第41話 秘密の花言葉


 1




「……だ、誰、ですか……?」



 突如現れた見知らぬ男に、セシリアは恐る恐る問い掛けた。男──アルマはにっこりと目を細め、警戒して身を強張らせているセシリアへと徐々に近寄って来る。



「……なあに、ただの旅人さ。この森の中にあるっていう“泉”を探してるんだが、なかなか見当たらなくてねえ。お嬢さん、何か知ってる?」


「……泉……?」



 セシリアは眉を顰め、暫し考えてみたが泉のような場所を見た記憶などない。うーん、とセシリアが顎に手を当てて考え込んでいる間、膝の上のステラはガタガタと小刻みに震えてセシリアにぎゅうっとしがみついていた。



「……ごめんなさい、泉のことはよく分からないです。見た覚えもありませんし……」


「あー、そうかー。全く参ったなー、どこにあるんだか」


「お役に立てなくてすみません……」


「いやいや、良いの良いの! 素直で良いお嬢さんだねえ、君は」



 にこりと人当たりの良さそうな微笑みを浮かべる彼に、セシリアはほっと安堵した。良かった、悪い人じゃなさそう、と彼女はすんなりと警戒心を解く。



「お一人で旅をされてるんですか? こんな森の中まで……」


「ああ、そうだな。つい最近まで小さい連れも居たんだが、大きい街を出る時に“ご主人”の所に戻っちまってね。今は一人」


「……なるほど、ご主人……」



 ということは、誰かに雇われているのだろうか。雇われの旅人などあまり聞いたことはないが、自分が世間知らずなだけで世の中には色んな旅人がいるのかもしれない。

 セシリアがふむふむと興味深そうに相槌を打っていると、不意にアルマの手が彼女に伸びた。それを逸早く察知し、ステラが勢いよく翼を広げる。



「プギー!!」


「!?」



 突如大きく翼を広げ、目を真っ赤に染めてアルマを威嚇したステラにセシリアは目を見開く。焦ったように「ステラちゃん!?」と呼び掛け、慌てて彼女はステラの両目を手で覆った。



「プギ!?」


「どうしたの? ごめんね、びっくりしちゃった? 大丈夫よ、怖くない、怖くない」


「プギ! プギギ!」


「ごめんなさい、この子少し怖がりで。大丈夫でしたか?」



 セシリアが目の前のアルマに問い掛ける。するとアルマはにっこりと微笑み、「ああ、大丈夫だ」と頷いた。



(……あれ?)



 ふと、セシリアは違和感を覚えた。今しがた目を真っ赤に染めて威嚇したステラと、彼は目が合っていなかったのだろうか。



(……ストラフティルの赤い目と目が合ったら、恐怖の幻覚が見えるはずだけど……)



 ちらりと目の前の男を見上げる。彼の様子は先ほどと打って変わった様子は無く、平然とその場に立ち尽くしていて。



「……」


「ん? どうした? お嬢さん」


「……っあ、いえ……!」



 セシリアは脳裏に浮かぶ疑問を振り払うように、咄嗟に笑顔を作った。そんな彼女の腕の中で、ステラはカタカタと震えている。



「プギ、プギギ……」



 ステラはひたすら恐怖を感じていた。元々ストラフティルは臆病な魔物なのだが、それを抜きにしてもひしひしと危機を感じる程度には目の前の男の危険性に気が付いていた。

 それを何とかセシリアに伝えようと短い手足をばたつかせるも、肝心の彼女には一向に伝わる気配がない。



「……プギー、プギー……!」



 鼻をお腹に擦りつけて呼び掛ける。しかしセシリアは「ん? お腹空いたの?」「大丈夫よ、怖くないよ」と優しい微笑みを向けるばかり。

 ステラは震えながら、恐る恐ると背後の男を振り返った。じとりと見下ろしている真っ赤な瞳。その視線から毒蛇の毒牙が見え隠れして──震え上がったステラは、遂に彼女の膝の上で大きく翼を広げてしまった。



