第42話 血溜まりの中の花


 1




 ろくでもない生き方をして来た。

 汚いことだと分かっていても平気で手を染めた。


 とは言っても、最初から全部汚かったわけではない。少なからず生まれて暫くはきっと幸せだったんだろうと思う。けれどその小さな幸福すら無くしてしまって、素直な笑い方などとうに忘れた。


 そして、彼は誓ったのだ。

 もう二度と、人を信じないと。どれだけ汚い事に手を染めてでも、生きて行くのだと。


 自分の愛する者を奪った、あの宝石と──あの男を、殺すためだけに。




「──お前、トキか! マジでトキなのかよ!」



 はは、と目の前の男が嬉しそうに頬を緩ませる。赤々と色付いた彼の目に、憎しみに満ちた表情で睨むトキの姿がハッキリと映し出されていた。



「いやぁ~、大きくなったなあ! あんなにチビで泣き虫だったのに! 元気にしてたか?」


「黙れ!! 馴れ馴れしくしてんじゃねえよ!! どの面下げて言ってやがんだテメェ!!」



 トキは瞳孔を見開いて怒鳴り付ける。しかしアルマは怯むことなく、黙って彼を見下ろしているばかりで。トキは奥歯を噛み締めた。



「……っテメェが……! テメェがジルを! 俺の家族を殺したんだろうが!!」



 憎しみに満ちた、低い声が忌々しげに声を紡ぐ。アルマは口角を持ち上げ、くつくつと喉を鳴らした。



「……ジル……、ああ、ジュリアか。懐かしいねえ」


「テメェが……っ、あの石を持って俺達の前に現れやがったから!! ジルは……っ死んだんだ……!!」


「くく、そうかもなァ。俺はあの女、嫌いじゃなかったんだが」



 懐かしむようにアルマは目を細め、顎に蓄えた髭を指でなぞる。そして彼は下卑た笑みを浮かべた。



「抱き心地も良かったしなあ、ジュリアは。可愛い声で鳴いてたぜ? 死ぬ前の晩」


「──……」



 ニタリと笑うアルマの言葉に、トキの頭が一瞬真っ白に染まる。トキ、と優しい声で呼び掛け、微笑むジルの──今は亡き最愛の姉の姿が、脳裏を駆けて。



「……殺す……」



 ぽつりと、しかしハッキリと唇が言葉を紡いだ。その暗い瞳に宿るのは、明確な殺意だけ。



「……テメェだけは……っどんな手を使ってでも必ず殺してやる……!!」



 トキは再び地面を蹴り、鋭い短剣を振りかぶる。しかしやはりその剣先がアルマの肌に届くことは無く、いとも容易く腕を掴み取られて彼の体は地面へと投げられてしまった。


 ゴッ、と鈍い音が響き、地面に叩き付けられた体が悲鳴を上げる。それでも彼は即座に立ち上がって再び剣を向け、飛び込んだ。



「はあ〜、全く。身体だけはデカくなったみてーだが、小生意気で短気なとこは変わってねえなー、お前」


「死ね!!」



 風のような速さで短剣の刃がアルマを切り裂こうと振り下ろされる。長い盗賊業で鍛え上げられたトキの短剣捌きが、目にも留まらぬ速さでアルマを猛攻した。

 しかしその攻撃は、ただの一度も彼の体に届く事はなくて。


 ──バキィ!



