第30話 雨の街の踊り子


 1




 一連の騒動の後、宿に戻って部屋の中に入った二人は想像していたよりも随分と広い内装にまず驚いた。

 きちんとベッドが二つある角部屋で、テーブルやティーセットまでしっかりと完備されている。もちろんシャワールームも備え付けられていて、トキは全身ずぶ濡れのままくしゃみをこぼしているセシリアを迷わず風呂場へと投げ込んだ。


 ──で、それから一時間。ようやく風呂を済ませたセシリアがシャワールームから出てきたところで、トキはベッドからのそりと起き上がる。



「……相変わらず長い風呂だな」


「……あ、ご、ごめんなさい……」



 しょん、と肩を落としたセシリアは普段よりも薄い生地のワンピース姿で、胸のあたりまで伸びた長いブロンドの髪をしっとりと濡らしている。湯上がりの火照った素肌には髪から滴り落ちた水滴がつつ、と滑り落ちて、トキの本能が一瞬ぐらりと揺れ動いた。

 しかしすぐさま彼女から目を逸らし、立てた片膝に額を押し付けて雑念を払おうと目を閉じる。



(……いや、無理だろ、これ……)



 元々、彼はしつけの良く出来た大人ではない。欲しい物は奪う、目の前に獲物があれば喰う、他人の事などどうでもいい、というスタイルで今まで生きてきたというのに、何故このような拷問じみた夜を過ごさねばならないのか。


 とは言え、ここでまた彼女を襲えば今度こそ機嫌は急降下、口すら聞いてくれなくなるのではないだろうか。それだと非常にやりづらい。今後の旅に支障をきたさない為にも、今晩だけは手を出さずに乗り越えようとトキは密かに決意した。



(……それに、下手に手を出すと“依存”が進行するかもしれないからな……)



 そ、と首筋の呪印に触れる。

 全く面倒なものだ。彼女の口付け無しでは生きていけない上に、過剰摂取し過ぎると依存症状に蝕まれて内側から破壊されてしまう可能性すらあるらしい。二ヶ月ほど前の自分が今の状況を見たらショックで卒倒するかもしれない。



(……ショックっつーか、かなり軽蔑されるだろ、こんなの……)



 一人の小娘に調子を狂わされ、挙句いつもまんまと彼女の希望を優先させてしまっている。そんな甘い人間ではなかったはずだと文句を垂れる過去の自分の姿が容易く想像出来た。

 そもそも、彼がセシリアにここまで気を遣っている事自体がおかしいのだ。以前のトキが見たらそれこそ失望するだろう。「お前は目的を忘れたのか」と、問い掛けてくる声が重々しく心に響く。



(……忘れてない)



 トキはもう一人の自分に言い聞かせるように答えた。あの頃、まだ幼かった自分が何度も頭の中で繰り返した言葉。



(……もう誰も信用しない。誰にも心を開かない。ディラシナに流れ着いた時誓った。忘れるわけないだろ……)



 胸の内だけで呟くトキの脳裏に一瞬、セシリアの微笑みが過ぎった。しかしすぐにかぶりを振り、彼女の姿を消す。

 居ないと困るとは言え、相手は他人だ。信用するな。どうせ裏切る。そう再び自分に言い聞かせ、トキは強く目を瞑った。


 彼の脳裏に浮ぶのは、美しい花畑の中で微笑む、黒髪の少女。



(俺の心を知っているのは──)



 ──ジルだけで、いいんだ。





「──トキさん、」



 ふと、セシリアに呼び掛けられたことでトキの肩がぴくりと揺れる。しかし彼はあくまで平然を装ったまま、やはり彼女に目を向けること無く「……何だよ」と素っ気なく返した。



「お風呂、よかったらどうですか? 今なら浴室の中も暖かいと思いますし」


「……」



 にっこりと微笑みながら語りかけているのだろうと、顔を見ずとも何となく想像がついた。トキは片膝に顔を埋めたまま、「いや、まだいい」とセシリアの提案を断る。



「……あ……、そ、そうですか……。じゃあ、お茶はどうですか? 珍しい紅茶が置いてあったので……」


「……いい。俺は先に飯でも食ってくる」



 トキはそうこぼして、片膝に埋めていた顔を上げるとVネックの黒いインナーの上にストールという簡単な格好のまま立ち上がった。一方のセシリアは目を瞬き、ショートブーツに足を通している彼の姿をじっと見つめる。


