第43話 ずっと君の傍に
1
──ざぷん。
水を吸って重たくなった衣服と、ズキズキと鈍く痛む身体を引きずり、トキはセシリアを抱えてなんとか河岸へと辿り着いた。アルマとの戦闘によって傷付いた身体では人一人を抱えて泳ぐことなど到底出来なかったが、果敢にも水の中へと飛び込んで来たステラが二人を引っ張って河岸へと誘導したのである。
ごほごほと咳込み、鼻や喉の奥に強烈な痛みを感じながらも、トキは地面を這って力無くセシリアの元へ近寄る。
「……っ、セシ、リア……」
ぐったりと倒れる身体は、うつ伏せのままぴくりとも動かない。ステラはセシリアに擦り寄り、プギプギと弱々しく彼女に呼びかけていた。
トキは重たい体を無理矢理動かし、地面を這って彼女の元に辿り着く。
「……セシリア……おい……」
掠れた声で呼びかけるが、返事は返ってこない。ステラが不安げに見つめる中、トキはうつ伏せに倒れたままのその華奢な体を引き寄せ、仰向けに向き直らせた。
その瞬間、どろりと流れ落ちる真っ赤な鮮血が、彼の視界に飛び込んで来る。
「──……ぁ……」
仰向けになった彼女の首筋から左肩にかけて、赤々と色付いた鮮血がとめどなく流れ落ちている。よく見れば地面も真っ赤な血溜まりで染まり、閉じられた瞼が、ぴくりとも動かなくて。
どくん、とトキの心臓が大きく音を立てる。
十二年前、姉のジルが自らの首をナイフで切り裂いた際の映像が、大きな波のように押し寄せて彼の頭の中を埋め尽くした。
「……っう……あ、あぁ……っ」
どくん、どくん、どくん。急速に鼓動は速まり、身体の芯が冷たく凍えるような感覚を覚える。
呼吸がうまく出来ない。強烈な吐き気が胸を覆い尽くして、トキは思わず口元を押さえた。
──ごめんね、トキ。
微笑むジルが真っ赤に染まる。目を見開いたまま絶命している両親が虚空を見つめる。
それを見下ろして笑うアルマの瞳が、青い宝石の光が、絶望の色に染まった己の涙とジルの綺麗な死に顔を映し出して。
──ごめんなさい。
セシリアの微笑みと共に、また真っ赤に塗り潰される。
「ああぁぁあぁっ……!!」
トキは地面に膝を付き、ぐしゃりと頭を握り潰すように抱えながら悲痛に叫んだ。身体中が震える。うまく呼吸が出来ない。
「ぅ……はあ……っ、はあ……っ」
強く握り込んだ地面が
めくれ上がったワンピースから伸びるセシリアの白い脚と身体には、いくつもの噛み跡が残されていて。トキは表情を歪め、震える手で彼女の冷たい身体に触れる。
「……くそ……、くそ……っ!」
忌々しい男に傷付けられたその身体を、トキは己の身体が悲鳴を上げるのも無視して抱き寄せた。彼女の血は止まる事なく流れ続け、また吐き気が襲ってきて手が震える。トキは何とかそれに耐え、赤い血が溢れるその首筋を押さえつけた。
「止まれ……! 止まれよ……!!」
赤く染まる白いワンピース。紫色に色付いていく唇。けれど、僅かだが脈打つ鼓動を感じる。──彼女は、まだ生きているのだ。
しかし傷口は深く、一向に血が止まる気配はない。押さえつけているトキの指の間からは真っ赤な血が溢れ出し、どくどくと流れ落ちて行くばかりで。
「……っ、止まれ……! 止まってくれ……!」
どうしてこんな事になった。
やっと見つけたのに。
十二年間、家族の仇を討つために、あの日の忌々しい記憶を無かった事にするためだけに生きて来た。
あの男を殺すその日までは、何があっても死なないと決めた。掃き溜めのような街に流れ着いて、腐った街の中で盗賊業なんて薄汚い技術を身に付けて、ずっとずっと、あの男の持つ宝石を探し続けていた。
いつかあの男に辿り着くために。悪魔のような呪われた宝石を手に入れて、奴に対抗するために。そしてようやく辿り着いたのに。
何一つ、敵わなかった。
それどころか、関係のない仲間までこんな目に遭わせて。
──ざまあねえな、トキ。
頭の中で憎い男の声が響く。
──お前が弱いせいで、大事なモンがまた一つ消える。
全部、俺が、弱いせいで。
(くそ……ちくしょう……っ)
目の奥が熱くなる。呼び掛ける声が震える。目を覚まさないセシリアに恐怖心が蔓延る。
トキは俯き、流れ出る真っ赤な鮮血を両手で押さえつけたまま、気を抜けば溢れてしまいそうな嗚咽を噛み殺した。するとその時、不意に後方の茂みがガサリと音を立てる。
「……プギ!」
「……!」
逸早く反応したのはステラだった。びくっと身を震わせ、ステラは慌ててトキの背後に隠れる。──程なくして、その場所から現れたのは数匹のハイエナのような魔物だった。
「……っ、魔物……!」
「プギギ……!」
どうやらセシリアの血の匂いに誘われて来たらしい。グルル、と低く唸って魔物達は威嚇し、腹を空かせた様子で唾液を垂れ流している。
(……まずい、こんな状況で……!)
