第35話 昨晩の真相
1
アミラと別れ、路地を出たトキが向かったのはメリールージュと待ち合わせている酒場だった。しとしとと降り続く雨の中、まばらな人波を縫って彼は歩いて行く。
途中、寝泊まりしている宿が視界に入ってトキは足を止めた。彼は黙ったまま宿を見つめ、目を細める。
(……アイツ、随分と熱が高かったが……一人で大丈夫なのか……?)
部屋に置いてきた聖女様の苦しげな表情を思い出してしまい、トキは苦々しげに眉間を寄せた。しかしやがて目を逸らすと、もう関係ないだろ、と自分に言い聞かせ、かぶりを振って再び歩き始める。
悪化して死んだらどうするの! と叱責するアミラの声が一瞬脳裏を過ぎるが、それすらも聞こえない振りをした。自分はセシリアの魔力に依存している身。下手に顔を見てしまったら、きっとまた迷ってしまう。
(……くそ、面倒な体になったもんだな……)
いつになったら、鈴のようにコロコロとよく笑う彼女の姿が頭から消えてくれるのだろうか。どうやったら以前のように冷たく、他人だと割り切れるのだろうか。
そう考え込んでいるうちに、彼は待ち合わせ場所である酒場の前に辿り着いていた。淡々と歩いていた彼の足はぴたりと止まり、酒場の看板を見上げる。
(……ここ、昨日来たところか……?)
チカチカと光るネオンの看板には見覚えがあった。トキが深酒の末に記憶を無くしてしまった昨日の夜、メリールージュと共に訪れた店だ。
また俺を潰そうとでも思っているのかあの女、とトキは眉間を寄せつつ、チッと舌を打って店の中へと入って行く。半ば自棄になっている彼は、上等だ、強い酒で全部忘れてやる、とそんな事を思いながら彼女の待つ部屋へと向かった。
──ガチャ、
薄暗い廊下の突き当たり。扉を開ければ強い香水の香りが鼻をついた。
メリールージュはソファ席に腰掛けて脚を組み、現れたトキに向かってにこりと妖艶に微笑む。
「いらっしゃい。待ってたわ、トキさん」
「……」
トキは何も言わず、そっと彼女から目を逸らした。そんな彼の腕に颯爽と絡み付き、メリールージュはトキをソファ席へと誘う。
相変わらずテーブル上には度数の高い酒が置かれ、部屋の奥にはベッドまで用意してあった。娼館と何ら変わらないな、とトキは眉根を寄せ、腕に絡み付いている彼女を一瞥する。
(……もういっそ、この女抱き潰して、アイツのこと忘れちまえば)
──少しは、この胸の苦しさもマシになるのだろうか。
そんなことを考えていた頃、ふと目の前に差し出されたロックグラスの中身が揺れた。ウイスキーの香りがツンと鼻の奥に入り込んで、ひやりと冷たいグラスを受け取る。
「……さ、楽しみましょ? 二人っきりで」
「……」
挑戦的な微笑みに、トキは小さく舌を打った。何が「一緒に食事でも」、なんだか。アーモンドとウイスキーしか用意されていないテーブル上を一瞥し、トキは酒を喉に流し込む。
「……俺を潰してどうするつもりなんだ?」
「……やだ、そんな風に見える?」
「少なくとも食事をさせるつもりは無さそうだからな」
空きっ腹に強い酒を流し込み、淡々とトキは告げる。メリールージュは微笑み、「だって、」と口を開いた。
「……あなたまだ、あの子のこと完全に吹っ切れてないでしょう?」
「……」
「お別れは言えたの?」
頬杖を付き、彼女もまた強い酒に口を付ける。トキは暫く黙り込み、やがて掠れた声で「……ああ」と頷いた。
「……そう。良かったじゃない。これで彼女に悩まされる必要も無いわよ」
「……」
「……私、ああいう善人ぶった子って嫌いなのよね。人に流されて、自分の意見は言わない癖に、さも当たり前のように自分を犠牲にして、それが他人の幸せだと思い込んでる」
「……!」
トキは彼女の言葉にぴくりと反応し、顔を上げた。メリールージュはどこか遠くをぼんやりと見つめ、酒に口を付けながら続ける。
「善意で向けられる自己犠牲が押し付けがましいのよ。私はいいから、あなたに任せます、って。そんなの人に全部丸投げしてるだけじゃない」
「……」
「……でもあの子は、それが人のためだと思ってる。自分が従ってればいいって。言いたい事は言わないで、自分だけが我慢すればいいって、そう思ってるんでしょうね」
