめる。


 ──しっとりと濡れ、頬や首に張り付いている金の髪。月明かりが照らす白い肌と、儚げに潤んだ翡翠の瞳。華奢なその体を、身の丈に合わない大きな服が包んで、長い睫毛を切なげに揺らすその姿が──どうにも官能的に映ってしまって。ロビンはごくりと生唾を飲んだ。



「……エロい……」


「……え?」


「え、あ、いや! 何でもないぜ? わっはっは!」


「?」



 セシリアは不思議そうに首を傾げ、頬をほんのりと赤らめて笑うロビンを見つめる。その時ふと、ロビンは彼女の目尻が少し赤みを帯びている事に気が付いた。



「……なあセシリア、また泣いてたのか?」


「……! あ……いえ、あの……」



 ぎくりと身を強張らせ、セシリアは気まずそうに視線を泳がせる。顔を隠すように俯き、そっと小川を見下ろすその瞳は悲しげに揺れるばかり。



「……ごめんなさい……。やっぱり私、どうしても……彼の事が、心配で……」


「……」



 またもや泣き出しそうに眉根を寄せる彼女。ロビンは複雑な表情で目を逸らし、穏やかに流れる水面を見つめた。



「……大事なんだな、連れの事が」


「……はい。もちろんです」



 セシリアはすぐに頷き、きゅっと強くストールを抱く。使い古されて所々がほつれたそのストールを、彼女が願掛けのように肌身離さず持っている事に、ロビンはずっと気が付いていた。



「……とても、大切な人です……」



 儚げに流れる頬の雫が、見ず知らずのたった一人の誰かのためにこぼれ落ちているのだという事も。



(……ちぇっ、羨ましい男だな~……)



 こんな可愛い女の子に心配して貰えて、あまつさえ泣いて貰えるなんて。つくづく罪な男だ。早く帰ってきて彼女を安心させてやって欲しいと思う反面、そのままどこかでくたばっちまえ、とも思ってしまう。



「……いやいや、何考えてんだ俺は……」


「……はい?」


「何でもねえ……。こんな可愛い恋人がいるその男を、心底羨ましいと思ってるだけ……」


「こ、恋人!? 違います! トキさんは、こ、こ、恋人とかじゃないです!」


「え?」



 違うの? とロビンは目を丸めつつ、セシリアの頬を伝う涙を指で拭い取る。セシリアは真っ赤に頬を染め上げ、ぶんぶんと首を振った。



「違います! 私なんかが、トキさんみたいに素敵な人の恋人になんて、そんな……! おこがましいです……!」


「……え、何? じゃあアンタが一方的にそいつに恋してるだけって事?」


「こここ恋!? ちがっ……私は、そんな……!」



 ──セシリア。


 不意に、低く掠れた彼の囁き声を思い出して心臓が跳ねる。セシリアはドキドキと早鐘を打ち始めた胸を押さえ、視線を泳がせた。



「……私、は……」



 顔にふつふつと熱が集まる。胸が締め付けられて、きゅっと苦しくなる。アメジストのような薄紫の瞳が、優しく触れる口付けが、ぐるぐると脳裏に浮かんでしまって。



(……あ、あれ?)



 苦しい胸。熱を持つ顔。けれど嫌じゃない、不思議な鼓動。


 待って、待って、待ってよ。

 これって、もしかして……もしかして私──



(──恋、してるの……?)



 ……トキさんに。


 そう考え至った瞬間、急速に顔面が熱を持ち、セシリアはバッと手に持っていたストールで顔を覆い隠した。そのまま蹲ってしまった彼女の奇行に、ロビンがギョッと目を剥く。



「は!? ちょ、どうした!?」


「……っ!!」



 ばくばくと心臓が音を立てて暴れている。セシリアは混乱する頭を何とか整理して、ぶんぶんと勢いよく首を横に振った。



「ち、違います! 私は恋なんて……! 恋なんてしていません!!」


「……え? いや、うん、そ、そうなのか?」


「そうです! 違います! ……だって……っ、だって私は恋なんて……!」



 ──しない。出来ない。


 それが分かっているから、セシリアは自分の人生を神のために、人々を助けるために捧げようと決めたのだ。だから、この気持ちも、きっと何かの間違いで。



(……私は……私は……っ)



 人を愛する資格が、ないのだから。



「……」



 ストールで顔を隠したまま蹲るセシリアに、ロビンは黙ったまま手を伸ばす。濡れた金の髪をさらりと掬い、形の良い彼女の頭をそっと撫でた。すると真っ赤に染まったセシリアの顔が、埋められたストールの中からおずおずと持ち上がる。



