第5章. 真実の森と彼の過去

第38話 四足歩行の邪魔者


 1




 マリーローザを出た二人は、例のごとく深い森の中を進んでいた。相変わらず危なっかしいセシリアは泥濘む地面に何度か足を取られて転び掛け、手を握っていたトキが傾いたその体を何とか支える。そんなやり取りが幾重にも繰り返されて。


 彼女が足を縺れされる度にトキは眉を顰め、「ほらな、手ェ離したら危ないだろアンタ」と呆れたようにこぼした。すみません、と謝るセシリアが気まずそうに手を握り返せば、再び強くその手を引かれる。結局キャンプ地に辿り着くまで、彼はセシリアの手を握ったまま離してはくれなかった。──そこまでは、良かったのだが。



「……あ、あの、本当に、すぐ帰ってくるので……」


「ダメだ」



 困ったように言うセシリアの顔を、薄紫色の瞳がじろりと睨む。彼の手はぎゅっとセシリアの手を捕まえていた。


 本日のキャンプ地に腰を据えて数時間。食事も済ませ、寝床の準備も終わらせた二人は数分前からこうして睨み合っていた。

 セシリアは戸惑いがちに視線を泳がせ、再び彼に懇願する。



「本当に、本当にすぐ終わらせます! だから、あの、お願いだから……、ね?」


「……ダメだ、アンタ病み上がりだろ。我慢しろ」


「嫌です嫌です! 絶対嫌です!!」



 ぐっと力の籠る手を振り払おうと、セシリアは暴れる。そんな彼女の腰をがっしりと捕まえ、トキは強引にその体を羽交い締めにして引き戻した。



「ダメだっつってんだろ! いい加減にしろよ!」


「いーやーっ!! 本当に、本当にすぐ帰りますから! お願い!」


「水浴びなんか一日ぐらいしなくても死にゃしねーだろ!!」



 がっしりと、彼女の体を捕まえたままトキが怒鳴る。──そう、現在二人は「セシリアが水浴びをするか否か」という事について揉めているのであった。


 水浴びがしたい! と訴えるセシリアに対して、絶対ダメだ! とトキが真っ向からその訴えを一蹴する。理由は至ってシンプルで、「体調が万全じゃないのに冷たい水に浸からせるわけにはいかない」という至極真っ当なそれだった。

 しかしセシリアはなかなか納得せず。じたばたと彼の腕の中で踠き、イヤイヤと暴れる。



「本当に少しだけでいいから! 行かせてくださいっ!」


「アンタいつも長いだろうが! 病み上がりなのに一時間も冷たい水に浸からせられるか!!」


「そんなに時間かけません! お願いします、二十分だけでいいから……!」



 捨てられた子犬さながらの潤んだ目で見上げられるが、トキはじとりと冷たい瞳で見下ろし、フン、と鼻で笑う。



「ダメだ、今日まで我慢しろ。明日、熱が無かったら入っていい」


「……そ、そんなあ……」


「大体、別に臭くねーだろ。何をそんなに……」


「ひゃあ!? やだ! 嗅がないでくださいっ!」



 背後から顔を近付けるトキの顔面を思わず掴んでしまい、不機嫌そうに眉間を寄せられてしまった。しかしセシリアの反応は当然だろう。デリカシーの欠けたトキには一生分からないかもしれないが、女心とはそういうものだ。


 長い口論の末、最終的に折れたのは結局セシリアの方で。



「……っ、分かりました、分かりましたよ! 明日まで我慢します! だから離れて!」


「……だから別に臭くねえって」


「それでも気にしちゃうんです! いいから早く離れてください!」



 かっかと顔を赤らめ、羽交い締めにされたままセシリアは身をよじる。その反応を気に入ったのか、トキの口元は楽しげに弧を描いた。



「……おいおい、離れろなんて連れないこと言うなよ聖女様。こっちはアンタの身体を気遣ってやってんだぜ?」


「ひっ……!?」



 ふっ、と耳元に息を吹きかけられ、セシリアはぞくんと背筋を震わせた。そうこうしている間にするりと持ち上がった彼の手が、厭らしい動きでセシリアの腹の上をつつ、となぞる。



「……もう少し、優しく接してくれてもいいんじゃないか?」


「……っ」



 骨張った手はするすると上へ移動し、ふんわりと膨らんだ彼女の胸を包んだ。そのままその柔らかい感触を確かめるように手に力を込め、やんわりと揉みしだこうとした──その瞬間、目の前にふっと影が差して。



