第48話 指先の冷たさ


 1




 十二番目の魔女、アルラウネ。そう名乗った少女に、セシリアは丸々と目を見開いたまま暫し固まってしまった。


 じいっと彼女の翡翠の目に見つめられ──やがて恥ずかしくなったのか、アルラウネはもじもじと目を泳がせて頬を赤らめる。



「……やだ、そんなに情熱的に見つめないで、照れちゃう……」


「……は……! ご、ごめんなさい……!」



 セシリアは慌ててアルラウネから目を逸らした。──しかし、今度は真正面からアルラウネがじっとセシリアの顔を見つめ始める。



「……あ、あの……?」



 おずおずと、戸惑いがちにセシリアは口を開いた。至近距離にあるアルラウネの表情は、どこか恍惚として、心成しかデレっと鼻の下が伸びているような気が……しなくも無い。



「……はあ……可愛い……」



 そして不意に、彼女の口からはそんな呟きが漏れた。



「……へ?」


「はあん……セシリア〜……! 可愛いっ……可愛い! 大好き……!!」


「えっ!? あの、ちょっ……!?」



 がばっ! と抱き着かれ、豊満な胸が押し付けられる。再び二人の間に挟まれたステラが「プギョー!!!」と絶叫するのもお構い無しに、アルラウネはセシリアの頬に擦り寄った。



「はあぁ〜……っ、ずっとお話したかったの……! あれ以来ずっと、あなたのが忘れられなくて……」


「あ、味……!?」


「うん。ほら、アリアドニアであなた、私のに入ってたでしょ?」


「……!」



 は、とセシリアは息を呑む。アリアドニアで黒い大樹──すなわちアルラウネの中に取り込まれ、魔力を奪われた際の事を言っているのだとすぐに理解した。

 アルラウネは恍惚とした表情で舌舐めずりをして、セシリアの耳元に囁く。



「……あの時、あなたから注がれた魔力……とっても美味しかった……」


「……っ」


「あれ以来、セシリアの事が忘れられなくて……。だからあなたが持ち主になった時、すっごく嬉しかったの! 本当は、すぐにでも指輪から出て会いたかったんだけど……」



 アルラウネはそこまで続けて、「……邪魔なのが居たから……」と急に声を低める。ぼそりと呟かれた彼女の言葉にセシリアは首を傾げた。



「……邪魔な……?」


「ううん! なんでもなーい! そんな事よりセシリア、お腹空かない? 私ね、木の実取ってきたの! ほら!」



 アルラウネが微笑み、パチンと指を鳴らした途端にポポポポン! と美味しそうな複数の木の実が現れた。たくさん食べてね! とぐいぐい木の実を押し付けて来る彼女に圧倒されつつ、セシリアはそれを受け取って苦く微笑む。


 そこでふと、セシリアはすっかりと日が沈んで暗くなってしまった空に気が付いた。──トキは、まだ帰って来ない。



「……あの、アルラウネ……」


「んー?」


「……トキさん、どこに行ったのか、知ってる?」



 おずおずと問い掛けたセシリアに、アルラウネは言葉を飲み込んだ。その表情からは笑顔が消え、その場にピリリと冷たい空気が流れる。



「……ああ、あの男ね」



 やがて放たれたアルラウネの声は、先程聞いたそれよりも随分と低く、冷ややかだった。セシリアは唐突な彼女の変貌ぶりに息を呑み、答えを待つ。



「知ってるわよ、どこに行ったのか」


「……ほ、本当?」


「うん。あの男は──」



 と、そこまで言いかけた彼女だったが、突如ハッと目を見開くと勢いよく後方を振り返った。何かの気配に気が付いたらしい。



「……チッ、もう戻ってきた……」


「?」


「ごめんセシリア! もっとお話してたいけど、私そろそろ指輪に戻るね! じゃ!」


「え!? あ、ちょっとアルラウネ……!」



 矢継ぎ早に捲し立て、アルラウネはぽふん! と煙のように消えてしまった。セシリアは困惑に満ちた表情で瞬きを繰り返す。一体どうしたんだろう、と彼女が不思議そうに首を傾げた頃、ガサリと後方の茂みから足音がして──。



「……あ……?」


「──!」



 聞き覚えのない男の声が、耳に届いた。びく、と身を強張らせてセシリアが振り向けば、そこに立ち尽くしていたのは見覚えのない一人の青年。

 すらりと長く筋肉質な二の腕。頭に巻かれた紺色のバンダナ。無造作に伸びた長い赤毛を一つに結った彼は、きょとんと目を丸めてセシリアの顔を見つめている。



(……え……? だ、誰……?)