瀕死のセシリアと手負いのトキ、そして臆病なステラ以外には誰もこの場には居ない。トキは舌を打ち、激痛の走る身体を無理矢理起こして短剣を構えた。
「プ、プギ……」
背後でステラが不安げな鳴き声をこぼす。トキはふらつく足を踏み締め、呼吸を荒らげながら目の前の魔物を睨みつけた。
「……来んじゃねえ、殺すぞ……!」
「ガルルル……」
短剣をチラつかせて牽制するが、腹を空かせた魔物達は怯む事なくじりじりと距離を詰めて来る。トキは視界が揺れるのをハッキリと感じたが、歯を食いしばって倒れそうになる足を踏みしめた。
(……くそ……!)
魔物達もトキが手負いであることを分かっているのだろう、牙を剥きながら敵意を露わにし、彼らはトキに襲いかかった。
「……っ」
左手で短剣の柄を握り込み、トキは飛び込んで来た魔物に素早くそれを振り下ろした。「キャイン!」と悲鳴を上げた一匹の体を剣先が貫き、即座に飛びかかって来たもう一匹の魔物も躊躇なく切り裂く。
真っ赤な血を吹きこぼして魔物達は倒れたが、一瞬ぐらりと目眩に襲われたトキが足元をふらつかせた瞬間、背後から飛び込んで来た最後の一匹が彼の右腕に噛み付いた。
「ぐあ……ッ!」
鋭く響く痛み。骨ごと食いちぎられそうな激痛に表情を歪めたが、彼は即座に噛み付いている魔物の喉元を短剣で掻き切った。血飛沫と共に腕から牙が引き抜かれ、トキはその場に膝をつく。
「はあ……っ、はあっ……!」
噛まれた腕から流れる血を押さえつけ、揺らぐ視界の中で倒れている魔物を睨んだ。ズキズキと、全身が悲鳴を上げている。だがこのままここに停滞していてはまたすぐに別の魔物に襲われてしまうだろう。今の状態のトキでは、いずれ体力に限界が来るのは明らかだった。
(……あいつを、早く、治療しねえと……)
トキは顔を上げ、倒れたまま動かないセシリアを見つめる。噛まれた腕の痛みによって、取り乱していた頭が少し冷静さを取り戻していた。
彼女はまだ息がある。今ならまだ助けられるかもしれない。例え可能性が絶望的でも、傷口を塞いで、血を止めて、輸血さえすれば、もしかしたら。
藁にもすがる思いで、彼は立ち上がった。
しかしその瞬間、視界がパズルのようにバラバラと崩れて全身から力が抜ける。
(え──)
ふらり。彼の体は、ゆっくりと真後ろに傾いた。すっかりと日の沈んだ暗い星空が視界一杯に映り込んだ頃、重力に逆らえない体が
──バシャーン!
「プギ!?」
トキが川に落下した事に気付いたステラは、慌ただしく羽を広げて飛び立った。激しい濁流に抗えないトキの体を必死に追いかけ、ステラは彼のストールに噛み付く。
トキもまた、首からするりと抜けたそれを反射的に掴み取った。
「フギュギュギュ……!!」
「……っ……」
懸命に羽根を羽ばたかせ、ステラはトキを岸まで引き上げようとする。だが、未成熟な子豚の力では、荒れた川の激流に到底太刀打ち出来ず。
徐々に、ストールを掴んでいるトキの手が離れて行って。
「フギューー……!」
「……おい、豚……」
弱々しく掠れたトキの声がステラに呼び掛ける。そして彼は、ストールのギリギリの箇所を掴むその手から、緩やかに力を抜いた。
「……アイツのこと、ちゃんと、守れよ……」
「……プ……」
「頼む、ぞ……」
その言葉を最後に、ぱっ、とトキの手がストールから離れる。──そのまま彼は激流に飲まれ、とうとう水の中へと沈んでしまった。
「プギーーーッ!!」
彼のストールを噛んだまま絶叫するステラの鳴き声だけが、暗い谷底に響き渡っていた──。
2
──キ……。トキ……。
誰かが、俺の名前を呼ぶ声がする。
そう感じて、トキは重たい瞼をこじ開けた。するとそこに広がっていたのは、懐かしい風の匂いと、どこまでも続く青い空。
ここはどこだ、と瞳を瞬いた瞬間、またもや懐かしい声が響いて。
「あー! トキ! やっと起きた! こんなところで寝ちゃだめよ、風邪ひいちゃうでしょ!」
「──……」
青い空を遮るように突如視界に飛び込んで来たその顔に、トキの目が見開かれる。──ジル──十二年も前に死んだはずの姉の姿に、彼はがばりと体を起こした。
「……っ、ジル!? 何で生きて……っ」
「はあ……? どうしたのトキ。変な夢見た?」
「……な……、」
思わずジルの肩に掴みかかったトキだったが、伸ばされた自分の手がまるで幼い子どものようなそれで、続けようとした言葉を飲み込んでしまう。
(……!? 俺、何でこんな、子どもみたいな体に……!)
