第39話 次の街に着いたら


 1




 ぱち、と瞼を持ち上げる。ゴツゴツとした地面に薄手の布を敷いただけの粗末な寝床からむくりと気怠い体を起こし、トキは非常に悪い寝覚めに起き抜け早々チッ、と大きく舌打ちを放った。


 気分が悪い。体が重い。

 かと言って、この気怠さが風邪や病の類では無いことは分かっている。原因は明らかなのだ。──そう、もう三日ほど、“クスリ”の摂取が出来ていないのだから。



(……あの豚、心の底から邪魔くせえ……)



 トキは片膝を立て、溜息混じりに額を押さえる。


 例の豚──ストラフティルが二人の元へ現れてからというものの、セシリアからクスリを摂取しようとトキが近付く度にどこからともなくストラフティルが割り込み、トキを威嚇して二人の口付けを邪魔される、ということが頻発していた。一日中トキを監視しているのか、夜中の寝静まったタイミングを狙って彼女に近付いた際も結果は同じ。凄まじい威力で鳩尾をタックルされた時には本気で呼吸が止まるかと思ったし殺してやろうかと思った。


 ──結局、警戒するストラフティルの牽制に手も足も出なかったトキの体は、徐々に呪いに蝕まれて行くばかりで。



(……くそ……少し前にアイツから体液を多めに摂取してたお陰でどうにか保ってるが、そろそろ限界だぞ……)



 時間が経過するに連れ、明らかに体が重く、動きも鈍くなって来ている。しかも依存症状の影響なのか、セシリアの姿が視界に入る度にその口付けを欲して理性が千切れそうになる自分すらいて、状況はかなり危うい。おそらく今日を逃せばまた発作が始まるだろうということは何となく察しがついた。



「……あの豚さえ居なければ……」



 ぼそり、忌々しげにトキが呟いた頃、森の奥から件のそいつの「プギー!」という間の抜けた鳴き声が響いて来た。続いて、聞き慣れた穏やかな笑い声も。



「ふふ、やだ、くすぐったいったら……」


「プギー、プギギ」


「ふふふ……」



 穏やかな微笑みを浮かべるセシリアと、腕の中の楽しげなストラフティル。おそらく水浴びを終えて帰ってきたのであろう彼女の腕に抱かれてご満悦の丸いピンクのフォルムが、とにかく憎らしくて仕方がない。

 イライラと苛立つ感情を抑えながら、トキは立てた膝の上に肘を置き、しっとりと髪を濡らして帰ってきたセシリアを睨み上げる。その視線に気がついたのか、セシリアはハッと目を丸めた。



「トキさん! 早起きですね」


「……別に」



 彼女がぱたぱたと駆け寄るが、トキは素っ気なく返事を返してふいっと顔を背けてしまう。明らかに不機嫌な彼の様子に失笑しつつ、セシリアはその隣に腰を下ろした。



「……あの、体の方は大丈夫ですか? 少し、顔色が悪いような……」



 心配そうな翡翠の瞳がそっと顔を覗き込んでくる。トキはやはり不機嫌な様子で小さく息を吐き、ぼそりと低い声を発した。



「……そう思うんなら、腕の中のそいつを大人しく渡してくれないか。三秒で捌けるぞ今なら」



 ついつい恨み節がこぼれてしまうが、致し方ないだろう。それぐらいイライラしているのだから。

 殺意の込められた視線が腕の中のストラフティルに向けられていることを即座に察したセシリアは、さっと庇うようにストラフティルをぎゅっと抱きしめた。



「だ、だめです! ステラちゃんを虐めたら怒りますよ!」


「…………?」



 唐突に放たれた聞き覚えのない名前にトキはぴくりと眉根を寄せる。すると彼女はにっこりと微笑み、腕の中のストラフティルに頬を擦り寄せた。



「はい、ステラちゃん。この子の名前です」


「プギ!」


「……はあ!? 名前付けてどうすんだよ!」


「え、どうって……。別にどうもしませんけど、この子私から離れてくれないので……名前がないと不便でしょう?」



 きょとん、と目を丸め、さも当然のように彼女は言う。対するトキは苦々しく表情を歪めて額を押さえた。冗談じゃない、と眉間に深い皺が刻まれていく。



(名前なんか付けたら、アンタのことだから情が移って手放せなくなるに決まってるだろうが……!)



