第34話 ラクリマの恋人
1
ザアアア、と耳障りな音が耳の奥に染み込んで纒わり付く。トキは路地に放置されていた木箱の上に片膝を立て、項垂れるように座り込んでいた。
冷たい雨粒が手の甲で跳ね、寄せ固まって大粒の雫となり地面へと滑り落ちる。トキは黙り込んだまま、薄紫色の瞳を薄く開いて泥濘む地面を見つめた。
──はい。私は、構いません。
ザアザアと耳障りな音が響く中、幻聴のようにセシリアの声が頭の中で繰り返す。置いて行かないでと泣き出しそうな顔で懇願していた昨晩の彼女はどこへやら、いざ本当に置いて行かれるとなれば、優しく微笑むだけだった。
(……もうどうでもいいだろ、忘れろよ……)
トキは舌を打ち、更に背を丸めて片膝に顔を埋める。自分から先に裏切ったくせに何てザマだ。すんなりとそれを受け入れられたことが、思ったよりもショックだった、なんて。
(……アイツなら引き止めるだろうって、勝手に思い込んでたのか、俺は)
思い上がりも
トキはあの街で暮らしながら、人は醜く狡い生き物だという事を学んだ。騙し合い、奪い合い、時には殺し合い、生きるために罪を重ねて、それでも生きて来た。
人なんか信じるだけ無駄だ。必ず最後には裏切られる。そう分かっていた、子どもの頃から。
『──私が必ず、貴方の呪いを解きます』
そんな言葉を吐いた、善人面した聖女様のことも勿論最初は信用なんて一切していなかった。十数年もの間、劣悪な環境下で生活し、長らく他人を遠ざけて生きてきた彼にとって、セシリアの純真無垢な言葉はストレート過ぎて逆に不審に思ったのだ。
けれど眩しいほどに純粋なその瞳が、その言葉が、複雑に絡まり合っていた彼の心の糸を徐々に綻ばせていたのは事実で。
『……ひとりに、しないで』
泣き出しそうな目で懇願する声が、自分を必要としているのだと、思い上がらせてしまった。
「……ざまあねえな……」
呟かれた掠れ声は激しい雨音によって掻き消され、トキはくしゃりと自身の前髪を掴む。濡れた手のひらから滴る水滴は髪を伝ってぽたりと落ちた。
もう一瞬たりともセシリアの事など思い出したくないのに、別の事を考えて気を紛らわそうとしても、ふと気を抜けば脳裏で彼女が微笑んで名前を呼ぶ。
心地悪さを感じていた笑顔が、当たり前になったのはいつだ。どうでもよかった彼女の安否を、気にかけるようになったのは何故だ。
「──そんなもの、貴様があの娘に依存しているからに決まっておるだろう?」
「……!」
不意に別の声がその場に響いて、トキはハッと目を見開いた。ガバリと上体を起こし、薄暗い路地を見渡す。そこには誰の姿も見当たらなかったが──今、確かに声が聞こえた。その声の正体を、彼はすぐさま理解したわけだが。
(……ドグマ……)
忌々しげに眉間を寄せ、右手中指の指輪を見つめる。ケタケタと楽しげに笑う三番目の魔女の声がその場所から聞こえてくるようで、トキは額を押さえた。
「……依存……」
──それさえ無ければ、自分はまだ彼女と共に居られたのだろうか。そんなくだらない考えに、トキは小さくかぶりを振った。
と、その時。
「──しつっこいわね! 歌わないって言ってんでしょ!」
「……!」
路地の奥からヒステリックな声が響き渡り、トキは反射的に身を潜めて視線をそちらへと向ける。苛立ったように声を荒らげていたのは、数時間前に会ったばかりの踊り子だった。その向かい側で戸惑ったように彼女を見つめている女の顔にも見覚えがある。
「ねえメリー、待って! この街を出て行くなんて嘘でしょ!? 約束したじゃない、一緒に歌おうって……!」
「アミラ、アンタ相変わらず馬鹿なのね。何年前の話してんの? そんな約束忘れたわ」