「……っぐ……!」



 不意に鳩尾を殴られ、トキの体からがくんと力が抜ける。その隙にアルマは右脚を振り上げてトキの体を蹴り飛ばした。

 勢い良く木の幹に体を叩き付けられたトキは、かは、と短く呼吸を吐いて血の混じった唾をその場に吐きこぼす。視界が歪み、彼は奥歯を噛み締めてアルマを睨んだ。



「おいおい、威勢よく飛び込んで来た割にはその程度かよ、トキ。怒りに身を任せて無計画に突っ込んでくようじゃ、まだまだヒヨッコだぜお前」


「黙れ……っ! 黙れ、黙れ!!」



 忌々しげにアルマを睨むアメジストの暗い瞳。対するアルマは全てを見透かしたかのような余裕のある笑みを浮かべ、地面に膝を付いて苦しげに呼吸を繰り返すトキを見下ろしていた。その口元は、にんまりと楽しげに弧を描いて。



「いやあ、それにしても本当に生きてたとはなァ。やるじゃねーの、見直したぜ俺は」


「うるせえ!! 二度とその口聞けねえようにしてやる!!」



 トキは口元の血を拭い、再び短剣を構えて素早くアルマの元へ突っ込んだ。しかし確実に捉えたと思ったその体は一瞬で彼の視界から消え、代わりに重たい拳の一発が頬に決め込まれる。


 ──ドゴッ!


 重々しい音を響かせて、トキは殴り飛ばされた。そのまま彼は地面に倒れ、ズキズキと全身が痛む中で歯を食いしばる。

 地面に手を付き、重たくなる体を持ち上げようとするトキの頭を、アルマはその足で踏み付けた。



「……っ、あ、ぐ……っ」


「いやあ、嬉しかったぜ? 十二年ぶりに可愛い弟分と再会出来てよォ。まさか本当に生きてるとは思わなかったが、あの時泳がせといて正解だったなァ」


「……く、そが……っ」



 目の前が赤い。頭から血が出ているのかもしれない。

 トキはアルマに足で踏み付けられたまま、悲鳴を上げる全身で抗おうと力を込めた。しかし、痛めつけられた体はなかなか言う事を聞かない。


 そんな彼の様子に、くく、と頭上の毒蛇が楽しそうに喉を鳴らす。



「ほんと、笑っちまうよ。元々期待はしてたが、見事に俺好みのツラに成長してくれたなァ、トキ」


「……っ」


「親と姉貴が死んだ絶望の後、復讐に囚われて、ただそれだけの為に全てをなげうって生きてきた憐れな男のツラだ。“マドンナ”が喜ぶぜ? 懐かしい顔に会えるってよォ」



 べろりと、長い蛇のような舌が口元からこぼれ落ちた。靴底で頭を踏み付けられ、トキの眉間が悔しげに深い皺を刻む。


 何で動かないんだ。

 どうして届かないんだ。


 何度も何度も、頭の中でシミュレーションを繰り返した。いつか殺してやる。自分から家族を、故郷を、人生を奪ったこの男に復讐してやると、ずっとそれだけを考えて生きてきた。


