第36話 アンタのことを
1
ふらふらと、壁際を這うように覚束無い足取りで歩いて行く。カビの生えた冷たい煉瓦に頬を預け、汚いと頭の中で分かっていても離れられるような力さえ出なかった。
はあ、はあ、と苦しげな呼吸だけが繰り返され、気を抜けば膝を折って座り込んでしまいそうになる。セシリアはぼんやりと霞む視界の中、焦点の合わない目を細めて懸命に前へと進んだ。
(……はやく、アデルを探しに行かないと……)
愛しい相棒の姿を求め、セシリアは雨水の溜まった路地を一歩ずつ歩んで行く。頭はガンガンと痛み、背中が寒くて凍えてしまいそうだった。けれど立ち止まるわけには行かない。
(……トキさんからも、離れないと)
これっきりでお別れだと彼は言った。もう二度と会うことはないと、その背中が告げていた。
セシリアは溢れそうになる涙を抑え、濡れた壁沿いに凭れながら進む。こんな事で泣いていては神様にも、修道院の人々にも呆れられてしまう。
そう考えた時、つるりと足元が滑った。短く悲鳴を上げる間もなく、セシリアの体は泥水に浸かる。
「……う……」
ぐらぐらと、世界が回るようだった。どこが前で、どこが後ろで、どっちが上で、どっちが下なのか。もう何もわからない、考えられない。頭がぼんやりと白んで、頬に冷たい雫が流れた。それが涙なのか雨粒なのかも、理解が追い付かなくて。
「……アデ、ル……」
ぽつりと、友人の名前を呼ぶ。次いで、セシリアの口からは次々と名前がこぼれた。
「……シスター……、ジーン……、マルク……」
脳裏に浮かんだのは、記憶を失くした自分を修道院で保護し、家族のように共に過ごしていた人々の顔。彼らの名前を
「……ト、キ、さん……」
こぼれ落ちた声は、強く降り注ぐ雨の音に一瞬で掻き消されてしまう。セシリアは大きく呼吸を繰り返したが、もはや立ち上がる気力すら湧かなかった。
そして不意に気付いてしまう。今名前を呼んだ誰一人として、自分のそばには居ないのだという事を。
「……わ、たし……」
──ひとりに、なっちゃったんだ……。
まざまざとそう感じて、セシリアは小さく乾いた笑みをこぼした。もう喜怒哀楽すらも分からなくなったのかもしれない。とにかく寒くて、頭が痛くて、徐々に瞼が重くなる。
(……もう、だめかな……)
そっと首元に手を触れた。忌々しい痕跡の残るその場所の全てを思い出せないまま、自分は死んでしまうのだろうか。
(……嫌だ、な……)
私、何のために旅をしていたんだっけ。そんなことすらぼんやりとしか考えられないほど朦朧とした意識の中、ふと頭の中に過ぎったのは青く輝く宝石の光。──ああそうだ、私、あの宝石が大切だった。でも、どうして大事にしていたんだっけ、などと考えている間にも、セシリアの瞼が重く閉じ始めて。
「プギ! プギー!」
しかしふと、薄れ掛けていた彼女の意識を現実へと呼び戻したのはそんな鳴き声だった。セシリアはハッと瞼を持ち上げる。すると目の前で、ピンク色の豚のような小さな生き物がセシリアに擦り寄っていた。
それは先日、恐怖の幻覚を見せて森の中へと逃げて行った魔物の子どもで。
「……ストラフティル……?」
「プギ、プギギ……」
恐怖の化身──ストラフティル。目が合うと相手の一番恐れている物の幻覚を見せることが出来る小型の魔物である。
ストラフティルは倒れ込むセシリアの頬をぺろぺろと舐め、青い瞳で心配そうに見つめていた。プギ、プギ、と彼女に擦り寄るその姿に、セシリアはじんわりと目頭が熱くなる。
「……心配して、くれてるの?」
「プギギ……」
「……ふふ……あなた、とっても、」
優しい子、ね……。
力無く微笑み、彼女の身体からは徐々に力が抜けて行く。そのままぐったりと動かなくなってしまったセシリアに、ストラフティルは「プギ、プギ!」と鼻を鳴らして呼び掛けるように擦り寄った。──しかし、彼女の瞼は開かない。
「……プギ……プギィ……」
オロオロと、ストラフティルは戸惑うように弱々しく鳴いた。しかし不意に、その鼻が覚えのある香りを捉えてぴくりとストラフティルは反応する。
「……プギ!」
そのままストラフティルは身を翻し、短い手足を懸命に動かして走り始めた。森の中で出会った、もう一人の人間の匂いを辿って──。
2
「……っはあ、はあ……!」
ばしゃ、ばしゃ、と足元の悪い路地を風のようなスピードで駆け抜ける。吹き荒ぶ風と殴りつけるような雨のせいで視界は悪く、狭い範囲でしか人の顔を判別することが出来ない。
そんな中、トキは息を切らして走り続けていた。しかしいくら走ったところで、広い街の中からたった一人の少女を見つけ出すのは至難の業。なかなかその姿に追い付くことが出来ない。
(……くそ、どこにも居ねえ……!)
