第44話 泣き虫の少年


 1




 ──十二年前、風の町アドフレア。


 穏やかな風に包まれた小さなこの町の草原で、当時十一歳だったトキはグズグズとしゃくり上げながら膝を抱えていた。

 足元で咲く白と薄紫の野花に、彼の涙がぽたぽたと落とされて行く。そんな中、不意に掛けられたこの声が、全ての始まりだった。



「──何めそめそしてんだ、ガキ」



 涙に濡れた目元を真っ赤に腫らして、トキは顔を上げる。声を掛けてきたのは見知らぬ男だった。

 背が高く、痩せ型で、瞳が赤い、黒髪の男。彼は膝を抱えて蹲るトキの目線に合わせてしゃがみ込むと、燃えるような真っ赤な瞳を呆れたように細めて口を開く。



「おいおい、男のくせに泣くなよー、情けねえな。……ん? いや待て、お前男か? 睫毛長ぇし、めそめそしてるし、実は女とか?」


「……ば、バカにすんなよ! 男だ、俺は!」


「お、元気じゃねーの。いいねぇ。やっぱガキはそれぐらい威勢が良くねーとな」



 憤慨して食いかかったトキに男はへらりと微笑み、ぐしゃぐしゃと乱暴にその頭を撫でた。「うわ、」とトキは驚きつつも素直に男の不器用な手を受け入れる。だがやはりぶすっと膨れっ面のまま、不服げに彼を見上げた。



