第37話 二人の歌
1
カツン、カツン、とヒールを踏み締める音が複数廊下に響いている。メリールージュは艶やかな唇から煙草を離し、フゥ、と煙を空気に溶かした。白く烟る世界は徐々に澄み、彼女はぼんやりと虚空を見つめる。
「ねえ、聞いた? 明日の晴天祭もメインダンサーはメリールージュですって」
「……えっ、また?」
短くなった煙草を灰皿に押し付けた頃、ふとそんな会話が耳に届いてメリールージュは咄嗟に身を潜めた。カツン、カツン、と踵を鳴らして歩く二人組は近くにいるメリールージュの存在に気付く様子もなく会話を続ける。
「……はあ、もう三ヶ月連続じゃない。あの子そんなに踊り上手い?」
「しょうがないわよ、主催者のお気に入りだもの。昼は客に色目使って、夜は営業でお偉いさん方を誑かして、やっぱり娼婦の娘はやる事違うわよね」
「ほんとほんと。顔が良いからって贔屓しすぎなのよ。そんな選び方してるからお天道様もお怒りなんだわ、あの子がメインになってから一度も晴れてないんだし」
「あーあ、何のための晴天祭なのかしら」
嫌味の込められた棘のある言葉にメリールージュはそっと目を伏せた。彼女たちは口汚い言の葉を乗せた唇に紅を引きながら、ケラケラと楽しそうな笑い声を響かせて去って行く。遠くなるヒールの音を耳の奥で確認して、メリールージュはさっと物陰を出た。
──やっぱり娼婦の娘はやる事違うわよね。
──そんな選び方してるからお天道様もお怒りなんだわ、あの子がメインになってから一度も晴れてないんだし。
「……そんなの、私が一番分かってるわよ」
小さく呟き、メリールージュは踵を返す。
──娼婦の娘──物心ついた時から、そのレッテルは彼女に付き纏っていた。幼い頃は同世代の子どもの親から煙たがられ、少し成長した頃には同世代の子どもからも蔑んだ目で見られた。母親は彼女のことを愛してはいなかったし、気がつけば客の男と蒸発して消えてしまっていたような
疎まれ、蔑まれ、煙たがられて、次第にメリールージュの心は鋭い棘に覆われてしまっていた。友達も家族も必要ないと必死に己に言い聞かせた。そんなメリールージュの幼少時代を支えたのが、いつか聴いた吟遊詩人の歌だった。
『──むーかし、青ーの王子様ー、緑の中で出会ったよー、見目麗しき女神様ー』
美しく耳に届く吟遊詩人の歌を、彼女は道路の端で聴いていた。彼はアコーディオンを奏でながら、高らかとその歌を歌う。
『恋に落ちた王子様ー、どうか結ばれてくださいとー、告げて指輪手渡したー』
『しかし女神は首を振るー、この身はあなたとは違います、私は受け取れないのです、あなたの手もその指輪もー』
吟遊詩人の周りに人は居なかった。しかし彼は来る日も来る日も歌い続けていて。最初は単純に、ばかじゃないの、と思っていた。そして同時に妬ましく思っていた。自分の好きなことを堂々と、一人きりでも歌えるその強さを。
『──お嬢ちゃんは、歌が好きなのかい?』
ある日不意に、そう声を掛けられた。振り向くといつもの吟遊詩人。メリールージュはふいっと顔を背けてかぶりを振る。
『そんなわけないでしょ』
『でも、いつも聴きに来るだろう?』
にこやかに問う彼に、メリールージュは声を詰まらせた。バレてたんだ、と苦々しく目を逸らした彼女に、吟遊詩人は一枚の紙切れを差し出す。
『ほら、これ、あげるよ』
『……なに? これ……』
『この歌の歌詞。それを見て歌ってみるといい。哀しい神話の歌だが、美しい歌だから』
ふ、と笑って吟遊詩人は去って行った。
メリールージュはその背中を黙って見つめた後、そっと手元の紙切れに視線を落とす。
『……ラクリマの恋人……』
記されていた曲のタイトルを復唱して、ぐっと唇を噛み締めた。──そしてその日から、彼女の心の支えは「歌」になったのだ。
あれ以来、吟遊詩人はいつもの大路に姿を現すことはなかったが、毎日耳にしていたメロディーをメリールージュはすっかり覚えてしまっていた。辛い時、哀しい時、苦しい時。涙を流す代わりに、彼女は歌を歌うようになった。