「そんな……」
アミラと呼ばれた彼女は、先ほど高熱を出したセシリアを宿まで送り届けに来た女だった。彼女はメリールージュに縋り付き、何かを必死に訴えかけている。
「……そんなの、嘘よ……。ねえ、どうして何も相談してくれないの? 私知ってるよ。メリー、本当はずっと無理してたでしょ……?」
「はあ? 知ったような口聞かないで。アンタに私の何がわかるの」
「分かるよ! 踊ってる時のメリー、すごく綺麗だけど、違うもの! 私の知ってるメリーは……!」
「うるさい! 離して!」
メリールージュは表情を歪め、詰め寄って来るアミラの体を突き飛ばした。短い悲鳴を上げて泥濘んだ地面に尻餅をついたアミラの手からは、数枚の楽譜がばさりとこぼれて散らばる。落下したそれは泥水の中にじわりと染み込み、あっという間にふやけてただの紙くずと化してしまった。
「……っ、楽譜が……!」
「……!」
慌ててアミラは泥水の中に手を突っ込み、散らばった楽譜を拾い上げる。メリールージュはそんな彼女の姿を苦々しく表情を歪めて見下ろしていたが、すぐさま踵を返して歩き始めてしまった。
「あ……っ、待って、メリー!」
「付いてこないで! アンタ目障りなのよ、もういい加減うんざりしてんの! だから街から出て行く! 二度と私に関わらないで!」
「……っ、メリー……!」
アミラは地面に手を付いたまま、去って行くメリールージュに向かって叫ぶ。彼女の悲痛な声が、隠れて見ていたトキの鼓膜の奥に突き刺さった。
「メリー、待って! お願い……!」
「……」
「私を……!」
──私を置いて行かないで……!!
「──……!」
は、とトキは目を見開いて固まる。冷たい雨の中、路地に響いたアミラの叫び声が脳裏で微笑む聖女様の声と重なって、彼の耳の奥を揺らした。
しかしそんな彼女の訴えも虚しく、必死に呼びかけた相手の背中は遠くなり、雨で霞んでとうとう見えなくなる。アミラはその場に座り込んだまま黙って俯き、濡れた楽譜を拾い始めた。
「……メリー……どうして……」
インクが滲み、書いてある文字すら読めなくなってしまった紙をくしゃりと握りしめる。そのまま暫く座り込んでいると、打ちひしがれたアミラの耳にざぷりと水を蹴る音が入り込んだ。
反射的に振り向けば、レインコートのフードを深く被った男の紫色の双眸と視線が交わる。その顔を、アミラは覚えていた。
(……あ、れ……? この人、確か……)
つい数十分前、セシリアを運んで行った宿の廊下で冷たく自分を突き放した態度の悪い男の顔を思い出す。アミラは目を見開き、その場に固まった。すると不意に、目の前の男が口を開く。
「……そんな泥水に浸かって楽しいのか? アンタ」
「…………」
呆れたような表情で悪態をついた彼に、アミラはむっと眉間を寄せた。やはりあの男だ、間違いない。相変わらず感じ悪いやつだと目尻を吊り上げ、アミラは立ち上がった。
「楽しいわけないでしょ! そんなことよりアンタ、何でこんなとこにいるの!? セシリアさんはどうしたのよ!」
「……いいだろ、あいつのことは」
「良くない! すごい熱なのに一人にして! 悪化して死んじゃったらどうするのよ!」
「うるさいな、今はアイツの話はしたくないんだ……黙ってくれないか」
目を伏せながらこぼす彼の言葉に、アミラは言葉を詰まらせた。やがて小さく溜息を吐き、膝から下をびっしょりと濡らしたまま立ち上がる。
「……喧嘩でもしたの? 病人相手に」
「……」
「はあ、小さい男ね! そんなんじゃフラれても文句言えないわよ?」