 飯でも食ってくる、と答えたトキに、彼女は違和感を感じていた。それもそうだろう、わざわざセシリアが風呂に入っている間、彼は特に何もせず一時間弱もこの部屋の中に居たのだ。効率重視で動くタイプの彼が、ここで何の目的も無く無駄な時間を費やしていたということになる。



(ご飯に行くタイミングなんて、いくらでもあったでしょうし……)



 てっきり風呂の順番を待っていたのだろうと考えたのだが、どうやらそういうわけでも無いらしい。


 するとつまり、もしかして。



「……あの……」


「あ?」


「……もしかして、なんですけど……。トキさん、私がお風呂上がるまで待っていてくれたんですか?」


「……!」



 ぎく、とトキの身が強張り、一瞬だけ視線が泳いだ。そんな彼のほんの一瞬の動揺を見逃さなかったのか、セシリアは驚いたように目を丸めながらもふわりと嬉しそうに微笑んで。



「……ふふ、やっぱり。待っていてくれたんですね」



 くすくすと笑う彼女から、トキは居心地悪そうに目を逸らした。



「……はあ? 待ってねーよ」


「嘘ばっかり」


「待ってないって言ってんだろ、自意識過剰なんだよ。……ただ、アンタが風呂から出た時に俺が居なかったらまたテンパって雨の中に飛び出すかもしれないだろ……つまりそれを防止するためだ、勘違いするな」


「でもそれって、待っていてくれたってことでしょう?」


「……」



 ぐ、とトキは言葉を詰まらせながらセシリアを睨んだ。ふふ、と笑う彼女の髪はやはりしっとりと濡れたままで、トキはチッと舌を打ち鳴らし、近くに干してあった布切れを彼女の顔面に向かって勢い良く投げ付ける。



「ふぎゃっ!?」



 ぼすっ、と投げられた布を文字通り顔面で受け取った彼女は奇声を発して蹲った。「痛いぃ……」と弱々しくこぼして表情を顰めているセシリアをハッと鼻で笑い飛ばし、トキはすたすたとその横を通り過ぎる。



「ちゃんと髪拭けよ、間抜け。風邪がぶり返しても知らねえぞ」


「も、もっと優しく渡してくださいよぉ……」


「捨て犬みてーに髪濡らした聖女様をいたわってやってんだぜ? 十分優しいだろ」


「……」



 皮肉のつもりで吐き出した言葉に、セシリアは暫し黙り込む。しかし程なくして「ふふ、」と小さく笑った。



「……そうですね、優しいです」


「……」



 穢れのない純粋な微笑み。まさか“肯定”の言葉が返されるとは思っていなかったのか、今度はトキが盛大に表情を顰める番だった。

 ああ、これだから調子狂うんだよ、と能天気に笑う彼女に背を向け、彼は逃げるように扉を開ける。



「……地下の食堂に居る。何かあったら呼びに来い」


「はい、お気を付けて」



 同じ建物内を移動するだけなのに、何が「お気を付けて」なんだか。そうは思ったが、触れること無くトキは黙って扉を閉める。


 見送った彼女がどんな顔をしていたのか、振り向かずとも容易く想像がついてしまった。どうせいつも通りの、底抜けに優しい間の抜けた笑顔なんだろう。

 あの笑顔は少し苦手だ。全てを優しく包み込むようなそれが、どうしようも無くちっぽけな自分の存在を浮き彫りにしているようで。



(泣いてても怒ってても調子狂うが、純粋に笑ってんのも居心地悪いな、くそ……)



 はあ、と小さく溜息を吐きこぼしながら、彼は地下の食堂へと向かったのだった。




 2




 ちょうど夕飯時という事もあって食堂は随分と混み合っていた。テーブル席はほとんど埋まり、ホールで働く若者が慌ただしい動きで料理を運んでいる。



「十三番、バケット追加!」

「六番誰かオーダー行って!」

「麦酒まだ!?」



 銃弾のように飛び交う言葉達が鼓膜に突き刺さり、トキはげんなりと表情を引き攣らせた。喧騒は好まないというのに、なんだこの人の多さは……と眉間には深い皺が刻まれっぱなしである。



(……とっとと食って出るか)