「え!? ステラちゃん!?」


「プギー!!」



 バサバサと大きく翼を動かし、ステラはその場から飛び立つ。そのまま、一目散に森の奥へと飛び去って行ってしまった。

 どこかへ飛んで行くステラに、セシリアは焦ったように呼び掛ける。



「ちょ、ちょっと、ステラちゃん……!」


「へえ、利口なペットだねえ。ちゃんと分かるわけだ、俺が」


「……?」



 不可解な言葉を呟き、アルマはにんまりと口角を上げる。セシリアは眉を顰め、不安げに両手を握り締めた。


 ざわざわと、胸の奥がざわめく。心臓がどくどくと早鐘を打って、セシリアは戸惑いがちに視線を泳がせた。

 纒わり付く妙な胸騒ぎに瞳を震わせる中、目の前の男の節榑立った大きな手が、セシリアへ向かって伸びてくる。



「……え……っ」



 びく、と肩が震えた。大きな手のひらはセシリアの頬を包み、金色の髪を耳に掛ける。


 つ、と冷たい汗が背筋を流れて、彼女がごくりと生唾を飲み込んだ頃、目の前の男は口を開いた。



「──いい花、髪に差してるな。お嬢さん」


「…………、へ」


「ジュリエットか。いいよなあ、俺も好きなんだよ、ジュリエット。野に咲く花なのに、高貴で美しい」



 彼はセシリアの髪に差し込まれているジュリエットの白い花弁を撫で、微笑む。セシリアは一瞬ぽかんと呆気に取られてしまったが、ややあって「あ、ありがとうございます……?」とぎこちなく笑みを返した。



(……び、びっくりした……)



 唐突に距離を詰められたことで思わず身構えてしまったが、どうやら杞憂だったらしい。アルマの手はすぐにセシリアから離れ、彼女は小さく息を吐いた。



「ああ、悪いね。驚かせちまったか?」


「……あ……い、いえ。こちらこそすみません、急に強張っちゃって」


「良いの良いの、突然お触りしちゃったオジサンが悪いのさ。それよりお嬢さん、ジュリエットを髪に差して歩くなんてお洒落だねえ。好きなのか?」


「あ、これは……その……旅の仲間が、髪に差してくれて……」



 アルマの問い掛けに答えながら、セシリアは頬をほんのりと赤く染めた。恥ずかしそうに目を逸らした彼女の様子に、ほほぅ、とアルマは無精髭を撫でながら目を細める。



「いいねえ、若いってのは。青春だな、羨ましいぜ」


「……あ、えと! でも、きっと彼も深い意味はないと思うんですけどっ……!」


「そぉかァ? ジュリエットの花言葉は結構ロマンチックだけどな」


「……花言葉?」



 はた、とセシリアは瞳をしばたたく。アルマはやはり微笑んだまま、「そうそう、花言葉。教えてやろうか」と言葉を続けた。



「ジュリエットは花言葉が沢山ある花でなあ。特に有名なのは『敬愛』『あなたを守る』『美しい人』とかその辺りなんだが……」


「えっ、えっ……!?」



 予想外に甘い意味を持つ花言葉にセシリアは更に頬を赤らめる。いや、でも、きっとトキさんもそんな深い意味があって渡したわけじゃないはず……! と火照る顔を抑えながら自分に言い聞かせた。


 そんなセシリアは差し置いて、「ああ、それからこんなのもあるな」とアルマは更に続ける。



「……まあ、こいつはちょいとなんだが、」


「……?」


「──『誕生日おめでとう』……ってのもある」


「……え……!」



 告げられた花言葉に、セシリアは目を大きく見開いた。つい何時間か前に自分の髪に花を差し、ぶっきらぼうに「やる」と一言だけ呟いたトキの横顔を思い出す。



(……トキさん……)



 ただ単純に、妙な作り笑顔を浮かべてしまった自分を元気付けるためにジュリエットの花をくれたのだと思っていた。不器用な彼なりの優しさだと。


 でも、そんな花言葉があるのだと、もし彼が分かっていて、この花を髪に差してくれたのだとしたら。



「……っ」



 急速に頬の熱が集まり、心臓がドキドキと忙しなく鼓動を刻み始める。『敬愛』、『あなたを守る』、『美しい人』──『誕生日おめでとう』。そんな花言葉を聞かされてしまっては、変に期待してしまうではないか。


 顔を真っ赤に染め上げ、恥ずかしそうに口を閉ざしてしまったセシリアの姿を、目の前に立ち尽くすアルマはじっと赤い瞳で見下ろしていた。やがてその瞳は楽しげに細められ、蛇のような長い舌でそっと舌なめずりをする。



