第33話 二人の旅
1
ちゃぷん、ちゃぷん。耳元で水の落ちる音がする。
ふわふわと朧げな意識の中、そっと重たい瞼を持ち上げれば、不意にひやりと冷たい何かが額に当てられてビクッ、とセシリアは肩を震わせた。その瞬間、「あ!」と近くで女性の声が放たれる。
「良かった、気が付いたのね! 気分はどう?」
「……、?」
高いソプラノ声にセシリアは瞳を瞬き、首をゆっくりと横に傾けた。すると意識を手放す直前にも見た、童顔の女性がにこにことこちらに向かって微笑んでいて。
「……だれ……?」
掠れ声で尋ねれば、彼女はやはり微笑んだまま答える。
「私はアミラ。倒れたあなたを運んできたの。ここは私の家」
「……たおれ、た?」
「そうよ、あなたすごい高熱で倒れちゃって。覚えてない?」
「……」
アミラと名乗った彼女は、セシリアの額に乗せた濡れタオルの位置を調整しながら問い掛ける。ふと視線を動かして周辺に目を向けてみれば、大きなピアノと散乱した楽譜の山が視界に入った。どうやらここは彼女の家らしい。
先日の熱がぶり返してしまったのか、倒れてしまった自分を彼女がここまで運んでくれたようだ。セシリアは朦朧とする意識の中で何となく状況を理解し、再びアミラへと視線を戻す。
「……ごめんなさい……迷惑、かけてしまいましたね……」
「いいの、いいの! 困ってる人を助けるのは当然でしょ?」
「……ありがとうございます。私……セシリアといいます」
「セシリアさん? 綺麗なお名前ね!」
聖歌にでも出てきそうな響きだわ! と楽しげに微笑む彼女は、ふんふんと楽しげに鼻歌を口ずさみながらセシリアの体に掛けられている毛布を整える。床や机に散らばる楽譜に、大きなピアノ。歌とか音楽が好きなのかな、と上機嫌な彼女をぼんやりと見つめ、セシリアはふと自分の衣服が乾いていることに気がついた。
「……あれ、私の、服……」
「……あ、それね。びっしょり濡れて寒そうだったから、私が魔法で乾かしておいたわ」
「魔法で……?」
「ええ! 私、風属性の魔法が得意なの!」
アミラは立ち上がり、バレエでも踊るかのような所作でくるりと一回転しながら指をくいっと動かす。すると、暖かい春のような風がふわりとセシリアの髪を揺らした。
「こんな感じで、濡れた服をちょちょちょーっと乾かしてみたわ」
「ちょちょちょ……?」
「うん! ちょちょちょーって!」
うふふ、と無邪気に笑うアミラにつられて、セシリアの口元も力なく緩められた。「あ、でもね、」とアミラは不意に眉尻を下げる。
「その服、乾かしただけで洗ったわけじゃないから……その、泥とかはそのまま残ってるの。だから随分汚れちゃってるわ。ごめんね?」
「……ああ……いえ、十分です……。ありがとうございました」
「それよりセシリアさん、何であんな雨の中で水溜まりに浸かってたの? 濡れるし汚れるし、良い事ないと思うんだけど……」
「……」
何気なく問われたその問いに、セシリアの視線はそっと下へと落とされた。意識を手放す前に起こった一連の出来事を思い出してしまい、その表情は徐々に暗く沈んで俯いてしまう。
出来る事なら、思い出したくなかった。悪い夢を見ただけだと思いたかった。けれどほんの数時間前に起こったそれが、都合よく頭の中から消えてくれているわけも無く。ただ有り有りと、深く心の奥に突き刺さっていて。
トキが、自分ではなくメリールージュを選んだこと。昨晩二人が、男女の一線を超えていたこと。そして何より──。
──アンタ、自分が無いのよ。
──嫌いだわ、アンタみたいな子。
冷たく言い放つ唇、軽蔑すら篭ったような琥珀の瞳。他人に“秘密”を見られた時以外で、あれほどハッキリと人格を否定されたのは初めてだった。
──自分が、無い。
その言葉がぐるぐると頭の中を巡って、セシリアは強く唇を噛み締め、震えそうになる声を何とか絞り出す。
「……なんでも、ないです」
「そうなの? 特に理由がないなら、今後はやめた方がいいわ。この街の雨は冷たいから」
「……はい、そうですね……すみません」
「唇の怪我も平気? そんなに深くは切れてなかったけど、血が出てたのよ。ひとまずテープで止血しておいたけど」