暗い空の下、冷たい雨に打たれながら、一人きりで。
『──あなた、すっごく綺麗な声で歌うのね!』
そんな時だった。アミラが話しかけて来たのは。
ブランコに腰掛けて歌っていたメリールージュが振り向いた時、彼女はにこにこと能天気に微笑みながら自分を見ていて。バカにしに来たのだと、単純にそう思った。同世代の子どもの中で自分のことを良く思っている者などいるはずがないのだから。
バカにしに来たわけではない、と弁解する彼女を冷たく突き放し、メリールージュは公園を出ていく。──しかしアミラは毎日のようにしつこく『歌って!』とバカみたいに近寄って来た。否、バカみたいなのではない。彼女は正真正銘のバカだったのだ。いくら拒絶しても学習しない、本物のバカ。
だからだろうか。常に真っ直ぐと向き合って来る彼女に、ほんの少しだけ心が絆されてしまって。
『……いいわよ、別に』
“秘密の場所”とやらにしつこく誘って来るアミラに、そんならしくもない答えを返してしまったのだ。その時の彼女の間抜け面ときたら、今考えても笑えてしまう。
『行くんだったら早く行きましょ。風邪ひいちゃうじゃない』
そんな会話の後に連れて行かれたのがお化け屋敷さながらの廃教会だった時は己の発言を悔やんだものだが、アミラの弾くピアノの音色でそんな後悔も吹き飛んだ。いつか自分に「歌」を手渡した、吟遊詩人の彼のアコーディオンの音色がふと、頭に浮かんで。
『──すごいわメリー! とっても素敵!』
歌い終わった時、アミラは満面の笑みでメリールージュを出迎えた。人前で曲に乗せて歌を歌うなんて経験は初めてで、思わず顔に熱が集まる。それを隠すように彼女から顔を逸らし、『……あんたも、なかなかうまいじゃない、ピアノ』なんてらしくもない言葉を吐いた。
そして、アミラは言ったのだ。『私、もっとメリーと歌いたい』って。
ただただ、その言葉が嬉しかった。誰かに求められたことなんてなかったから。
アミラは変な子だった。バカな子だった。
そんなバカなアミラが、初めて出来た友人が、本当は心から好きだった。
『アンタ変な子だけど、曲作るまで待っててあげる。それで、いつか二人で歌いましょ、とびっきり大きいステージでね』
『……もちろん! 絶対ね! 約束よ!』
あの日交わした二人の約束も、いつかきっと、果たせると思っていたのに。
『──ねえ、最近さ、アミラって付き合い悪いよね』
ふと通りかかった広場で、不意にメリールージュはそんな声を聞いた。彼女は身を潜め、そっとその場で聞き耳を立てる。寄せ固まって話していたのは同世代ぐらいの複数人の子どもだった。
『どうする? アミラも誘う?』
『来るかなあ。最近よく断るよね』
『ねえねえ、私ちょっとアミラの噂聞いたんだけどさ、メリールージュと一緒にいるところ見たって子がいるらしいよ』
『ええー!?』
唐突に自分の名前が飛び出したことで、メリールージュの胸がどきりと跳ね上がる。『メリールージュって娼婦の娘?』『そうそう』と続いていく会話をじっと聞きながら、メリールージュはぎゅっと唇を噛み締めた。
『えー、アミラ、娼婦の娘とつるんでんの? ちょっと引くねー……』
『明日からアミラと遊ぶのやめようかなあ』
『どうする? アミラも娼館でこっそり働いてたりしたら!』
『えー、やだキモい!』
ちがう、と心の中で叫んだ。アミラはそんな子じゃない。バカだし、空気は読めないし、変な子だけど、あの子はすごく──。
そこまで考えて、ハッとした。そんなことはきっと、あの場にいる彼女達も分かっている。アミラの評価を落とし、悪い噂を流され、その肩身をどんどん狭くしてしまっている原因は、どう考えても──自分だ。
(……私が、アミラと、いるから……)
──私が、アミラを苦しめてる。
幼い彼女の出した答えはそれだった。