「……ああ……いいねえ、その顔。それが崩れたら最高じゃないか。俺の“マドンナ”が気に入りそうだ……」


「え? あの……すみません、今何と?」


「ん? いや?」



 不思議そうに顔を上げたセシリアに、アルマは人当たりの良さそうな屈託のない笑顔を浮かべる。



「何でもないさ」



 毒牙を隠した蛇の言葉に、セシリアはただ微笑んで首を傾げるばかりなのであった。




 2




「……チッ、釣れねえな」



 さらさらと流れる沢の前で、トキは水面に釣り糸を垂らしながら舌打ちを放った。かれこれ数十分はこの場で魚がかかるのを待っているが、その竿がしなう気配が一切ない。



(くっそ、一匹ぐらいかかれよ……)



 釣果ゼロのまま時間だけが過ぎ、徐々に苛立ちが募っていく。このままでは今晩の夕飯がその辺で採れた酸味の強いフルーツのみとなってしまう。それだけは避けなければ。



(……アイツ、一応誕生日らしいしな……)



 儚げに微笑む聖女様の表情が脳裏に浮かぶ。トキは再びチッと舌を打ち、水面に目を凝らした。


 すると、その時。



「プギギーー!!」


「!」



 後方から響く、聞きたくもない間の抜けた声。癪に触るその鳴き声にトキが眉間を寄せつつ振り返れば、丸いピンクのフォルムが全速力で真っ直ぐと彼の元へ飛び込んで来た。



「どぉわッ!?」


「プギュ!!」



 ──ドゴォ!!


 バサバサと翼を羽ばたかせ、トキの背中に勢いよく顔面から飛び込んできたステラの猛烈タックルに彼の体が吹っ飛ぶ。そのままバシャーン! と水飛沫を上げて沢の中に尻餅を付いたトキは、紫の双眸に怒りを滲ませてギョロリと目の前の子豚を睨んだ。



「……こッッのクソ豚が……! いちいち俺の邪魔しやがって……! おいそこで大人しくしてろよ、今すぐ三枚に下ろして今晩のメインディッシュに並べてやるからな……」



 ゴゴゴ、と地鳴りでもしそうな低い声をこぼしながらトキは短剣に手をかける。しかしステラはそんな彼に物怖じすることなく、ガブリと彼のストールに噛み付いてぐいぐいと引っ張り始めた。



「プギ! プギギ!」


「あ!? 何してんだお前! 引っ張んな!」


「プギー! プギー!!」


「ああくそ、しつけえ! つーかお前何でここに居んだ! アイツの事一人にしてんじゃねえよ!!」


「プギギ! プギー!!」


「……!?」



 何度振り払っても、ステラは彼のストールを離さない。ぐいぐいと引っ張り、必死に羽根をばたつかせている。──そもそも、セシリアにしか懐いていないはずのステラがトキの元へやって来る事自体が、まず妙なのだ。


 そこでようやく、トキはステラの様子がおかしい事に気が付いた。



「……おい、どうした。何かあったのか」



 眉根を寄せ、神妙な面持ちで尋ねる。するとステラはパッと彼のストールから口を離し、「プギ! プギ!」と慌ただしく鳴きながらトキをいざなうように飛び立った。

 そのままステラは、「早く来い」とでも言うように尻尾をぶんぶんと振ってキャンプ地の方角を見つめる。


 どうやらセシリアに何かあったらしいと悟った途端、彼は釣竿をその場に投げ捨て、即座に地面を蹴った。



(アイツ、まさかまた何か妙な事を……!)



 どこまでトラブルメーカーなのかとうんざりしながら舌を打ち鳴らし、トキはステラを追ってキャンプ地へと一直線に走る。虫が出たとか、火にかけた劇物スープが空気を淀ませているとか、そういうのだったらまだ良い。


 もし、山賊や魔物に襲われでもしていたら。



「……っ」



 嫌な胸騒ぎが蔓延って、自然と走る速度が上がる。彼は何事もないことを祈りながら、ステラと共にキャンプ地へと飛び込んだ。



「セシリア!!」


「プギー!!」



 大声で彼女の名を呼び、木々の間から飛び出す。


 すると当たり前のようにそこに居たセシリアが、ぽかんと呆気に取られた様子で瞳を大きく丸めていた。



「……は……はい? 何でしょう……?」


「…………、は……」



 きょとん、と不思議そうに目を丸め、セシリアは戸惑いがちに答える。──その様子は、至って普通。


 キョロリと周囲を見渡すが、劇物スープが生成されているわけでもないし、彼女にもやはり変わった様子は見られない。周辺に人の気配も無く、至って普通の、平穏な時間がその場に流れていた。そんな中、ステラだけが焦ったように「プギ!? プギ!?」と飛び回り、キョロキョロと辺りを見回している。