「──何ナチュラルにセクハラしてるんですかっ!!」


「いっ……!!」



 ばっちーん!! と強烈な平手打ちがトキの頬を打ち、彼は思わず手を離した。即座にトキから離れたセシリアは真っ赤に頬を染め、自身の胸を両腕で隠しながら彼を睨む。無論、彼も倍以上に鋭い眼光を彼女に向けていたわけだが。



「……いってーな! 何しやがる! 最近アンタどんどん暴力的になっていってるぞ!」


「どんどん当たり前にセクハラするようになっていってる人に言われたくありませんっ!」



 正論を返され、トキはぐっと押し黙った。その後ややあってチッ、と舌を打ち、彼は傍に置いてあったマグカップの中身に口を付ける。



「……しょうがねえだろ。俺も男なんだよ、諦めろ」


「だ、だからって簡単にそういう事したらだめです! 少しは我慢してください!」



 いや何言ってんだ、十分我慢してるわ、とトキは心の中で突っ込んだ。素行の悪い自覚があるにも関わらず、まだ一度も彼女の純潔を奪わずにいるのだから褒めて欲しいものだとトキは眉を顰める。



(この俺が、ドブ川上がりの賊であるこの俺がだぞ? 美味そうな獲物を目の前にして、結局のところ一度も手を出して無いんだ。十分我慢してるだろ。……そりゃまあ、何度か触りはしたが)



 ちらりと目の前の聖女様に目をやれば、未だ胸の前を押さえて真っ赤な顔でむうっと眉間を寄せていた。押し倒して奪おうと思えばいつだって奪える彼女の貞操だが、いざそんな煩悩を実行に移そうとしても妙に気が引けてしまう。



(……いつからこんなに弱気になったんだ、俺は)



 以前はもっと強引で薄情だった自覚がある。それなのにどうしたものか、彼女を相手にすると肝心な所で躊躇してしまうのだ。純粋な彼女を、このまま汚してしまっていいのだろうか、と。


 そんな事を悶々と考えていると、不意にセシリアが口を開く。



「……トキさんはやっぱり、胸の大きな人が好きですか?」


「……は?」



 ぽつり。突然突拍子もない事を問い掛けるセシリアに、トキの口からは間の抜けた声が飛び出してしまった。訝しげに目を細め、「何でだよ」と逆に問えば、彼女は頬を赤らめたまま視線を落とす。



「……わ、私、その、小さいから……こんなの触っても、楽しくないんだろうなって、思って……」


「……」



 小さい、という言葉は否定出来ない。しかし先日マリーローザの宿のロビーで似たような揶揄を口にした際、彼女の機嫌を酷く損ねてしまったため彼は何も言えずに目を逸らした。

 黙っているトキを差し置いて、彼女の言葉は更に続く。



「……め、メリールージュさんは、大きかったでしょう……?」


「……」



 ぼそぼそと呟かれた名前に、トキは訝しげに目を細めた。何故ここであの女の名前が出てくるのか。そう思いながら彼は再びマグカップに口を付ける。


 しかしその直後、セシリアの口から飛び出したのはとんでもない言葉だった。



「……メリールージュさん、言ってました。トキさん、抱くの上手だったって」


「ぶっ!」



 今しがた口の中に流し込んだ紅茶を盛大に吹き出し、トキはゴホゴホと咳込んだ。「えっ!? 大丈夫ですか!?」と慌ただしくセシリアが駆け寄って背中を摩るが、正直それどころではない。



(何とんでもない嘘を吹き込んでんだ、あの女……!)



 脳裏でくすくすと、メリールージュが嫌な笑みを浮かべている。トキは大きく舌打ちを放ち、濡れた口元を拭いながら不機嫌そうに顔を上げた。



「……あの女とは何もない! 抱いてないしキスだってしてない、ただ酒飲んだだけだ。アンタが変な嘘吹き込まれてるだけだぞ」


「……」


「……おい、疑ってるな、その目は」



 じっとりと目を細めるセシリアに問えば、彼女はふいっと顔を逸らした。やがて彼女は溜息をこぼし、自らの胸を見下ろす。



「……別に、いいんですよ。私に気を遣って頂かなくても。トキさんも男の人ですから、胸の大きな人と、そういう事したいでしょうし……」


「……おい、だから抱いてないって言ってるだろ」


「……嘘ばっかり」


「嘘じゃねえよ、俺はアンタじゃないと──」



 ダメなんだから、とつい本心を口にしかけて、トキはハッと口元を押さえた。元々素直では無い彼がそんな小っ恥ずかしい台詞など言えるはずも無く、そのままぐっと押し黙ってしまう。


