第40話 大人の階段(※2019/09/20内容修正)
1
「──なあ、嫌か? セシリア」
ぐっ、とふかふかなベッドの中で抱き寄せられ、上半身裸のトキが意地の悪い笑みを浮かべている。あれ、私何でこんなところに寝ているんだろう、とセシリアは瞬いた。
ふと、随分と白い自分の肌が見えたような気がして、彼女はそっと視線を下げる。すると彼の腕の中で密着している自分の体が何故か何も身に付けておらず、セシリアは「ひっ」と喉の奥から奇妙な音を発した。
「は、はわ……っ!? えっ……!? 何これ、っえ、トキさん……!?」
ぎくしゃくと身を強張らせ、脳内を混乱させながらセシリアは自身の素肌を隠すように両腕を胸の前でクロスさせる。何で私裸なの、それより何で私トキさんと同じベッドにいるの、と様々な「何で」が脳内を駆け巡った。
しかし目の前の彼は慌てるセシリアの事などお構い無しに、古傷の多い腕の中に彼女の体をしまい込んでしまう。
「……セシリア……」
「え!? ちょ……! トキさん、何を……!?」
「……アンタ、何慌ててるんだ? この前言っただろ。次の街に着いたら──」
体を密着させたまま、掠れた声が耳元で囁く。ぐるぐると混乱して回らない頭に、その声がハッキリと届いた。
「──アンタを抱く、って」
「……っ」
ちゅ、と頬に唇を押し当てられ、彼の手が何も身に付けていない胸へと伸ばされる。やんわりと二つの膨らみを大きな手が包み込んで。
「……あ……!」
思わず声が漏れ、セシリアは戸惑いと羞恥心で強く目を閉じた。そんな彼女の反応に気を良くしたのか、トキはセシリアの耳に舌を這わせて更に動きをエスカレートさせる。「ん、ん……」とくぐもった声を発しながらも、セシリアはトキの行動を受け入れるしかない。そもそも、抵抗なんて出来なかった。しようとも思わなかった。
──抱きたい……から、抱く。次の街に着いたら。
あの言葉に期待して、胸を高鳴らせてしまったのは事実なのだ。神に仕える身としていけない事だと分かっていながら、セシリアは彼を拒む事が出来なかった。
(……だって、トキさんが、あんな事……)
──我慢している、と彼は言った。触って良いのであればいくらでも触る、と。
以前の彼は、触りたいと思ったら許可も断りも無く強引に行為に及ぼうとしていた。タイミングが合わなかったのか結果的には事なきを得て来たが、いつ自分の純潔を奪われていてもおかしくはない状況ばかりで。
そんな彼が、我慢している、なんて。
ステラの監視が理由だったとしても、あんな風に抱き締めて、そんな事言われたら。
(……もしかしたら大事にされてるのかも、なんて……変な期待しちゃう……)
ぎゅ、とベッドのシーツを握り締める。トキの手はするすると肌の上を滑り、徐々に下半身へと伸びて行って。
(……あ、やだ、どうしよう、本当に……)
私、このまま彼と──。
そう確信してセシリアは覚悟を決め、きゅ、と強く目を閉じた。──しかしその瞬間、クスクスクス、と掠れた少女の笑い声が耳に届いて。
ハッ、とセシリアの目が見開かれる。
「……やだぁ。はしたない子ね、“セシリア”は」
「…………!!」
聞き覚えのある声。ジャラリと引き摺られる鎖の音。
げっそりとやせ細った骸骨の標本さながらの手足をした少女が、くすくすと笑いながらこちらを見ている。
「……あ……」
ぞく、と背筋が凍り付き、セシリアは息を飲んだ。“彼女”のことは、きっとよく知っている。否、知っていた。自分が忘れてしまっているだけで。
少女はくすくすと笑いながら、徐々にこちらへと近寄って来る。
「ねえ、気持ちいい? “セシリア”。旅の連れの、ろくでもない賊の男に体を触られて」