 この騒がしさではまともな情報も手に入りそうにない。彼は溜息混じりにガシガシと頭を掻き、空いているカウンター席に腰掛けた。



「麦酒とオークリブステーキをくれ」


「黒パンか白パンが付けれますよ。いかがです?」


「……ああ……じゃあ、白パンで」



 かしこまりました、とにこやかに会釈して店員は厨房へと駆けて行く。慌ただしいその様子に、料理が運ばれて来るまで暫くかかりそうだな、とトキは眉を顰めた。

 すると不意に、香水のような香りがツン、と彼の鼻の奥を刺激する。直後、隣の席には女が腰を下ろしていた。



「どうも、お兄さん。お隣いいかしら?」


「……」



 長い赤髪を掻き上げて、しゃらん、と衣服のあちこちに施された装飾品を揺らしながら、女は片目を瞑ってトキに語り掛けた。一瞬下着姿かと見間違えるほどに露出の多い格好をしたその女は、色っぽく曝け出した胸元を強調しながらトキに視線を向けている。

 しかし彼はそれを訝しげな表情で一瞥した後、興味なさげに視線を戻してしまった。



「……あら」



 どうやら色仕掛けが不発に終わったらしい、と逸早く察した女は「ふぅん……」と目を細めてカウンターに頬杖を付く。トキは黙ったまま彼女の視線を無視し続け、やがて運ばれて来た麦酒に口を付けた。

 すぐにグラスの半分ほどの量を飲み干した彼の様子に、女が再び口を開く。



「貴方、結構お酒強いのね。マリーローザの麦酒は度数が高くて癖があるって有名で、他所の人はなかなか飲めないのに」


「……」


「……やだ、これも無視? お姉さん傷付くわ、私これでもそこそこ有名なのよ?」



 ふふ、と笑う女の元にも麦酒が運ばれ、赤く色付いた唇でグラスの中身をちびりと口に含んだ。トキはしつこく話し掛けてくる女の言葉にはやはり答えず、じろりとウザったそうな視線だけを彼女に投げる。すると彼女は目を細め、楽しそうに口角を上げた。



「……あ、やっとこっち見た」


「……」


「ねーえ、貴方旅人でしょ? 一人で旅してるの? 私、街の外の事にちょっと興味あるのよ。良かったら色々教えてちょうだい」



 ずい、と身を乗り出し、彼女はトキに身体を近付ける。その女の顔にはどこか見覚えがあった。



「……ねえ、だめかしら。ならたっぷりしてあげるんだけど」



 女は胸元を強調し、上目遣いにトキを見上げる。強い香水の香りがツンと鼻の奥に染みて、彼は表情を顰めた。

 色気を孕んだ吐息混じりの声が「ねえ、どう……?」と小さく囁き、グラスを握っていた彼の左手に彼女の右手が重なる。──その瞬間、トキは重ねられた華奢な手を振り払った。



「……!」


「……悪いが、俺はアンタの相手をしているほど暇じゃない。他を当たれ」



 鋭い眼光が真っ直ぐと女を睨む。彼女は暫し呆然とトキを見つめていたが、ややあって怒るわけでも悲しむわけでも無く、ただ楽しそうに口角を上げた。



「……へえ、貴方面白いわね」


「……」


「ますます興味が湧いちゃうわ、旅人さん。お名前教えてくれない?」


「……」


「……やだ、また無視なの? じゃあしょうがないわね、私が当ててあげる。ジェイク? ロジー? あ、もしかしてピーター?」


「……」



 ……しつこい。


 隣でペラペラと話し掛けてくる女に、彼はうんざりと眉間を寄せる。

 暫く無視していれば勝手にどこかに消えるだろうと踏んでいたトキだったが、誤算だったようだ。消えるどころか先程よりも距離を詰めて来ている。露出の高い衣装から見え隠れする胸や足を此れ見よがしに強調して、逐一ボディータッチして来る彼女がいちいち癪に障ってしまいトキは舌打ちを放った。


 ああくそ、めんどくさい。



「……おい、いい加減に口を閉じろ。アンタの相手するほど暇じゃないって言ってるだろ。それから俺にはアンタみたいな女に名乗るような義理も無──」


「──トキさん!」



 凛と澄んだ鈴の音のような声が背後から呼び掛け、トキは言葉を詰まらせて即座に頭を抱えた。聞き間違うはずもないその声。



(……何でこのタイミングで来るんだよ)



 パタパタと忙しない足音はすぐ真後ろまで駆け寄って、悪気など微塵にも無いであろう聖女様はにこりと微笑んで再び彼の名を呼ぶ。



「トキさん! 良かった、ちゃんと見付けられた!」


「……」


「……あら、もしかしてお連れさんかしら?