答えない彼の反応を肯定だと捉えたらしく、アミラは大袈裟に声を張って両腕を組んだ。可愛げのない女だとトキは一瞬苛立ったが、小さく息を吐いた彼は再び積み上げられた木箱の上にどっかりと腰を下ろす。
「フラれてんのはアンタだろ」
「うっ……! み、見てたの?」
「見てたわけじゃない。全部丸聞こえだった」
あれだけデカイ声で喚いてりゃな、とトキは鼻で笑う。アミラは口を閉ざし、ゆるゆると視線を落として、トキから少し離れた木箱の上に腰を下ろした。
「……そう……見てたのね……」
「……」
「……私、メリーのこと小さい頃から知ってるの。メリーは昔から堂々としてて、強がりで、自分の言いたいことはハッキリ言っちゃうタイプの子で……少し、甘えるのが下手な子だったわ」
唐突に始まった思い出話に、トキは興味なさげに嘆息した。甘えるのが下手だという割に、男に媚を売るのは随分巧いように感じたが? と浮かんだ皮肉は飲み込んでおく。
アミラは懐かしむように目を細め、さらに続けた。
「あの子、お母さんが娼婦だったの。だから昔は、娼婦の娘だって周りから疎まれててね。それに加えてキツい性格してたから、友達なんか一人もいなかったみたい」
「……へえ」
「私も、周りから『あの子には関わっちゃいけない』って言われてたから最初は避けてたの。でもある日、偶然聴いちゃったのよ」
アミラは切なげに微笑み、ぐっしょりと濡れてインクが滲んだ楽譜を見下ろした。
「……あの子の、歌声」
「……歌?」
「うん。今でこそ踊り子なんてやってるけど、メリー、本当は歌が好きなの」
アミラは重たく垂れ込んだ空を見上げる。強い雨は止む気配もなく降り注ぎ、二人のレインコートを容赦なく打ち付けた。
「いつも一人で、雨が降ってる公園のブランコに座ってね。悲しそうに歌ってたわ。でもその声が、すごく綺麗だった」
「……」
「だから私、話しかけたの。すっごく綺麗な声ねって」
アミラは目を細め、遠い昔に公園のブランコに座り込んでいたメリールージュの姿を思い出す。
『──あなた、すっごく綺麗な声で歌うのね!』
興奮気味にそう話しかけたアミラに、彼女から返ってきたものは、蔑むような目と冷たい嘲笑だけだった。
2
『……何なの、誰よアンタ。バカにしにきたの?』
──あの日。
年齢の割に大人びていたメリールージュは冷たい声で言い放ち、年相応に幼かったアミラをぎろりと睨んだ。対するアミラは大慌てで首を振り、ばたばたと弁解を始める。
『え!? ち、違うよ! 私、たまたま通りかかったの。そしたらすごく綺麗な歌声が聞こえて、それでつい……』
『……』
『あ、勝手に盗み聞きしたから怒ってる? ごめんね。私ね、アミラっていうの。あなたの声、とっても素敵だった! ねえ、もう一度歌ってよ』
『嫌。歌わない』
メリールージュは冷たくこぼしてそっぽを向いてしまった。『ええ! どうして!?』『お願い、一回だけでいいから!』と食い下がるアミラを無視して、彼女は公園を出て行ってしまう。
──しかし後日、また彼女は歌っていた。雨の中、誰もいない公園で、悲しそうに一人きり。
『やっぱり綺麗な歌声! ねえねえ、その歌好きなの? 前もその歌を歌っていたでしょ?』
背後からこっそりと近付いて話しかければ、メリールージュはびくっと肩を揺らして身構えた。不審なものを見るような目でアミラを睨み、彼女はやはりそっぽを向いてしまう。
『また来たの? 暇なのね』
『ねえメリー、ここじゃ寒くて思うように声出ないでしょ? いいところがあるの、秘密の場所! そこで歌おうよ』
『馴れ馴れしく呼ばないで。それに歌なんか好きじゃないわ、絶対行かない!』