「……何だよお前! ガキ扱いすんな! 俺、もうすぐ十二歳になるんだぞ!」


「……え、お前十二歳なの? チビだしピーピー泣いてるし、てっきりまだ乳離れの出来てないガキかと」


「なんだとぉ!?」



 泣き腫らした目尻を吊り上げて立ち上がったトキが目の前の男を睨み付ける。しかしその直後、不意に聞き慣れた声が彼の名を呼んだ。



「トキー!」


「……!」



 ぎくりと身を強張らせ、トキは慌てて目元を擦る。やがてパタパタと走って現れた姉の姿から、彼は気まずそうに目を逸らした。



「トキ! アンタまた町で何か問題起こしたって!? 大丈夫!? 怪我は!?」


「な、何もしてない! 怪我も無い! 心配しすぎだろジル! 俺もうガキじゃねえんだぞ!」


「何言ってんの、十分ガキでしょ! ほら、痛い所ない? お姉ちゃんが手当てしてあげるから言ってごらん」


「無い! 放っとけって!」


「でもまた泣いてたでしょ、バレバレよ」


「うっ……!」



 お見通しだと言わんばかりのジルの視線に、トキは頬を赤らめて声を詰まらせる。そんな微笑ましい姉弟のやり取りを、深紅の瞳の男はただ黙って見つめていた。


 ややあってようやくジルは彼の存在に気が付いたのか、かくんと不思議そうに首を傾げる。



「……あら? どちら様ですか? 見ない顔ですね」



 尋ねれば、男はぱちりと瞬いてにこりと微笑んだ。「なぁに、ただの旅の者さ」と気さくに答え、男は赤い瞳をやんわりと細める。


 そんな彼にジルもまた微笑み、愛想よく言葉を続けた。



「まあ、旅のお方ですか? それはそれは、こんな辺鄙な村までようこそ。何もないところですけど、ごゆっくりなさってくださいね」


「お、ご丁寧な娘さんだな。どこかの小生意気な弟くんとは大違いだ」


「はあ!? 何だとこのやろ……!」



 皮肉めいた男の言い草に、トキは盛大に眉根を寄せる。しかし「こら!」と即座にジルに叱咤され、食って掛かろうとした彼はぐっと押し黙ってしまった。



「ダメでしょトキ! 人には礼儀正しくしなさい!」


「う……!」


「わはは! ガキ、お前姉ちゃんにはタジタジなんだなぁ!」


「う、うるせえ!」



 かあ、とトキは顔を赤く染め、笑う男を睨む。男は暫く「あっはっは!」と豪快に笑っていたが、やがて目尻に浮かんだ涙を拭いながらジルを見つめた。



「あー、おもしろ。久々に笑ったら喉乾いちまったよ。お嬢さん、水を一杯貰えたりしねーか?」


「ええ、いいですよ。うちで良ければご案内します」


「そりゃ助かる。よろしく、美しいお嬢さん」



 男は微笑み、ジルの頭をぽん、と撫でた。色気を含んだ大人の男性の横顔に、ジルの頬はポッと赤みを帯びる。


 ほう、と一瞬見惚れていた彼女の視線に逸早くトキは気が付き、むっと口元をへの字に曲げて面白くなさそうに男を睨んだ。



「何だアイツ、ムカつく……」



 ぼそりと呟いた声は、誰の耳にも届いていなかった。




 2




「へえ、アルマさんっていうんですね! お若いのに一人で旅だなんて、素敵です。色々とお話聞かせてください!」


「そんな事言ったって、大した話出来ねえぞ? ろくでもない貧乏旅だし」


「そんな、ろくでもなくなんか無いわ! 私、この町から出た事ないから外の話が気になるんですもの!」


「そう言ったってなぁ……」



 すっかり男──アルマに気を許したジルは、自宅に彼を招き入れて飲み物を提供しながら興味津々に彼の話に聞き入っていた。そんな二人の会話を面白くなさそうに見つめ、仏頂面でトキは黙りこくっている。



「こら、トキ」



 ふと背後から呼び掛けられ、トキはぎくりと身を強張らせる。恐る恐る振り向くと、母が眉根を寄せて彼を睨んでいた。



「アンタ、また町で悪さしたってね。町長さん家の犬に石投げて逃げたって話だけど」


「……」


「黙ってないで何か言いなさい。町長さん、お怒りだったのよ。それに危ないでしょ、あそこの犬は大きいんだから!」


「まあまあ、母さん。トキも好奇心旺盛な年頃なんだから、そんなに怒るなよ。良いじゃないか、無事だったんだし……」



 目尻を吊り上げる母を温厚な父が宥めるが、「アンタは楽観的すぎるのよ!」と母は更に語気を強める。父はたじろぎ、冷や汗を浮かべて視線を泳がせた。



「万が一犬に噛まれて、大怪我でもしたらどうするの!? うちはお金が無いんだから、すぐに病院だって連れて行けないのに! トキが危険な目にあったらどうするのよ!」


「……いや、まあ、そうなんだが……。客人の前だろ? 少し落ち着いて……」


「関係ないわ! 今私は教育してるの! 分かったわね、トキ! もう町で悪さしないのよ!?」


「……」



 トキは黙りこくったまま、怒鳴る母親からさっと目を逸らす。次第にじわじわと目頭が熱くなり、群青の塊が溢れ出しそうになるのを感じて堪らず彼はその場から駆け出してしまった。「あ、こら! トキ!」と背後から呼ぶ母の声も無視して、トキは家を飛び出してしまう。



「……ったくもう! どうしてあの子はいつも危ない事ばっかり……! ちょっと私追い掛けて来るわ!」


「待て待て、アイツも多感な年頃なんだ。今はそっとしといてやれ」



 彼の後を追って駆け出そうとした母を父が止める。同じく親子のやり取りを心配そうに見つめていたジルに、父は微笑んだ。



「大丈夫さ、ジュリア。あいつも男だ、色々と事情があるんだよ」


「……」


「旅人さんもすまないな。うちの息子、少し多感な時期なもので」



 申し訳無さそうに苦笑する父に、アルマは人の良さそうな笑みを浮かべる。そのまま、彼はトキが走り去って行った方向を黙って見つめていた。



 ──その一方で、思わず家を飛び出してしまったトキは、グズグズと鼻を啜り上げながらとぼとぼと野花の咲く細道を歩いていた。


 俯いたまま目を擦り、とめどなく溢れる涙を止めようとするが、なかなか止まらない。



「……う、ぅ……」



 情けなく嗚咽が漏れる。男のくせに泣いてばかりの自分が恥ずかしいと、トキは己に失望しながら歩き続けた。



(……違うのに。俺が、悪いんじゃないのに……)