メリールージュはロックグラスをテーブルに置き、表情を歪めた。
「……反吐が出るわ」
苦々しく放たれた言葉が、妙にすとんと腑に落ちる。トキは目を伏せ、穏やかに微笑むセシリアの顔を思い出した。
──トキさんがメリールージュさんと旅立つことを選んだのであれば、私は従います。
彼女はいつだって、人のために生きていた。きっと最後に顔を合わせたあの時も、彼女はトキのために、彼が心置き無く旅立てるようにとその言葉を選んだのだ。
けれどトキにとって、それは到底納得のいくものではなくて。とにかく無性に腹が立った。
だって、そんなものは。
「──嘘と同じよね」
ばっさりと、メリールージュが言い放つ。まるでトキの心を読み上げたかのような的確な一言に、彼は俯くことしか出来ない。
──嘘と同じ──全くもってその通りだ。セシリアはトキに嘘をついた。自分の意思を塞ぎ込んだ、優しい嘘。その優しさが、彼の心を苦しめているとも知らずに。
(……俺はアイツの嘘に、納得出来ていなかったのか)
いつだってそうだ。「神の教えに反するからしない」「あなたがそうしたいならする」そんな言葉ばかりを並べて、本当の彼女の言葉がどれなのか分からない。
だから、あの時の。
──ひとりに、しないで。
朦朧とした意識の中でこぼされたその一言が、やけに胸に残っていて。
(……あれが本心なんじゃないのかよ)
今更考えたところで、答えは出ないけれど。
トキは小さく舌打ちを放ち、グラスに残った酒を一気に呷った。空になったグラスをガン! と乱暴にテーブルに叩き付ければ、メリールージュがくすりと笑う。
「……あら、ごめんなさいね。嫌なこと思い出させちゃった?」
「……別に」
「ふふ、あの子のこと忘れたいんでしょ? 忘れさせてあげてもいいわよ」
するりと、白く細い彼女の腕がトキの首に回る。柔らかい胸を押し当て、じっと見つめてくるメリールージュの琥珀の瞳を、彼もまた黙って見つめた。
「……試してみる?」
そうして囁かれた声に、トキが感じたのは強い既視感で。
「──!」
──そうだ、あの時。
彼女に連れられてここを訪れ、深酒をした昨日の夜も、メリールージュは耳元でそう言った。──試してみる?──その一言の後、艶やかな彼女の唇が徐々に近づいて来たのだ。
今と、同じように。
「……っ!」
あとほんの数センチで唇が触れる、という直前。トキはぐっと両腕に力を込め、メリールージュの肩を強い力で押し返した。
唐突に体が離れたことで、メリールージュの瞳がぱちりと瞬く。トキは視線を泳がせ、ざわざわと落ち着かない胸を押さえながら俯いた。
「……っ、少し、待って、くれないか」
彼の視線は下を向いたまま、途切れ途切れに声を紡ぐ。メリールージュは暫く黙り込んでいたが、俯いたまま顔を上げないトキの様子に小さく息を吐き出すと「……あーあ、」と落胆した声を発した。
「……やっぱり、今回も受け入れてくれないのね」
「……、何……?」
不可解な発言にトキの顔がゆっくりと持ち上がる。メリールージュはフッと諦めたように笑い、再びソファに腰を下ろした。
「……あなた、昨日も私の口付けを拒んだのよ」
「……は? 拒んだ……?」
「まだ思い出せないの? 今みたいにここで、私から迫ったでしょ?」
覚えてない? と小首を傾げる彼女からゆるゆると視線をずらし、トキは黙り込む。メリールージュはやれやれと肩を竦めて首を振った。
「……まあ、無理もないわね。あなた昨日無茶苦茶な酒の飲み方してたし」
「……俺が……?」
「ええ。酒に溺れて何か忘れようとしたんでしょうね。それでそのまま、私をあのベッドに押し倒して、」
メリールージュはベッドを指差し、フッと再び口角を上げた。
「……でもやっぱり、あなたは何も出来なかった」
「……!」
「あの時、こう言ってたのよあなた。俺は、」
──俺は、アイツじゃないとダメだ、って。
その一言で、バチッ、とトキの中でどこかの回路が繋がった気がした。途切れていた昨晩の記憶が、ふつふつと蘇る。
ああ、そうだ。俺は、昨日の夜──。
2
「──何なら、今、試してみる?」
昨晩、メリールージュはそう言って、トキに唇を近付けてきた。拒むつもりなど特に無かった。口付けの相手にこだわりなど持った事も無かったし、寂れたドブ川で生きていた身分でこんな上等な女と寝れるのであればむしろ幸運だとすら思っていた。