彼は壁に凭れ、膝に手を付いて乱れた呼吸を整える。冷たい横殴りの雨は容赦なくトキの体温を奪って行った。健常な自分ですら肌寒く感じるのだから、高熱を出している彼女はもっと寒いだろう。そもそも、あんな状態でこの気候の中を長時間彷徨えるとも思えない。
(……頼むから、どっかで死んでたりすんのだけはやめてくれよ……!)
ぐっ、と拳を強く握り締め、彼は再び雨の中へと飛び出す。しかしその直後、どこからとも無く「プギー!」という間の抜けた声が響いたことで彼は足を止めた。
「……!」
「プギ! プギー!」
鳴きながら駆け寄って来たのは、先日も見たピンク色の子豚のような魔物・ストラフティル。本来森の奥に住んでいるはずのストラフティルだが、なぜこんな街の中に? などと考えている間にストラフティルはトキの元へと辿り着き、突然彼のブーツに噛み付いてそのまま強く引っ張り始めた。
「……!?」
「プギー! プギー!」
「……な、何だこいつ……! 俺は今忙しいんだよ、どっか行け!」
「プギギ! プギー!」
ぶんっ、と足を払っても、ストラフティルはしつこくブーツに噛み付いたまま。ぐいぐいと引っ張るその行動が、まるで「こっちに来い」とでも言っているように見えて、彼は訝しげに目を細めた。
(……そう言えばコイツ、この前やたらとセシリアに懐いてたが……)
そこまで考え至って、不意に頭の中で一つの可能性が浮上した。トキは必死にブーツを引っ張るストラフティルを見下ろし、まさか、と眉根を寄せる。
「……あっちに、アイツが居るのか?」
半信半疑のまま問い掛ければ、ストラフティルはパッと顔を上げた。そのまま身を翻し、時折振り向きながら「プギ! プギ!」とどこかへ
「……っ」
彼は迷ったが、他に行く宛もない。少しでも可能性があるのなら、そちらに賭けてみようと結論を出した。
トキは濡れた地面を蹴り、ストラフティルを追う。短い手足でパタパタと坂道を滑り下りるピンク色の豚の後に付いていけば、ふと見慣れた金色の髪が泥水の真ん中に倒れているのが見えた。
「──セシリアッ!!」
トキは声を張り上げ、ストラフティルを追い越して即座にその身体を抱き上げる。冷え切って青白く染まった彼女の顔色に、ゾッとトキの背筋が凍り付いた。
「……っ、セシリア! おい! 起きろ!」
怒鳴るように呼び掛けた頃、ストラフティルもようやく二人の元へ辿り着く。同じくセシリアの瞼もぴくりと動き、それを見逃さなかった彼は更に彼女に呼び掛けた。
「おい! しっかりしろよ……!」
「……、トキ、さん……?」
うっすらと、翡翠の瞳が開かれる。しかし彼女は未だに意識が朦朧としているのか、トキの顔を見ても現在の状況がピンと来ていないようだった。
「……夢、かな……」
更にはそんな発言まで飛び出し、トキの眉間に深い皺が刻まれる。
「……はあ!? 何言ってんだアンタ……!」
「……だって……夢じゃないと、おかしいです……」
ぽつぽつと、力の無い声でセシリアは言葉を紡いだ。
「……だって、トキさん、私とはお別れだって……目の前から消えてくれって、言ってたもの……」
「……っ」
「……でも、私……私が……」
きゅ、と弱々しい力でトキの手が握られる。セシリアは青白い顔のまま、穏やかな笑みを浮かべた。
「……私が、最後にトキさんに会いたいって、思ったから……夢に出て来てくれたのかな……って……」
「……!」
「そう、思っ……て……」