 その男がこうして目の前にいるのに。どうして──こんなにも、遠いんだ。



「──トキさん!!」


「……!!」



 殺伐とした森の中、不意に響いた鈴のような声。トキは即座にまずい、と直感した。その場に現れたセシリアとステラを、アルマが興味深そうに見つめている。



「──バカ! 来んな!!」



 トキはセシリアに向かって大声で怒鳴った。セシリアはアルマに踏み付けられた傷だらけのトキを視界に入れ、悲痛に表情を歪めて口元を両手で覆う。



「と、トキ、さ……」


「あれぇ? さっきのお嬢さん。アンタ、トキの連れだったのか」


「……っ」



 ふと声を掛けられ、セシリアがびくりと肩を揺らす。彼女は怯えたように唇を震わせてアルマを見つめたが、やがて目尻を鋭く吊り上げた。



「あなた、何してるんですか! トキさんを離して!」


「お、意外と威勢がいいな。いいねぇ、嫌いじゃねえよ、そういう女は」


「……っ!」



 アルマの口元が不敵に歪んだのを察して、トキは息を飲んだ。そしてセシリアに向かって再び怒鳴る。



「バカ! 逃げろ!!」


「……っ、でもっ、トキさん……!」


「いいから……っ早く──」



 逃げてくれ。頼むから。

 この男に目を付けられたら、アンタまで。


 そんなトキの思いも虚しく、無情にもアルマの目は完全にセシリアを捉えてしまっていて。



「もう遅いぜ、なァ?」


「……っきゃあ!?」



 にんまりと赤い目が細められた途端、セシリアが悲鳴を上げた。彼女の足元には突如現れた無数の黒い蛇が群がり、白い脚に絡み付いて身体を這うように徐々に登ってくる。



「嫌っ、やめて!!」



 しゅるしゅると這い上がって来る不快感にセシリアは表情を歪め、ワンピースの中に潜り込んだ蛇を払おうとする。しかしいくら抵抗しても蛇は離れず、それどころか強い力で絡み付かれてきつく首を締め上げられてしまった。



「……っ、か、は……っ!」


「セシリアッ!!」



 足蹴にされたままトキが叫ぶ。苦しげに表情を歪める彼女の背後で、ぶるぶるとステラは震えていた。セシリアは首元を締め上げられながら、掠れた声を絞り出す。



「……ス、テラ、ちゃん……、逃げ、て……っ」


「……プギ……プギュ……」


「……私、は、大丈夫、だから……」



 力なく笑う彼女を、ステラは恐怖に体を震わせて見上げる。魔物であるステラは分かっていたのだ、目の前の毒蛇との戦力差を。故に身体が硬直し、一歩も動けない。



「……プ、プギギ……」


「……ステラ、ちゃ……」


「あーあ、慈悲深いねえ。そんな魔物如きを助けようとしちゃってまあ」



 アルマは肩を竦め、セシリアの元へと歩み寄る。しかしそんな彼の足を、トキの手が即座に掴んだ。



「……っ、テメェ、そいつらに、近付くな……!」


「ほう?」



 呼吸を荒らげ、虫の息のトキを楽しげに見下ろすと、アルマは容赦なくその体を蹴り飛ばした。「がっ……!」と呻き、地面にトキは倒れ伏す。その場に転がった彼の体にも、セシリアに絡み付いているのと同じ無数の蛇が群がって。


 血反吐を吐きこぼし、蛇に埋もれて行くトキの姿に、セシリアの表情が悲痛に歪む。



「……っ、嫌……! トキさ……っ」


「へえ、トキ、お前いい趣味してんじゃねえか。俺も好きなんだよ、こういう清純系の女」


「……!」



 唐突に、アルマはセシリアの顎を掴み上げた。赤々と色付いた彼の瞳。それが酷く恐ろしく感じて、セシリアは懸命に身をよじる。



「……っや……、離して!」


「肌もスベスベで真っ白。いいねえ、噛み跡がよく映えそうだな」


「きゃあっ!?」



 節榑立った手がセシリアのワンピースの中に入り込み、小振りな尻をゆっくりと撫でる。ぞっ、と鳥肌が駆け抜け、セシリアは足をばたつかせた。



「や、やだ、やめて! 触らないで!」


「おーおー、可愛い反応しちゃって。大事な“トキさん”の見てる前でぶち込んでやろうか? かわい子ちゃん」


「……っあ、やだ、お願い、やめて……!」



 するすると、大きな手がセシリアの肌を伝って徐々に上がって行く。知らない男に身体をまさぐられる感覚に、セシリアは戦慄した。



(……嫌……やだ、怖い……!)



 瞳に涙が浮かび、唇が震える。ワンピースと下着をたくし上げられた彼女は、蛇の這う身体を指先でなぞられてびくっ、と身を強張らせた。



「……っ」


「ふーん、綺麗な身体してるねえ。感度も良好そうだし、羨ましいぜトキ」


「……っ、や、あ……!」


「くく、折角だから味見させて貰うか」



 べろ、と長い舌がセシリアの肌の上を滑る。生温い舌の感触に彼女の背筋は凍り付いた。蔓延る嫌悪感と恐怖心で、勝手に身体が震えてしまう。



(……やだ、怖い、気持ち悪い……っ)



 ──ガリッ!