アミラの言葉に、セシリアはそっと口元に手を伸ばした。触れればピリッ、と小さく痛みが走る。おそらくメリールージュにぶたれた際に切れてしまったのだろう。
「……大丈夫です。もし膿んだりしても、その時は魔法で治せるので……」
「え? あなた光魔法が使えるの?」
「ええ、まあ……」
「へえ! すごい! 私の親友と同じね!」
「……親友?」
嬉しそうに笑うアミラに首を傾げれば、彼女は強く頷いた。
「そう、私の親友! あの子も光属性の魔法が使えるの! すっごく素敵で、優しい良い子でね、私、あの子のこと大好き!」
「そうなんですか……素敵なお友達がいるんですね」
「うん! ……まあ、そう思ってるのは、きっと私だけなんだけどね」
「え?」
ほんの一瞬、悲しげに伏せられた瞳。ピアノと楽譜を一瞥だけしたその瞳は、すぐに逸らされてしまって。
ぼそりと呟かれた一言にセシリアが首を傾げた頃、アミラは何事も無かったかのように「ううん、何でもない!」と微笑みながら顔を上げた。
「それより、もう少し寝てた方がいいよセシリアさん! お腹空いたなら何か作るし! ケーキだって作れるよ!」
「……あ……いえ……お気遣いはありがたいんですけど、私、黙って出てきてしまったので……旅の仲間が探しているかもしれないし、もうそろそろ戻らないと……」
「え、本当に? 大丈夫? まだ顔色悪いし、もう少し休んだら?」
「いえ、大丈夫です。……色々とありがとうございました」
セシリアは力無く微笑み、そっと上体を持ち上げる。少しくらくらと目眩がしたが、暫くすると視界の揺れも治まった。
ふらりと立ち上がると、心配そうにアミラが近寄って来て彼女の身体を支える。
「……ほ、本当に大丈夫? まだフラフラじゃない」
「……大丈夫、です……」
「無理はしないで、今はまだ雨が強いし……」
「でも、彼が……心配する、から……」
くらくらと回らない頭で、不器用ながらも優しく自分を気遣ってくれるトキの姿を思い浮かべた。ああでも、もうメリールージュさんと居るだろうから、私のことなんか心配してないかもしれないな、とぼんやり考えて切なくなる。
すると不意に、アミラがセシリアの身体を支えながらくすりと微笑んだ。
「……大切な人なの? その人」
「……大切……」
セシリアは彼女の言葉にはたりと瞬いて、ゆるゆると視線を落とした。
「……はい。大切な、仲間でした」
「……でした?」
「……ふふ」
何でもないです、と切なげに微笑んで、セシリアはゆっくりと、彼女の家の玄関へ向かって歩き始めた。
2
──ああ……連れていく……。
そんな返事を返して、メリールージュと別れた後。トキは情報収集も兼ねて、あわよくば盗みでも働いてやろうと街をふらりと探索していたが、どうにも集中出来ずほんの数十分で探索を切り上げた。
雨脚は徐々に強まるばかり。先程メリールージュと別れる直前、彼女から「お近付きの記念に、今夜二人で食事でもどう?」と誘われたのを思い出し、トキは舌を打つ。普段なら即刻拒否するであろうその申し出を、彼は受けた。頭の中にチラチラと過ぎるセシリアの姿を、少しでも忘れようと。
(……帰ったら、アイツに話さねえと……)
そう考えると、どうにも気が重くなる。昨日も一昨日も、彼女は「置いて行かないで」と自分に縋っていた。泣いているのかいないのか、よく分からない震え声で。
(……今回ばかりは、泣くかもしれない)
あれだけ「置いて行かない」と言い聞かせて落ち着かせたのに、一晩明けてみればこの有様だ。裏切られたと、泣いて失望されるだろうか。嘘つきと、罵られるのだろうか。
(……いや、もうどうだっていいだろ……他人だぞ。これでもう、アイツと会うこともない)
他人を騙して、傷付けて、逃げるのなんて、当たり前にずっとやって来た事だ。その相手が女だろうが、子どもだろうが、老人だろうが、関係無く。
そうじゃないと生きていけなかった。盗みを覚えて、減らず口を叩いて、逃げる事と演技と、人を疑う事ばかりがどんどん巧くなって。
『──大丈夫ですか!?』
だから初めて出会ったあの日、躊躇なく自分を助けるために駆け寄った彼女の事が、とてつもなく眩しく映った。