「……ひ、っ嫌……! 来ないで……っ」
ジャラ、ジャラ、と鎖で繋がれた手足が動く。徐々に近寄る痩せ細った体。彼女から逃げたくとも、背後にいるトキの手ががっしりと自分の体を捕まえていて。
「……あっ……!」
不意に、彼の指先が動く。
その瞬間、電流が流れたかのように強い刺激が体内を駆け巡った。思わず腰を浮かせたセシリアに、痩せ細った少女がケラケラと笑う。
「あはっ、ほら、はしたない。神に仕える聖女様なんじゃないの? “セシリア”」
「……いっ、いや……」
「あーあ、嬉しそうな顔して。良かったね“セシリア”。彼に触ってもらえて」
少女はセシリアの目の前にまで迫り、痩せ過ぎて周囲の肉が陥没した、今にも飛び出してしまいそうな翡翠の瞳をギョロリと動かした。そして、彼女はセシリアに耳打ちする。
「──貴女のこと、なーんにも知らない彼に、ね」
「……!!」
「私達、綺麗じゃないの。だからそれが彼にバレないように、頑張って、“セシリア”」
忠告でもするかのように少女は耳元で囁き、そっと顔を離す。そしてにんまりと微笑むと、最後に一言だけ残して消えてしまった。
「……誕生日、おめでとう」
──また、一つ終わりに近付いたわね。
そんな言葉が耳に届いて、セシリアはぐっと唇を噛んで眉間を寄せた。──終わりに近付いた──その意味を悟って、セシリアはぽつりと呟く。
ああ、それを、知ってるって事は。
「──貴女、本当に……“私”なのね」
呟いた直後、セシリアの意識はとぷん、と闇に溶けた。
2
「……ん……」
チュンチュンと、小鳥の囀りがセシリアの耳に届く。重たい瞼をゆっくりと持ち上げれば、キラキラと光る僅かな木漏れ日が見えた。
ゴツゴツと硬い地面の上。きょろりと周囲を見渡せど、ふかふかのベッドなどどこにもない。勿論、街の中でもない。
ここは森の中。そしてたった今、朝が来た。今まで見ていた光景はすべて夢だったのだ。
つまり、彼との情事のあれこれも。
「……っ!!」
セシリアは顔を真っ赤に染め上げ、勢いよく体を起こした。ばくばくと鼓動を刻む胸を押さえ、みるみると増していく羞恥心に表情を歪める。
(わ、わ、私……っなんて夢を……!)
まさか自分があんな淫らな夢を見るとは思わなかった。今思い返してみても、彼に触れられた感触がリアルで、まだ残っている気がして──そんなことを考えてしまう自分にほとほと失望してしまう。顔から火が出そうだ。
ちらりと、少し離れた場所で木に凭れ掛かって静かに寝息を立てているトキの姿を一瞥する。端正に整った顔、無造作に跳ねた黒い癖っ毛、無骨な長い指。ふと、夢の中でその手に触れられた生々しい感触を思い出してしまい、セシリアは込み上げる羞恥心に耐えきれず彼から目を逸らした。
(……ど、どうしよう……顔が、まともに見れない……!)
以前から彼は整った容姿をしていると思ってはいたが、あんな発言や夢のあとでは普段よりも数倍カッコ良く見えてしまう。胸の奥はおかしな鼓動を打ち鳴らしっぱなしで、きゅっと苦しくなったり、切なくなったり。
(……わ、私の心臓、おかしくなっちゃった……)
未知の感覚にセシリアは狼狽えた。けれど嫌ではない。不思議な、感覚。
「……」
ふと、そんな彼女の視界に自分の腕が映った。レザーの手袋で覆われた、汚らわしいその手が。
(……あ……)
──私達、綺麗じゃないの。
──だからそれが彼にバレないように、頑張って、“セシリア”。
「……」
自らの運命を思い出してしまい、セシリアはそっと俯く。夢の中の“彼女”の笑い声が脳裏に響いて、セシリアはそっと自分の首元に触れた。
(……私、この事をずっと、彼に隠し通していかないといけないの……?)