『──メリー! 聞いて! 今日ね、ピアノの先生にすごく褒められたの!』
後日、アミラはいつも通りの満面の笑みでメリールージュに駆け寄って来た。対するメリールージュは浮かない表情で俯き、駆け寄るアミラから目を逸らす。
『私、新しい曲が弾けるようになってね! それですごく褒められたのよ! でね、その曲がとっても綺麗なメロディーだったから、もしかしたらメリーも好きかなって思って、』
『アミラ』
ぴしゃりと、遮るように彼女の名を呼んだ。アミラはぱちりと不思議そうに瞬く。
『……私、仕事を始めることになったの』
『……仕事? 何の?』
『踊り子よ』
『踊り子……!?』
アミラは目を見開いた。それもそうだ、年端も行かない子どもが、男の下卑た視線に晒され、自らの肌を曝け出し、ステージ上でぶっ通しで踊り続ける厳しい世界に足を踏み入れようとしているのだから。
もちろんアミラは止めた。しかしメリールージュも引けなかった。
『これからは忙しくなるから、あんまり会えないわ』
『……そんな……』
『それじゃあね』
そう言って彼女と別れた。そしてメリールージュは、踊り子の世界へと足を踏み入れたのだ。
噂通り、踊り子の世界は厳しかった。肌を露出し、見ず知らずの男のいやらしい視線に晒されると、最初は鳥肌が止まらなかった。──けれど悲しいことにそんな視線や露出にも次第に慣れて行ってしまうもので、男を手玉に取り、妬み嫉みのヤジを躱して、数年後にはあっという間にメリールージュの人気は劇場トップにまで上り詰めていた。
元々、容姿は美しかったから男は押し寄せるようにメリールージュの元へ群がったし、ステージ上で踊るのも嫌いではなかった。
でも、やっぱり何か足りなくて。
『メリー……』
『!』
時折、アミラは劇場の外でメリールージュを待ち伏せていることがあった。その度に心配そうな目で見つめられ、ぎゅっと胸の前で握りしめている楽譜を、大事そうに抱えていて。
胸が、苦しくなってしまう。
本当は突き放したくない。一緒に居たい。歌いたい。
けれどそのせいで彼女が苦しむのは嫌だった。──それだけは、耐えきれなかった。
『今忙しいの。じゃあね』
そう冷たく突き放す度、アミラは悲しげに瞳を揺らした。けれど決して諦めなかった。彼女の諦めの悪さは知っていた。だってアミラの諦めが悪いお陰で、二人は友達になれたのだから。
(街を、出たい)
いつしかそう思うようになった。ただただ、アミラの居ない街に行きたかった。そうじゃないと諦めの悪い彼女はずっと追いかけて来る。悲しげに瞳を揺らす彼女の顔を見るのはもう嫌だった。
あなたは何も悪くない。私が勝手に距離を取っているの。だから悲しそうな顔をしないで、アミラ。──そう何度も心の中で繰り返した。
もう、追いかけて来なくていいのよ、って。
『ねえメリー、待って! この街を出て行くなんて嘘でしょ!? 約束したじゃない、一緒に歌おうって……!』
それでもやっぱり、彼女は追いかけて来るから。
『アミラ、アンタ相変わらず馬鹿なのね。何年前の話してんの? そんな約束忘れたわ』
『そんな……そんなの、嘘よ……。ねえ、どうして何も相談してくれないの? 私知ってるよ。メリー、本当はずっと無理してたでしょ……?』
やめてよ、バカ。
『うるさい! 離して!』
大事に持っていた楽譜ごと、アミラの体を突き飛ばした。
『……っ、楽譜が……!』
『……!』
泥にふやけて行く「約束」を苦々しく見つめて、メリールージュは身を翻した。背後で叫ぶアミラに背を向け、彼女は逃げるようにその場を後にする。
メリールージュはひたすら早足で歩き続けた。アミラが追いかけて来るのを恐れて、ただ必死に。
(私が……私が居なくなれば、あの子はこの街で幸せに暮らせるの)
だから、追いかけて来ないで。
そう思って、いつのまにかヒールを打ち鳴らしながら走っていた。静かな小道にヒールの音が響き渡って──そしてふと、メリールージュは健気で儚げな少女の頬をぶったことを思い出す。