 それはつまり、この旅に同行させるのと同義だ。

 それだけは勘弁してくれ、とトキは頭の中で叫ぶ。ただでさえ呪いと依存症状で身体的にも精神的にもガタが来ているというのに、クスリの摂取の度にあの強烈なタックルを食らってたんじゃ確実に身が持たない。



「やっぱそいつ貸せ、今すぐ捌く」



 瞳に薄暗い光を宿し、低い声でトキがこぼすがセシリアは「だめです!」と頑なにストラフティル──否、ステラを渡そうとしない。勿論ステラもトキを警戒しており、じろりと目尻を吊り上げて彼を睨みつけていた。

 彼女の腕の中でもぞもぞと動き、ふんわりと控えめに膨らんだ胸に体を押し付けながら「プギ」と得意げに鼻を鳴らすその姿に、トキの苛立ちはさらに募るばかり。



(この豚、絶対わざとやってんだろ……)



 トキが先日彼女の胸に触れた際は問答無用で重たい一発を頬に決め込まれただけに、簡単にその場所に収まっている得意げな豚が不愉快で仕方がない。

 そもそも、彼は依存症状の影響でいつも以上に彼女に触れたい衝動をなんとか抑えてセシリアと接しているのだ。にも関わらず、この挑発。元より気の短い彼である。頭の中の何かがぷつんと切れるまで、時間など必要なかった。


 ──ガシィ!



「プギ!?」



 骨張った手が賊である本領を発揮するかのごとく、目にも留まらぬスピードでステラの背中に生えた羽を鷲掴む。そのまま彼女の腕の中から強引に引っ張り出し、幻覚作用のある尻尾を即座に紐で縛り上げると短剣に手を掛けた。



「……おい、調子に乗るなよこのクソ豚。俺が本気出せばお前なんて一瞬でバラバラにしてやれるんだからな」


「プギギ! プギー!!」


「ちょっとトキさん! やめてください!」



 焦ったように暴れるステラの喉元に短剣を突き付ければ、セシリアが眉間を寄せて彼の腕を掴む。「邪魔するな」と眉を顰めて彼女を睨むが、凛とした真っ直ぐなその瞳が強くトキを捉えていた。



「気に入らないからって暴力は良くないです。ステラちゃんを離してください」


「はあ? これは暴力じゃねえよ、素行の悪い豚を俺がしつけしてやって……」


「ダメです。離して」


「……っ」



 翡翠の瞳が真っ直ぐとトキを射抜く。彼はこの目が苦手だった。ストレートで静かな強い言葉が、遠い昔、母親に叱られたあの時の感覚を呼び戻す。


 僅かに動揺したことで手の力が緩んだのか、少し目を離した隙にステラは自力でトキの拘束を脱してしまった。は、と彼が気が付いた時にはもう遅い。目に怒りの色を孕ませたステラの牙は、一瞬でガブリとトキの手に食い込んでいて。



「いっ……てえぇ!!」



 トキの絶叫が森の中に響く。


 ブンッ! と即座に噛み付いているステラの体を勢い良く放り投げるが、ステラは背中の翼を広げて身を翻し、トキへと果敢に突進して来た。そのまま岩のように硬い石頭がトキの左肩に直撃する。「っぐ!?」とくぐもった声を発して彼は地面に膝を付き──やがてゴゴゴと地鳴りでもしそうなほど怒りに燃えた瞳が持ち上がった。



「……ってえな、このクソ豚がァ!!」


「プギー!!」


「殺す!!」


「ちょ、ちょっと! 二人ともやめてったら!!」



 とうとう醜い殴り合いが始まってしまい、止めるセシリアを無視して一人と一匹の戦争が幕を開けてしまったのであった。




 2




「……もう。何やってるんですか、大人げない」


「……」



 ぶすっ、とヘソを曲げ、頬に大きな痣と鼻血の痕を滲ませたボロボロのトキが目を逸らす。腕や首には噛み付かれた歯型や擦り傷が目立ち、セシリアは呆れたように溜息をこぼしながら回復魔法を唱えた。

 一頻り暴れた二人は数十分の格闘の末にようやく大人しくなり、今しがたステラの治療を終えたセシリアが完全に拗ねてしまっているトキの元へとやって来たところである。頬杖をついたままそっぽを向いてしまっている彼の腕を治療しつつ、セシリアは眉尻を下げた。



「ああ、鼻血まで出てる……。こっち向いてください、先に顔から治療しますから」


「……」



 眉間を寄せて不機嫌そうな様子のまま、トキは黙って彼女に顔を向ける。への字に曲がったままの口元がまるで小さい子どものようで、まったくもう、と呆れることしか出来ない。