もし、彼と一夜を共にしてしまったら。
この体のことを知られてしまうのだろうか。
そう考えると酷く恐ろしく思えて、セシリアはきゅっと唇を噛み締めた。嫌だ、知られたくない。でも、昨日の彼の言葉を、無かったことにもしたくなくて。
誕生日おめでとう、と夢の中の“彼女”は言った。また一つ、終わりに近付いたとも。
その言葉の意味を、セシリアはよく理解していた。自分が「大人」への階段を一つ上がる度、「セシリア」の階段は一つ降りなければならないのだ。そしてその階段がどこまで続いているのか、自分でもまったくわからない。
いつか、その階段を踏み外す時が必ず来る。
深く暗い闇の中に堕ちてしまう時、傍には一体誰が居てくれるのだろうか。
出来る事ならば。
(……あなたの傍に、居たいな)
きっと、この願いは届かない。それは分かっているけれど。
セシリアは眠るトキとステラに小さく微笑み、静かに腰を上げる。そのまま朝のお祈りを済ませるべく、東の空へと向かって歩き始めた。
3
朝食を済ませた二人と一匹がキャンプ地を出て数時間。足場の悪い森の中を彷徨いながら、トキは背後を歩くセシリアにちらりと視線を向けた。
いつもと同じ、少し危なげな足取りはさる事ながら、どことなく彼女の表情にはいつもより覇気が無いように感じられる。とは言え話しかけても普段通りの笑顔を返して来るだけで、トキは静かに眉を顰めていた。
彼女は人に心配されるのを
(今朝、何気なく尋ねてもはぐらかされたしな)
ふう、とトキは溜息を吐きこぼす。また胸の大きさだとか、そんなどうでも良い事でウダウダと思い悩んでいるのかもしれない。気にしなくて良いと言ったんだがな、と思い至って、ふと、昨日の小っ恥ずかしい己の行動まで思い出してしまった。
(……いや、どうかしてるだろ、俺……気持ち悪……)
口元にストールを引き上げ、昇ってくる熱を誤魔化す。背後から抱き寄せて、「抱きたい」だなんて。あまりにもらしく無さすぎて寒気がした。いつからそんな小っ恥ずかしい行動に出るようになったのかと頭を抱える。
(しかも何だ、次の街に着いたらって。バカなのか俺は。抱きたいんなら、さっさとあの豚放り捨ててその辺で脱がせちまえば良かっただろ)
はあ、と小さく溜息がこぼれ落ちた。
頭では分かっているのだが、いざそれを実行に移せばセシリアが傷付くのも分かっている。ただそれだけなのだが、ただそれだけの事が、彼の判断能力を鈍らせてしまっていた。
「きゃ……!」
「──!」
ふと、背後からセシリアの短い悲鳴が届いてトキは反射的に振り返る。どうせ躓いたのだろうと思った彼だったが、案の定だった。彼女は木の根に足を引っ掛けたらしく、ぺたんとその場に膝を付いている。
「おい、大丈夫か?」
トキは踵を返し、座り込んでいるセシリアの元へと近寄る。ステラも心配そうに彼女の周りを飛び回り、「プギー、プギー」と鳴きながらその顔を覗き込んでいた。
程なくしてセシリアは顔を上げ、いつも通りの微笑みを浮かべつつ立ち上がる。
「……あ、すみません……。足、引っ掛けちゃいました」
「……」
少し擦り剥いたらしく、 彼女の膝には少量の血が滲んでいた。それにトキがぴくりと眉を顰めたのが分かったのか、セシリアはハッと慌てて手のひらで膝を隠す。
「……あ、ご、ごめんなさい! トキさん、確か血は苦手でしたよね……」
「……」
セシリアの気遣いにトキは小さく息を吐いた。ほら見ろ、人の心配だけは一丁前にしやがって。
「……別に、その程度なら問題ない。自分で治せるか?」
「あ、はい勿論です。すぐに治します」
「……慌てなくていいから、ちゃんと治せよ」
ぶっきらぼうに言い捨て、彼は近くの切り株に腰を下ろした。
これが深く切れていれば話は別だが、ただの擦り傷程度であれば女の血であっても取り乱すことは無い。セシリアが魔法で傷口を癒しているのを一瞥して、トキは周辺の野花に視線を移した。