「……悪い、混乱させちまったな! そんな焦らなくていいって。大事な“仲間”はきっと見付かるよ」


「……ロビンさん……」


「その男、良い奴なんだろうな。アンタみたいな心の綺麗な女の子に、こんなに心配して貰えるんだから」


「……はい……」



 セシリアは切なげに微笑み、ぎゅっとストールに頬を寄せた。脳裏に浮かぶのは、常に仏頂面で不機嫌そうなトキの顔。

 普段は素っ気なくて、口調も乱暴で、たまに強引で、意地悪な所もあるけれど。



「……とっても、優しい人なんです」



 ふふ、とセシリアは目を細める。可憐な彼女の微笑みにどきりと心臓が跳ねるのを感じつつ、ロビンは複雑な表情で穏やかに流れる水面へと視線を移した。



「……そっか」


「はい。でも、ロビンさんも優しいです。よく知らない私のために、色々と気を遣ってくれて……」


「えっ!? い、いやっ、俺は、その……別に。アンタが倒れてて、とりあえず保護しただけで……、その、……可愛かったから……」



 ぼそぼそと、最後の方は尻すぼみになってよく聞き取れなかった。セシリアが再び「え?」と小首を傾げた頃、ロビンは顔を赤く染めて立ち上がる。



「……と、とりあえず! 水浴びも済んだ事だし、もう戻ろうぜ! ストラフティルがアンタを心配してるかもしれねーし!」


「……あ、はい。そうですね」


「よし、行くか! 足元に気を付けろよ、セシリア」


「ありがとうございます」



 ロビンがふと差し伸べた手に、セシリアも微笑んで自らの手を差し出す。──しかし彼女が彼の手を取る直前、暗い森に響き渡ったによって、その動きはぴたりと止まった。



 ──アオォーーン……。



「──!?」



 バサバサと、夜にも関わらず数羽の鳥が飛び去って行く。響いた遠吠えは暗い夜空と森の中に木霊して、誰かを呼ぶように何度も繰り返した。



 ──アオォーーン……。



「……な、何だ!? 山犬の魔物か……!?」


「……」



 どこからともなく響く遠吠え。誰かに呼び掛けるような悲しげな声。──その声を、セシリアは知っている。


 まさか。



「……アデル……?」


「……え?」


「──アデル!!」



 セシリアは即座に立ち上がり、遠吠えのする方へ向かって駆け出した。背後でロビンが何かを叫んだが、そんな声など最早彼女の耳には届かない。


 彼の──アデルの声だ。セシリアはそう確信し、暗い森の木々の間を全力で駆け抜けて行く。



「アデル!! どこ!? アデル!!」



 はあ、はあ、と息を上げ、植物の棘や蜘蛛の巣が肌に触れるのもお構い無しに走り続けた。白銀の毛を揺らした、愛しい相棒の姿を探して木々の間をすり抜けて行く。



「……アデル……っ! どこなの……!!」



 ぶかぶかと大きめなロビンの衣服では走りづらく、何度か転びそうになったが持ち堪えた。暗い森。視界も悪い。セシリアは必死に呼び掛け、暗く続く木々の向こうへと叫んだ。



「アデル、返事して!!」



 ──ガサッ……。



「──!!」



 ふと、暗い木の間で何かの気配を感じてセシリアは足を止めた。はあ、はあ、と乱れる呼吸を整えながら、音のした方向を見つめる。



「……アデル……?」



 小さく、セシリアは呼び掛けた。すると木々の間から、鋭い双眸がギラリと光る。



「──っ!」



 違う、と一瞬で理解してセシリアは怯んだ。その瞬間、木々の向こうから凶悪な牙を剥き出した大きな猿の魔物が飛び出して来る。



「ギィィ!!」


「きゃあ!?」



 ザンッ、と爪を振り下ろされ、寸前で躱したもののセシリアはどすんっ、と背後に尻もちを付いてしまった。猿の魔物はぎょろりと目を見開いてセシリアを見下ろし、牙を剥く口元からはダラダラと涎を垂らしている。



「ギャッ、ギャッ、ギィ!」


「……っ」



 好戦的なぎらついた瞳に、セシリアは尻餅を付いたまま戦慄した。唇を噛み、手に持ったままだったトキのストールを強く握り締める。



(……どうしよう、私、武器なんか何も……!)



 咄嗟に飛び出して来てしまった己の浅はかさを悔いるが、最早どうしようも無い。

 猿はぎょろぎょろと暗闇に光る双眸を動かし、セシリアを見つめている。その目が彼女を獲物だと認識していることは明白だった。


 そしてとうとう、猿が鋭い爪を振りかざして襲い掛かって来る。



「……っ!」



 次に感じるであろう痛みを覚悟し、セシリアは目を閉じた。──しかし直後、「ギャィンッ!」という猿の悲鳴と共に生温い風と獣のような臭いが横切って。



 ──ドゴッ!



