第47話 若草色の少女
1
ぴちょん、と水の滴る音がして、重たい瞼を持ち上げる。むくりと身体を起こせば、辺りは絵の具で塗り潰したかのように真っ暗な闇が広がっているばかりだった。
「……ここは……」
──ぴちょん。また水の滴る音。
ふと、セシリアは自らの首にゆっくりと触れた。痛みは特にない。しかし確かに、彼女は鋭利なナイフで首筋を切り裂いたはずだった。
その後、断崖から落ちて──と、そこまでは微かに覚えている。
(……私、もしかして死んじゃったの……?)
辺りは真っ暗。ここが死後の世界だと言われても、何となく腑に落ちてしまう。──だがその直後に響いた声によって、そんな考えはいとも容易く覆される事になったのだった。
「……ふふっ。あなたまだ死んでないわよ? “セシリア”」
「……!」
不意に掠れた少女の声が響き、セシリアは振り返る。するとジャラジャラと鎖を引いたいつもの少女が、痩せ細った身体でこちらに近付いて来た。
セシリアはぱちりと驚いたように瞬き、彼女を見つめる。
「……あなた、何でここに……?」
「あら、つまんないの。もう私を見ても怖がらなくなったのね、“セシリア”」
「え……! だ、だって……」
骸骨さながらの少女が、飛び出しそうな翡翠の目をにんまりと細める。セシリアは戸惑いがちに視線を泳がせつつ、おずおずと声を紡いだ。
「……だって、あなたは……“私”なんでしょう?」
──記憶が、無くなる前の。
そう尋ねれば、痩せ細った少女はくすくすと愉快そうに笑った。
「あはは! なるほど、そう思ってるんだ! まあ、でも確かにそうね」
「……違うの……?」
「いいえ、その通りよ。記憶が無くなる前の、っていうのは少し語弊があるけど。結果的に記憶は無いみたいだし、それでいいわ」
「……?」
彼女の発言にセシリアは首を傾げる。しかしセシリアが何かを尋ねる前に、「そんな事より、」と少女が言葉を続けた。
「体は大丈夫だった? “セシリア”」
「……!」
はっ、と目を見開き、セシリアは切り裂いたはずの首元に再び手を触れる。ここが現実世界では無いことは分かっているが、どうしても切り裂いたその場所が気になった。
結局首元に傷は無かったが、どうやら自分は生きているらしい。セシリアは視線を泳がせ、そっと俯く。
「……私……あんな怪我で、どうして……」
「……ふふ。何言ってるのよ、“セシリア”。あなた、最初から分かってたでしょう?」
くすくすと楽しげに少女が笑い、セシリアはぴくりと肩を震わせた。そのままそっと目を逸らした彼女に、少女は翡翠の瞳をにんまりと細めて近寄る。
そして少女は、セシリアの耳元で囁いた。
「──自分は、あの程度の傷じゃ死なない、って事」
「…………」
セシリアは俯き、ぎゅっと己の手首を握り締める。少女は彼女の耳元から離れ、けらけらと笑いながら鎖を引きずってスキップをし始めた。
「まあ、流石に切ったのが首だったから、今回は負荷が大きくて目覚めるまでに時間が掛かってるみたいだけどね! 健康面は至って問題なしよ、安心した?」
「……でも、私……あんなに、深く、切ったのに……」
「でも繋がってたじゃない。だったら大丈夫よ」
さも当然のように答える少女。セシリアは小さく唇を震わせ、自身を守るように両腕をぎゅっと抱きしめて蹲った。
「……なあに、怖いの?」
楽しげな少女の問い掛けに、セシリアは震える声を絞り出す。
「……だって……私……! こんなの……!」
「自分は人間じゃない、って思ってる?」
「……っあなたは、思った事ないの……?」
「あるわよ。こんな体だもの。周りから人間扱いされた事なんか無かったし、自分は人間じゃないと思ってたわ」
少女はどこか遠くを見つめながら答え、ジャラリと鎖に繋がった手首を持ち上げた。じっとその手を見つめる彼女の瞳は、暗く、悲しげで。
「……でもね、“私たち”、結局ただの人間よ。首を切断されれば死ぬし、心臓に穴が開いても死ぬ。悪魔でも、神様でも、化け物でも無かったの」
「……」
「……まあ、“セシリア”の中に余計なものが紛れ込んじゃったのは、完全に私のせいだけど」
「……え?」
不可解な少女の言葉に、セシリアはきょとんと目を丸める。すると「何だ、それはやっぱり覚えてないのね」と彼女は笑った。ますます首を傾げるが、少女に答える気は無さそうで。