 悔しげに唇を噛む。けれど、親に本当の事など到底言えるはずもない。

 母は怒ってはいても心配性だし、父は能天気に見えて芯は強い。姉のジルはいつまでも子ども扱いする。


 本当の事を言えば、きっとまた気を遣われるし、心配させてしまうのは分かっていた。



(……それに、かっこ悪い)



 そう思うと、己の情けなさにまたもや視界が滲んでしまう。トキは唇を噛み締め、頬を流れる雫を手のひらで拭い取った。



「……うっ、ぐす……っ」


「……あ! 居たぞトキだ!」


「……!!」



 不意に響いた子どもの声。トキはハッと目を見開き、背筋を冷やすと慌てて嗚咽を飲み込んだ。

 ゴシゴシと涙を乱暴に拭い、恐る恐ると顔を上げれば、数人の少年たちがあっという間に彼を取り囲む。



「おい、泣き虫トキ! 何メソメソしてんだよ、だっせーな!」


「貧乏なヴァンフリート一家の、あのうるせーママに叱られたか? 可哀想に」



 ──あははは!


 トキを囲む少年たちが一斉に笑う。トキは真っ赤な目元をぐにゃりと歪め、悔しげに唇を噛んだ。


 そんな彼の肩を、ガタイの大きな少年がドン! と突き飛ばす。体の小さなトキは容易く足元をふらつかせ、小石に躓くと地面に尻餅を付いてしまった。



「……う……っ」


「おいトキ、お前なんで町長の家から逃げたんだよ! あの凶暴な番犬にイモムシ食べさせるまで戻ってくんなって言っただろ!」


「約束破りやがって、この貧乏人!」


「……っ」



 トキは怯えるように目の前の少年たちを見上げる。手が震え、声も出ない。じわりと溢れ出しそうになる涙を、辛うじて睫毛の手前で塞き止めるので精一杯だ。


 そんな中、少年の中の一人が、ふと大きく手を振りかぶる。



 ──ガンッ!



「……いっ……!」



 少年の手元から投げられた石のつぶて。それはトキの目元を直撃し、彼は目を押さえてその場に蹲った。「すげえ、アレックス!」と少年たちは石を投げたリーダー核の少年──アレックスを賞賛している。



「ほら、泣けよトキ! 泣いて謝れ!」


「ちゃんと、“犬に食われなくてごめんなさい”って謝れよ?」


「いや犬も食わねえだろ、汚いヴァンフリート一家の貧乏人なんて!」


「ぎゃははは!」


「……っう……!」



 悔しい。情けない。──怖い。


 とうとう堪えきれなかった涙が、堰を切ってトキの目元から溢れ出る。「ほら、早く謝んねーともう一発投げるぞ!」と石を持って構えたアレックスの声にトキはびくりと体を震わせ、情けないと思いながらも小さな掠れ声を絞り出した。



「……っ、ご、ご……めんな……さ……っ」


「はあ!? 聞こえねーよ!」


「……っ、犬に、食べられなくて……!」



 震える声が、少年たちに言葉を紡ぐ。


 謝りたくない。何でこんな奴らのために。何でこんな、情けない自分なんかを守るために──謝らなくちゃいけないんだ。


 そうは思いながらも、蔓延る恐怖心には勝てなかった。



「……ごめんなさい……っ、ごめん、なさ……!」


「だから聞こえねーって、」



 言ってんだろ!!