「……」
風に揺れる、背の高い白い花。その横に寄り添うように咲く、薄紫色の見知った花弁に思わず眉根が寄ってしまう。
アリアドニアで最後にリモネから貰った指輪と同じ姿形をしたそれの方が、今しがた流れた血よりもよっぽどトキの記憶の蓋をこじ開けようとして。彼は野花から目を逸らし、嫌な記憶が蘇るのを拒むように地面を見つめた。
(……よりにもよって、何であの花なんだよ……)
──小高い丘の上、流れる風、花の冠を編み込む、まだ小さな自分の手。
たった今視界から消したばかりの白い花と薄紫色の花を指差して、隣に座っていた“あの男”が笑う。
『なあ、トキ。あの花、ちょいと洒落た花言葉があるんだよ。教えてやろうか』
『……はなことば?』
『そうそう、花言葉。そっちの小さい、薄紫の花はトーキットっていうんだ』
『……トーキット』
『お前の名前みたいだろ? 花言葉は“信じる心”』
トーキット。薄紫色の花弁を揺らした、小さな野花。“信じる心”という花言葉を持つらしいその花を愛おしげに指先で撫でて、“彼”は微笑む。
『……じゃあ、こっちの白い花は?』
白い花弁を広げる背の高い花を指差して、幼いトキは問い掛けた。隣の男は顔を上げ、トキの指差した白い花を見つめる。
『……ああ、それか? それはな──』
赤い瞳が細められて、節榑立つ手がガシガシと乱雑にトキの頭を撫でた。
まだ幼かった彼は、ただじっと、その言葉の続きを待っていて──。
「……トキさん?」
「……!」
不意に耳に届いたセシリアの呼び声によって、彼はハッと我に返った。顔を上げれば、すっかり傷の塞がった膝と不思議そうに瞬きを繰り返す翡翠の瞳が視界に入る。
「……何だかぼんやりしてますけど、大丈夫ですか? ……ごめんなさい、私が血なんか見せてしまったから……」
「……ああ、いや、違う……。少し、嫌いなものを見ただけだ」
「……嫌いなもの?」
こてん、とセシリアは首を傾げる。そしてふと、二人を囲うように咲き誇る周辺の野花に気が付いた。
「……ああ……お花……。そういえば、嫌いだって言ってましたもんね」
「……」
トキは曇りがちな表情のまま目を逸らし、風に揺れる野花を見ないように俯く。多くを語りたく無いのだろうと逸早く察したのか、セシリアは苦笑をこぼしながら立ち上がった。
「……行きましょうか、トキさん」
「……」
優しげな微笑みを向ける彼女の言葉に導かれるように、トキも重たい腰を上げる。彼はちらりとセシリアを見つめ、「足はもう大丈夫なのか?」とぶっきらぼうに尋ねた。
「はい、擦り傷だったので。捻ったりもしてないようですし、もう大丈夫です」
「……気を付けろよ、アンタすぐ転ぶだろ。ちゃんと足元も見て歩け」
「……う……。そ、そうですよね、ごめんなさい……」
セシリアはしゅん、と肩を落とす。叱られた子犬さながらの彼女の様子にぎくりとトキはたじろいでしまうが、彼の口が何かを発する前にセシリアの声が続いた。
「……そうですね……そろそろ、しっかりしないといけませんよね。今日、また一つ大人になってしまったわけですし……」
「……、は……?」
唐突な彼女の発言に、トキの思考はぴしりと固まる。──また一つ大人になってしまった──その言葉が脳裏を巡回するが、なかなかその意味を咀嚼できない。
茫然と固まってしまっている彼の視線に気が付いたのか、セシリアは苦く微笑みながら口を開いた。
「……あ、ごめんなさい、混乱させてしまって。……私、今日が誕生日なんです」
「……」
──誕生日。
予期せぬ形で告げられたそれに、トキの表情がバツの悪そうに歪んで行く。否、決して祝ってやろうなどとは思っていないのだが、恐らく今まで幸せな環境下に身を置いて過ごしていたであろう彼女が、このような鬱蒼とした森の中で誕生日を迎えてしまっていいのだろうかと単純に申し訳なく思った。