香水の香りが纒わり付く中、ゆっくりと唇が近付く。しかしその時ふと、ストールからふんわりと石鹸の香りが漂った。
(……あ……)
脳裏に浮かんだのは、にこにこと微笑む連れの顔。食堂で彼女の濡れた髪をストールで拭いた事を不意に思い出した。おそらくあの時に彼女の髪の匂いが移ったのだろう、首元を覆うストールからはセシリアの匂いがして。
──トキさんは、誰とでもああいう事できるのかなって……! そ、そう思って……。
両手を胸の前で握り締め、不安げに尋ねる声が脳裏に蘇る。ああ今、まさにその問いの答えを示そうとしているのかと、目の前に迫るメリールージュの唇をぼんやりと見つめた。
しかし、誰とでも出来ると答えた後の、セシリアの悲しげな微笑みがふとトキの胸を締め付けて。
「──っ!」
気が付けば、メリールージュの口付けを片手で制するように阻んでいた。驚いたようにメリールージュが目を見開くが、その行動に一番驚いていたのはトキ自身である。
(……は? 待て、俺は、何を……)
不可解な自分の行動に視線が泳ぐ。しかしその後、「なあに? どうしたの?」と再び迫ってくるメリールージュの姿にぞくりと嫌悪感が蔓延って。
「……っ、やめろ!」
「!」
トキはメリールージュの体を押し返した。そんな彼の行動に、メリールージュは目を細める。
(……なんだ、これ……どうしたんだ、俺は)
胸の奥がざわめき、ぐるぐると脳内が混乱してトキは額を押さえた。頭に浮かぶ一つの可能性を拒むように、トキはかぶりを振って酒瓶を掴む。
(……そんなわけないだろ……! 違う、これは、こんなのは間違いだ……!)
どぷどぷと度数の高い酒をロックグラスの中に一気に注ぎ、氷すらも入れないまま一気に中身を呷った。さすがにメリールージュも驚いたのか、「ちょっと! やめときなさいよ!」とトキの行動を止める。
しかし彼は強い酒をストレートのまま飲み干し、焼けるような熱さが喉と頭に流れ込む感覚を感じながらメリールージュの腕を強引に掴んだ。
「きゃあ!?」
ぼすん、と乱暴にベッドへと投げ、トキは彼女の上に覆いかぶさる。脳内をぐらぐらと揺らす酒の毒が回ったのか、もう頭では何も考える気になれなかった。
トキはメリールージュの白い肌に歯を立てようと、獣のような目をギラつかせる。そうだこのまま、この女を抱き潰してやろうと、そう思っていたのに。
「──……っ」
細い腕を押さえ付けた両腕が震える。酒によって潰したはずの頭に罪悪感が蔓延る。ストールからふんわりと香る彼女の匂いが、トキの行動を咎めているようで。
メリールージュを押さえ付けた瞬間、思ってしまった。押し倒して馬乗りになった時に、探してしまった。
何かが違うと、気付いてしまった。
「……出来ない……」
ぽつり、掠れた声がこぼれる。メリールージュは黙ったまま、長い前髪に隠れたトキの目を見つめた。
「……アンタじゃ、出来ない……」
「……」
「……俺は、……俺は……」
認めたくない。信じたくない。しかしトキは気付いてしまった。自分の荒みきった暗い心の中で、たった一筋、差し込んでいた暖かい光。
『大丈夫です。私が、必ず治しますから』
──彼女の代わりなんて、他の誰にも務まるはずがなかったんだ。
「……アイツじゃないと、ダメだ……」
3
「──思い出した」
ハッキリと、静かにトキは言い放った。メリールージュは頬杖を付いたまま、「へえー」と口角を上げる。
「……なーんだ、思い出しちゃったの。つまんないわね、そのまま記憶無くしていてくれたら、うまく丸め込んで旅に付いていこうと思ったのに」
「……悪いが、アンタは連れて行けない」
トキはばっさりと彼女の言葉を一蹴し、ソファから立ち上がった。「どこ行くの?」と尋ねるメリールージュに「決まってるだろ」と即答し、彼は扉の前へと歩いて行く。
「連れのところに帰る。熱出して寝込んでるんでな」
「……あら、切り替えが早いのね。私のことはもう捨てちゃうの?」
「……そもそも拾い上げて無いんなら、捨てるも糞もねーだろ」
トキは扉を開け、ふと彼女に振り向いた。妖艶な笑みを浮かべて「なあに?」と小首を傾げるメリールージュに、トキは淡々と告げる。