(──あ)
ぴたりと、メリールージュは足を止めた。
翡翠の目を細め、繕った笑顔を振りまいていた彼女。『トキさんのことをよろしくお願いします』と、泣き出しそうな声で呟いた彼女。
あの時、メリールージュは彼女に対して激しく怒りを感じた。すんなりと自らを
その原因は、きっと。
(私──)
「──私、あの時……あの子に、自分を重ねていたのね」
ぽつり、メリールージュは呟く。大粒の雨の中、昔よりも少し小さく感じるようになったブランコに腰掛けて、一人。
キイ、キイ、と錆びたワイヤーが鳴いて、揺れる。冷たい雨に打たれながら、メリールージュは空を仰いだ。随分と泣き虫な、暗い顔ばかりの空。
セシリアの頬をぶったあの時、メリールージュは確かに苛立った。トキが彼女のことを大事に思っているのを知ってしまっていただけに、自らを
お互いに思い合っている二人が自ら離れようとするのを側から見ると、こんなにも苛立つのかと思い知ってしまって──そして、気がつけば殴っていたのだ。殴られるべきは己だというのに。
「……ほんと、反吐が出るわね……私……」
ふ、と乾いた笑みが漏れる。彼女はそっと目を閉じ、大きく息を吸った。
「──むーかし青の王子様ー、緑の中で出会ったよー、見目麗しき女神様ー」
久しぶりに震わせた喉は、酒と煙草のせいで少し枯れているように思えた。ザアザアと耳障りな雨の音が纏わり付く中、自分の声が鮮明に響く。
──恋に落ちた王子様、どうか結ばれてくださいと、告げて指輪手渡した
しかし女神は首を振る、この身はあなたとは違います、私は受け取れないのです、あなたの手もその指輪も
それでもいいよと王子様、告げる女神の手を取って、一緒にいるよと誓います
どうか叶うことならば、このままずっと幸せに、どうかどうか幸せに
美しき恋人微笑んだ、ああ時よ永遠に、ああどうか永遠に──
一通り歌い終わって、メリールージュはゆっくりと瞼を持ち上げた。──そして、彼女は目を見開く。
「──ねえ、あなたって、素敵な声ね。昔から、ずっと」
「……!」
目の前には、青いレインコートを身に纏っているアミラの姿。そこで彼女はただ穏やかに微笑んでいた。メリールージュは目を見開いたまま、その場で硬直してしまう。どうしているの、と、そんな声すら出せなかった。
固まったまま目を見開いている彼女に、アミラは一歩一歩、少しずつ近寄って行く。
「ねえ、メリー。覚えてる? 私ここで、いつもメリーにしつこく迫ったよね。歌って、って」
「……」
「私ね、メリーの歌が大好きよ。メリーのことも大好き。だから、私、まだあなたとの約束を諦めきれないの」
にっこりと彼女は微笑み、しわくちゃになった楽譜をメリールージュに差し出した。インクの滲んだそれは、自分があの日泥水に沈めたものだとすぐに分かって。
「……どう、して……」
「あら、忘れたの? 私、風魔法が得意なのよ? 泥水でふやけたって、こんな紙切れぐらい、ちょちょちょーって乾かせちゃうんだから!」
ふふん、と得意気に笑って彼女はくるりとその場で回る。バレリーナとは似ても似つかないその動きにメリールージュは呆れ、やがて自然と頬が緩んだ。ああ、本当に、変な子。
「……やっぱ、相変わらずバカね、アンタ」
「ええっ!? ……な、何よぅ……バカなのはそっちでしょ、バカメリー!」
「……」
むう、と頬を膨らませながら楽譜を差し出している彼女を一瞥し、メリールージュは小さく笑った。そしてそのまま、手渡されている楽譜をアミラの手から受け取る。
「……!」
「いいえ、バカなのはやっぱアンタの方よ」
メリールージュは立ち上がり、真っ直ぐとアミラを見つめる。そしてちらりと手元の楽譜に目をやった。
取り繕わず、久しぶりに話をしてみたら、随分と心が軽くなったように感じる。投げ捨てたはずの