 じわりと汗が滲んで、セシリアは気絶しているステラをぎゅっと抱きしめたまま後ずさった。──すると目の前の青年が、不意にぱあっと表情を綻ばせる。



「──おお! アンタ、目が覚めたのか! 良かった、大丈夫か!?」


「……へ」



 ぽかん、と今度はセシリアが呆気に取られる番だった。青年はニカッ、と笑い、背負っていた荷物を下ろすとセシリアの方へと歩み寄ってくる。

 そして突如彼女の両頬を捕まえたかと思えば、自分の額をぴとりとセシリアの額にくっ付けた。



「っえ!?」


「んー、熱は無さそうだな! うん! 良かった良かった!」


「ちょ……あの!」



 あまりの距離の近さにセシリアは頬を真っ赤に染め上げ、青年の体を押し返した。彼はハッと我に返ったように「あ、悪ぃ!」と慌ててセシリアから距離を取る。



「い、いきなり顔近付けたらびっくりするよな! ごめんな!」


「……」


「いやあ、その、俺……ちょっと人との距離感が近いっていうか……よく怒られるんだよなあ。悪い悪い、怖がらせちまってたらほんと謝るから! 俺怪しい者じゃないから!」


「……あ、あの、あなたは……?」



 セシリアは自身を守るようにステラごと抱きしめ、警戒しつつ青年に問い掛ける。すると彼はやはりニカッと陽気に破顔し、頬を掻いて焚き火の前に座り込んだ。



「俺はロビン! ロビン・キースカー! 大国カーネリアンのギルドからやって来た賞金稼ぎだ!」


「……賞金稼ぎ……?」


「そう! まあ、いわゆるハンターって奴だな。手癖の悪い賊とか、指名手配された凶悪犯なんかを捕まえて金にしてるんだよ」


「……!」



 ぎく、とセシリアは彼──ロビンの発言に肝を冷やした。賊を捕まえて金にする──つまりそれは、漏れなくトキも捕縛の対象になってしまうのではないか。指名手配されるほど名の知れた悪党では無いにしろ、彼も歴とした盗賊の端くれだ。賞金目当てに捕まってしまう可能性は高い。

 黙って顔を青ざめ、不安げに俯いてしまったセシリアの顔を、ふとロビンの黒い目が覗き込む。



「……で? アンタは? 名前」


「え……っ! あ、わ、私は……セシリアと、いいます……」



 不意に問いかけられ、セシリアは咄嗟に答えてしまった。が、果たして名乗って良かったのだろうかと今更になって後悔が押し寄せる。──自分から情報を得て、トキの事を捕まえようとしているかもしれない──そう思える程度には、彼女にも多少の警戒心が身についていた。



「へえ、セシリアか! いやー、ようやく名前が分かって良かった。アンタ血まみれで倒れてたからさ、一瞬死んでるのかと思ったんだぜ?」


「……えっ、と……あなたが、助けてくれたんですか?」


「ん、あー、まあ……。助けたっつっても、ほんとに拾って寝せてただけだけどな?」



 あ、変なところ触ったりしてないから! と慌ただしく弁明する彼にぎこちなく苦笑を返し、セシリアもおずおずとその場に腰を下ろす。そしてふと、彼女はべったりと血のついた自身のワンピースを見下ろして眉根を寄せた。