 セシリアは小首を傾げ、彼を見つめた。



「……私が、何です?」


「……~……っ、いや、だから……っ」



 じわりと、手のひらに汗が滲む。不意の事態に弱い彼は、こうなるととことん嘘が下手なのだ。普段ならすらすらと軽口を叩く舌も一切動かず、頭が真っ白になる。

 ああまずい、何か言わなくては。そう焦りだけが重なった末に、トキはようやく口を開いた。



「……っだから! 俺は! アンタに触りたいって言ってんだよ!!」



 ──しかし焦りと動揺で混乱した彼の口から飛び出したその言葉は、先ほど言い淀んだ言葉よりもよっぽど酷いそれであって。



「…………、へ」



 ぽかん、とセシリアの目が丸々と見開かれる。トキはようやく己の失言に気が付き、ハッと我に返った。直後、ふつふつと顔に熱が迫り上がる。



「……っ、ち、違う! 間違えた! 今のは違うぞ、忘れろ……!」


「…………」


「……違う……、だから……っ」



 顔が熱い。気の利いた台詞が何も浮かばない。トキは真っ赤に染まる顔を隠すようにストールを引き上げ、とうとう何も言えずに俯いてしまった。



(……何だこれ、最悪だ……)



 ようやく頭が冷静さを取り戻し始め、己の失態をまざまざと痛感する。黙りこくったまま顔を上げることが出来ないトキに、セシリアは「あの、」と恐る恐る声を掛けた。びく、とトキの肩が僅かに揺れる。



「……」


「……トキさん……触りたいって……」


「……」


「……いいですよ?」



 ──は?


 ぱちぱちと数回瞬きを繰り返し、トキはゆっくりと顔を上げた。聞き間違いかと思ったが、セシリアはやんわりと微笑んで彼を見つめていて。


 呆気に取られているトキの両手をそっと握り、彼女は更ににっこりと目尻を緩めた。



「はい。どうぞ」


「……は」



 ぺた、とトキの手が柔らかい体温に触れる。ニコニコと微笑む彼女はトキの両手を自らの両頬に当てがっていた。



「どうです? 落ち着きました?」


「……いや、アンタ、何してんだ……?」


「え? 触りたいって言うから……」


「…………」



 きょとん、と目を丸めるセシリアに、トキはドッと全身の力が抜けるのを感じた。穢れなき聖女様は「触る」という意味をストレートに受け止めたらしい。



(……いや……そういう意味じゃねえだろ……)



 今の流れで何故その考えに至るのか。思わず溜息が漏れそうになるが、今回ばかりは彼女特有の鈍感さに助けられた。

 トキは柔らかく暖かいセシリアの頬を指先でそっと撫で、微笑むその顔を見つめる。



「……落ち着いた……と、思う」


「……ふふ、よかった。いつでも触っていいですよ?」


「……おい、それ、俺以外に言うなよ……」



 危ういセシリアの発言に頭を抱えそうになるが、目の前の能天気な微笑みが胸中のモヤつきすらもどうでもいいものに変えてしまう。ああくそ、調子が狂う、とトキは苛立ちをぶつけるかのようにセシリアの頬を引っ張った。



「ひゃ!? い、いひゃいれす!」


「……はあ? 何て?」


「も、もー! トキひゃん! やめてくらひゃい!」



 ぐにぐにと柔らかい頬を引っ張り、にやりと不敵に口角を上げればセシリアはぐっと彼の腕を押さえて抵抗する。それでも尚ぐにぐにと頬を引っ張り続ければ、彼女は眉間を寄せてキッと睨みつけて来た。迫力などもちろん無いのだが、怒らせると面倒なのでとりあえず力を緩めて頬を解放する。



「……もう! ほっぺたが伸びちゃうかと思ったじゃないですか!」


「……アンタが触っていいって言ったんだろ」


「引っ張っていいとは言ってないです!」



 むう、と今しがた引っ張られたばかりの頬を膨らませ、セシリアは不服げに唇を尖らせていた。そんな表情ですらも少し間抜けで、本来ならば決して人に開くことの無いトキの心を綻ばせる。