『……そっかあ、じゃあ今日は諦める。また明日誘うね! ばいばいメリー、また明日!』
『……もう来なくていい!』
ふん! と顔を背ける彼女に微笑んで、アミラは公園を出た。
結局その次の日も、そのまた次の日も、アミラは公園に通った。その度にメリールージュは嫌そうな表情を彼女に向けていたが、次第に慣れて来たのか隣に座っていても徐々に文句は言わなくなって。相変わらず素直に歌を歌ってはもらえなかったが、前ほど悲しそうな表情で歌うことも無くなって行った。
そんなある日、またも玉砕覚悟でアミラはメリールージュに提案する。
『ねえメリー、秘密の場所、行ってみない? ここ、寒いし風邪ひいちゃうよ』
ざあざあと降りしきる雨の中、アミラは彼女に向かって尋ねた。メリールージュは何も言わず、ただ黙って遠くを見つめているばかり。
あーあ、今日もだめかあ、と苦笑いをこぼした、その時だった。
『……いいわよ、別に』
『……え!』
『行くんだったら早く行きましょ。風邪ひいちゃうじゃない』
素っ気なくこぼし、彼女はブランコから立ち上がる。ぽかん、とアミラは暫く呆気にとられてしまったが、ややあって我に返り、彼女は慌ててメリールージュを追いかけた。
そうして辿り着いたのは、古びて苔生した廃教会。人の気配も無く、窓や扉も錆び付いていて、至る所に蜘蛛の巣の張られた薄暗いその場所はさながらお化け屋敷のようだった。
『……なにこれ。これが“いいところ”なの?』
『そうだよ、こっち来て』
『……』
半信半疑のまま、メリールージュはアミラに導かれるまま付いて行く。大きな聖堂の中央には、おそらく以前は大きな女神像があったであろう形跡が残されていた。今となってはその像も取り壊され、女神のいた台座だけがその場にぽつんと残っている。
しかしアミラは女神像になど目もくれず、一直線に“あるもの”を目指していた。古びたボロボロの布が掛けられた、“何か”。アミラは迷わずその布を取り去り、現れたそれを誇らしげにメリールージュに見せる。
『じゃーん!』
『……ピアノ?』
そこにあったのは、古びた木製のピアノだった。そうよ! とアミラは頷き、埃をかぶった椅子を引いて腰掛ける。
ゆっくりと鍵盤を押し込めば、ポロン、と美しい音色が広い聖堂に響いた。
『あなたピアノ弾けるの?』
『うん、少しね』
『……ていうか、勝手に弾いていいの?』
『だって誰もいないもん。大丈夫だよ』
あっけらかんと言い放って、アミラは『メリー、』と呼びかける。メリールージュは顔を上げ、微笑むアミラを見つめた。
『歌って』
『……』
ダメ元で言ってみた。断られるかと思っていた。けれど彼女は意外にも素直に、すっと息を吸い込んで。
『──むーかし、青ーの王子様ー、緑の中で出会ったよー、見目麗しき女神様ー』
『!』
美しい歌声が響き渡る。アミラは一瞬目を見開いたが、すぐに指を動かして伴奏を奏で始めた。
『恋に落ちた王子様ー、どうか結ばれてくださいとー、告げて指輪手渡したー』
『しかし女神は首を振るー、この身はあなたとは違います、私は受け取れないのです、あなたの手もその指輪もー』
アミラも彼女の歌に割り込み、一緒に歌い始める。するとメリールージュは微笑み、続けて歌った。
『それでもいいよと王子様ー、告げる女神の手を取ってー、一緒にいるよと誓います』
『どうか叶うことならば、このままずっと幸せに、どうかどうか幸せに』
『美しき恋人微笑んだ、ああ時よ永遠に、ああどうか永遠に』
一通り歌い終えると、アミラが恍惚とした表情で立ち上がった。メリールージュは居心地悪そうに視線を逸らし、頬をほんのりと赤く染める。
『すごいわメリー! とっても素敵!』