 その視線に気が付いたのか、ロビンも苦く笑って「あー、かなり汚れちまってるよなぁ」と困ったように眉尻を下げる。



「後で川で洗ってこいよ。バルキアの樹液で洗えば血の汚れも落ちると思うし、セシリアも水浴びぐらいしたいだろ? 着替えは俺の使っていいからさ!」


「……で、でも……そんな……」


「いいから、気にすんなって! とりあえず飯にしようぜ! ちゃんと多めに魚も獲って来たからさ、の腹は膨れる量あると思うし──」


「──二人分?」



 気さくに続いていたロビンの言葉を遮り、セシリアは顔を上げた。きょとん、とロビンは目を丸めて瞳を瞬かせる。



「……ああ、うん。俺と、セシリアの二人分。足りねえ?」


「……あ、あの……トキさんの、分は……」


「……トキサン?」



 誰だそれ、と続けられた言葉に、セシリアの胸がどくん、と大きく波打った。



(……え……?)



 再び脳内を埋め尽くす不安感。からからと乾いた喉に生唾を流し込み、セシリアは震えそうになる唇を開いた。



「……あの……もう一人……、私の他に、いませんでしたか……?」


「え?」


「男の人が……! 男の人が、私の側にいませんでしたか……!?」



 セシリアはロビンの服を掴み、縋るように声を絞り出す。不安げに瞳を揺らし、悲痛に問いかける彼女に暫し圧倒されてしまったロビンだったが、やがて小さく首を振った。



「……い、いや……? 俺が見つけたのは、アンタと……そこの小さいストラフティルだけだぜ……?」


「……っ……嘘……!」


「嘘じゃない。アンタを見つけてから五日経つけど、他の男なんて一度も見てな──」


「──五日!?」



 セシリアはまたも彼の声を遮り、前のめりに詰め寄った。彼女の勢いにロビンは思わずたじろいだが、縋るように表情を歪めて揺らぐ彼女の瞳から目が離せなくなってしまう。



「五日……、五日も、経っているんですか……!?」


「お、おう……。アンタ、随分深く眠ってたみたいだから分からないかもしれないけど……少なくとも俺が見つけてからは、五日経ったぜ……?」


「……そん、な……」



 セシリアは力なくこぼし、ゆるゆると手から力を抜いてその場にへたり込んでしまった。「おい、大丈夫か!?」とロビンがセシリアに肩を掴むが、そんな声すらまともに認識出来ないほどに彼女は動揺してしまっていて。


 ──五日。その日数が重くセシリアの心にのしかかってくる。五日間、トキはセシリアの側にいなかったという事だ。──魔女の呪いを負った身でありながら。

 光属性の体液によって魔女の呪いの進行を止めておける時間は、おそらく最長でも三日程度。彼が無事にどこかで生きていたとしても、今頃呪いの発作に苦しめられている事になる。



(光魔法のキャンディーは持たせてあるけど、一粒の効果は半日程度しかない……! 五日以上も離れていたんだとしたら、もうキャンディーの数も……!)



 ──足りなくなってしまう。


 そう考えると、ぞく、と凍るような冷たい感覚が背筋に蔓延った。発作に苦しみ、倒れて身悶える彼の姿を想像してしまうと──いても立ってもいられなくなって。


 ガバッ、とセシリアはその場に立ち上がり、どこかへ向かって駆け出そうとする。ロビンは目を見開き、慌てて彼女の手を捕まえた。



「お、おい、待てよ!」


「っ、離してください!! 私、あの人を探しに行かないと……!!」


「待て待て、落ち着け! 連れとはぐれたのは分かったけどよ、もう夜だぞ!? 今日探すのは無理だって!」


「でもっ……でも!!」



 セシリアは泣き出しそうな表情で悲痛に叫び、ロビンを見つめる。どきりと彼の心臓が跳ねるが、瞳を揺らす彼女はわなわなと震える唇を開いて声を続けた。



「……あの人、すごく、怪我してて……っそれに、私が……私が必ず彼を救うって、約束したんです……っ! だからこんなところで、その約束を……、誓いを……! 終わらせるわけにはいかないの……!」


「……」


「トキさんが、一人で苦しんでるかもしれないのに……私……私……っ!」



 とうとう翡翠の瞳に溜まっていた涙の粒が溢れ、セシリアの白い頬の上を滑り落ちていく。静かに肩を震わせて泣き始めてしまった彼女の背を、ロビンは複雑な表情でトントンと優しく叩いた。