「……」



 トキは暫し黙り込んでいたが、ややあってゆっくりとステラを睨み付けた。



「……おい……どういう事だクソ豚……何もねえじゃねーか」


「プ、プギ! プギギ!」


「あ、ステラちゃん! どこに行ってたの、心配したじゃない……って、トキさんもよく見たらびしょ濡れじゃないですか! 何があったんです!?」



 セシリアは真新しい綿の布を荷物の中から取り出し、慌ただしくトキに差し出す。何があったのか、聞きたいのはこっちの方だ。とトキは不機嫌そうにそれを受け取った。



「……この豚に沢に叩き落とされたんだよ。その後もやたらしつこく引っ張るから、アンタに何かあったんじゃないかと思って……」


「……え?」


「……! い、いや、何でもない」



 ぼそぼそと小さく呟かれた言葉を気まずそうに誤魔化した彼だったが、セシリアは聞き逃さなかった。どうやら心配して戻ってきてくれたらしい、と悟った彼女の頬にまたも熱が集まってくる。



「あ、そ、その、私は……大丈夫です。さっきここを旅の人が通りがかって、ステラちゃんがびっくりしちゃったみたいで……それで、多分トキさんの所に」


「……旅人?」



 セシリアの言葉にぴくりとトキの眉が動いた。眉間に皺を寄せ、彼はセシリアの目を見つめる。すると、彼女は「はい!」と能天気に微笑んだ。



「三十代ぐらいの男の人で、一人で旅してるって言ってました」


「……そいつと何か話したのか?」


「え? あ……はい。ごめんなさい、何かまずかったですか……?」


「……いや……」



 ちら、と自分たちの荷物を一瞥する。パッと見た限りでは、荒らされた形跡や何かが盗られた気配はない。セシリアの様子もいつも通りである。

 その男に妙な事をされた訳では無さそうだが、トキはじとりと呑気な彼女を睨んだ。



「……今回は何事も無かったらしいが、今後は誰かと鉢合わせたらすぐに俺を呼べ。人当たりの良さそうなツラぶら下げてても、盗人や強姦魔の可能性もあるんだからな」


「……ご、ごめんなさい……」


「はあ……まあいい。俺はまた食いもん探しに行ってくるから、アンタはそこの豚を見張ってろ」



 じろりとトキがステラを睨む。よっぽど沢に突き落とされたことが不服だったのだろう、彼の目はいつにも増して冷ややかだ。

 しかしステラは普段のようにトキに反抗することも威嚇することも無く、ただ不安げにプギプギと鼻を鳴らして周囲を見回しているばかり。何かに怯えているようなその様子に、トキは訝しげに眉間を寄せた。



(……あいつ、さっきから何なんだ? 少し挙動がおかしい気がするが……)



 とは言え、相手は魔物。言葉も通じなければ行動だって予測できない。気にし過ぎか、と溜息を吐きこぼして踵を返そうとした瞬間、不意にセシリアがトキのケープをくいっと控えめに引っ張った。



「……何」


「……あ、あの……トキさん……」



 おずおずと開かれた唇。ほんのりと頬を染め、戸惑ったように視線を泳がせているセシリアにトキは一瞬たじろいでしまった。一体何を言われるのだろうかとつい身構えてしまう。



「……な、何だよ」


「……あの……こ、この、お花なんですけど……」


「花?」



 トキは眉を顰めた。セシリアの言う花とは、どうやら昼間に自分が手折って髪に差し込んだジュリエットの花の事らしい。恥ずかしそうに目を逸らしている彼女の様子を見下ろしながら、トキの胸には嫌な予感が蔓延る。



「さ、さっきの旅人さんが……この花に、花言葉があるって、言ってて……」


「!」



 ぎく、とトキの体が強張る。次いで嫌な汗がじわりと滲んだ。ジュリエットの花言葉を、トキはよく知っている。

 色々とあるが、一般人が知っているようなスタンダードなものは、『敬愛』『あなたを守る』『美しい人』……など、とにかく小っ恥ずかしくて一生トキが口にすることが出来なさそうなワードが並ぶわけで。



(……おい、ふざけんなよ、余計な事を……!)