「……っい……!」



 突如鋭い痛みが走り、セシリアは表情を歪める。白い肌の上に歯を立てたアルマが顔を離すと、そこにはくっきりと蛇に噛まれた傷跡が残されていた。


 その後も彼は彼女の肌に毒牙を突き立て、ガリガリと噛み付いて赤い傷跡を増やして行く。



「痛、痛いっ……やだ……っ」


「あーあ、どんどんキレーな身体が汚くなってくねえ。トキが見たら何て言うのか見ものだぜ、堪んねえなァ」


「……っ、ふ……う、……!」



 胸に、腹に、太腿に、連続して続く鋭い痛み。とうとう耐えきれず、セシリアの瞳からは大粒の涙がこぼれ落ちた。──得体の知れない男に、トキの目の前で恥辱を受けている。そう思うと涙が溢れて止まらなかった。


 ステラは恐怖に慄いて動くことが出来ないのかセシリアの背後でぶるぶると体を震わせ、地面に倒れているトキは蛇に群がられて埋もれてしまっている。


 助けも来ない、絶体絶命の状況の中、不意にアルマの腕がセシリアの身体を強く押し倒した。「きゃあ!」と短く悲鳴を上げて地面に身体が倒されたその瞬間、彼女に群がっていた蛇が忽然とその姿を消す。



「……っ」


「……あーあ、年甲斐にもなく興奮して来ちまったよ」



 にやりと、目の前の赤い目が不敵に微笑む。獲物を見るかのようなその眼光にセシリアはたじろぎ、ゾッと背筋を凍らせた。

 そのまま脚を掴まれ、閉じていたその場所を無理矢理大きくこじ開けられる。何をされるのか理解してしまった彼女は戦慄し、身をよじって激しく抵抗した。



「い、嫌! やだ! やめて、お願い!!」


「くく、知らないのかお嬢さん。そう言われると、男ってのはやりたくなるもんなんだよ」


「いや……だめ、おねがい……っ」



 ガタガタと身体が震える。恐怖に慄く心臓が早鐘を打つ。



「嫌……いやぁ……っ」



 未だ誰も受け入れた事のないその場所にアルマの手が掛けられたその瞬間、セシリアは涙を落として悲痛に叫んだ。



「嫌あぁぁっ!!」



 ──ぴくっ。


 そんなセシリアの悲鳴に導かれるように、蛇に埋もれて気を失っていたトキの意識が覚醒する。

 重い瞼を持ち上げ、鈍く痛む体に力を篭めてゆっくりと前を向けば、半裸の状態で涙を流すセシリアに馬乗りになった憎い男の姿が視界に飛び込んで。


 何が行われているのかを理解したその瞬間──トキの中の何かが、ぶちりと派手に音を立てて切れた。

 刹那、右手の中指の指輪が閃光を放つ。


 ──ゴウッ!!



「──!!」



 突如大きく燃え上がった青い炎。それにアルマが気が付いた時には、既に目を血走らせたトキの重たい拳が目前に迫っていて。


 ──ゴッ!!



「がっ……!?」



 青い炎を纏った拳が、アルマの顔面を捉えて勢い良く殴り飛ばす。その聖なる炎の輝きに、ぐらりとたじろいだアルマの瞳が大きく見開かれた。



(この炎……三番目ドゥリの〈魔女の遺品グラン・マグリア〉か……!?)