(……まあ、以前から教えて貰ってたところで、何かしてやれるわけでもないだろうが……)
トキは小さく息を吐く。そんな彼の様子に、セシリアはわたわたと慌てるばかり。
「……あ、あ、あの……! すみません、急にそんな事言って……! あの、本当に何も気を遣って頂かなくて結構ですので……!」
「……いくつになった?」
「え?」
「歳だよ。アンタいくつなんだ」
素っ気なく尋ねれば、セシリアは暫く黙り、やがてへらりと笑って答えた。
「……十九です。記憶が無いので、正確な歳ではないんですけど」
「……へえ」
「……トキさんは、おいくつなんですか?」
セシリアの問いかけに、トキは顔を逸らしながら「今年で二十四になる」とやはり素っ気なく答える。
二人で旅を始めて暫く経つが、たった今初めて、彼らはお互いの年齢を知った。トキが二十四歳だと知ったセシリアは、翡翠の瞳を丸々と見開く。
「……え、そ、そうなんですか? 五歳も年上だったんですね……。もう少し下かと……」
「……おい、どういう意味だ」
「だってトキさん、ちょっと子どもっぽい所が多い──痛っ!」
余計な一言を口走ったセシリアの頭にベシッ! とチョップを一発お見舞いする。するとその瞬間、目尻を吊り上げたステラががぶりとトキの手に噛み付いた。
「いっ、てえ!!?」
「プギー!!」
「……チッ、このクソ豚が……!」
すっかりボディーガードの存在を忘れていたトキはぷりぷりと怒気を放っているステラに苦々しく舌を打つ。セシリアは苦笑しつつステラを抱き上げて宥め、──ややあってやはり表情を曇らせた。
そんな彼女の表情に、トキは訝しげに眉を顰める。
「……誕生日だってのに、今日は一段と浮かない顔だな」
「……あ、いえ……そんな事は……。でも、ただ……」
「……」
「……ただ……」
セシリアは俯き、腕の中のステラをぎゅっと抱き締めた。「プギ?」とステラが不思議そうに首を傾げた頃、セシリアの口は再び開く。
「……アデルも、今日が、誕生日なので……」
「……!」
「……だから、少しだけ……」
切なげな瞳がそっと伏せられる。その瞳は不安げに揺れていたが、おそらくそこから涙の粒がこぼれることは無いだろうとトキは悟っていた。
案の定、セシリアはすぐに笑顔を作り、顔を上げる。
「……ふふ、なんちゃって。行きましょうか、トキさん!」
「……」
「誕生日なので、今夜はおいしいフルーツが食べたいです! 探しながら歩きましょう! ね、ステラちゃん」
「プギー」
明るい声を発して、彼女は前を歩いて行く。
やめろ、無理するな、とは言えなかった。言ったところで「大丈夫です」と繕った笑顔が返ってくるだけなのだろうという事は分かっている。
(……誕生日、か……)
トキは黙ったまま視線を落とし、自分がずっと目を逸らし続けていた白い花を見つめた。彼はそっとそれに近付き、しゃがみ込んでぷつりとその茎を手折る。
「……セシリア」
呼び掛ければ、セシリアは振り返った。さらさらと揺れる金の髪。トキはそれを指で掻き分け、今しがた手折った一輪の花を、滑らかな彼女の髪に差し込む。
「……え……」
「……やる」
ぼそりと告げて、彼はそのままセシリアの横を通り過ぎた。歩いて行くその背をきょとんと見つめながら、セシリアは首を傾げる。
ふと、側を流れる川の水面に自分の姿が映った。そこに映る自分の髪には、白い花弁が広がっていて。
「……ジュリエット……」
それはセシリアでも名前を知っているような、美しい野花だった。一年を通して咲く、白い花。
(……げ、元気付けてくれてる……のかな……)
尋ねるべきか迷ったが、不器用な彼が素直にそれを認めてくれるとも思えない。セシリアはふっと微笑み、髪に咲いた白い花を指で撫でる。
(……優しい人ね)