ゆるゆると、握られた手の力が抜けて行く。再び閉じられそうになる瞼をこじ開けるように、トキは「おい!!」と大声で怒鳴った。力無く呼吸を繰り返す彼女の姿は今にも消えてしまいそうで、ゾッと背筋に寒気が走る。
それは遠い日に見た、己の父と母の最期の姿と重なった。
真っ赤な血に染まり、瞳孔を見開いて、もう二度と自分の名前も、笑い声も、口煩いと思っていた説教すらも、その唇の上に乗せられることは無いのだと悟った時の、あの感覚。
──ごめんね、トキ。
そして泣きながら微笑むジルの、最期の姿が鮮明にフラッシュバックして。真っ赤に噴きこぼれる血と、美しく微笑みを浮かべて倒れる彼女。ばいばい、と音を発せない唇が力無く動いて、彼女もまた、瞼を閉じた。
(やめろ)
──その光景を眺めながら、あの男が笑う。青く輝く宝石を持って。絶望を孕んだ、青く美しいその輝きが、ジルの死に顔を哀しげに映し出していて。
(やめろ!!)
ぎりっ、とトキは奥歯を噛み締め、セシリアの体を強く抱きしめる。──嫌だ、もう二度とあんな思いはしたくない。
腕の中のセシリアを抱き上げ、彼は立ち上がると地面を蹴って走り始めた。「プギ!?」とストラフティルも焦ったようにその後を追いかける。
「おい、起きろ……っ、最後とか言うなよ……!」
「……」
「頼む、死ぬな……! 俺が、……俺が悪かったから……!」
冷たい雨から守るようにセシリアを抱き締め、トキはバシャバシャと飛沫を散らして走った。彼の呼び掛けにセシリアは答えない。ただ、浅く短い呼吸を繰り返しているだけで。
横殴りの大雨が二人の体温を容赦なく奪い、指先が
バアン! と豪快に駆け込んで来たトキの姿に、ロビーで談笑していた客や受付の従業員らが一様にどよめく。しかしそんな周りの視線になど目もくれず、トキはカウンターの女性に駆け寄ると鬼気迫る剣幕で怒鳴った。
「急いで街医者を呼んでくれ!!」
3
「──トロイラに感染しているようですね」
宿に駆け込んで数十分、セシリアに下された診断はそれだった。
病院になどほとんど行った事のないトキは病名を聞いたところでピンと来ず、黙って眉を顰めるばかり。それを察したのか、街医者は「ああ、そんなに身構え無くても大丈夫ですよ」とあっけらかんとした様子で続けた。
「虫刺されから感染して、高熱や頭痛、目眩などの症状が出る病なんですが、薬を飲めばすぐに治る病気です。おそらく森や山などでトロイラ菌を持った虫に刺されたんでしょうね。最近そういったところに行かれたりしました?」
「……まあ、野宿は何度か」
「はあ、野宿ねえ……」
医者は呟き、じろじろとトキの全身を訝しげに眺める。トキが更に眉を顰めると、医者は小さく息を吐いて鞄に診察具をしまい始めた。
「……この方、身分の高い神官様でしょ? アンタみたいな賊がどこから攫って来たんだか知らないが、あまり無理はさせないように。住む世界が違う人なんだから」
「……」
「それじゃ、お大事に」
嫌味のように吐き捨て、小瓶に入った薬を置いて医者は部屋を出て行く。トキはチッと舌を打ったが、己の風貌を客観視してしまうと彼の発言にも納得せざるを得ないため反論は一切出来なかった。
着古して薄汚れた衣服に、履き潰されたブーツ。ストールは至る所が解れたり破けたりしている上に、肌に古傷があったり髪が無造作に伸びっぱなしであったりと、一見してロクな人生を送って来なかったことが見て取れる。