「……楽譜なんか渡されても、私が読めるわけないでしょ」
「……あ!!」
ガーン! と、アミラは分かりやすく口元に手を当てる。「うっかりしてた、」と言わんばかりの反応が可笑しい。
ああ、バカね。本当にバカな子。
アミラの能天気さに絆されて、つい、らしくもないことを口走ってしまった自分も相当な大バカ者なのだけれど。
「──だから、“秘密の場所”でアンタが弾いて聴かせなさいよ」
「……え」
まん丸と、目の前の瞳が大きく見開かれる。そんな彼女を無視して、メリールージュはすっと彼女の横を通り抜けた。
ああ、まるで、あの日と同じね。
「……ほら、早く行きましょ。風邪ひいちゃうじゃない」
ぽかん、とアミラは暫く呆気にとられていた。しかしややあってようやく我に返り、彼女は前を歩くメリールージュを慌てて追いかけ始める。
降り注ぐ雨は冷たいのに、じんわりと暖かいものが胸に満ちていた。ついでに目頭まで熱くなってくる始末。アミラはごしごしと目を擦り、精一杯笑った。
「……うん! 弾く! 私、メリーと一緒に歌いたいから……!」
「……へえ。それじゃ、」
──お手並み拝見と行きましょうか。
不敵に微笑むメリールージュに、アミラもまた微笑み、深く深く頷いたのだった。
2
「──おい、アンタ本当に大丈夫なのか?」
「はい! もう元気いっぱいです!」
ぐっと両の手を握り締め、すっかり回復したらしいセシリアが満面の笑みをトキに向ける。トキは半信半疑だったが、確かに熱は引いたようなので「まあいいか」と小さく息を吐いた。
二人は荷物を纏め、街を出る準備を済ませたところであった。トキの得た情報によると明日は例の「晴天祭」らしく、とんでもない数の人が出入りするのだという。そこで、前日のうちに二人は街を出ようとしている、の、だが。
「……やっぱり、あと一日ぐらいは安静にしておくべきじゃないか? アンタまだそこまで食欲も戻ってないだろ」
「大丈夫ですよ、もう歩けますし、頭痛も治りましたし……。少し多めに休憩取りながら行けば問題ないです」
「本当だろうな。また何か無理してるんじゃ……」
「もう、トキさん一体どうしちゃったんですか? 大丈夫ですよ、体調悪くなったらすぐに知らせますから……」
やたらとセシリアの体調を気にかけて来るトキに、一体どうしたのかとセシリアが逆に困惑してしまう。普段なら「治ったんなら行くぞ」と素っ気なく返されてとっくに出発している頃合だろうに。
「……本当に、何ともないんだな?」
更に念を押され、セシリアはこくこくと頷いた。それでも彼は何やら訝し気な表情だったが、これ以上付き合って居ては埒が明かないとセシリアは自分の荷物を背負い上げる。
「さ、行きましょう! また雨が強くならないうちに!」
「……おい、本当に何かあったら言えよ。分かったな」
「分かりましたよ、もう……! 大丈夫ですから!」
しつこく念を押して来るトキにセシリアは苦笑を返し、ようやく、二人は宿を出たのだった。
外は相変わらず雨。
街の中は既に人の数が多くなり始めており、賑やかな通りの様子にトキは苦々しく舌を打つ。そしてふと、彼はセシリアに右手を差し出した。
「……アンタ、はぐれそうだから握ってろ」
「……はい!?」
想定外の発言に、セシリアは素っ頓狂な声を上げる。戸惑いがちに視線を泳がせれば、彼は苛立ったように眉根を寄せた。
「……何だ」
「い、いえ、あの……、そ、それって手を握れって、こと? ですかね?」
「それ以外に何があんだよ」
呆れたような視線がセシリアを射抜く。彼女は盛大に戸惑い、混乱していた。どうした。本当に一体どうしたというのだ、彼は。
(と、トキさんが優しいなんて、一体何が……。い、いや、元々優しい人ではあるんですけど、何というか、以前はこんなあからさまではなかったような……)
ぐるぐると考え、更に頭の中がこんがらがる。よっぽど自分をここに置いて行こうとしていたことを反省しているのだろうか。それも多少はありそうだが、それが全てというわけでも無さそうで。