『……あんたも、なかなかうまいじゃない、ピアノ』
『ねえメリー、もっと歌おうよ! 私と二人で!』
『……え』
『私、メリーと歌いたいの! いつか私、曲を作るわ! だからそれ、メリーと歌いたい! 二人で歌いたい!』
『……』
アミラが興奮気味に捲し立てると、メリールージュはぽかんと目を丸めて黙ってしまった。一人で捲し立ててしまったことに気が付き、アミラはハッと我に返る。
『……ご、ごめん。急に言われても困るよね』
『……ううん』
『へ……』
『いいんじゃない?』
想定外の言葉に、今度はアミラの目が点になる。そんな間の抜けた彼女の表情にメリールージュは小さく吹き出した。
『……ふふ、変な顔』
『……え! 変!?』
『うん。アンタ、出会った時から今までずっと変よ』
メリールージュの言葉にアミラはガーン! と顔面を蒼白に染める。しかしメリールージュは、そんな彼女に今まで見たこともないような穏やかな笑顔を向けていて。
『……でも、いいわ』
『……え』
『アンタ変な子だけど、曲作るまで待っててあげる。それで、いつか二人で歌いましょ、とびっきり大きいステージでね』
『……!』
微笑むメリールージュに、アミラは暫し硬直してしまった。しかしややあって、彼女はこくこくと何度も頷く。
『……もちろん! 絶対ね! 約束よ!』
『うん、いいわ』
──約束しましょう──。
そんな幼き日に交わした約束も、メリールージュはもう覚えていないのだろうか。毎日のように一緒に居たのに、いつしかメリールージュは踊り子という仕事を始め、人気を博し、歌うことはなくなり、アミラを避けるようになった。
それでもいつか、自分が曲を作り終えたらまた一緒に歌えるかもしれない。そんな思いで曲を書いた。けれどもやはり、彼女の背中は遠くなるばかりで、どんなに呼んでも振り向かない。
アミラは手の中の楽譜からそっと視線を逸らし、切なげに微笑む。
「……私、メリーに嫌われちゃったのね」
「……」
トキは何も答えない。そんな彼から少し離れた木箱に腰掛けていたアミラは、「しょうがないかぁ」とぽつりと呟いて立ち上がる。そして、大きく息を吸いこんだ。
「──むーかし青の王子様ー、緑の中で出会ったよー、見目麗しき女神様ー」
「……何だその歌」
「……メリーが好きだった歌。彼女いつもこれを歌ってたわ」
そう言ってまた、アミラはすっと息を吸う。
──恋に落ちた王子様、どうか結ばれてくださいと、告げて指輪手渡した
しかし女神は首を振る、この身はあなたとは違います、私は受け取れないのです、あなたの手もその指輪も
それでもいいよと王子様、告げる女神の手を取って、一緒にいるよと誓います
どうか叶うことならば、このままずっと幸せに、どうかどうか幸せに
美しき恋人微笑んだ、ああ時よ永遠に、ああどうか永遠に──
一通り歌い終わって、アミラが再び俯く。トキは小さく息を吐き、「くだらない歌だな」と一蹴した。むっとアミラは眉間を寄せる。
「何がくだらないのよ」
「言ってることがくだらない。平和ボケした二人のラブソングだろ、俺は好きじゃない」
「……何言ってるの、これは悲恋の歌よ」
「あ?」
呆れたように言って、アミラは続きを歌い始める。
──女神様と王子様、二人を王が引き離す、離れ離れの恋人は、来る日も来る日も思い合う
ある日青の王子様、ついにお城を抜け出して、女神の元へと向かいます
怒った国の王様は、王子様を捕まえて、その首を跳ねました、その首を跳ねました
それを聞いた女神様、悲しみに暮れ涙して、青く輝く宝石に、身を包んで死にました
どうか叶うことならば、あなたといつか幸せに、どうかどうか幸せに