対する目の前の聖女様は、泥で汚れているとはいえ普段着ているワンピースの生地は上等なものだと分かるし、何よりローブに掲げられた修道院の神聖な標章が彼女の身分が高貴なものであることを示していて。本来光の世界を生きるべき彼女が、薄汚れたドブ川のネズミと共にいるべきではない。トキもそれはよく理解していた。
「……」
青白い顔で眠る彼女の頬に手を触れる。先ほどの医者が打った注射によって、容態は幾分かマシになったようだった。
トキは小さく息を吐き、ぽすりと彼女の腰付近に額を落とす。
彼女が起きたら、まず何と言うべきか。
言いたいことは多々浮かんだが、とりあえず一言謝っておこうと、そう素直に思えた。随分と丸くなったもんだな、と二ヶ月前の己の姿を思い返して自嘲する。過去の自分には呆れられてしまうだろうか。だが、そんな事すらもうどうでもよかった。
穏やかに繰り返されている彼女の寝息を聴きながら、彼はそっと目を閉じる。
──俺はもう、きっとアンタのことを裏切れない。
緩やかに遠のいて行く意識の中、そう思った。
4
「──ん……」
ふっと意識が覚醒して、セシリアはゆっくりと瞼を持ち上げた。白い天井がぼんやりと視界に入って、彼女は不思議そうに瞳を瞬く。
(……あれ……ここどこ……? 私、死んじゃったのかな……)
きょろり、視線を動かせば水の入ったポットが目に入った。それを確認した途端、喉がからからと一気に乾いたような気がして。
(変なの、死んじゃったのに、喉って乾くんだ……)
セシリアはのそりと起き上がって手を伸ばし、ポットからコップに水を移す。ここは夢の中なのだろうか。それにしては水が喉を流れて行く感覚が妙にリアルだなあ、とぼんやり考えた。
コップの水を飲み干し、小さく息を吐き出した頃、不意に彼女の目は切なげに細められた。そしてゆるゆると頬を緩め、ああ、やっぱり夢なんだなあ、と儚げに笑う。
(……だって、トキさんが居るもの)
視線の先には、自分の腰付近に頭を預けて眠っているトキの姿。そばに居るはずのない彼の穏やかな寝顔を見つめ、セシリアはそっと手を伸ばした。
さらりと、黒い髪が指の間を通り抜ける。ゆっくりと、我が子を慈しむような手つきで彼の頭を撫でた。我ながら都合のいい夢だ。警戒心の強い彼が、こんな風に大人しく頭を撫でられるはずもないのに。
無造作に跳ねた癖っ毛の髪。夢の中でさえも手袋を外した手で直に触る勇気が出ないのが残念だが、手袋越しでも彼の髪が意外と柔らかいということが分かる。まるで大きな黒猫を撫でているような感覚になってきて、セシリアは「ふふ、」と穏やかに微笑んだ。
「……可愛いなー……」
「……は? 誰が可愛いんだ」
「!?」
ぽつりと呟いた瞬間、閉じていたはずの紫の瞳がぱちりと開眼する。同時に不服げな声が上がり、セシリアはびくっと肩を震わせた。
「へ、え……!? と、トキさん……っいつから起きて……!」
「……アンタが水飲んでたぐらいから」
「ほぼ最初じゃないですか!」
かあ、と頬が急速に熱を持つ。彼は気だるそうに起き上がり、パキパキと首を鳴らした。
突然の展開に身を強張らせたセシリアだったが、ふと力んでいた体の力を緩める。よくよく考えたら、これは夢。別に焦る事なんてないじゃないか。
(……そうよね。現実だったら、トキさんが大人しく頭なんて触らせてくれるはずがないし……)
うんうん、と自分を納得させ、セシリアはにこっと微笑んだ。そんな彼女にトキは訝しげな視線を向ける。
「……あ? 何ニヤついてるんだアンタ」
「……ふふ、夢の中でもトキさんは口が悪いんですね」
「……はあ? 夢?」