 してやったり顔で女は彼の名を復唱した。チッ、と舌を打ち、トキは額を押さえている手の隙間から、じとりと駆け寄って来たセシリアを恨めしげに睨む。

 しかし能天気な彼女は不機嫌なトキの様子に気付くこと無く、ニコニコと微笑んで隣の席に腰掛けた。



「良かったあ。人が多かったので、見つけられなかったらどうしようって思っちゃいました。ご飯もう食べました?」


「……いや……」


「あ、じゃあ私もここで食べていいですか? お腹空いちゃって……、あ、店員さんすみません、このミートソースグラタンを一つお願いします!」


「……おい……」



 了承も得ぬまま料理を注文してしまった彼女を冷ややかに見つめれば、ようやく彼の機嫌があまり良くないことに気付いたのかセシリアはハッと冷や汗を流して肩を落とした。



「あっ、ご、ごめんなさい……勝手に注文しちゃって……。私とご飯食べるの、嫌でした……?」


「……違う、そういうわけじゃない。ただ、何でそう、いつもタイミング悪いんだよアンタ……」


「へ? タイミング?」



 こてん、と小首を傾げる彼女は不思議そうに瞳を瞬いた。すると不意に、トキの奥の席からじっとこちらを見ていた女の瞳とセシリアの視線がぱちりと交わる。



「……あ……!」



 その姿にセシリアは目を見開き、ポッと頬を赤らめた。彼女の美しい容姿には見覚えがあったのだ。



「……ぽ、ポスターの美人さん……!」


「……は?」


「あら、良かった。お連れさんは私のこと知ってくれてるのね」



 にこ、と女は可憐に微笑む。セシリアは瞳をキラキラと輝かせ、憧憬の眼差しで彼女を見つめている。

 間に挟まれたトキは居心地悪そうに眉根を寄せながらも、“ポスター”というキーワードのお陰で横の女に感じていた既視感がようやく腑に落ちた。



(……ロビーでこいつが熱心に眺めてたポスターの踊り子か)



 トキは黙ったまま周囲に視線を向ける。すると男性客の多くはチラチラと彼女の事を盗み見ており、ついでに鼻の下が伸び切っていた。ああなるほど、やけに人が多いのはこの女が原因か、と更にげんなりしてしまい、トキは溜息混じりに残りの麦酒を喉に流し込む。



「あ、あの……っ、メリールージュさんですよね?」



 ふと、セシリアが緊張したような面持ちで女に問い掛ける。すると彼女──メリールージュは頬杖を付いたまま、「あら、名前まで知ってくれてるの? 嬉しいわ」と微笑んだ。



「わ、わあ、すごい……! 本物のメリールージュさんですよ! トキさん、私達ラッキーですね!」


「……」



 キラキラと瞳を輝かせ、小声で耳打ちして来るセシリアをトキは呆れたように見つめた。いや、アンタ今日この女のこと知ったばっかりだろ……、と突っ込みたいところだが面倒なので黙っておく。


 すると不意に、セシリアの髪からふわりと石鹸の匂いが漂ってトキは視線を持ち上げた。女の匂いは基本的に苦手だが、彼女の纏う香りは不思議と嫌ではない。

 無意識に右手が伸び、透き通るようなブロンドの髪がするりと彼の指の間を通った。



「……え……」



 びく、とセシリアの肩が跳ねる。何事だろうかと目を見開いた彼女だったが、直後、トキの口から放たれたのは怒気の篭った低い声で。



「……まだ濡れてる」


「……へ?」


「髪。ちゃんと拭けって言っただろ。ただでさえ軟弱な癖にまた熱ぶり返す気かこのバカ!」


「ふぎゃ!?」



 首元のストールを抜き取り、トキは乱暴にセシリアの濡れた髪をガシガシと拭き始めた。「痛い痛い!」と喚く彼女の訴えを無視して続行する彼の首元に、ふとメリールージュの視線が移る。