そうこう考えながら視線を泳がせているうちに、彼はとうとう痺れを切らしたのか、チッ! という豪快な舌打ちと共に強引にセシリアの手を取った。がっしりと手を繋がれたまま、彼は人波を縫って歩き始める。
「ちょっ……! と、トキさん! 待ってください!」
「チンタラしてんじゃねーよ。置いていかれるの嫌なんだろ」
「嫌です!」
ひしっ、とセシリアはトキの手を強く握り締めた。そんな彼女の素直な反応にふっと頬を緩めながら、彼もまた華奢なその手をしっかりと握る。
「じゃあ、離れるなよ」
「……っ」
やんわりと薄く微笑んだ彼の横顔に、セシリアの胸が突然大きく高鳴った。それを皮切りにドキドキと忙しなく心臓が早鐘を打ち始める。彼女はパッと視線を逸らし、あっという間に熱を帯びた頬を片手で押さえた。
(……え、え……? 何、今の)
きゅん、と胸が締め付けられるような感覚だった。胸が締め付けられると言っても、メリールージュと彼が二人でいるところを想像した時に感じたような、嫌な感覚ではなくて。
切ないような、暖かいような。太陽の光を眩しいと感じて目を細めた時とよく似た、胸の奥の知らない感覚。
「……?」
謎の感情にセシリアは首を傾げた。暫く考えてみても、その感情の名前は見つからないままで。
そうこうしている間に、二人は街の中心部から随分と遠ざかっていた。人も次第に少なくなり、周辺には鬱蒼とした木々が広がっているばかり。地面も徐々に泥濘んで、セシリアは足が縺れないよう懸命にバランスを取った。
ふと、彼女の耳が音を拾ったのも、そんな時で。
「……待って、トキさん」
「あ?」
「何か、聴こえませんか?」
唇の前で人差し指を立て、彼女は口を噤む。トキもまた、同様に口を閉じて耳を澄ました。
そして二人の耳に届いたのは、どこからともなく聴こえて来る、美しいピアノの音色と歌声で。
「……誰かが、歌ってる」
「……」
「……綺麗な声ですね」
しとしとと降る小雨の中で響く歌声に、セシリアはほう、と息を吐いた。トキは黙ったまま、歌声のする方向へと視線を向ける。
薄紫色の彼の瞳には、森の中にひっそりと佇む、廃教会の寂れた十字架が映っていた。
「……へえ。どうやら上手いこと修復出来たらしいな」
「……え?」
「いや。こっちの話だ」
彼はそっと目を逸らし、再び歩き始める。すると不意に、眩しい光が視界に入って二人は頭上を仰いだ。
「……あ!」
「……」
セシリアが明るい声を上げ、表情を綻ばせる。ぽつぽつと降り注いでいた冷たい雫は、いつの間にか止んでいた。
「見てください! お日様が見えます!」
「……そうだな」
「すごい! 晴れた! あ、見てください、虹も見えますよ!」
「分かったからはしゃぐな、転ぶぞ」
頭上を仰いで笑う彼女に一言忠告して、いまだに繋がれたままの手を引いた。セシリアはよたよたとよろけつつ、雲の隙間から顔を出した青い空の下を歩き始める。
トキは再び廃教会を一瞥し、ふっと口元を僅かに上げた。澄み渡る美しい歌声が、明るく陽の差した森に溶けて行く。
「……まだ晴天祈願のお祭りの前なのに、晴れちゃいましたね」
穏やかに笑うセシリアの言葉に、トキは「ああ」と空を仰いだ。
「お天道様まで、二人の歌が先に届いちまったんだろ」
「……二人の歌?」
「いいや、何でもない」
ふっと小さく笑って、トキはセシリアの手を引く。二人はどこからともなく流れて来る美しい歌声を聴きながら、雨の街マリーローザを後にした。
「いつかアンタも、ステージ上で歌うアイツらを見て知ることになるさ」
ぽつりと呟いた彼の言葉に、セシリアは不思議そうに瞬いて、首を傾げるばかりなのであった。
.
〈雨の街と二人の歌……完〉
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