『聞こえますか? 大丈夫ですか?』
『大丈夫です、私が必ず、』
──治しますから。
そう言って触れた光が、安心させるように微笑んだ表情が。胸焼けしそうなほど暖かくて、心底居心地悪く思ったのを覚えている。
全てを優しく包み込むような、偽善じみた笑顔が苦手で。けれど泣きたい癖に取り繕う、下手くそな笑顔もまた胸糞悪くて。
(……くそ……)
彼女を出来る限り傷付けないような、そんな言葉ばかりを探してしまっている。
苦虫を噛み潰したようにトキが表情を歪めた頃、雨脚は一層強まって足元を濡らした。そして、とうとう彼は宿へと辿り着いてしまう。
「……」
気が重い。入りたくない。そうは思っても、いつまでもここでじっとしている訳にも行かない。
トキは徐ろにレインコートを脱ぎ、雨粒を払う。そのまま、宿の中へと足を踏み入れた。
3
──ガチャ。
足音一つ立てず階段を上がり、慎重に部屋の扉を開く。そっと中を覗けば、室内は暗く、セシリアの姿も無かった。
「……? 居ないのか……?」
ちく、たく、と進む秒針の音だけが響く部屋の中は静まり返っている。トキは中に入り、電気を付けた。やはり彼女の気配は無い。
(……アイツ、ここにいろって言ったのにまたウロウロしやがって……)
チッ、と舌を打ってトキは椅子に腰掛ける。何故いつも彼女はじっとして居られないのだろうかと苛立ちながら、ハァ、と溜息をこぼした。
しかし、外は豪雨。そこまで遠くへは行っていないだろうと彼は静まり返る部屋の中で一人結論を出し、彼女の帰りを待つことにした。
──だが、そのまま三時間以上が経過しても、セシリアが帰ってくる気配は無く。
(……何してんだ、アイツ……!)
イライラと、忙しなく貧乏揺すりを繰り返しながらトキは頭を抱えていた。外の雨は激しさを増すばかりで、雷すら鳴り始めている。
一向に帰ってこないセシリアを待ちながら、トキはふと視線を泳がせた。
(……まさか、また変な男に捕まってるんじゃ……)
その可能性が浮上して、娼館に連れ込まれそうになっていた昨日の彼女の姿が脳裏に浮かぶ。娼館がどういう所かというのは路地裏で身を以て学んで貰ったし、多少の警戒心は覚えたようだったとは言え、男に無理矢理迫られれば華奢な彼女では到底太刀打ち出来ない。
汚い男に捕まり、服を剥ぎ取られて泣き叫ぶ彼女の姿を想像すると胸糞悪くて吐き気がした。
(……くそ、)
悪い想像を振り払おうとするが、一度想像してしまうとなかなか嫌な思考は消えないもので。トキは大きく舌打ちを放ち、居ても立っても居られずその場に立ち上がった。
──しかしその直後、ガタン、と何かが倒れる音と共に「セシリアさん!」と彼女の名を呼ぶ声が廊下から響き、トキはハッと顔を上げる。そしてすぐさま、彼は扉に駆け寄った。
「……!」
乱暴に扉を開け、すぐ視界に入ったのは顔を青白く染め上げて廊下に座り込む、泥だらけの彼女の姿。トキはゾッと背筋が凍るのを感じ、即座にセシリアに駆け寄った。
「おい! アンタどうした!?」
「……あ……トキ、さん……」
弱々しく彼の名を紡ぐ唇が力無く微笑む。「帰ってたんですね……」とか細い声で呟いた彼女の口元にはテープが貼られ、頬は少し赤く腫れていた。軽傷のようだが、どうやら怪我をしているらしいと理解した瞬間、暴漢に襲われる彼女の嫌な想像が再びトキの脳裏に蘇る。
「……っ、アンタ、何で怪我してんだ……! 服まで汚して……」
「……え、あ……そ、その……。少し、転んで……」
「嘘つくな! 転んだ怪我じゃねーだろ!」
思わず声を荒らげてしまい、セシリアの肩がびくっと震えた。そんな二人の間に割り込むように、付き添っていたアミラが口を挟む。
「ちょっと! あんまり大きな声出さないで! セシリアさん、すごい熱があるんだから!」
「……熱……?」
トキは眉を顰め、手のひらでそっと彼女の額に触れる。そこは数日前に熱を出した時とは比べ物にならないほど熱く、彼は苦々しく表情を歪めた。
「……アンタ、またぶり返したのか。かなり熱いぞ……」
「……ごめん、なさい……」
「……」
弱々しく紡ぎ、彼女はフラフラとその場に立ち上がろうとする。それを慌ててアミラが支えたが、そんな彼女の手を振り払うようにトキはセシリアの身体を抱き上げた。
