第29話 明日の朝には
1
路地裏を出た二人は雨の中を歩き、ようやく宿へと辿り着いた。相変わらずセシリアはムスッと頬を膨らませたまま。
宿の軒下で濡れたレインコートを脱ぎ、ぱたぱたと水滴を落としている彼女に目を向けるが、やはり視線は交わらない。トキは小さく溜息を吐き出した。
「……まだ怒ってんのか」
「怒ってないです」
「嘘つけ、怒ってるだろ」
拗ねたように唇を尖らせている彼女の横顔を覗き込む。その視線に気が付いたセシリアは分かりやすくたじろぎ、バッ! とあからさまに顔を逸らした。
「……チッ」
なかなか手強い。トキは舌を打ち、ひとまず彼女と同様に羽織っていたレインコートを脱いで表面の水滴を払った。そうしている間もセシリアは顔を背けたままで。……まあ、先ほどの自分の行動を考えると自業自得ではあるのだが。
「……はあ」
とりあえず、形だけでも謝っておくか。トキはガシガシと居心地悪そうに頭を掻き、謝罪を告げようと嫌々ながら口を開いた。
「……悪かったって。さっきはやり過ぎた。謝るから機嫌直せ、やりにくい」
不服げに眉根を寄せ、トキは渋々と謝罪の言葉を口にする。するとセシリアは今まで逸らしていた顔を彼に向けた。しかし、その表情はやはり曇ったままで。
「……別に、怒ってないんですってば」
「だから嘘つくなよ。機嫌悪いだろ明らかに」
「確かに機嫌は良くないですけど、別にさっきの事はもう怒ってません!」
「はあ? じゃあ何に対して怒ってんだよ」
「えっ……」
直球に疑問を投げ掛けると、セシリアの表情がぴしりと強張る。そのまま彼女は言葉を詰まらせ、そわそわと落ち着きなく視線を泳がせた。
「……そ、それは、その……」
「……?」
「……だから……えっと……」
ぼそぼそと言葉をこぼし、俯いてしまったセシリアにトキは眉根を寄せる。
「……何だ、はっきり言え」
「…………のかな、って……」
「あ?」
「だからっ……!」
セシリアは勢いよく顔を上げ、翡翠の双眸を潤ませて真っ直ぐとトキを見つめた。
「トキさんは、誰とでもああいう事できるのかなって……!」
「!」
「……そ、そう思って……」
やけくそだとでも言うように大きく声を発したかと思えば、最後にはまた尻窄みになって俯いてしまう。セシリアは両腕をぎゅっと握り締め、トキの答えを待っていた。
一方のトキは彼女の発言に面食らい、ぽかんと目を丸めて金色のつむじを見下ろす。──誰とでもああいう事が出来るのか、という問いをもう一度頭の中で復唱し、彼は首を傾げた。
ああいう事、というのは、先ほどの路地裏での行為を示しているのだろう。セシリアの言っている意味は理解出来る。……だが、何故そんな事で怒っているのだろうか。彼にはそこが理解出来なかった。
故に、方便どころか気の利いた言い回しすらも出来るはずが無く。
「……誰とでも出来るのか、って……、そんなの当たり前だろ?」
「……!」
「よっぽど好みに合わない女じゃ無けりゃ、相手なんか誰でもいい。意中の相手が居ない男なんて大抵そうだぞ。そんな当たり前の事も分からないのかよ、アンタ」
「……」
はっきり、直球で放たれた言葉。セシリアの胸はずきりと重たく痛みを放ち、無意識に唇を噛み締めた。“相手なんか誰でもいい”──その言葉を頭の中で繰り返すと、彼女の瞳はぐらりと揺れる。
(……そう、よね……)
心の中だけで呟き、彼女は再び俯いた。分かりきっていた答え。しかし心のどこかでは、そうじゃないと言ってくれるのではと期待する自分がいるのも分かっていた。
けれど、何度彼と口付けを交わしたとしても、恋人でも友人でもない二人の間には特別な感情など生まれ得ない。トキにとってセシリアは、『魔女に受けた呪いの進行を止めるため』に必要な『道具』に過ぎないのだ。
分かっている。分かってはいるのだが、彼が「他の女にも同じ事が出来る」という事実が、やはりどうしても心に突き刺さって。
「……? 何だよ、何か不都合な事でもあるのか?」
「……」