「……気持ちは分かるけど、この辺は魔物がウジャウジャ居るんだよ。特に夜は危ねえ。今は焚き火の中に“香”を入れて焚いてるから寄ってこねーけど、ここから離れると奴らが襲ってくる。アンタが死んだら、その連れも悲しむんじゃないのか?」


「……っ」


「明日になったら、俺も一緒に探しに行くよ。だから今夜はちゃんと休め。服も汚れちまってるし、そんな血まみれの格好で会いに行ったら逆に心配されちまうだろ?」



 な? とロビンは優しく微笑んだ。セシリアは小さくしゃくり上げながら、自身の血で赤黒く染まったワンピースを見下ろす。


 トキが女性の血を怖がる事が分かっているだけに、ロビンの言葉には何も言い返せなかった。確かにこの状態でトキを見つけ出したとしても、血に染まった自分を見て彼が取り乱してしまう可能性もゼロでは無い。出来る事ならば怖がらせる事はしたくないと考え、彼女は押し黙る。



(……トキさん……)



 ぎゅっと目を閉じれば、ぽろりと涙がこぼれ落ちた。透き通ったその雫を、ロビンの指が丁寧に拭い取る。



「……あーもー、泣くなって……女の子の涙は見たくないんだよ俺は……」


「……っ、う、ぅ……」


「大丈夫だ、きっと無事だよアンタの連れは。明日の朝、すぐ探しに行こうぜ。な?」



 優しく語り掛けてくるロビンに、セシリアはややあってこくりと頷いた。彼はニッと微笑み、彼女の手を引くと再び焚き火の前へと座らせる。



「そうと決まったら、とりあえず飯食って服の汚れ落とさねーとな! 待ってな、すぐに準備すっから」


「……はい……、ありがとうございます……ロビンさん」



 ぽたぽたと落ちる目尻の涙を拭い、ぐすぐすと瞳を潤ませながらセシリアは呟いた。そんな彼女にロビンは頬を赤らめ、ぎこちなく目を逸らして「お、おー! ちょっと待ってろよ!」と獲って来た魚を丁寧に捌き始める。


 パチパチと焚き火の火が弾ける中、セシリアは俯き、ぎゅっと胸の前で神に祈るように両手を握った。



(……神よ、どうか……どうかお願いします)



 ──トキさんを、無事にここまでお導きください。


 そんな静かな願いを強く祈る彼女の目元から、透き通った涙がまた一粒、足元の野花にこぼれ落ちた。




 2




「──っぐ、う、ぁ……ッ!」



 がくん、とトキは唐突に膝を付き、胸を押さえてその場に蹲った。からん、と杖替わりにしていた長い木の枝が地面に転がり、アデルが心配そうに「クゥン、」と擦り寄る。

 トキは定まらない視界の中で懐から取り出したキャンディーの包み紙を即座に食い破り、中身を一気に口の中で噛み潰した。刹那、溶けるように広がる暖かな液体。


 ややあって、彼の体からは呪いの発作による痛みと熱が引き始める。トキは荒く呼吸を繰り返し、震える手を付いてふらふらとその場に立ち上がった。



「……っ、はあ……っ、はあ……!」


「……ガゥ……」


「……っ、う……、いいから……クソ犬……、早く……」



 進め、と力無くこぼした直後、トキはふらりと前のめりに倒れ込む。しかし彼の体が地面に倒れる寸前のところでアデルが彼のケープを咥えて支え、トキの身体を背中の上に引っ張り上げた。



「……ゴホッ、ゴホッ……う、ぐ……」


「クゥン……」


「はあ……っ……くそ、体、が……」



 重い。動かない。

 恐らく呪いが進行しているせいだろうとトキは苦々しく表情を歪めた。一度は歩ける程度まで回復した体だったが、度重なる発作と魔物との戦闘によって彼の疲労も限界を迎えたらしい。


 ごそりと懐に潜ませたキャンディーに手を触れ、その数を数えれば残るキャンディーはあと二つ。つまり、ちょうど一日分しか無い。彼は切なげに目を細め、ゆっくりと歩き続けるアデルの背に顔を埋める。