硬直してしまったトキを、目の前のジルは不思議そうに目を丸めていたが──やがて彼女は微笑み、トキの顔を覗き込んだ。
「あ、分かった。怖い夢見たのね? 涙の跡があるわ」
「……え……」
「よしよし、大丈夫よ。泣き虫さんには私が魔法を掛けてあげるから」
その言葉の直後、暖かい体温が幼いトキの体を包み込んだ。そしてすぐに、
自然と、目頭が熱くなった。
そのまま、トキの瞳からは大粒の涙がこぼれ落ちる。
「……っ……!」
ぽとりと、頬を滑って流れ落ちた雫が地面に吸い込まれるように染み込んで。トキは震える手でジルの背に手を回し、その体を強く抱き締め返した。
「……っ……、ジル……っ」
「ん?」
「……う、ぁ……っ、ジル……、ジル……!」
「……あらら……トキったら、どうしたの。そんなに怖い夢だった?」
「……う、っえぐ……っ」
暖かい姉の腕の中。大粒の涙をとめどなく流しながら、こくこくと何度もトキは頷いた。彼女の背中に回された、幼く小さな自分の手に力が篭る。
「……こわ、かった……っ、すごく、……すごく、怖かった……!」
「うん」
「ジルが、居なくなって……! 父さんも、母さんもっ、居なくて……! ずっと、汚くて、真っ暗な場所で……、十二年間、一人で……っ生きていく夢だった……!」
とん、とん、と彼女の手がトキの背中を優しく叩いた。情けなく縋り付き、惜しみなく嗚咽をこぼすトキの黒い髪に、柔らかなジルの頬が寄せられる。
「嫌なこと、いっぱいして……! 痛くても、寒くても、ずっとっ……我慢した……! でも、どんなに頑張っても、嫌な夢で目が覚めても、ジルは、帰ってこなくて……!」
「うん、うん」
「ずっと……ずっと追いかけて来た奴を、やっと見つけたのに……っ! 俺がっ……俺が弱いから……! 俺が何も出来なかったから……!! 何も……、守れなくて……っ!」
ごめんなさい、と微笑んで首を切ったセシリアの姿が脳裏を過って、トキは固く目を閉じた。──嫌だ、思い出したくない。もうあんな思いはしたくない。
嗚咽をこぼして震えるトキの体を、ジルの腕が優しく抱き締める。懐かしい香り。懐かしい声。ただそれだけでいい。本当に、ただそれだけで良かった。
この温もりが、彼女だけが、自分の心を知っていてくれればそれでいいと思っていた。
「そっか、そっか。怖かったね」
「……ひっく、うっ、う……!」
「大丈夫よ。ここにいるから。トキの心の中に、ずっといるよ」
白いジュリエットの花が、二人の足元で静かに揺れる。
ジルの優しい声が「大丈夫、」ともう一度トキの耳元に囁いた頃、暖かいその体温がそっと離れた。彼女はトキと同じ薄紫の双眸を細めてやんわりと微笑み、泣きじゃくるトキの額に再び優しい“魔法”を落として──
「さあ、ほら。そろそろ起きないとね、トキ」
──彼に優しく、“さようなら”を告げる。
「……っ、嫌だ……嫌だ……!」
「私はもう帰らないと」
「嫌だ!! 俺も一緒に行く!!」
トキは立ち上がるジルの腰に幼い体で必死にしがみ付き、縋るように叫んだ。けれどジルは優しく微笑むばかりで、するりと彼の腕の中から離れて行ってしまう。
穏やかに微笑む彼女が、そっと踵を返して、背を向けて、離れて。
「……嫌だ……待って……ジル……!」
幼く小さな自分の手を、トキは必死に前に伸ばした。
「行かないで! 嫌だ! 俺も連れて行ってよ!!」
届かない彼女に向かって走って行く。
しかしジルの姿はどんどん遠くなるばかりで、涙でぼやけた視界の中、愛おしい家族の華奢な背中が、滲んで、見えなくなって。
嫌だ。
「──嫌だああああッ!!!」
トキの絶叫が響いた瞬間、穏やかな草原と彼女の姿はとぷんと闇に溶けた。そのまま彼の体は、涙の粒と共に深い暗闇の底に落ちて行く。