何言ってんだこいつ、とでも言いたげにトキは眉を顰めた。しかし未だにセシリアは目の前のトキを己の幻想だとでも思っているようで、にこにこと間の抜けた笑顔を振りまいている。
そんな彼女の穏やかな笑みが随分と久しぶりなように感じられて、トキは漏れ出しそうな揶揄を飲み込むと暫し押し黙った。そんな彼にセシリアは手を伸ばし、またもその髪に触れる。
「……っ、おい……」
「トキさんって、大きい猫さんみたいですよね」
「は?」
「普段はあんまり人に寄り付かないけど、本当は優しくて、実は心配性で、でもちょっとだけ、臆病で寂しがり屋」
セシリアはトキの頬や髪を撫で、慈しむように目を細めた。そのままぐっと引き寄せれば、彼の頭がすっぽりと彼女の腕の中に包まれる。セシリアはトキの髪に頬を擦り寄せた。トキは何も言うことが出来ず、ただ目を見開いて彼女の体温に包まれるばかりで。
「──私、あなたの存在に、ずっと救われていました」
「……」
「メリールージュさんと一緒に旅立っても、どうか、無事に旅を続けられますように。神と共に、私はあなたの無事を祈っています」
それだけを囁いて、彼女の体温がゆっくりと離れる。交わった視線の先にあるその表情は穏やかだったが、どこか儚げで。
トキは眉根を寄せ、口を開いた。
「……そんな祈りは無意味だぞ」
「!」
「ここは夢の中なんだろ? だったら、神なんているわけない。どんな祈りや誓いも、アンタの信じる神とやらには届かない。……だから、俺は──」
彼は淡々と言葉を紡ぎ、まっすぐとセシリアを見つめる。紫色の彼の瞳が、揺れる翡翠の瞳と交わって。
「……俺は、アンタに聞く。だからアンタが答えろ」
「……」
「……アンタは、本当はどうしたい?」
彼はそう問い掛け、セシリアの目を見つめた。セシリアは戸惑ったように瞳を揺らし、声を詰まらせる。
「……わた、しは……」
「……」
「……私……」
視線が泳いでしまい、セシリアは俯いた。我が儘を言ってはいけないと、頭の中では分かっている。自分は民衆に寄り添い、神に仕える信教徒として、彼の選んだ道を見守るだけ。咎めることなど出来ない。
だが、ここは夢の中だ。
神は見ていないと、彼は言う。彼自身も自分が作り出した幻に過ぎないのだから、もし我が儘を伝えたとしても困らせることはない。
「…………たい……」
そう考えると、無意識のうちに口が動いていた。
「……私、は……っ」
「……」
「私は……っトキさんと、一緒に居たい……っ!」
一度こぼれ落ちてしまうと、驚くほどに脆かった。途端に決壊してしまった涙腺からはぼろぼろと大粒の涙が滑り落ち、毛布に染みを落として行く。セシリアはトキの胸に凭れ掛かり、縋るようにぎゅっと彼のインナーを握り締めた。
「……っ、離れたく、ないです……」
「……」
「お願い、トキさん……行かないで……っ、私を、置いて行かないで……!」
ひっくひっくと嗚咽をこぼし、惜しみなく涙を落としながらセシリアはトキの胸に縋り付く。震えるその華奢な肩を、トキは黙ったままトン、と強く押した。
「──!?」
ぼす、と背中に衝撃を感じて、セシリアは目を見開く。彼女を押し倒したトキはそのまま顔を近付け、目の前にまで迫ると口を開いた。
「……行かねえよ、どこにも」
「……っ」
「……俺は、」
──アンタのことを、選ぶ。
その一言を最後に、柔らかい感触が唇を塞いだ。触れ合った唇が擦れるように上下して、啄むように唇だけが押し付けられる。舌の絡み合わない長い口付けに、セシリアは困惑していた。
(……え……え!? な、何これ……!?)