セシリアは目を細め、淡々と歩く目の前の背中を、小走りで追いかけて行った。
4
パチパチと、焚き火の火が弾ける。夕暮れが近くなり、二人と一匹はまだ明るいうちにと森の中でキャンプを張ることにしたのだった。
この森に入って暫く経つが、随分と深い森のようでまだまだ出口に辿り着く気配はない。先は長いなあ、とセシリアは溜息をこぼした。すると不意に、火起こしを終えたトキが口を開く。
「俺は魚を取ってくる。その豚と一緒にここで待ってろ」
「あ、はい。じゃあ、フルーツ切っておきますね」
「……いや、いい。それも俺が後でやる。アンタは一切、食材には触るな。分かったな」
「え、でも……」
「いいから! 絶対触るなよ!!」
トキは必死の形相でセシリアに念を押し、その場から離れる。料理が下手な自覚のないセシリアは彼の言葉の意図が全く分からなかったが、言われた通り食材には触らず、その場で大人しく待っている事にした。
徐々に薄暗くなっていく森の中。最初は怖くて堪らなかったこの静けさが、旅慣れて来たのかもう最初ほどの恐怖は感じない。
ステラはプギプギと鼻を鳴らしてセシリアの膝の上で毛繕いをしており、その背を撫でながら彼女はぼんやりと焚き火の火を見つめた。
(……もう、十九歳、か……)
そっと目を伏せ、自らの首元に触れる。
十六歳の誕生日が来た日の夜、彼女は初めて、その首と手首に残された忌々しい痕跡の意味を知った。──そして、自らの運命も。
記憶を取り戻したいと感じるようになったのも、おそらくその頃からだった。周囲の人々には止められたが、日に日にその思いは強くなるばかりで。
大人への階段を一歩上がる度に、怖くなった。深く暗い闇の中へ、「セシリア」が一歩ずつ降ろされて行く。──自分の全てを思い出せないまま、深い闇の中に落ちてしまうのが嫌で。
最後は逃げるように、アデルと共に村を飛び出して来た。青く輝く宝石を持って、世間の事なんか、何も知らないまま。
(……無茶苦茶なことしちゃったなあ、本当)
結果的に、魔女に襲われて宝石は奪われてしまったわけで、ほとほと自分の無計画さが嫌になる。──そういえばあの時、どうして魔女は、私にあんな事を聞いたんだろう──そう考えて、セシリアはふと視線を持ち上げた。
──ざく、
「……!」
不意に彼女の耳が足音らしき物音を拾って、ぴくりとその肩が反応する。膝の上で毛繕いをしていたステラも顔を上げ、じっと木々の奥を見つめた。
(……トキさん、もう帰ってきたのかな。お魚あんまり居なかったのかも……)
ざくざくと、地面を踏みしめる足音が近付いてくる。獣の足音というよりは、明らかに靴で地面を歩いている音だった。
てっきりトキが帰ってきたのだとばかり考えて、セシリアは「お帰りなさい」と声を掛けるつもりで待ち構える。──しかし木々の間から姿を現したのは、見ず知らずの男だった。
「……え……」
「……お?」
痩せ型で背の高い、三十代前半らしき男。赤々と色付いたその男の瞳は、セシリアを捉えて丸々と見開かれる。その手には、野花を編んで作られたと思わしき花の冠がいくつかぶら下がっていた。
(……あれ……? 誰……?)
驚きのあまり固まってしまっているセシリアに、男はゆるゆると口元を緩ませる。その瞬間、「プギ!」と膝の上のステラが何かを感じ取ったのか震え上がった。しかしそんな反応も無視して、男は口を開く。
「……あれまぁ。こんな森の中で、可愛い女の子が座り込んで何してるんだ? 一人でいると危ないよ、お嬢さん」
「……」
「例えば、ほら、」
──怖ーい毒蛇に、噛まれちゃうかもしれないっしょ?
にんまりと笑う男──アルマは、赤い瞳を楽しげに細め、座り込むセシリアをじっと見下ろしていた。
.
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