「──ギィィィアッ!!」


「……!?」



 断末魔さながらの、猿の悲鳴が森に響いた。

 続いてバキッ、ゴキッ、という無惨な音を耳が拾い、恐る恐るとセシリアの瞼が持ち上がる。


 視界に映ったのは、白銀の毛を風に揺らす、よく知った後ろ姿で。



「…………」



 言葉を失い、猿の魔物に噛み付いているその姿を凝視する。

 大きな体。乱れつつも上品な毛並み。矢で射られたような傷跡の目立つ背中。ややあって振り向いた金色の双眸を確認した瞬間──セシリアは彼に向かって、ふらふらと駆け出していた。



「……アデル……」


「ガウ」


「──アデルッ……!!」



 ぼすん!


 セシリアは声を詰まらせ、愛しいその名を呼んで大きな白銀の体に飛び付いた。懐かしい感触、暖かな体温。視界は徐々にぼやけて滲み、ぼろぼろと涙が溢れ出す。



「アデル……アデル……っ!!」


「クゥン……」


「……っ、ぅ、あ、アデルっ……! どこに行ってたの、私、ずっと、心配、してっ……!!」



 声が震え、嗚咽が零れた。とめどなく流れ落ちる彼女の涙を大きな舌がべろりと舐め取り、ああ、アデルだ、本当にアデルだ、と実感して更に涙が溢れてしまう。


 セシリアは震えながら彼の背中に顔を埋め、ぐすぐすと泣きじゃくりながら暖かいその体をぎゅっと抱き締めた。



「……っぶ、じで、良かった……! ほんとに、良かった……っ!!」


「クゥン……」


「う、えぐっ……うぅ……!」



 子どものように嗚咽をこぼすセシリアに、アデルが優しく頬を擦り寄せる。しかしややあって彼はふとその体を離し、セシリアの服の袖を噛んでぐいぐいと引っ張り始めた。



「……? どうしたの?」



 ひっく、としゃくり上げつつ、セシリアはキョトンと目を丸める。アデルはセシリアをどこかへ導くように、袖を噛んで引っ張り続けた。



「……っ、ちょ、ちょっとアデル、どこに……!」


「ガウ」


「……!」



 戸惑うセシリアの袖から口を離し、続いてアデルは彼女が手に持っていたストールの端を咥える。そのままじっと見上げてくる金の瞳。セシリアは嗚咽を飲み込み、眉を顰めて、震える声を紡ぎ出した。



「……トキさんが、そっちに……居るの……?」



 尋ねれば、アデルは肯定するかのようにぐいぐいとトキのストールを引く。セシリアはぐっと息を飲み、即座にアデルの背に跨った。



「──アデル、案内して! トキさんの所に!」


「ガウ!」



 セシリアの声に答え、アデルは地を蹴って走り出す。セシリアは目尻に浮かんだ涙を拭い、暗い森の奥を凛とした瞳で見つめた。



(──トキさん……っ)



 どうか彼が無事であるようにと、己の信ずる神に祈りながら。




 2




 ──数十分前。


 アデルの背に乗せられ、森の中を彷徨っていたトキはぐったりと力の入らない体で辛そうに呼吸を繰り返していた。呪いを止めるためのキャンディーは、残り一つ。徐々に迫る「死」の気配に、彼は苦々しく唇を噛んだ。



(……息が、苦しい……)



 これまでに何度か発作が起きているだけに、次の発作が始まるタイミングは何となく予期出来るようになっていた。こんな事に慣れても何の得も無いわけだが、不意に発作が起こってパニックになるよりはマシである。


 だが予期は出来たとしても、度重なる発作によって限界が近いのは体の方だった。最早冷たくなった指先の感覚は無く、足先から背筋に至るまで常に寒気が蔓延っている。

 立ち上がる事など到底出来ず、呼吸すらままならない彼は、アデルの背の上で朦朧とする意識をギリギリ保つのが精一杯だった。



(……そろそろ、また、発作が……)