「……ま、そんな事はどうでもいいけど。それよりさっさと起きた方がいいわ、“セシリア”。お連れの豚ちゃんが心配してるわよ」
さらりと、巧みに話題を切り替えられてしまった。セシリアは戸惑いがちに目を泳がせ、ぎこちなく笑う。
「……え、ええ……そう、よね……」
「起きるのが怖い?」
「……な、仲間に、どう説明したらいいのか……」
「ああ、首切ったのに生きてるって事の説明? それならとりあえず心配ないわ」
「え?」
「まあ、起きてみたら分かるわよ」
少女の言葉にセシリアは俯きがちだった顔を上げる。すると、少女の細い指がそっとセシリアの頬を撫でた。
「……またね? “セシリア”」
「──……」
その瞬間、彼女の視界は暗くなり──。
とぷん、と少女の姿が、闇の中に溶けた。
2
「──プギ!」
ふと、夢の中から意識が覚醒してセシリアは目を開けた。視界に入ったのは、夕焼けに染まる赤い空と、自分を不安げに見下ろしているピンク色の丸い子豚。
「……、ステラ、ちゃん……?」
掠れた声を絞り出せば、「プギイィ〜〜!!」とステラはセシリアに飛び付いた。泣いているかのように「プギュ、プギュ、」と鼻を鳴らし、擦り寄ってくるその小さな体にセシリアは微笑む。
「……ごめんね。心配かけちゃったかな……」
「プギ……プギぃ……」
「ふふ……くすぐったい……」
セシリアはくすくすと笑い、重たい上体をのそりとその場に起こした。そして、切ったはずの首元にそっと触れる。
(……痛くない。傷も、多分……塞がってる)
セシリアはそっと視線を落とした。分かってはいたが、実際にあの傷が塞がっているとなると──恐ろしく不気味に感じてしまう。
(……トキさんに、気持ち悪いって思われたかな……)
そんな一抹の不安を抱え、きょろりと周囲を見渡すが、トキの姿は無い。時刻は夕時だ、おそらく食料の調達にでも出かけているのだろう。
(……そういえばトキさんは……大丈夫だったのかしら……)
意識を失う直前までの記憶を思い起こし、再びそっと視線を落とす。
旅人を名乗っていた男に
彼は、女性の血が苦手らしい。ディラシナで初めて出会った日、血液を与えようと肌に短剣を当てがったセシリアの行動をトキは怒鳴り付けて阻んだ。怯えきった目をした彼の手は、小さく震えていて。
きっとよほど怖いのだろうと、あの時セシリアは察したのだ。
(……血、たくさん流れたよね……怖がらせてしまったかも……)
優しい彼の事だ。大量の血を見て取り乱しながらも、きっと心配してくれただろう。あれだけの怪我を負っていながらどこに行ったのだろうかと不安も募るが、近くには焚き火が焚いてあるし、もしかしたら大した怪我は無かったのかもしれない。あとで色々と謝らなくちゃ、とセシリアはその場に立ち上がった。
「プギ? プギギ?」
「ふふ、心配しないで、大丈夫よ。トキさんが帰ってくるまでここで一緒に待ってようね、ステラちゃん」
「……、プギ……」
ふと、トキの名前を出した彼女の言葉にステラの表情が曇る。セシリアは首を傾げ、急に大人しくなってしまったステラの前に座り込んでその顔を覗き込んだ。
「……どうしたの?」
「……プギ……プギギ」
ステラはぽてぽてと彼女の背後へ回り、やがて藍色の見慣れたストールを引き摺って戻って来た。セシリアはそれを受け取り、眉を顰める。
「……これ……トキさんの……」
よく知ったそれは、トキが肌身離さず首に巻いていたものだ。どうしてこれがここにあるのかと、セシリアは黙り込んでしまう。
ステラは俯き、悲しげにプギプギと鳴くばかりだった。途端に、彼女の胸には不安感が満ちて行く。
「……トキさんは、どこ?」
「……」
「……この付近に、居るのよね……? そうよね、ステラちゃん……」
「……プギ……」
ステラは戸惑いがちに顔を上げ、やがて再びセシリアから気まずそうに目を逸らした。その反応がまるで、この付近に彼は居ないのだと言っているようで。
セシリアはトキのストールを拾い上げ、胸に満ちる不安感を誤魔化すように強く抱き締める。
(……違う、よね……? きっと、物資を得るために離れてるだけで……傍に居るのよね……?)