 セシリアはそっと手のひらを彼の顔に向け、呪文を唱えた。暖かい光がポワ、と彼の肌に染み入り、傷口を癒していく。



「もう、何で仲良く出来ないんですか。あの子まだ子どもなんですよ? 何をそんなにムキになってるんだか……」


「……あの豚はどうした?」


「……聞いてないし……。ステラちゃんなら寝ちゃいましたよ。喧嘩して疲れたのかも」



 ようやく声を発した彼の問いに答え、セシリアはトキの鼻に滲んでいる血を清潔な布で拭き取る。ようやく本来の綺麗な顔に戻りつつあるトキにホッと安堵した頃、不意に傷だらけの腕がガシッと彼女の腕を掴んだ。



「……!? え、トキさ、」


「静かにしろ、あいつが起きる」



 そっと耳打ちされ、そのまま彼女の体は大きな木の幹に押し付けられる。戸惑ったように揺れる瞳を至近距離で見つめ、トキは小さな声で囁いた。



「……クスリ、寄越せよ」


「……あ……でも、まだ、怪我……」


「そんなのどうでもいい。もう限界なんだよこっちは」



 切羽詰まった様子で言い切られ、間髪入れずにセシリアの唇は塞がれてしまった。僅かに開いた唇の間からすぐさまトキの熱い舌が入り込み、ゆっくりと彼女の歯列をなぞっていく。



「……っん……!」


「……は、……声、出すなよ」


「……!」



 もぞ、と太もも付近に熱い手のひらの感触が伝わって、セシリアはぎくりと身を強張らせた。困惑したような翡翠の瞳が薄く開くが、お構い無しにトキは彼女のワンピースを捲り上げて素肌に手を滑らせていく。

 無論、セシリアの唇は未だ彼に塞がれたままで。彼女はゆっくりと絡まってくるトキの舌の動きにぎこちなく答えつつ、徐々に上がってくる手の動きに緊張を募らせた。



「……っ……」



 やんわりと、胸を包む熱い手のひら。ドキドキと早鐘を打つ鼓動の音が伝わってしまうのではないだろうか。

 だって、以前は強引に触れていた彼の手や唇が、まるで壊れ物を扱うみたいに優しく動くから。



(……ステラちゃんを起こさないように、優しく触ってるの……?)



 ちらりと、少し離れた場所で眠るピンク色の丸い子豚を視界に入れる。すぴすぴと穏やかな寝息を立てているステラが起きる気配はない。


 するとその視線に気がついたのか、不意にトキの唇が離れた。



「……おい、余所見すんなよ」


「……え……っ」


「……こっち見てろ」



 ぐっと顎を押さえ付けられ、再び彼女の唇が塞がれる。よほど限界だったのか普段よりも随分と口付けの時間が長い。けれど決して荒々しいそれではなくて、ゆっくりと、丁寧に、深く優しくトキは彼女の唇を啄ばんでいる。

 じっと見つめてくる薄紫の瞳から目が離せない。ぎゅっと胸の奥を掴まれているような、切なくて苦しい、けれど嫌じゃない謎の感情が蔓延っていた。



「……ん、……っ」



 不意に、胸に添えられていた彼の手が静かに下着のカップをずらして侵入する。そっと素肌に触れられた瞬間痺れるような熱を感じて、セシリアは思わずトキの首に腕を回した。

 その行動にトキは目を見開く。



「……、今日は殴らないのか?」



 徐ろに唇を離して問いかければ、セシリアは涙の張った瞳を薄く開いて視線を泳がせた。普段ならば重たい平手打ちを彼の頬にお見舞いしているところだが、あまりに優しく触れる彼の手に、そんな気すら起こらなくて。


 それどころか、むしろ。



(もう少し、触ってほしい、なんて……)



 そんなはしたない事まで考えてしまったと言ったら、彼に軽蔑されるだろうか。そう思うと急激に羞恥心が込み上げて、セシリアは恥ずかしそうに目を逸らした。そんないじらしい反応にずっと燻っていた彼の情欲が顔を出し始める。彼は小さく息を吐き出し、セシリアの肩に顔を埋めた。



「……何だよ、その反応」


「……あ……う……」


「やめろ、そういうの……。抑えが効かなくなったらどうするんだ……」



 低く掠れた声がぽつぽつと言葉を紡ぐ。密着している彼の体温を感じながら、ああ、抑えてくれているんだとセシリアは目を細めた。

 胸に添えられた暖かい手のひらの熱が、じんわりと左胸から伝わってくる。その真下にある自分の音は、彼の手のひらに伝わっているだろうか。トクトクと早鐘を打つ、この胸の音が。