「……アンタはもういい。誰だか知らないが、ここまで付き添って貰って悪かったな。あとは俺がやる」
「……え……でも……」
「いいから帰れ、邪魔だ」
冷たくこぼし、トキはセシリアを抱えたまま扉を閉める。ガチャン、と鍵が施錠された音を耳が拾った後、むうっとアミラは頬を膨らませた。
「……何アレ、やな奴~……」
今のがセシリアの言う「大切な人」なのだろうか。だとしたらかなり趣味悪いわよ、とアミラは息を吐き出し、宿の階段をぷんぷんと不服げに降りて行ったのだった。
4
ドサリ。簡素なベッドの上にセシリアの身体をゆっくりと下ろし、トキは苦い表情で彼女の額に触れた。やはりその温度は高く、これではまともに歩く事すら出来ないだろうと舌打ちをこぼす。
「……何か症状は? 頭痛とか、吐き気とか……、いや、それよりこの怪我何だ。誰かに殴られたのか?」
「……はい……、……いえ……、ちがいます、転んだんです……」
「……嘘つくな、どっちだよ……」
問い掛けるが、セシリアは意識が朦朧としているらしくぼんやりと覇気のない声を返して瞳を潤ませるばかり。辛そうに呼吸を繰り返し、くたりと力の抜けた弱々しい彼女の姿に、トキは苦虫を噛むしかなかった。
(……くそ……何でそんな弱ってんだよ、このタイミングで……)
ぐっと奥歯を噛み締め、俯く。
こんな状態のセシリアに例の話を持ちかけていいのだろうかと、らしくも無く迷いが生じた。意識が朦朧としている中で裏切ったことを告げられて、彼女は耐えられるのだろうか。
しかしいくら考えてみたところで、彼女を傷付けずに別れを告げる方法が見つからない。泣かさずに切り抜けるための言葉が浮かんでこない。それを必死で探してしまっている自分に、勝手なやつだと反吐が出そうだった。
(自分からこいつのこと早々に裏切っておいて、今更泣かせたくないなんて、笑わせんなよ……)
くしゃりと、トキは俯いたまま自身の前髪を握り潰す。そんな彼の姿を、セシリアはゆっくりと瞬きを繰り返しながら見つめていた。
(……言えよ。アンタとはこれっきりだって。……言えるだろ。今まで散々、他人を切り捨てて来たじゃないか)
自分自身に何度も言い聞かせる。頭の中に浮かぶ彼女の泣き顔をかき消して、何度も声を紡ごうと口を開きかけて、それなのに。
──何で、言えねえんだよ。
「……メリールージュさんと、一緒に行くんですよね……」
ぽつり。不意にセシリアが口を開く。
蚊の鳴くような弱々しい声だったが、その声はハッキリとトキの耳に届いた。
彼は目を見開き、ゆっくりと彼女に顔を向ける。何で知っているんだと問いかけたかったが、そんな言葉すら発することは出来なかった。
ベッドに横たわったままこちらを見つめるセシリアの瞳には、失望したような色も、悲しみにくれた涙も浮かんではいなくて。
ただ、見慣れた笑顔がそこにはあった。
「……良かったです、いい人が見つかって……。私よりも、きっと、彼女の方がトキさんを支えてくれるし、頼りに、なるでしょうから……」
「……」
「……私とは、ここでお別れ、なんですね」
ふんわりと、柔らかく微笑んだままセシリアは声を紡ぐ。いつもと同じ、優しい、包み込むような笑顔。
その表情が酷くトキの胸を抉った。
(……何で笑ってんだ)
それはあまりにも、身勝手な疑問だった。
先程まで何度も自問自答を繰り返し、どうにか彼女を泣かせないようにと考えていたのは紛れもなくトキ自身だったというのに。いざ蓋を開けてみれば、セシリアはただ優しく微笑んですんなりと現実を受け止めてしまって。
それでいいはずなのに、それで安堵できるはずだったのに──その笑顔が、何故だか無性に腹立たしかった。
(……何だよ、それ。何でそんな簡単に受け入れてんだよ)
ぐ、と拳を固く握り閉める。泣かしたいわけではない。だが、笑っているのも納得がいかなかった。
出会ったあの日、魔女に呪いを掛けられたあの日。──貴方の呪いは、私が必ず解きます──そう強い瞳で言い放ったのは、一体誰だと思ってるんだ。
「……アンタが、俺の呪いを解くんじゃなかったのか」