 彼女の瞳に映ったのは、魔女によってかけられた“呪い”の印だった。



「……!」



 メリールージュは目を見開き、やがて訝しげに目を細めてトキの横顔を見つめる。

 そんな視線に気付くことも無く、相変わらずトキはセシリアの髪を乱暴に拭き上げていた。彼は目尻を吊り上げ、ゴゴゴ、と地響きでも起きそうなほど低い声で彼女に脅しを掛ける。



「……いいか。次熱出したら本当に置いて行くからな。それでいいんなら勝手に風邪引いてくれて構わないんだぜ」


「……う、うう……嫌ですぅ……」


「置いて行かれたくねーんなら体調管理はしっかりしろ、分かったな」


「は、はい……ごめんなさい……」



 ぶるぶると小さく震え、それこそ捨て犬のような表情でセシリアはしゅんと肩を落とした。ボサボサになってしまった彼女の髪を乱雑に指で梳かして整え、トキは再び首元にストールを巻く。

 彼女の髪の香りが移ったのか、ストールからはふわりと石鹸の匂いが漂っていた。



「お待たせしました、オークリブステーキとミートソースグラタンです」


「!」



 ふと背後から声が掛かって、二人の注文した料理がテーブルに乗る。アリアドニアを出てから数日間、魚かフルーツしか食していなかった二人にとっては久しぶりのまともな料理だった。



「わあ、美味しそう……!」



 たった今肩を落としたばかりだったセシリアは、流石の切り替えの速さで何事も無かったかのように瞳をキラキラと輝かせている。すぐさま胸の前で両手を握り、「シズニアの大地の神に感謝いたします」と一言添えた後、嬉々としてフォークを握った。

 そのまま出来たてのミートソースグラタンを掬い上げ、湯気の立つペンネを口に運ぶ。



「……っ、熱!」


「バカ、ゆっくり食えよ……」



 予想通りの展開にトキは呆れ、冷えたレモン水をグラスに注ぐと口元を押さえて涙ぐんでいるセシリアへ突き出した。

 そんな二人の様子を黙って観察していたメリールージュは、ふっと微笑んで口を開く。



「……あなた達、仲良いのねえ。何だか兄妹みたい」


「……」



 にこりと微笑むメリールージュの言葉をトキは相変わらず無視していたが、セシリアはレモン水に口を付けながらひょっこりと顔を出した。



「……そ、そんな風に見えます?」


「ええ。じゃれ合っちゃって可愛いわよ」


「う……じゃれ合ってるわけではないんですけど……」



 至って普通に怒られているだけです、とボソボソこぼしたセシリアは、そこでふと何かを思い出したかのようにハッと顔を上げた。



「あっ、そうだ! 私、トキさんに渡す物があるんです!」


「……は?」



 唐突な発言に、トキはオークリブに齧り付いたまま眉を顰めた。セシリアはにっこりと微笑み、ポケットの中から小さな袋を取り出す。



「これなんですけど……」


「……!」



 袋を開き、中から取り出されたのは可愛らしい包み紙に包まれたキャンディだった。トキは一瞬瞳をキラリと輝かせ──すぐにハッと我に返ったのか、ぷいっと顔を背けてしまう。



「……い、要らねーよ。甘い物なんか好きじゃないって言っただろ」


「……あ、えっと、違います。これキャンディじゃないです」


「は?」


「あ、いえ、キャンディではあるんですけど……」



 どっちだよ、と眉間の皺が深くなる。うーん、と顎に手を当てているセシリアは包み紙に包まれたキャンディを指で転がし、ややあってトキの瞳を見つめた。



「実はこれ、私が作ったんですけど、」


「………………」



 ひくり。その言葉にトキの口の端はすぐさま引き攣った。

 彼女の料理の腕は嫌というほど熟知している。失敗作なんて可愛いもんじゃない、言わば劇物生成機だ。あからさまに表情を強張らせたトキは、さっと阻むように片手を前に突き出して目を逸らした。