眉を顰めて問い掛けるトキに、セシリアは俯いたまま「……いいえ……」と消え去りそうな声を発した。彼女は訝るトキに背を向け、宿の扉を引く。
「……おい」
「……ごめんなさい。さっきのは、忘れて下さい。何でもないので」
「……」
振り向き、へらりとセシリアは微笑んだ。しかしそれは彼女が無理をしている時に見せる笑顔だと、鋭いトキにはすぐに察せてしまう。
彼は眉間に深い皺を刻み、何かを言いたげにセシリアを見た。けれど彼女の作り笑いからは「何も聞かないで欲しい」という無言の訴えのようなものを感じて。
(……何だよ)
モヤつく胸中を誤魔化すように目を逸らせば、「行きましょう」といつものように声を紡いだセシリアが扉の奥へ進んで行く。ひとまず彼女の怒りは鎮まったようだが、何故だか不思議と、トキの胸はスッキリしなかった。
2
(……おい、冗談だろ……)
扉を抜けて早々、トキの眉間が再び深い皺を刻む。雨の影響もあるのか、宿のロビーは溢れんばかりの人でごった返していたのだ。
受付に並ぶ長蛇の列にげんなりと表情を引き攣らせるトキだったが、隣の聖女様は物珍しそうに小綺麗なロビーをきょろきょろと見回して受付の行列など気にも留めていないらしい。能天気なものだと呆れつつ、前方に並ぶ人の数を一瞥したトキは深く嘆息した。
(……しんどすぎる……)
基本的に、彼は待つのが得意ではない。特にジメジメと湿気に満ちた雨の日の人混みなど、室内であっても最悪だ。一刻も早く部屋を取り、濡れた衣服を乾かしたいところである。
しかし一向に進まない列に苛立ちを募らせるトキの心情など知る由もないセシリアは、「大きい宿ですね、すごい!」「わあ! シャンデリアがありますよ、見てください!」と能天気にどうでもいい話をぺらぺらと繰り返していた。もちろん返事など返さない。だが、無視されているにも関わらず、彼女は「あれ見てください」「これもすごい」と一人で楽しそうに繰り返していて。
(……もう、機嫌は完全に直ったのか?)
ころころと笑うセシリアの様子は果てしなく普段通りで、無理をしているのでは、と一瞬疑ったがどうにもそんな風にも見えない。どうやら完全に気持ちを切り替えたらしい。
(ついさっきまで、悲壮感満載のツラしてたくせに……)
随分切り替えが早いものだと些か感心してしまう。彼女は力こそ弱いものの、芯の部分は強いのだ。それだけはトキも認めている彼女の強さだった。
(……ま、何に落ち込んでたのか知らないが、機嫌が直ったんならどうでもいいか)
安堵したような息をこっそりと吐き出し、トキは進む列の波に沿って少しずつ前に進んで行く。
その時ふと、それまで口喧しく喋っていたセシリアの声がぱったりと止んだ事に彼は気が付いた。不思議に思って振り向けば、彼女は壁に貼られているポスターを見上げてじっとその場に突っ立っている。
「……何だ、急に黙って」
「えっ!? ……あ、いえ……」
突然話し掛けられたことに驚いたのか、セシリアは大袈裟に肩を揺らして一瞬トキに目を向けた。しかしすぐにその視線は壁のポスターへと戻り、丸く大きな瞳がキラキラと輝く。
「……綺麗な人だなあ、と思って……」
そうして放たれたその一言によって、トキの視線もポスターへと流れる。そこには露出の高い衣装を着た、端正な顔立ちの踊り子の写真が大きく掲載されていた。
その踊り子の姿を、セシリアは憧憬の眼差しで熱心に見つめている。一方のトキは、見知らぬ他人のポスターになど何の興味も湧かなかった。
「……こういう顔に憧れてるのか? アンタ」
呆れがちに問えば、セシリアは顔を赤くして「ち、違います! そんな! わ、私なんかがおこがましいです!」と慌てて否定する。何をそんなに必死に……、と眉を顰めつつ再びポスターに目を向け──程なくして、トキは「ああ……」と腑に落ちた。腑に落ちてしまった。
「まあ、確かにおこがましいな。出るとこ出てないアンタとこの女じゃ、同じ衣装を着て隣に並んだ途端、雲泥の差が出て公開処刑に──」
──ばっちん!!