「……アンタも、本当にやりたいことが別にあるんだろ」
「……!」
「……まあ、俺の知った事じゃないがな。アンタも俺も他人同士だ。今後会うこともない」
トキは冷たく吐きこぼし、部屋を出る。そのまま扉を閉めようとした瞬間、「待って!」とメリールージュが呼び止めた。
「……何だ」
気だるそうにトキが振り向く。そんな彼に、メリールージュは問い掛けた。
「……あの子は?」
「は?」
「あなたの連れよ。あの子も結局は他人じゃないの?」
「……」
メリールージュの問いにトキは暫し口を噤む。しかし程なくして、「いや、」と彼は口を開いた。
「アイツはもう他人とは言えない。仲間だ。悔しいことにな」
「……」
「アンタにも、一人いるんじゃないのか」
──他人じゃない奴が。
それだけを言い残して、トキは扉を閉めた。しん、と静まり返った一室に取り残されたメリールージュはゆっくりと視線を落とし、ぽつりと呟く。
「……知ったような事言わないでよ、何も知らないくせに」
こぼれた一言は誰の耳に届く事も無く、温い空気の中に溶けて行った。
4
ばしゃばしゃと、水の飛沫を散らしながらトキはらしくも無く走っていた。冷たい雨が頬や髪を濡らし、時折雨粒が目に入りながらも、彼はただただ走って。
宿の一室では、きっと彼女がまだ朦朧とする意識の中で苦しげな呼吸を繰り返して寝込んでいる。アミラが言っていたように、悪化して手遅れになってしまっては謝ることすら出来なくなってしまう。それだけは避けなければと、彼は足を急がせていた。
昨晩、メリールージュと別れた後、覚束無い足取りのまま宿へと帰った時、ベッドから起き上がっていたセシリアの姿にトキは心底安堵したのだった。シャワールームから出ると、今度は毛布に包まって穏やかな寝息を立てて彼女が眠っていて。その頬に触れると、急にその体温が恋しくなった。それと同時に、もどかしくも思ってしまった。
どうして彼女なのだろう。どうして彼女じゃないといけないのだろう。どうして、依存性なんか、あるんだろう。
(……俺のこの感情も、依存のせいなのか)
そう思うと酷く歯痒くて、眠っている彼女に覆いかぶさって口付けた。違うと訴えたくて。自分の意思で彼女を求めているんだと思い込みたくて。
酒に浸かった脳みそが、ドロドロに溶けてしまいそうだった。
『……大丈夫。大丈夫です。ここに居ますから』
耳元で優しく囁いて、頭を撫でる手の感覚が、様々な感情が膨れ上がって壊れそうな心にすとんと落ちてくる。それは酷く自分を甘やかす言葉だった。そこに居てくれと、面と向かって言えるような身ではないというのに。
彼女はいつでも彼を受け入れる。突き放すような言葉ですらも、簡単に受け入れてしまう。
だから急がなければと思っていた。目の前から消えろと突き放したのは自分だから。
早くしないと、本当に消えてしまうような、そんな気がして。
──バンッ!
豪快に宿の扉を開け、レインコートも脱がずに彼はロビーを駆け抜ける。どよりとざわめく人々の視線になど目もくれず、一直線にトキは客室への階段を駆け上がった。
踊り場を曲がり、更に上へと駆け上がって、廊下を走る。そしてそのまま、彼女が寝ているであろう部屋に鍵を差し込んだ。
──ガチャン!
「セシリア!」
息を上げ、彼女の名を呼びながら客室の扉を開ける。しかし部屋の中は暗く、ベッドにもセシリアの姿はない。
それどころか、彼女の分の荷物すらも、部屋の中から忽然と消えていて。
「……!」
──居ない──その事実に、トキは愕然と立ち尽くした。何度部屋を見渡せど、彼女の姿はどこにもない。
外は大雨。高熱を患った体では、まともに歩くことも出来なかったというのに。
「……っあの、バカ……!」
トキは身を翻し、再び床を蹴った。おそらく彼が「さっさと目の前から消えてくれ」と言ったから、言ってしまったから──彼女は素直にそれを受け入れてしまったのだ。
(……くそっ……、バカは俺だろ……!)
トキはぎりっと奥歯を噛み締めて、雨の降りしきる夜の街へ、再び飛び出して行った。
.
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