ちゅ、ちゅ、と可愛らしいリップ音が耳に届く。何度も彼と口付けを繰り返して来たが、こんな口付けは知らない。舌を絡ませていないから体液を摂取しているわけでもない、触れ合って啄むだけの口付け。
まるで恋人にでもするようなそれに、セシリアは自身の頬がカッと熱を帯びるのを感じた。
(わ、私、夢の中でこんな……! は、恥ずかし……っ)
耐えきれずに薄く口を開くが、トキは頑なに舌を割り入れずセシリアの下唇を甘噛みしたり軽く口付けたりを繰り返すばかり。そのリアルな感触と徐々に苦しくなる呼吸に、あれ、これって本当に夢? と疑念が募り始めて。
「……っ、と、トキさん、ちょっと待って……!」
「……あ?」
あまりにも羞恥心が押し寄せて、セシリアはトキの両頬を掴み、彼の口付けを一旦阻んだ。困惑に揺れる瞳を彼に向けてみれば、じとりと不服げに睨むアメジストの瞳と視線が交わる。
「……な、なんでこんな、いつもと違うキスするんですか……! いくら夢の中だからって……!」
「……アンタ、いつまで夢だと思ってんだ」
「へ……!?」
「夢じゃないぞ」
あっけらかんと言い放って、トキはぽかんと呆気に取られているセシリアの頬を抓った。鋭く感じた痛みに「いたたた!」と声を発せば、トキは「ほらな」と呆れたように溜息を吐く。
セシリアは抓られた頬を摩りながら、混乱する頭を懸命に動かして彼を見つめた。──夢じゃない。だとしたら彼は本物で、さっきの言葉も──。
──俺は、アンタのことを、選ぶ。
「……っ……!」
じわりと目頭が熱を帯び、涙が迫り上がる。セシリアは信じられないというように目を潤ませ、震える声を絞り出した。
「……じゃあ……っ、私、まだ……、トキさんと一緒に、いれるの……?」
「ああ」
「……本当に? ……置いて行かない……?」
「行かねーよ。……悪かったって」
「……っ、う……、ぅ……」
セシリアはぼろぼろと涙を落とし、両手で顔を覆う。そんな彼女の体をトキはぎゅっと腕の中に閉じ込め、ぽんぽんと不器用な左手が慰めるかのように頭を撫でた。
密着した体からはふわりとトキの匂いがして、セシリアは更に涙を落とす。ああ、夢じゃないと、その時ようやく彼女は確信した。
「……セシリア」
名を呼ばれ、セシリアは涙でくしゃりと歪んだ顔をおずおずと持ち上げる。すると、彼は今までに見たこともないぐらい優しく微笑んでいて。
「──俺は、必ずアンタから“女神の涙”を奪う。……だから、アンタは必ず俺の呪いを解け」
「……!」
「誓えよ、アンタの信じる神に。俺は信じる神なんか居ねえからアンタに誓ってやる。……魔女に取られた宝石を、俺はアンタから奪い取る。必ずだ」
至近距離で微笑む彼に、セシリアはきゅっと唇を噛み締めた。──二人が出会った、あの日。彼女が言い放った言葉を、きっと彼は覚えている。
『──あの宝石は元々私のものです。トキさんは魔女から奪うと言っていましたが、それは違いますよ。私から奪うべきなんです!』
強い決意で言い放った言葉を思い出しながら、セシリアはこくんと深く頷いた。ぽろりと涙を一粒流して、震える唇をそっと開く。
「……誓う……、誓います……っ! 貴方の呪いは、私が、必ずっ……、解きます……!」
涙ながらに誓いを立てた彼女にフッとトキは微笑んで、再びゆっくりとその唇を塞いだ。押し当てるだけのその熱が、酷く優しくて。
(……ああ、私、今……)
──きっと、世界で一番幸せな女の子だ。
なぜかそう思って、また一粒、暖かい涙が頬を流れた。
.
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