 彼女を見ていると、胸に不思議な感情が蔓延るのを少し前からトキは気付いていた。しかし、その感情が指し示す意味までは未だ分からないままで。



「……なあ、口開けろよ」



 不意にトキが口を開き、セシリアはハッと目を見開いた。彼はじっとセシリアを見つめており、彼女もまた彼を見つめ返す。


 ──今日はまだ、“クスリ”のやり取りは行っていない。

 彼の視線の意味を理解して、セシリアは頬を赤らめながらぎゅっと目を閉じ、おずおずと口を薄く開いた。すると、彼の顔が徐々に近付いてくる。



「……っ」


「……何強張ってんだよ、今更」


「……だ、だって……」



 そっと骨張った指が顎を持ち上げ、セシリアは薄く瞳を開いた。至近距離にいる彼と視線が絡み合い、きゅう、と胸の奥が苦しくなる。



(……な、何だか、急に、心臓が……!)



 ドキドキと忙しなく鼓動を刻み始めた胸にセシリアは戸惑った。確かに普段から口付けの瞬間は緊張するが、それとはまた別の、妙な緊張感が彼女の胸を支配していて。


 黙ったまま、じっと薄紫色の瞳を見つめてしまう。その視線に耐えられなくなったのか、トキは居心地悪そうに眉間を寄せた。



「……おい、そんな物欲しそうな目で見るなよ」


「……え!? み、見てませんっ……!」


「見てた。無意識か」



 トキの言葉にセシリアは頬を更に染め上げ、視線を泳がせる。彼はセシリアの下唇をそっと指でなぞり、ふっと口角を上げた。



「……何、早くして欲しい?」



 意地の悪い笑みを浮かべて聞いてやると、セシリアは真っ赤な顔でおずおずと視線を持ち上げる。「そ、そんなことないです!」と喧しく喚く彼女の姿を想像していたトキだったが、その後返ってきた返答によって、逆に彼自身が面食らうことになってしまったのだった。



「……はい……」


「…………、は」


「……早く、キス、して、欲しい……です……」



 真っ赤な顔で、恥ずかしそうにセシリアはぼそぼそと肯定する。トキは一瞬その言葉の意味を処理出来ずにいたが、ややあって急速に顔が熱を持ち始めた。



「……っ」



 謎の感情が胸の奥から迫り上がり、トキはぐっとセシリアの肩を押す。「きゃ!」と短い悲鳴を上げて地面に倒れた彼女の顔の横に手を付き、そのまま馬乗りになれば戸惑いがちな翡翠の瞳が持ち上がった。



「……それは、反則だろ……」


「……え……?」


「……文句言うなよ。煽ったのはアンタだからな」



 ぼそりと呟いて首元のストールを抜き取れば、セシリアはぎくりと表情を強張らせた。おろおろと視線を泳がせる彼女は「き、キスだけ、ですよ……?」と声を震わせる。

 トキはその唇に顔を近付けながら、くくっ、と喉を鳴らした。



「……堅いこと言うなよ。んだろ?」


「……あっ……!」



 弱い耳の裏側を指先でそっと撫でれば、油断していたのかセシリアの口からは甲高い声が漏れた。直後にきゅっと唇を噛み締め、潤んだ瞳が困ったようにトキを見上げる。そんな表情一つで、彼の情欲はいちいち刺激されてしまって。


 薄く開いた彼女の唇に自身の唇を重ねようと、彼はゆっくりとその顔を近付け──。



「プギーーーッ!!」



 ──ようとした直後、そんな間の抜けた鳴き声が響いた。それとほぼ同時に、彼の脇腹には強い衝撃が走っていたのだった。




 2




「──……キさん、トキさん……! 大丈夫ですか!?」



 ゴホゴホと咳込み、トキは苦しい呼吸を何とか落ち着かせた。蹲ってしまっている彼の背をセシリアが優しく摩るが、じわじわと響く内蔵へのダメージが未だに燻り続けている。


 すべてはこの、ピンク色の生物のせいで。



「……っ、テッメェ……この、クソ豚……! いきなり何しやがる……!」



 恨みの篭った低い声に、先ほど彼の脇腹目掛けて突進して来たピンク色の豚のような魔物──ストラフティルは、ぷいっとトキからその顔を背けた。そしてすぐにセシリアの膝に飛び乗り、彼女のお腹にすりすりと擦り寄る。