──大丈夫。ずっと、トキの傍にいるから。
そんな優しい声が、最後に聞こえた気がした。
3
「……」
ザアアア、と水の流れる音がする。
重たい瞼を持ち上げ、目を開けると、宝石箱の中身をひっくり返してぶち撒けたかのような満天の星空が見えた。しかしその後すぐに視界が滲んで、空に散らばった宝石の光がぼやける。
「……ジ……ル……」
酷く掠れた声が愛おしいその名を紡いで、薄く開いた瞳からは冷たい雫が一筋、こめかみに向かって流れて行った。
──夢だったのか。
そう考えて、トキは激痛の走る体に力を籠める。泥と傷で汚れてしまった自分の腕を静かに持ち上げたその時、夢の中で触れた彼女の体温が少しだけ残っているように感じて──再び彼の表情は苦く歪んだ。
「……く、そ……っ」
こぼれ落ちてしまいそうになる群青の塊。歯を食いしばり、眉間を寄せて彼はぐっと嗚咽を飲み込む。
ここはどこだ。
何で俺は生きてるんだ。
アイツは、どうなった。
様々な疑問が頭に浮かぶものの、何一つ状況が分からない上に体は動かない。手負いの状態で川に落ち、激流に飲まれた彼の体は既に限界だった。
何故か生きてはいるが、ボロ雑巾のようなこの体では立ち上がる事すら困難で、気を抜けば意識が途切れそうになる。──そんな中、彼の耳が不吉な物音を拾った。
──ガサッ……
「……!!」
不意に感じる何者かの気配。トキはハッと目を見開いて身構えた。するとまたもや茂みの奥が微かに揺れたのを確認して、トキの表情が歪む。
(……くそ、魔物か……! 今襲われたら、流石にまずい……!)
限界を訴える彼の体では、その場から這いずって逃げる事すら出来そうにない。トキは奥歯を噛み、力の入らない手で短剣の柄を握り込む。
徐々に近付く足音。漂う獣の臭い。引き抜こうとした短剣は、震える手の中から滑り落ちて転がってしまった。
(……ああ、くそ……だめだ……もう、力が……)
ただでさえ手負いの上に、アルマとの戦いで〈
のし、のし、と地面を踏み締めて近寄る獣の気配に、トキは悔しげに眉根を寄せた。
──トキ。
優しく微笑む姉の姿が、脳裏を過ぎる。
(……ジル……)
彼女の暖かい抱擁を思い出して、トキは泣き出しそうに表情を歪めた。──そしてとうとう、茂みの中からは巨大な何かが勢い良く飛び出して来る。
「──っ……!」
彼は目を閉じ、次に感じるであろう痛みを覚悟して身を強張らせた。──しかし、直後に感じたのは痛みでも苦しみでも無く。
やけに懐かしい、大きな舌の感触だった。
──べろ。
「…………」
頬に感じるその感触に、トキは眉間を寄せつつ恐る恐ると目を開ける。視界に入ったのは、白銀の毛色と金の瞳。彼は黙ったまま、暫くそれと向かい合って──やがてその口元から、乾いた笑みがこぼれ落ちた。
「……はっ……、何だよ……」
掠れた声が漏れ、目の前の懐かしい顔がかくんと首を傾げる。べろりと再びトキの頬を撫でる舌の感触に、不思議と酷く安堵して。
「……思ったより、元気そうじゃ、ねえか……」
「……」
「……なあ?」
──クソ犬。
口角を上げながら呟けば、白銀の毛を風に揺らした狼──アデルは、「ガゥ!」と嬉しそうに尻尾を振って答えた。
その懐かしい声に安堵したのか、トキの身体からは徐々に力が抜けて行き──僅かに繋ぎ止めていた意識が、ぷつりと途切れる。
沈み行く意識の中で彼が少しずつ思い出していたのは、長きに渡って封じ込めて来た十二年前の記憶。クゥン、と寂しげな、心配そうな狼の鳴き声だけが、闇に沈む彼の耳に届いていた。
.
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