 皮膚を焼き尽くさんと纒わり付く炎に、アルマは忌々しげに舌を打ってトキを睨む。対するトキはセシリアを庇うように彼女の前に立ちはだかり、ぜえぜえと息を上げながら殺意に満ちた視線をアルマに向けていた。



「……テメェ……っ、コイツに手ェ出したら、ただじゃ置かねえぞ……」


「……この死に損ないが。デカい口叩くだけ叩きやがって……」



 ぺっ、と血の混じった唾を吐きこぼし、アルマはトキに近付く。トキは痛みで悲鳴を上げる体を無理矢理動かし、両手に魔力を集中させると青い炎を纏って地面を蹴った。


 大きく燃え盛る龍のような火炎が、アルマに向かって放たれて行く。しかしアルマが指を打ち鳴らした瞬間、どこからとも無く現れた大蛇が放たれた青い炎をばくん、と飲み込んでしまった。



「……な……っ!?」


「甘いんだよ、ヒヨッコが」



 あざけるように毒蛇が笑い、節榑ふしくれ立つ手のひらがトキの顔面を鷲掴む。そのまま、アルマの右手はトキの鳩尾を豪快に殴り付けた。

 ゴポッ、と血反吐を吐いて彼は地面にくずおれる。呼吸すら出来ずに蹲るトキをその場に捨て置き、アルマは座り込んでいるセシリアの元へと歩き始めた。



「……なるほどなぁ。アリアドニアでアルラウネを燃やしたのはお前だったってわけか、トキ」


「……っ、やめ、ろ……、そいつに、近寄んな……!」



 呼吸が出来ず、内臓が抉れるような痛みに耐えながらトキは掠れた声を絞り出す。しかしアルマは聞く耳など持たず、じりじりと後ずさるセシリアの髪を捕まえて掴み上げた。



「うぁ……っ!」



 髪の毛束けたばを掴まれ、無理矢理立ち上がらされたセシリアが痛みに表情を歪める。そんな彼女を強引に引き摺り、アルマは断崖の淵へと歩き始めた。


 ぞく、とトキの背筋に悪寒が走る。



「……っ、やめろ……っ、やめろアルマァ!!」


「なあ、トキ。俺が憎いだろ? 殺してェんだろ? 最愛のジュリアと、両親を奪った俺をぶっ殺したいんだよなァ? ……だったら、もっと気持ち良く殺せるようにお膳立てしてやるよ」


「ふざけんな!! そいつは関係ねえだろ!!」



 トキは殴られた腹を押さえ、拳を握り込んで必死に立ち上がる。しかしセシリアは既に断崖絶壁の淵に立たされており、あと一歩でも後ろに下がれば崖下に真っ逆さまという状態だった。



「……っ」


「さぁて、楽しいショーが始まるぜ?」



 アルマは楽しげに舌舐めずりをして、懐に隠していた青く光る宝石を取り出す。──女神の涙──トキは表情を歪め、以前も見たこの光景に戦慄した。



(……やめろ……ダメだ……!)



 ぐ、と奥歯を噛んでトキは唇を震わせる。──見てはいけない、あの宝石の光を。しかし既に、青く輝く哀しみの光はセシリアへと向けられていて。


 ぴくりと、彼女の手が動く。



「……あ……や、何……っ!」



 突如、セシリアの体は動き始めた。しかし彼女が自分の意思で動いているわけではない。──操られているのだ。あの宝石の光に。


 アルマはくつくつと楽しげに喉を鳴らし、小型のナイフを地面に投げ落とした。セシリアの体はそれに反応し、操られた腕が地面に落ちたナイフを拾い上げる。──そして、そのまま鋭く尖った刃先を自らの喉元に向けた。



「……やめろ……!」



 ──ごめんね、トキ。



 あの日、血溜まりだらけの家の中。

 美しく微笑み、自らの喉に刃を突き立てた、最期の姉の姿が彼の脳裏を過ぎった。



(嫌だ……頼む、やめてくれ……!)