「……トキさん、優しくなりましたね」



 ふと口を開けば、トキはぴくりと反応した。そんな彼の髪に頬を寄せ、セシリアは微笑む。



「……前は、私の反応なんてどうでもよかったでしょう?」


「……」


「トキさんが本当は優しいってこと、ずっと前から気付いてましたけど……。でも、その優しさをストレートに誰かに向けるのは、ずっと怖がっていた気がしたから……」



 ──少し、怖いのがなくなったんですね。


 そう囁く彼女の声が、耳の奥にじんわりと届いて溶けるように染み入っていく。最初は居心地悪くて仕方がなかったこの優しい声を、どういうわけだか無意識的に求めてしまっている自分がいて。己の小ささに酷く情けなさを感じた。


 トクトクと鼓動を刻む音が己の手のひらから伝わってくる。柔らかい、暖かい、女の肌。

 このままその白い表面に噛み付いて、喰らおうと思えばいつでも出来る。しかし、そうしたい欲は確かにあるのに、なぜだかこの暖かい胸に触れているだけで、彼は満足してしまっていた。



(……なんだ、これ。意味わかんねえ)



 理由はわからないが、とにかくそれだけで良いと感じてしまう。勿論、出来る事ならば快楽に喘ぐ彼女の声を聞いてみたいと、心の底ではそう思っている。

 けれどそういった欲に勝るぐらい、この体温に、トクトクと一定のリズムを刻むこの鼓動に触れていたくて。離れたくないと、思ってしまって。



「……トキさん……?」


「……」


「……あ、あの……ずっと……このままですか……?」



 無言のまま胸に手を触れていたトキの耳元で、おずおずとそんな声が控えめに囁く。は、と我に返って彼女の姿を確認すれば、木の幹に押さえつけられた体はワンピースが捲れ上がって側からでも素肌や下着が丸見えの状態。

 真っ赤な顔で恥ずかしそうに俯く彼女の様子に酷く欲望がそそられてしまうが、トキは覗く情欲を理性で制し、彼女の胸からそっと手を離した。



「……!」


「……ほら、これでいいだろ」



 捲れ上がっていたワンピースを整え、押さえつけていたセシリアを解放する。すると彼女は暫し目を丸めて、やがておずおずと再び口を開いた。



「……え、あ、あの、やっぱり、つまらなかったですか?」


「……あ?」


「……私の、胸……」



 悲しげに視線を落とし、セシリアは小さな声で問いかける。トキは一瞬面食らい、ややあって眉を顰めた。何を言っているんだこいつは。



「……つまらないって何が」


「……私、メリールージュさんみたいに大きくないから……」


「……チッ、またその話かよ……」


「……だ、だって……!」



 うんざりしたように視線を逸らしたトキに、ずいっとセシリアは詰め寄る。不安げに揺れるその瞳に、トキは息を飲んだ。



「だって……」


「……」


「……だって、今、あんまり触ってくれなかったでしょう……?」


「……、……」



 ぼそぼそと、小さな声が漏れる。ふるりと震える唇が、赤く染まった頬が、切なげに顰められた眉が、酷く自惚れた勘違いをさせてしまいそうだった。


 ……いや、勘違いなのか、本当に。

 だってこの発言は、どう考えても。



「……もっと、触って欲しかったのか……?」


「……え!」



 びく、と肩を震わせ、つい声を上げてしまった彼女の口元をトキが慌てて片手で覆う。

 バッ、と後方に目を向ければ、すぴすぴと間の抜けた寝息を立てている暴君は未だ夢旅を続けているようで。トキは小さく息を吐いた。



「……馬鹿、大声出すな。俺の怪我を増やすつもりか」


「……ご、ごめん、なさ……」



 ぼそぼそと小さく声を発する彼女の言葉は徐々に尻すぼみとなり、最後には真っ赤な顔で俯いてしまう。ああやめろ、とトキは眉間を寄せた。

 そんな反応をされてしまうと「触って欲しかったのか」という己の質問が図星であったことを、まざまざと痛感させられてしまうじゃないか。



(……くそ、いちいち煽りやがって、この天然ボケが……)



 トキは頬が緩みそうになるのを必死に噛み殺した。ストールを引き上げて口元を隠し、ぐるぐると煩悩がひしめく頭を小さく振ってそれらを散らす。しかし今の彼女の発言は「同意」の意思表示であるようにしか思えなくて、トキはチッと大きく舌を打った。