ざわざわと落ち着かない胸。置いて行かれたのでは、と一瞬嫌な想像が脳裏を過ぎるが、それは絶対にない! と彼女はかぶりを振った。
(トキさんは、私を置いて行かない! だって誓ったもの……! 私から、宝石を奪うって……私が、彼の呪いを解くって……!)
マリーローザで二人は誓い合った。あの時の誓いは嘘や思い付きで言い放ったわけではない。きっと心から、彼なりに決意して自分に誓いを立てたのだと確信を持って言いきれる。
そんな彼が、セシリアを置いて今更どこかへ一人で消えてしまうとは思えない。
だが、自分から消えたのでは無いとしたら。
(……まさか……)
どくん、どくん、と心臓の音がやけに大きく耳に届く。最悪の結末を、彼女は想像してしまった。
(まさか、トキさん、あの男の人に……)
殺され──……と考え至った瞬間、セシリアはゾッと背筋を冷やした。ストールを握り締めた両手が震え、嫌な想像が脳裏を飛び交う。
「……っ違う……そんな、わけ……!」
ぎゅ、と震える両腕でストールを抱き締める。けれど一度蔓延ってしまった不安は拭い切れず、心配そうにセシリアの膝に擦り寄って来たステラに彼女はそっと手を伸ばした。
へら、と無理に笑うが、笑えているのかどうか、自分でもよく分からない。
「……ご、ごめんね……私、心配しすぎ、よね……」
「……プギ……」
「あは……大丈夫。大丈夫だから……」
震えながらステラの体を撫で、セシリアは自分に言い聞かせるように「大丈夫」と繰り返す。──するとその時、ガサリと後方の茂みが微かに音を立てた。
「!」
ざくざくと、近付いてくる足音。セシリアはストールとステラを守るように抱き締め、後方を見つめた。
(……もしかして、トキさん……?)
じっと茂みの奥を見つめながら、そんな僅かな期待に重かった気持ちが軽くなる。よくよく考えてみれば、ステラが焚き火の火を起こせるはずがない。つまり誰かがここで火を起こしたのだ。
パチパチと傍で燃えている炎を一瞥し、セシリアはホッと胸を撫で下ろす。なんだ、やっぱり心配しすぎだったのね、と頬を緩ませ、近付いてくる足音を待っていた。
いつも通りの不機嫌そうな、彼の仏頂面がそこから現れると信じて。
──ガサッ、
「……え……」
「……!」
──しかし、茂みの向こうから現れたのはトキでは無かった。若草色のふんわりとした髪を揺らした──セシリアと同世代ぐらいの少女。
想定外の事に目を丸めて固まってしまったセシリアを、少女は黙り込んだままじっと見つめていた。──そして突然、ぶわっとその瞳に涙の粒が溢れる。
「……せっ……」
「え?」
「せ、せ……っセシリアぁぁぁ!! 良かった! 目を覚ましたのねええ!!」
「……!!?」
がばあっ! と突如見知らぬ少女に抱き着かれ、セシリアは目を見開いた。胸の中に抱いていたステラはセシリアと少女の胸に挟まれる形となってしまい、「プギョー!!」と絶叫してもがき始める。
そんな子豚を気にも留めず、少女はぐすぐすと泣きじゃくってセシリアをぎゅーっと抱き締めた。
「うわぁぁん!! 死んじゃったのかと思ったよぅぅ!! セシリアのばかぁぁ!!」
「えっ、え!? あの、えっと、あの……!」
──だ、誰……!?