(……もう、あれから何日経ったんだ……)



 ──アルマに敗れ、セシリアが首を裂いて、崖から落ちたあの日から。


 トキは度々襲い来る呪いの発作をキャンディーの効力で強引に抑え、ガタが来ている体を無理矢理動かしてここまで歩いて来た。四日ほど前、無けなしだったトキの魔力を使って指輪から飛び出して来たドグマが告げた、“セシリアは生きている”という、その言葉だけを頼りに。

 元々限界だったトキの魔力が切れたのか、ドグマはあれ以来一度も姿を現していない。満身創痍の状態で、時折アデルに運んで貰いながら、ひたすら彼らはセシリアの元を目指していた。



(……指が、冷たい……)



 アデルの背で揺られながら、トキは目を閉じる。呪いが進行するに連れ、彼は自身の指先に凍えるような冷たさを覚えるようになった。


 アルマに故郷を奪われ、ディラシナの街に流れ着いたあの日から、薄汚い賊としてねぐらのない生活を十二年も繰り返していたお陰で寒さには多少の耐性がある。そう、思っていた。

 しかしこの指先の冷たさは、寒さによって感じるそれとは少し違う。まるで彼の命の“終わり”をカウントするかのように、少しずつじわじわと、指先を冷たく飲み込んで行くのだ。


 トキは指の冷たさを誤魔化すように手のひらを強く握り、ぐっと奥の歯を噛み締めた。閉じた瞼の裏に浮かぶのは、柔らかく微笑む彼女の姿で。



(……セシリア……)



 自分が、死んだら。

 彼女は、泣くだろうか。


 泣くだろうな、とすぐに断言出来る。そういう人間だ、彼女は。普段は自分の悲しみに強くあろうと気丈に涙を耐えていても、いざ自分以外の人間が目の前で苦しむと彼女は泣く。誰かを思って流れるその純粋な涙が、最初は鬱陶しくて仕方がなかった。


 けれど以前立ち寄った村の牢屋で、怪我を負ったトキが目を覚ました、あの時。自分の事を思って惜しみ無く涙を流し、よかった、よかった、と繰り返す彼女に、つい涙が出そうになったのを覚えている。


 誰かがあんなにストレートに己の身を案じている姿を見たのは、家族以外で初めてだった。震えながら身を寄せる彼女の暖かい抱擁が、遠い昔に居なくなった家族の温もりを思い出させて。



「……セシ、リア……」



 ほとんど無意識に、掠れた声が名前を紡いだ。その名に反応したのか、アデルがふと顔を上げ、べろりと大きな舌でトキの頬を舐める。


 魔物も、主人が恋しいと思うのだろうか。



「……お前……あいつと、離れてる間……よく、耐えられたな……」



 ぽつり、ぽつり。声を紡げばアデルはこてんと首を傾げた。は、と渇いた笑みが力無く漏れ、その白銀の背中にぐっと額を押し付ける。心底、自分が情けなく思えた。



「……はは……笑えて来るよな……。俺は……たった数日しか、離れて、ねーのに……」


「……ガゥ……」


「……あいつが居ない事が……こんなに……」


「……」



 当たり前に傍に居た微笑み。

 それを失って初めて、彼女の温もりを探してしまっている自分に気が付いた。


 これが依存症状による感情なのか、己の本心なのか、それは分からない。とにかく今はただ、冷え切ったこの指先を暖めて欲しくて。いつも通りの微笑みで、名前を呼んで欲しくて。


 とにかく、今は、ただ、ただ──。



「──会い、たい……」



 譫言うわごとのように、ぽつりと、それだけがこぼれ落ちた。朦朧とした意識の中、トキさん、と名前を呼んで笑う彼女の姿が浮かんで、消えて、また浮かぶ。


 太陽の光が胸に焦げ付いたような、この感情は、何なんだ。



(……くそ……)



 柄にも無く胸が締め付けられて、トキは目を閉じる。

 そんな彼を背に乗せたアデルの体はのしのしと、深い森の闇の中に溶けて行った。




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