 じわりと汗が浮かぶ。体の内側が熱を燻るような、この感覚が強まると発作が始まるのだ。

 トキが苦しげに呻き、アデルの背中の毛束を掴んで強く握る。アデルは「クゥン……」と心配そうに喉を鳴らした。



「……う、ぐ……っ」


「……ガゥ……」


「はあっ、……ぁ……」



 体内に烟る熱が大きくなり、トキの手から力が抜けて行く。そしてとうとう彼がアデルの背中からどさりと崩れ落ちた頃、胸が強烈な痛みを放ち始めた。



「……っ、ぐ、ぅ、ぁ……っ」


「ガゥ……」


「……か、っ……は……!」



 がくがくと痙攣し始めた手を懐に突っ込み、最後の一つとなったキャンディーの包装を噛みちぎる。そのまま中身を噛み砕き、じんわりと広がる暖かい液体を喉の奥に流し込んだ。


 そうすれば発作は治まる──はずだったのだが。



「……っ、あ、ぐ……、ッ……!?」


「……クゥン……」


「……ぁ……っ……!」



 首を締め付けられるような息苦しさ。はらわたを抉るような痛み。光魔法のキャンディーによって緩和されるはずの熱が、一向に引かない。



(何だ……!? 何で……っ!)



 ──止まらない……!?


 トキはその場にくずおれ、ゼェゼェと苦しげに呼吸を繰り返しながら倒れる。燻っていた熱は治まらず、トキの身を焼き尽くさんと発火し痛みに変わった。襲い来る激痛に目を見開き、彼は苦しみに喘ぐばかり。



(くそ……呪いが進行し過ぎて、もう飴玉如きじゃ緩和しきれないってのか……!)



 がくがくと震える腕を押さえ、トキは痛みに耐えて立ち上がろうとする。だがやはり呪いには抗えず、再び膝を付いた彼は全身を焼き尽くさんとする激痛に声すら出せないまま蹲った。



「ガウ! アゥ!」


「……っは、ぁ……! かはっ……」


「ガゥ!」



 呼吸もうまく出来ず、地面に転がった体が徐々に重たくなる。──もう、キャンディーの手持ちはない。トキは朦朧とし始めた意識の中、彼を鼓舞するように吠えるアデルへと手を伸ばした。



「……っ、は、あ……ッ!」



 冷たい。指先が、冷たい。

 足も、背中も、凍えるように冷たくなって行く。


 ガタガタと震えて倒れるトキを心配そうに見下ろしながら、ふと、アデルはぴくりと何かに反応して顔を上げた。何かの匂いを察知したのか、ひくひくと鼻を動かし、そのまま彼はトキに背を向ける。



「……!?」



 その場で身を翻したアデルは、トキをその場に置いてどこかへと走り去って行ってしまった。ぞくりと、トキの背筋に悪寒が駆け抜ける。



「……っ待っ、……おい……!」



 ──やめろ、行くな。行かないでくれ。


 そうは思っても声が出ず、伸ばした手の先は冷え切って、感覚がなくて。


 アデルの姿はとうとう見えなくなり、やがてどこかで寂しげな遠吠えが響いた。暗い森の中で一人、取り残されたトキは痛みと熱によってじわじわと体力が奪われて行く中、その声をただ転がって聞いている事しか出来ない。



(……嫌だ……行くな……頼む……)



 伸ばした手は届かない。届いて欲しいと願ってしまう、己の心にトキはギリっと奥歯を噛み締めた。

 ぼんやりと霞む視界に映るのは、だだっ広い大きな泉。透き通るような美しい水面には月の光が悠然と輝いている。しかしそれを気にかけている余裕など、彼には無かった。



(……寒い……冷たい……)



 指先が、背中が、足先が。冷たく凍えて、今にも凍り付いてしまいそうだ。朦朧とする意識の中で感じるのは、地面につくばる己の首を死神が切り落とそうと待ち構えているかのような、明確な“死”の気配。



(……俺は、このまま、死ぬのか……)



 はあ、はあ、と苦しげに呼吸を繰り返し、トキは俯せに倒れたまま表情を歪めた。──嫌だ──そう強く抗い、彼は閉じてしまいそうな瞼をこじ開ける。



(……まだ、俺は……何も、成し遂げてない、だろ……!)



 アルマへの復讐も、セシリアとの誓いも。何一つ成し遂げられぬまま、こんな所で死ぬ訳には行かない。


 死神に目を付けられた体を這いずり、トキはじりじりと前へ進んだ。冷たく凍えて行く働かない脳裏に過ぎったのは、やはり彼女の姿で。



(……セシリア……)



 じゃり、と泥濘んだ地面を抉り、激痛の走る体を無理矢理動かす。とうとう視界すらも暗くなり、ぼんやりと世界が歪み始めた。



(──だめだ、もう、体の感覚が……)



 這いずっていた体が止まり、ぐったりと力が抜ける。


 痛いのか、苦しいのか、熱いのか、冷たいのか。もう、何も分からない。何も考えられない。



(……さむ、い……)