 おそらく妙な知識を吹き込まれたのだろう。見ず知らずの旅人の男を脳内で呪いながら、トキは「そんなもん知らん!」と一蹴してやろうと考えて口を開きかけた。


 しかし、先に口を開いたセシリアの発言によって、彼の言葉は発せられる事なく喉の奥へと引っ込んでしまう。



「……『誕生日おめでとう』……って……」


「……、は……?」


「……これ。『誕生日おめでとう』って、花言葉なんでしょう?」



 にこりと、嬉しそうにセシリアの表情が綻ぶ。その言葉に、トキの思考が一瞬動きを止めた。そして己の耳を疑う。──今、こいつは何て言った?



(……『誕生日おめでとう』……?)



 彼女の髪に咲いた白い花。その花の持つ言葉には、確かにそれが存在している。……だが、それを他の誰かが知るはずがないのだ。だって、その言葉は。


 ──あの日、小高い丘の上で、トキ自身が“”花言葉なのだから。



「……? トキさん?」


「……おい」



 ざわざわと、胸の奥がざわめく。トキの表情がみるみると険しくなっていくのが分かったのか、低く放たれた声にセシリアはびくっと肩を震わせた。


 トキは彼女の細い肩を掴み、目の奥をぎらつかせて声を放つ。



「……ここに、さっきまでが居た?」


「……え……」


「答えろ。何が居た。アンタに話しかけた男はどんな男だ」



 掴まれた手に力が篭り、セシリアは瞳の奥に恐怖を浮かべる。凄みのある高圧的な声色に唇が震えていた。しかし彼女を怯えさせているという事すらも、今のトキでは気にかけてやる事が出来ない。


 あの日、自分が作った花言葉。

 小高い丘の上、流れる風、花の冠を編み込む、まだ小さな自分の手。その隣に腰掛ける男と、自分の、二人だけしか知らないはずのその言葉。


 セシリアはふるりと瞳を揺らし、震える声を絞り出した。



「ふ、普通の、男の人です……赤い目をして、黒髪の……」



 ──トキ。


 優しく呼んで目を細め、手招きする節榑立った指が脳裏に蘇る。黒い髪に、ルビーのような真っ赤な目。花の冠を編みながら子どものように悪戯っぽく笑うあの男の──忌々しい横顔を鮮明に思い出した。


 ギリ、と奥歯を噛みしめる。



「……どっちに行った、そいつ」


「え……」


「あの男はどっちに行ったのかって聞いてんだよ!!」


「……っ!」



 鬼のような剣幕でセシリアを怒鳴りつけ、殺意すら込められているのではないかと疑うような彼の瞳がくっきりと見開かれた。ただならぬその剣幕にセシリアは何も答えられず、体を震わせて男の立ち去った方角を指差す。その瞬間、トキはセシリアの体を突き飛ばして走り始めた。



「っ、トキさん!?」



 背後から呼ぶ彼女の声すら、もはやトキの耳には届かない。彼は木々の間を縫うように、風のような速度で森の中を走り抜けた。


 脳裏に浮かぶのは、あの日の二人。



『──なあ、トキ。あの花、ちょいと洒落た花言葉があるんだよ。教えてやろうか』



 風のそよぐ丘の上。あの日、まだ幼いトキは、“彼”からトーキットの花言葉を教えて貰った。『信じる心』という言葉を持つらしい薄紫の花弁を暫し眺めた後、トキは隣の白い花を指差して尋ねる。



『……じゃあ、こっちの白い花は?』


『……ああ、それか? それはな──』



 男は大きな節榑立った手でガシガシとトキの頭を撫で、にんまりと笑った。



『何だと思う?』


『え?』


『その花の花言葉だよ。トキは、それに何て花言葉があったら嬉しいんだ?』


『……』



 幼いトキは白い花をじっと見つめた。背が高く、美しい花弁を揺らすそれが、自分にとって何より大切な“彼女”に笑顔を届けてくれればいいと思って。



『……た……』


『ん?』


『……誕生日、おめでとう、って、言葉……』



 ぼそぼそと、恥ずかしそうに俯いてトキはこぼした。その瞬間、隣から『ぶふっ、』と堪え切れなかった笑いを吹き出すような声が聞こえて、トキはカッと頬を赤らめながら目尻を吊り上げる。