 そして目の前の彼女の腕を掴み、ぐいっと自らの元へ引き寄せる。



「!」


「……ここ、座れ」


「……え」


「……いいから」



 不思議そうに目を瞬くセシリアの腕を引き、トキは自らの足の間に挟むようにして逆向きに彼女を座らせた。そのまま座り込んでいるセシリアの背中を引き寄せ、背後から抱き寄せる形で彼女の体を己の腕の中に包み込む。

 唐突すぎる彼の行動に、背後から抱き寄せられたセシリアは身を強張らせて困惑した。



「と、トキさん……!」


「しっ、黙ってろ。このまま聞け」


「……っ」



 ぎゅう、と腕に力が篭り、セシリアの耳元で掠れた声が響く。頬に熱が集まるのを感じながら、セシリアはきゅっと唇を硬く結んだ。



「……いいか? アンタの胸が小さくてつまらないとか、楽しくないとか、そういうのは全く無い。むしろ触って欲しいんならいくらでも触るぜ、アンタのなら」


「……あ、あの……」


「……でも、今はダメだ。アンタのストラフティルボディーガードが起きて俺の股間に突進でもしてみろ、さすがの俺でも死ぬぞ」


「…………」



 かあぁ、とセシリアの耳が赤く染まっていく。そんな彼女の首筋に顔を寄せると石鹸のようないい香りがして、トキは更に彼女の体を引き寄せた。



「……俺だって我慢してんだよ。つーかどんだけ我慢してると思ってんだ。ふざけんなよ本当……」


「……と、トキさん……」


「……」



 ぎゅ、と腕に力が篭る。びく、と身を強張らせる彼女を逃さないよう閉じ込めて、トキはセシリアの耳元でぼそりと呟いた。



「……抱きたい」


「……っ」


「……から、抱く。次の街に着いたら」



 宣告された言葉に、セシリアはピシリと固まったまま動けなくなってしまった。顔に集まった熱が、爆速で動く心臓が、爆発してしまうのではないかと思って、息が止まりそうで。



(だ、だ、抱くって……、抱くって……!)



 そういう意味の、「抱く」だということは、いくら無知な彼女でも流石に分かる。これまでに何度かそういう雰囲気になったこともある。

 けれど彼は優しいから、最後まで自分の純潔を穢したことは一度も無かったし、かと言ってハッキリ「抱く」と明言するのも初めてのことで。セシリアは困惑した。というか、こうして背後から優しく抱き締められていることすらも初めてなのでは、と今更気がついて更に顔が熱を帯びる。


 そうこう考えているうちに、トキの掠れた声が「なあ、」と耳元で再び囁いた。びく、と緊張で強張った体が過剰に反応してしまう。



「……っ」


「……嫌か?」


「……」


「……おい」


「……」


「…………セシリア、」


「……〜……っ」



 ──そこで、名前を呼ぶのは、ずるい。


 心の底からそう思った。

 セシリアは真っ赤に顔を染め上げ、両手でそれを隠すように顔面を覆う。震える唇をゆっくりと開き、ようやく発された彼女の声は、蚊の鳴くような小さなそれで。



「……い、嫌、じゃ、ない……です……」


「……」


「……わ、わ、私……」



 どっくん、どっくん。


 心臓が口から飛び出してしまいそうだ。意味もなく泣きそうになって、声が震えて。



「私……」



 セシリアは密着する彼の匂いと体温を感じながら、小さな声をぼそぼそと絞り出した。



「……トキさんに、触って欲しい、です……」


「……」



 無言のまま、トキの腕が強くセシリアを抱き締める。未だに真っ赤に染まる頬を押さえて、恥ずかしそうに俯いてしまっている彼女の姿に彼の胸はきゅっと締め付けられて。



(あー……まずい……)



 トキはセシリアの首筋に顔を埋め、腕の中の彼女の体温を刻み込むように身を寄せた。どくどくと感じる早い心臓の音は、一体どちらのものなのか。



(次の街まで我慢出来る自信がねえ……)



 大きくこぼれ落ちる溜息。密着したまま離れられない体。これも依存のせいなのだろうかとトキはぼんやりと考えたが、そんなもん知るかと一蹴してしまった。

 動かないと行けないのはお互いに分かっているのに、双方ぴくりとも体が動かない。


 結局、ステラが目を覚ますまでの長い間、二人はその場から全く動くことが出来なかったのであった。




 .

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る