 もう、ダメか。


 そう考えてしまったその時、彼の鼓膜を揺らしたのは、鈴のようなあの声で──。



「──トキさん!!!」



 悲鳴のように響いた声が、途切れそうだったトキの意識を千切れる寸前の所で繋ぎ止めた。は、と目を薄く見開いて視線を持ち上げれば、こちらに駆け寄るセシリアとアデルの姿が視界に飛び込んで。


 真っ暗な森の中のはずなのに、泣き出しそうな表情で向かって来る彼女の姿が、あまりにも──眩しく見えた。



「──大丈夫ですか!?」



 優しい手が倒れているトキの体を支えた直後、ポウ、と首元が暖かい光に包まれる。──それはまるで、彼女と出会ったあの日をそのまま繰り返しているような、不思議な感覚だった。



『大丈夫ですか!?』



 魔女に呪いを掛けられたあの日、そう言って彼女はトキの体を支えたのだ。今と、同じように。


 呪われた体を巡る暖かい光。

 徐々に苦しかった呼吸が楽になり、全身を蝕んでいた痛みが和らいで行く。冷たかった指先が血の巡る感覚を取り戻した頃、トキは虚ろな瞳をゆっくりと持ち上げた。



「トキさん!! トキさん大丈夫ですか!?」



 瞳に涙を浮かべたセシリアの姿が、ようやく鮮明になった視界に映り込む。──その瞬間、言い様のない感情が彼の中で膨れ上がった。



「──っ……」



 生きてる。目の前に居る。


 そう確信した瞬間、トキは重い体を無理矢理起こし、セシリアの華奢な腕をぐっと自らの元へ強く引いた。



「っ、わ、トキさ……!」



 焦った様子でセシリアが口を開いた刹那、間髪入れずにトキは彼女の唇を奪い取る。強引に塞がれた唇の間から熱い舌がねじ込まれ、セシリアはびく、と身を強張らせた。



「んっ……!」


「……っ、は……」



 華奢な体を腕の中に閉じ込めたトキは、噛み付くようにセシリアの唇を貪って地面に押し倒す。約一週間ぶりに交わした唇の感触に、トキは胸の奥がぎゅっと締め付けられて──明々と光る暖かい熱が、焦げるように胸の奥に焼き付いてしまうような──不思議な感覚を覚えた。


 ややあって二人の唇が離れた頃、薄く開いたセシリアの瞳からはぽろりと涙が滑り落ちる。こめかみに向かって流れるそれをトキがそっと拭い取ると、とうとう嗚咽をこぼしてセシリアは泣き始めた。



「……っ、トキ、さ……っ、良かった……!」


「……」


「貴方が、無事で、ほんとうに……っ良かった……!」



 セシリアは泣きじゃくり、ぎゅっとトキの体を抱き締める。その温度が優しすぎて、暖かくて──トキは唇を噛み、彼女の肩口にそっと顔を埋めた。


 ──喉から手が出る程に、この体温が欲しかったのだと、今になってひしひしと実感する。


 冷たかった指先は温度を取り戻し、寒かった心に光が差し込む。この暖かさを、眩しさを、なんと呼べばいいのだろうか。例えるならそれは、まるでディラシナの街を出たあの時に、目の奥に染みた茜色の光のような。



(……太陽に、似てる……)



 心の中に灯った光が、暖かくトキの凍てついた胸の奥を照らしている。自分の事を思って流れる彼女の頬の雫が、どんなに輝く宝石よりも美しく思えた。


 とくん、とくん、と伝わる胸の鼓動が、彼を心の底から安堵させて。重たい瞼がゆっくりと落ちて行く。



「……セシ、リア……」



 掠れた声で呼び掛ければ、返事の代わりにぎゅっと強く体を抱き締められた。暖かい温度。安心する匂い。トキは溢れ出しそうになる群青の塊を睫毛の手前で塞き止め、震えかけた唇を誤魔化すように、彼女の肩口に顔を押し付ける。



「……アンタ、に、」


「……」


「……会い、たかっ、た……」



 朦朧とする意識の中、何を告げたのかすら自分では分からない。しかしぴくりと、セシリアがその言葉に反応したのだけは分かった。

 やがて、ふわふわと覚束無い彼の頭を、優しい手のひらがそっと撫でる。「……私も」と囁いたその声を耳が拾って、途端に、体からはゆるゆると力が抜けて行った。


 ちゅ、と耳元に柔らかい感触を感じた後、トキは重たい瞼を静かに閉じる。


 指先に持て余す程の暖かい熱を感じながら、彼はふわりと心地よい夢の中へ、その意識を手放したのであった。




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