「プギギ~、プギ〜」


「……ちょ、ちょっと、ストラフティルちゃん……」


「……このクソ豚……!」



 してやったり顔でトキに視線を向け、此れ見よがしにセシリアに擦り寄っているストラフティルの姿に、トキはブチリと己の中で何かがキレるのが分かった。──“クスリ”の摂取の邪魔をされた上に、喧嘩を売られている。そう認識した瞬間、彼の左手は短剣の柄を握っていて。



(……丸焼きにしてやる……)



 そう結論に至って、トキは短剣を片手にゆらりと立ち上がった。目の奥で殺意を顕にして近付いてくる彼をセシリアが必死に止める。



「ままま待ってくださいトキさん! 落ち着いて!」


「離せ、そいつを明日の晩メシに並べる」


「ダメです! 武器をしまってください!」



 ストラフティルを守るように抱き締め、セシリアはトキを説得する。対するトキは暫く彼女とストラフティルを睨んでいたが、やがてチッ、と舌を打って武器をしまった。


 セシリアがホッと安堵の溜息を吐き出した頃、腕の中のストラフティルがもぞもぞと動く。



「プギー」


「……もう。ダメよ、ストラフティルちゃん。人のお腹に体当たりなんかしたら」


「プギギ……」



 困ったように諭すセシリアに向かって、ストラフティルは謝るかのように尻尾と耳をしゅん、と悲しげに下げてしまった。そんな可愛らしい仕草にきゅん、と心を打たれ、セシリアはその柔らかい体をぎゅっと抱き締める。



「……う、うう……。可愛くて怒れない……」


「プギ?」


「……いや怒れよ。俺そいつのボディーブローのせいで一瞬呼吸止まりかけたんだぞ」



 未だに脇腹が痛むのか、トキは体当たりされた場所を摩りながら不服げにこぼした。

 ストラフティルは本来動きの鈍い魔物だが、全力疾走すると時速四十キロ程度のスピードが出るのだという。現在セシリアに抱かれているストラフティルがまだ子どもであるとは言え、彼に体当たりした際の威力はなかなか強烈なものであった。


 トキは不機嫌そうに舌を打ち、脇腹を押さえながらその場に座り込む。



「……はあ……まあいい。さっさと“クスリ”の続き済ませるぞ、来い」


「……えっ……! あ、あの、でも……」


「あ?」



 セシリアの腕を引くと、彼女は戸惑ったように視線を落とした。その視線の先に居るのは、丸々とした青い目できょとんと二人を見ているストラフティルの姿。



「……こ、この子が見てます」


「……だから何だよ」


「な、何言ってるんですか……! この子が見ているのに、あんなこと……出来るわけが……」


「……」



 恥ずかしそうに俯くセシリアに、トキは盛大に溜息を吐き出した。急に何を言い出すかと思えば。



「……何言ってんだ、そいつ魔物だぞ。その辺に飛んでる鳥と何ら変わらないだろ」


「……で、でも……」


「いいから口開けろ、面倒臭い」



 渋るセシリアの腕を引き、その体を強引に引き寄せる。そのまま顎を持ち上げ、トキは彼女の柔らかな唇を奪おうと顔を近付けた。


 しかし。



 ──ガリィッ!



「……っい……ってえ!!?」


「!?」



 唇が触れる寸前でトキは叫び、ガバッと顔を離した。突然強い痛みを放った右手を持ち上げると、そこにはくっきりと歯型が残っていて。


 犯人はもちろん、プギプギと怒ったように鼻を鳴らしている丸いフォルムのそいつである。



「……っこいつ……!」


「あ、こら! ストラフティルちゃん!」


「プギー!」



 ひくりと頬を引き攣らせるトキを無視して、ストラフティルは一直線にセシリアの胸へとダイブする。そのまま彼女の腕の中で甘えるように擦り寄り、チラリとトキを振り返って牽制するようにストラフティルは睨んだ。


 ブチブチと、己の額に浮かんだ青筋が切れかかっているのが分かる。



(……このクソ豚……! とことん俺の邪魔するつもりか……!)



 噛み付かれた右手を押さえながらトキはギロリとストラフティルを睨み付けた。しかしそいつは知らん顔でセシリアの胸に擦り寄っている。

 その挑戦的な態度に、自分は今喧嘩を売られているのだとトキは確信した。幻覚を見せる事無く邪魔をしてくる辺りが、より一層トキの苛立ちを募らせる。



(……この豚、絶対そのうち晩メシの材料にしてやる……)



 無言で睨み合う一人と一匹の険悪な空気感を感じながら、間に挟まれたセシリアはオロオロと戸惑うばかりなのであった。




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