「……要らん」


「えっ、何でですか? 大丈夫です、ちゃんと甘いですし」


「そういう問題じゃない、食えるのかそもそも」


「もちろんです! 魔法で作ったので効果はちゃんと期待できます!」


「……は? 魔法?」



 ぴくりとトキの肩が反応する。セシリアはにっこりと笑って、「実はですね、」と手元のキャンディについて説明を始めた。



「これ、光魔法を凝縮したキャンディなんです。つまり、クスリの代わりになります!」


「……!」


「……ただし、一粒の効果はおそらく半日程度ですけど」



 でも、いざという時の応急処置にはなりますよ! とセシリアは胸を張った。トキは顎に手を当て、なるほどな、と彼女の手からキャンディを受け取る。



「……本当に食えるんだろうな」


「大丈夫です、ちゃんと味見しましたから!」


「……アンタの味見じゃ信用出来ないんだが……」


「え?」


「……いや、何でもない」



 不思議そうに首を傾げる彼女を適当にはぐらかし、残りのキャンディを受け取るとトキはそれを懐に仕舞い込んだ。

 そんな二人のやり取りを興味深そうに眺めていたメリールージュは、ふーん、と呟いて口角を上げる。



「……ねえ、あなた達、二人で何のために旅をしてるの?」


「え?」


「さっき彼には言ったんだけど、私、この街の外に興味があってね。いつか出ようと思ってるのよ。……でも一人だと不安じゃない? だから既に旅してる一行の中に入れてもらおうと思って。それで、こうやって彼に声を掛けたの」



 無視されちゃったけどね、とくすりと笑い、メリールージュは髪を掻き上げた。そんな彼女をじろりと睨み、トキが冷たく声を発する。



「……何度も言っているが、俺達はアンタなんかに構っている暇はないんだ。旅の連れも一人と一匹で事足りてるんでな。他を当たってくれ」


「……!」



 一人と、


 旅の同行者の中に自分だけでなくアデルも含まれていることに、セシリアはふっと頬を緩ませた。やはり彼は優しいな、と心がふわりと暖かくなる。


 一方のメリールージュは、彼の発言に暫く口を閉ざして黙り込んでしまった。しかしややあって「そう、それなら仕方ないわね」と微笑み、徐ろに席を立つ。



「私、あっちのテーブル席にいるから。気が変わったらいつでも呼んで」


「……」


「それじゃあね」



 ぱちん、と片目を瞑って彼女は背を向ける。テーブル席へ移動したメリールージュの姿に、周囲の人々からは黄色い歓声が上がっていた。


 やっぱり人気なんだなあ、と色っぽいその姿にポーっと見蕩れていたセシリアは、オークリブに齧り付いているトキにそっと耳打ちする。



「……な、生で見るとやっぱり綺麗ですよね。ドキドキしちゃいました」


「……そうか? しつこいしやたら引っ付いて来るし、面倒なだけだったぞ」


「ま、またそんな事言って……」



 彼女のファンに聴かれたら怒られますよ、と言い聞かせるが、彼は知った事かと悪びれる様子もなくオークリブを齧っている。まあいいか、とセシリアは苦笑して、少し冷めたグラタンを口に運んだ。


 直後、テーブル席から悲鳴が上がる。



「おい! 先にメリールージュを予約してたのはこっちの席だぞ!?」


「はあ!? ふざけんな、こっちの席が先だっただろ!」



 ガシャン!とグラスの割れる音が店内に響いた。バッと目を向ければ、ガタイのいい男二人がメリールージュを巡って掴み合っている。

 今にも殴り掛かりそうな物々しい雰囲気に、セシリアはすぐさま反応した。



「……た、大変! 喧嘩が……!」


「バカ、行くな。巻き込まれるぞ」



 止めようと立ち上がったセシリアの体をトキの腕が掴んで止める。「でも!」と表情を歪める彼女に「いいから座れ」と諭し、どうにか大人しく座らせる。

 何故彼女はすぐ面倒事に首を突っ込もうとするのか、とトキは呆れた。怪我でもされると困るのはこっちだというのに。


 そうこうしている間に、喧嘩はヒートアップしてとうとう一人が殴り飛ばされてしまった。ガシャン!! と食器類の割れる音と共に悲鳴が響き渡る。

 殴り飛ばされた男は割れたガラス片によって腕を切ったのか、だらだらと血を流していた。



「……っ」



 セシリアは表情を歪めて口元を手で覆う。放っておけば駆け出しそうな彼女の体を捕まえたまま、トキは憐れむように溜息をこぼした。女を奪い合って殴り合いとは、愚かな奴らだとつい嘲ってしまう。