「──ラクリマ?」
トキが不意に口を開く。アミラは彼に目を向け、「知らないの?」と瞬いた。
「この歌、“ラクリマの恋人”っていう神話が元になっている歌なのよ」
「……神話……」
「そう。“涙の恋人”って意味があるらしいんだけど、有名なお話よ」
アミラは微笑み、“ラクリマの恋人”の内容を説明し始める。「ラクリマの恋人っていうのは、」と口火を切った彼女の声に、トキは素直に耳を傾けた。
「青い国の王子様が、ある日出会った女神様に恋をしてしまうの。だけど女神と人間が恋をするのは禁忌とされていたから、国の王様が怒ってね、」
「……」
「女神様を捕まえて、牢屋に閉じ込めてしまうのよ。でも王子様はどうしても女神様に会いたくて、ある日会いに行ってしまう。けど、そのせいで王子様は殺されてしまって、悲しみに暮れた女神様が青い宝石の涙を流すの。そしてそのまま、女神様は流した宝石の涙に埋もれて死んでしまう……っていう悲しい結末のお話なのよね」
「……へえ」
──青い宝石、女神、涙。
それは彼が追い求めている「
「……その神話にしろ歌にしろ、“女神の涙”って呼ばれてる、実在する宝石とは何か関係があるのか?」
「……え!? そんな宝石実在するの!?」
アミラは目を見開き、振り返る。どうやら“女神の涙”の存在までは知らないらしい。
トキは「まあな」と呟き、そっと俯いた。
「……俺は、その宝石をずっと探してる。十年以上前に一度見たっきりだったが、最近また手掛かりを見つけてな。それで旅してるんだ」
「へえぇ、そうなのね!」
アミラは瞳を輝かせた。神話に出てくる架空の宝石が実在するというのだから、気持ちが高ぶるのも無理はない。
しかし、トキの表情は晴れやかでは無かった。そんな彼の表情に気が付く様子も無く、アミラは興味津々に瞳を輝かせる。
「すごいわね、“女神の涙”っていうの? きっと美しい宝石なんでしょ?」
「……まあな」
「そっかあ、そうよね! 神話や歌になるぐらいだもの。すごく素敵ね!」
「……素敵だって? 冗談じゃない」
何気なく放たれたアミラの言葉に、ばっさりと返されたのは低音だった。ピリッと空気が冷たくなり、アミラはハッと表情を強張らせる。
トキは鋭く冷たい紫色の双眸で、ただ真っ直ぐと虚空を睨み付けていた。
「……俺が探してるあの宝石は、素敵でも何でもない。あんなもん、出来るなら二度と見たくないぐらいだ」
「……」
「──あれは、悪魔の石なんだよ」
ぎり、と忌々しげに奥歯を噛み締め、彼は声を絞り出す。憎しみが有り有りと感じられるその視線にアミラが戦慄して黙り込んでしまった頃、トキはその場に立ち上がった。
「……くだらない話だな。忘れてくれ。じゃあな」
「……あ……」
「……ああ、それと、」
立ち去ろうとしたトキだったが、その足が不意に立ち止まる。そのままゆっくりと振り向き、彼はほんの少しだけ表情を緩めた。
「……アンタの歌、嫌いじゃなかったぞ」
「……へ……」
「それじゃ」
たった一言、そう言って、彼は再び歩き始めた。その顔はもう振り向く事は無く、淡々と歩いて路地から出て行ってしまう。
アミラはその背中を呆然と見つめていたが、ふと、顔に熱がせり上がって来るのを感じて彼女は慌てて頬を手で押さえた。
「……な、何よぉ、あいつ……」
むう、と頬を膨らませるアミラだったが、その表情が無意識のうちに緩んでしまう。必死に唇を結んで頬を引き締めるが、やはりゆるゆると、彼女の口元は情けなく緩んでしまうのであった。
.
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