 そんな鋭い怒声と共に、アレックスは石を持った手を振りかぶる。トキはぎゅっと目を閉じ、次に来るであろう痛みを覚悟した。


 ──しかし、いくら待っても、予期していた痛みは感じなくて。



「……?」



 しん、と不自然なほどにその場は静まり返る。まるで時が止まったかのような、長い長い沈黙に感じた。


 恐る恐る目を開ける。

 トキがまず見たものは、あんぐりと口を開けて目を見開いた、自分を取り囲んでいる少年たちの姿。


 そして次に視界に入ったのが、投げられたであろう石を自分に当たる直前に掴み取った、アルマの姿だった。



「……おいおい、ガキ共。喧嘩するなら一体一でやれよ、気分悪ィなァ」



 ゆらりと顔を上げたアルマの赤い瞳に、少年たちは息を呑む。その眼光が酷く恐ろしく感じて──先頭のアレックスが即座に声を上げた。



「……に、逃げろ!」



 その瞬間、蜘蛛の子が散るようにトキを取り囲んでいた彼らは走り去って行った。


 やがて、穏やかな風のそよぐ小道にはいつも通りの静けさが戻ってくる。呆然と一連の出来事を傍観していたトキに掛けられたのは、呆れたような溜息混じりの声。



「──まためそめそしてんのか、お前」



 なぜか、その声に酷く安堵して。

 大粒の涙がぼろりと彼の頬を滑り落ちていった。


 手に持った石をその場に投げ捨て、涙をぼろぼろと流し始めたトキの目の前にアルマはしゃがみ込む。うぐ、えぐ、と膝を抱えて泣き出したトキを呆れたように見つめ、アルマは苦笑をこぼしながら溢れ出すその涙を節榑立った指先で拭った。



「なん、だよ……っ見るな、ばか……!」



 しゃくり上げるトキが俯く。するとアルマはへらりと笑い、「どうしよっかなァ」とおどけながら、泣きじゃくるトキの頭に何かを乗せた。



「……!」


「あー、やっぱ泣きっ面には似合わねーな。笑えクソガキ」


「……何だよ、これ……」



 ぽろりと頭から落ちてきたのは、薄紫色の花弁を広げた小さな野花の冠だった。鼻水を垂らしたトキが訝しげに顔を上げれば、優しく目を細めたアルマと視線が交わる。



「花の冠。綺麗だろ?」


「……俺、男なんだけど」


「え、そうなのか? いつまでもベソかいてるから、てっきりか弱い女の子かと」


「うるせーな! 何だよお前、やっぱムカつく!」



 トキは目尻を吊り上げて怒鳴った。すると目の前の男はやはり微笑み、「お、元気になった」と楽しげに呟く。



「……っ」


「あんな奴らに負けてんじゃねーよ。姉ちゃんが悲しむぞ、犬に食われたら」


「……うるせー……好きでやってんじゃねー……」



 ぼそぼそと呟いて俯いたトキを、アルマはじっと見つめた。涙の膜の張った紫色の瞳が、うるうると揺らいでこぼれ落ちる。



「……悔しくねえの? あいつらにやられてばっかで」


「……悔しい」


「じゃあ、抵抗して反撃でもしてみろよ。黙って従ってばっかじゃ友達出来ねーぞ、いつまでも」


「……いらない、友達なんて。……俺は……」



 トキはぐしっと鼻を啜り上げて目を擦り、顔を上げる。その目が真っ直ぐと、アルマを見つめていた。



「……俺は、ジルと、父さんと母さんが居れば……何もいらない」


「……ふぅん?」



 興味深そうに、アルマの赤い瞳が細められる。──そして、彼はトキの頭をぐしゃぐしゃと乱暴に撫で回した。



「……っい、……何すんだ!」


「いやあ? なかなか素敵な家族愛だと思ってな」


「……は……」


「いいねえ、“愛”ってのは。少し興味が出たぜ、俺は」



 にやりとアルマの口元が弧を描く。トキはぽかんと目を丸めて、彼の顔を見上げるばかり。



「……なあ、俺にも教えてくれないか?」



 ──その、“愛”ってやつを。



 楽しげに口角を上げた彼の唇からこぼれるそんな言葉に、トキはただ訝しげな表情で眉を顰める事しか出来なかった。


 彼の微笑みに隠されていた蛇の毒牙に、この時気が付いていれば──なんて。


 今更後悔したところで、もう、過ぎ去った時間は戻らない。




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