『んだよ! 笑うなよ!』


『ぶ、くくっ……! いやあ、悪い悪い』



 にやにやと笑いを噛み殺しながら、男はむっと膨れているトキの頭をぽんぽんと撫でた。『おいおい、怒んなよ』と苦笑する彼は、白い花弁を見つめながら続ける。



『いいじゃねえの、“誕生日おめでとう”。それじゃあ、今日からジュリエットの花言葉は“誕生日おめでとう”に決定だな』


『……は、恥ずかしいからジルに言うなよ!』


『はいはい、分かったよ。これは俺とお前だけの、秘密の花言葉だ』



 男は微笑み、そっとトキの頭の上にトーキットとジュリエットの花で編んだ冠を乗せた。ふわりと香る花の匂い。『似合うじゃねーの、姫を守る王子様だな』と笑う男に、トキもへらりと微笑んで。



『……当たり前だろ! 俺がずっと、ジルを守るんだ!』


『へいへい。頑張れよ王子様』



 呆れたようにこぼして、彼は再び花を編む。


 あの日、きっとトキは幸せだった。貧しく、決して裕福でない暮らしだったが、穏やかに過ぎる時間が愛おしかった。


 ──あの男に、裏切られるまでは。



「はあ、はあっ……!」



 森の中を全速で駆け抜ける。木々の枝葉や棘が頬を切り、沢に足を突っ込んでも気にも留めない。

 ドクドクと、心臓が痛いほど鼓動を刻んでいた。あの日、あの青い悪魔のような宝石を持った、あの男の真っ赤な瞳を思い出す。



 ──じゃあな、トキ。



 冷たい声色でそう言って。

 細い自分の体を、暗い谷底に突き落とした、彼を。


 トキは息を上げ、目を血走らせたまま、ただ走って、走って──。



「──……!」



 切り立った断崖が視界に入ったところで、ようやくその足が止まった。目の前に広がる、青々と茂る草原、色とりどりの野花。


 そしてその真ん中に座り込んで花を編む、気だるげな背中。



(……やっと……)



 ぎり、とトキは奥歯を強く噛み締めた。ぎゅっと拳を握り締め、左手が短剣に触れる。



「……やっと、見つけた……」



 ぼそりとこぼれ落ちた低い声。それに目の前の男はぴくりと反応し、振り返った。


 赤い瞳。黒い髪。

 忘れもしない、忌々しいその姿。


 トキは短剣を一気に引き抜き、即座に地面を蹴った。



「──アルマぁぁぁァ!!!」


「!!」



 ──ガキィン!!


 雄叫びと共に振り下ろした一閃が、男──アルマの腕に装着されたガントレットによって防がれる。トキは一瞬でもう片方の短剣を引き抜き、彼の目元に向かって勢いよくそれを突き付けた。

 しかしそれが彼の眼球を捉える直前に、トキの体は蹴り飛ばされる。トキは即座に空中で体勢を整え、受け身を取るとすぐさま立ち上がった。


 ふー、ふー、と興奮した獣のように息を荒らげ、血走った薄紫の瞳には明確な殺意が滲んでいる。アルマはポキポキと首を鳴らしながら「何だ何だ、いきなり襲いかかって来やがって……」と気だるげに声を発した。



「んー……? 誰だ、お前? 山賊か? 言っとくけど金品なんぞ何も持ってねえぞ、俺は」


「ふざけんな!! 忘れたとは言わせねえぞ!!」



 大声で怒鳴りつけ、トキはぐっと短剣を強く握りしめる。



「俺は……俺はなあ……!」



 声が震えそうになるが、何とか持ち堪えた。トキは殺気立った目をアルマに向け、飄々と立ち尽くす彼をギロリと睨み付ける。



「──この十二年間……お前を殺すためだけに……生きて来たんだ……!!」



 恨み辛みの籠った、低い声がこぼれた。忌々しげに自分を睨むトキの姿をじっと見つめ、アルマは顎に蓄えた無精髭を指でなぞる。──そして、その口元がにんまりと弧を描いた。



「……ああ……お前、まさか──トキか?」



 嬉しそうに、楽しげに赤い目が見開かれる。


 向かい合う二人の姿を、風に揺れる花だけが静かに見つめていた。




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