 もう二度と、見たくない。あんな思いはしたくない。


 倒れる家族の死に顔に、泣き叫ぶことしか出来なかった幼い自分。家族が死んだのは自分が弱かったせいだと、何度も何度も己を責めた。


 人を信じたら、裏切られる。

 人を愛したら、別れが来る。


 それが怖かった。また失うなんて絶対に耐えきれないと思った。──だったら最初から、無い方がマシだと。


 なのに、また。



「ざまあねえな、トキ」



 耳に届く、憎い男の笑い声。



「お前が弱いせいで、大事なモンがまた一つ消える」



 三日月のような口元が弧を描いて吊り上がる。アルマは青い輝きを放つ宝石を掲げ、セシリアの目を見つめた。


 すると再び彼女の手は動き始め、鋭利なナイフを自らの首に向ける。



「……トキ、さん……」



 震えるセシリアの声が、小さくトキの名を呼んだ。徐々に首筋へと近付く刃。どくん、どくん、と心臓が鈍く音を立てる。か細い自分の声が、「セシリア、」と情けなくその名を呼んだ。


 すると彼女は、ただ穏やかに、優しく、美しく微笑む。それはまるで──あの日のジルのようだった。



「……ごめんなさい」



 ぽろりと、白い頬を滑り落ちる涙。その瞬間、白い肌に強くナイフの刃が押し当てられて。


 ──やめろ。



「やめろおおお!!!」



 絶叫の中、ぶしゅっ、と真っ赤な飛沫が散る。飛散して行く赤々と色付いた彼女の血が、トキの視界に飛び込んで、染まって。



「……、あ……、ぁ……」



 彼女から飛び出した血液が、地面に真っ赤な血溜まりを作る。


 そのまま、セシリアの体はぐらりと真後ろに倒れ、断崖絶壁からゆっくりと落ちて行き──



 ──ダンッ、



 迷わず、トキはそれを追って崖から飛び降りた。



「うあああぁあっ!!!」



 絶叫と共にセシリアの体を抱き込み、凄まじいスピードで景色が流れて行く。彼女の首筋から吹きこぼれる生暖かい真っ赤な血が、トキの頬を伝って赤く染まった。


 耳をつんざくように響く風の音を裂いて、二人は落下して行く。あとほんの数秒で、真下を流れる川の水面に二人の体は叩き付けられるのだろう。待っているのは、死。──そう感じて、トキは腕の中のセシリアを強く抱き締めた。


 しかし、その時。



 ──ぐんっ、



「……!!」



 突如、急降下していたはずの二人の体が何かに引っ張られて止まる。弾かれたようにトキが顔を上げれば、彼のケープに噛み付いたステラが真っ赤な顔でフギフギと鼻を鳴らし、必死に二人を支えて翼を広げていた。



「……っ、お、お前……!」


「……フギュ、フギギギ……!!」



 ぐぐぐ、とステラが必死に二人分の体重を支えて翼を羽ばたかせる。しかし、やはりまだ子どもであるステラでは、大人二人分の体を支えて飛び立つのは荷が重かったらしい。


 ──がくん、



「……っ!」



 耐えきれなかったステラの口元が小さく開き、支えを失ったトキとセシリアの体は再び急降下。──そのまま、目の前に川の水面が迫る。



 ──バッシャーーン!!



 大きな水飛沫を散らし、二人の体は流れの速い川の中へと落ちて行ったのであった。


 その様子をぼんやりと眺め、崖の上でアルマは溜息を吐きこぼす。



「……あーあ、死んだか? あいつら」



 つまらなそうに呟き、彼は手元で光る青い宝石を撫でた。「相変わらず姫を守る王子様だな」と呆れる彼の手の中で、宝石の光がキラキラと、ただ美しく輝きを放つ。


 ふと、アルマは自らの足元に目を向けた。断崖の淵、広がる血溜まりの中に、先程首筋を切り裂いた少女の髪に差し込まれていたジュリエットの花が真っ白な花弁を広げている。



「……」



 アルマは黙って血溜まりの中の白い花から目を逸らし、青い宝石をしまうと踵を返して歩き始めた。


 ややあって、森の中はようやく静けさを取り戻す。

 風のそよぐ穏やかな草原に置き去りにされたジュリエットは、ただ寂しそうに、その白い花弁を揺らしていたのであった。




 .

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る