 ──そんな中、ふと眩しい光が喧騒に包まれた店内を照らした。その瞬間、騒がしかった空間にしん、と静寂が戻る。



「うるさいわよ、あなた達。喧嘩なら外でやりなさい」



 淡々とした声が鮮明に紡がれ、コツ、コツ、とヒールを打ち鳴らす音が響く。しゃらん、と衣装の装飾品を揺らしながら倒れている男に近付いた彼女──メリールージュは、怪我をした彼の腕に暖かいその光を発している手のひらを近付けた。


 その瞬間、切れて血を流していた男の腕の傷がみるみると塞がって行く。



「──!?」



 その光景に二人は目を見開き、息を飲んだ。メリールージュの手から放たれている魔法は、紛れも無く癒しの力で。



(──あれって、光属性魔法……!?)



 間違いない、とセシリアは確信する。あれは確実に、自分と同じ光属性の魔法の力だ。

 セシリアは目を見開いたまま暫く固まっていたが、不意にハッと我に返ってトキの顔を見上げる。そこにあった彼の表情は、先程までとは打って変わっていて。



「──……!」



 メリールージュへと向けられているトキの視線に、セシリアは一瞬呼吸が止まったような感覚に陥った。


 彼は光魔法を使って怪我人を癒す彼女の姿を、食い入るように見つめていたのだ。どき、と心臓が跳ねる。



(──……あれ……?)



 先程までの興味なさげな視線から一変、彼は好奇に満ちた瞳で真っ直ぐとメリールージュを捉えている。嫌な予感が背筋を駆け抜けて、セシリアの表情は無意識に歪んでしまう。



(……あれ、なに、これ……?)



 どくん、どくん、と自分の心臓の音がやけに大きく耳に届いた。手が勝手に震えそうになって、なんだか不安で、彼女はそっとトキの腕を引こうと手を伸ばす。


 しかし、その手が彼の腕を掴むことは無かった。トキが唐突に椅子から立ち上がったからだ。



「……なあ、アンタ」



 コツ、コツ、とトキは店の奥へと進み、メリールージュに呼び掛ける。彼女は髪を掻き上げて振り返り、ふっと口角を上げた。



「……あら。何かしら、トキさん?」


「……さっきはああ言ったが、取り消す。アンタに少しだけ興味が出た」



 トキは淡々と告げ、薄紫色の瞳でメリールージュを真っ直ぐと見つめた。そんな彼の声を聞きながら、セシリアの胸が押し潰されたかのように強い痛みを放つ。



(……何? 何で? なんだかあの二人を見てるのが、急に──)



 ──嫌だと、思ってしまう。



「……なあ、」



 トキがメリールージュに向かって口を開く。その先の言葉が怖くて、聞きたくなくて、セシリアはそっと俯いた。

 しかし無常にも、トキは彼女に向かって聞きたくもない台詞を告げる。



「……これから、飲み直さないか? 二人で」


「……!」



 どくん、と心臓が嫌な音を立てた。得体の知れない黒い感情がセシリアの胸に流れ込んで、やだ、やめて、と心の中だけで叫ぶが二人に伝わるはずもない。


 メリールージュは「ええ、もちろん」と微笑み、トキの腕に絡み付く。その光景が更にセシリアの心を深く抉って、彼女はぎゅっと目を閉じた。



「……え、め、メリールージュちゃん、俺達のテーブルに来てくれるんじゃ……」


「やーね、喧嘩するような野蛮な人達と飲むなんてお断りよ。さ、行きましょ」


「そ、そんなあ……」



 落胆する男達に背を向け、二人はセシリアのいるカウンター席へと戻ってくる。トキは俯いているセシリアの前に金を置き、「先に部屋に戻ってろ」と一言だけ残して彼女の横を通り過ぎて行った。



「……あ……トキさ……」



 どうしようも無く不安がせり上がって、セシリアは震える声で彼の名を呼ぶ。しかし目が合ったのはメリールージュの方で、彼女はニッと口角を上げた後ウインクを放ち、トキと共に食堂を出て行った。


 喧騒の去った店の中。ズキズキと、胸の奥がとにかく痛い。



「……トキさん……」



 呟いた声に答えてくれる者は、誰も居なかった。




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