こぼれた低い声は自分でも驚くほど情けなく部屋に響いた。セシリアは俯く彼の長い前髪に隠れた顔をじっと見つめ、戸惑ったように眉尻を下げる。「……トキさん?」と不安げに呼びかける彼女のか細い声が、トキの胸にちくりと刺さるようで。
「何、簡単に受け入れてんだよ」
「……トキ、さ……」
「アンタが言ったんだろ。自分には俺の呪いを解く責任があるって。嫌がられても付いて行くって。アンタが言ったんだ。……アンタは……」
自分は一体何を口走ろうとしているのかと、トキは苦々しく唇を噛んだ。セシリアと別れることを選択したのは自分だ。置いていかない、という彼女への言葉を早々にかなぐり捨てたのも自分だ。なのに。
──良かったです、いい人が見つかって。
──私とは、ここでお別れ、なんですね。
笑って、責めもせず、悲しみもせず。ただ素直に、すんなりとそれを受け入れた彼女の言葉に、心底勝手だとは分かっているが──裏切られたと、思ってしまった。
「……アンタは、それでいいのか……」
怒気を含んだ低い声が、情けないほど弱々しく口からこぼれた。セシリアは瞳を薄く見開き、苦しげな呼吸を繰り返したままそっと彼から顔を逸らす。
トキは視線を持ち上げ、口を噤んでしまった彼女の横顔を見つめた。反対側を向いてしまったその表情を、彼の視点からでは窺い知ることができない。脳裏に浮かぶのは、やはりディラシナの街で出会ったあの日のセシリアのことで。
──大丈夫です、私が必ず治しますから。
記憶の中で微笑む彼女はいつだって、自分よりも他人のことを気にかけていた。「それが神様にお仕えしている私の役目だから」と、頑なに。
初めて出会ったあの日、見ず知らずの他人であったトキに自分の体液を差し出そうと自らの腕に刃を当てがったのも「誰かのため」で。経験もないくせに、初めての口付けをくれたのも「誰かのため」。
彼女はいつだって神に仕える神官として、「役目」を重んじて動いている。彼女自身の「意思」はいつも二の次。
けれど今回ばかりは、自分の意思で答えて欲しいと、トキは無意識のうちに考えてしまっていた。だから尋ねたのだ、「それでいいのか」と。
──けれどやはり彼女は、頑なに「神官」のままで。
「……はい。私は、構いません」
「……!」
「トキさんがメリールージュさんと旅立つことを選んだのであれば、私は従います。……早く呪いを解くためにも、私より彼女と行くべきだって、理解していますから……」
振り向かず、ぽつぽつとセシリアは言葉をこぼす。手を伸ばせば届く距離にいるはずなのに、彼女の華奢な背中がやけに遠く感じた。
トキは暫く黙り込み、歪む表情を隠すように俯く。やがて「そうかよ……」と低くこぼし、彼は立ち上がった。
「……じゃあ、アンタとは今日これっきりでお別れだな」
「……」
「アンタの顔にも、いい加減うんざりしてたとこだ。……熱が下がったら、さっさと俺の前から消えてくれ」
冷たい声が室内に響く。──そのまま彼は、部屋の扉を開けて外へと出て行ってしまった。
しん、と静まり返る部屋の中。ちく、たく、と一定のリズムで刻まれる秒針の音に混じって、小さな嗚咽がぽつぽつとこぼれ落ちた。
セシリアはベッドの中で背中を丸め、ぼろぼろと涙を落とす。
「……っう……っひ、く……!」
これでいいんだと、セシリアは自分に言い聞かせて毛布の中で蹲った。神に仕える身として、自分のわがままを封じ込めた唇は、噛み締めすぎたのか血が滲んでいる。
ズキズキと胸の奥が痛くて、苦しくて、張り裂けそうで。それでも彼の選んだことならば、せめて笑顔で別れようと。そう思っていたのに、どうにも上手くいかない。
──行かないで。
危うくこぼれかけたその言葉を、彼女は何とか寸前で飲み込んだ。セシリアは毛布を深くかぶり、潰れそうになる胸を押さえながら、必死に声を押し殺す。
いくら泣いても、縋っても、二人の旅はここで終わり。
「……っ、神さま、どうか……」
──彼を、最後まで無事にお導き下さい。
声にならない声で祈り、涙の滲むシーツに、セシリアは顔を埋めた。
.
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