セシリアは困惑しつつ、泣きじゃくる少女をとりあえず落ち着かせようと華奢なその背をぽんぽんと優しく叩いた。「わ、私は、あの、大丈夫なので……」とたどたどしく発した彼女から、ようやく少女の体が離れる。
二人の胸の間に挟まれていたステラは、窒息したかのようにだらんと力無く項垂れてぐったりしてしまっていた。
「……ふぐ、っぐす、セシリア……もう、痛いところ、ない……?」
「……は、はい。大丈夫です。ご心配お掛けして、えっと……すみません……?」
「うう~……っ良かったぁ~……!」
一旦泣き止んだかに見えた少女だが、再びぶわっと目尻に涙を溜めたかと思うとまたもや泣き始めてしまった。オロオロと戸惑うセシリアは、誰なのかよく分からないまま彼女の涙を指先で拭い取る。
「……ご、ごめんね? 泣かないで?」
「うぐ、ぐすっ、ううぅ、良かった……!」
「大丈夫だから……」
ぐすぐすと嗚咽をこぼす少女を優しく慰め、どこかで会っただろうかと記憶を掘り起こすが、どうにも見当がつかない。歳はセシリアよりも少し下ぐらいだろう。すりすりとセシリアの胸に頬を擦り寄せる彼女に首を傾げるばかりだったが、結局、何度考えてみても誰なのか分からなかった。
「……あ、あの……私達、どこかでお会いしたことありましたっけ……? ごめんなさい、私ちょっと覚えてないみたいで……」
ようやく少女が落ち着きを取り戻した頃、セシリアは苦笑混じりに彼女に問い掛けた。すると少女は顔を上げ、潤んだ瞳で悲しげにセシリアの顔を見つめる。
「……えっ……? 私の事、分からないの……?」
「ご、ごめんなさい……分からない、です……」
「ええ〜っ!? 酷いよぉ! 毎日ずっと一緒に居たじゃん、アリアドニアから! 分からないの!?」
「え? えっ……ええ……?」
セシリアはますます困惑し、目の前の少女を凝視してみたがやはり心当たりはない。毎日一緒に居た? アリアドニアから? ──そう言われても、あの街から共に行動していたのはトキぐらいだ。この少女が誰なのか、セシリアには皆目見当もつかない。
全くピンと来ていないセシリアに、とうとう少女は肩を落とした。「本当に分からないのね……」と俯いてしまった彼女に何と声を掛ければいいのかと迷っていると、不意に少女がガッ! とセシリアの右腕を掴む。
「……えっ!?」
「……私はこれよ!!」
ぐっ、と腕を持ち上げられ、セシリアの目の前に手袋に覆われたその手を近付ける。そして少女はセシリアの薬指を指差し、声を張った。
「これ! ここにあるの、私!!」
「……!!」
セシリアはハッと目を見開き、ようやく目の前の少女の正体を理解する。──手袋に隠された、セシリアの右手の薬指。そこに嵌められているのは、アリアドニアでトキから預かっていた──、
「……もしかして……〈
目を見開いたままセシリアが声を張れば、目の前の少女はにんまりと嬉しそうに微笑んだ。そして深く頷く。
「そうよ、私、〈
十二番目の魔女──アルラウネは、驚愕に目を見開いているセシリアに舌を出し、悪戯っぽく笑ったのだった。
.
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