「いって!!」
つい普段の調子で軽口を叩いてしまい、気が付けば本日三度目の平手打ちを食らっていた。あ、しまった、と頬を押さえつつ振り向けば、そこには顔を真っ赤に染めて睨み付けているご機嫌斜めの聖女様の姿が。
「さ、最低です! ばか! あんぽんたん!」
「……いやだから、あんぽんたんって何なんだよ……」
「もう! トキさんなんか知りませんっ!」
ふん! と顔を背け、セシリアはトキを追い越して再び列に並んでしまう。トキは頭を抱え、何でこうなるんだよ、と項垂れた。
(……やっと機嫌直したとこだったのに)
はあ、と溜息がこぼれる。呼吸をするように軽口を叩いてしまう己の口が恨めしい。そう考えてトキが落胆していると、不意に背後から肩を叩かれて彼は反射的に振り返った。
「いやあ~、今のは君が悪いよぉ、青年。メリールージュちゃんと比べられたら、そりゃカノジョさんも怒るよぉ」
「……は?」
話し掛けて来たのは、のんびりとした雰囲気を纏った小太りの男だった。どうやら自分達の後ろに並んでいたらしい。「後でちゃんとカノジョさんに謝りなよぉ?」と苦笑している彼に、いやカノジョじゃねえし、と心の中だけで指摘しながらトキは肩に置かれた手をうざったそうに振り払う。
「……ご忠告どうも、今後は気を付けるんで。それじゃ」
「いやあ〜、でもメリールージュちゃん可愛いよねえ〜。この街で一番の踊り子なんだよぉ。近くの劇場でいつも踊ってるんだけどねえ、やっぱりこの宿じゃ人がいっぱいだったなぁ~って後悔中。ぐふふ」
いや何の話だよ、と眉根を寄せるが、並んでいる位置が真後ろでは逃げる事も出来ない。チッ、とトキが面倒そうに舌を打つ中、その隣で聞き耳を立てていたのかセシリアが興味津々に振り返った。
「……メリールージュさんっていうんですね、この踊り子さん。有名な方なんですか?」
にこりと微笑みを浮かべ、彼女は小太りの男に問い掛ける。男は鼻息を荒くし、興奮気味に頷いた。
「そりゃあ、もちろん有名だよぉ! 雨の街マリーローザの、美しき踊り子・メリールージュ! その美貌と抜群のスタイル、そしてセクシーなダンスで世の男はみんなメロメロさぁ〜!」
「へえ〜!」
「そして、もうすぐ月に一度の晴天祭の日! 大きな舞台で踊り子が晴天を祈願して踊るんだよぉ、この街は雨ばかり降るからねぇ。だからこんなに今日は人が多いのさぁ」
「なるほど! 晴天祭なんてものがあるんですね!」
セシリアはキラキラと瞳を輝かせ、男の話を聞き入っている。……おいおい、まさかその晴天祭とやらが見たいとでも言い出すんじゃないだろうな、とトキは眉を顰めて彼女を見た。すると不意に互いの視線が交わって──ぷいっ、とその顔を逸らされる。
(……コイツ、まだ根に持ってやがる……)
途端に頬を膨らませてしまったセシリアを苦々しく睨んだが、やはり彼女は一切こちらを見ない。ああくそ、やりにくい、と再び頭を抱えた頃、不意に「お次でお待ちのお客様、お待たせしました」と声が掛かった。どうやらようやく順番が回ってきたようだ。
「……おい、行くぞ。俺達の番だ」
「……」
顔を逸らしているセシリアに言えば、相変わらず膨れっ面のまま無言で歩き始める。よっぽど胸の大きさを揶揄したのが地雷だったようだ。返事すらしてくれない。
(……チッ、面倒くさい……)
ガシガシと乱暴に頭を掻き、何度目かになる溜息を吐きこぼしてトキは彼女の後を追いかける。
いつもニコニコ笑っている奴がただ笑わないというだけで、こんなにも胸の奥がザワつくものなのだろうか。これも光属性魔法に依存している影響か? だとしたら相当厄介じゃないか、などと一人悶々と考え込んでいると、受付の女性がにこやかに会釈した。
「お待たせ致しました。ご予約はお済みでしょうか?」
「……いえ、予約はしてないです。今夜二部屋お借りしたいんですが、空いてますか?」
「かしこまりました、確認いたしますね」
セシリアの言葉に女性は頷き、宿泊リストを開いて暫く黙り込む。ややあって彼女は顔を上げ、「お待たせしました」と二人を見つめた。
「只今確認したところ、本日はご予約のお客様でいっぱいで……。一部屋だけでしたら、すぐにお取り出来──」
「──ええッ!? 絶対にダメです!」
女性が全て言い切るのも待たず、セシリアは食い気味に叫ぶとバンッ! とカウンターを叩いて身を乗り出した。全力で拒んだその声に、受付の女性だけでなく隣に居たトキまでもがビクッと肩を揺らす。
「……お、おい……」
しん、とその場に訪れた沈黙。トキの声によってようやくセシリアは我に返り、「あ……」と気まずそうに呟くと乗り出していた体をおずおずと引っ込める。しかしやはり、その目は力強く女性に向けられていて。
「と、とにかく、一部屋はダメです……! どうにか二部屋取れませんか?」
「……え、えーと……今すぐお取りするのは、少し難しいかと……。おそらく他の宿も満室ですね……」
「そ、そんなぁ……」
あからさまにセシリアが肩を落とす。そんな彼女の様子を隣で見守りながら、トキは複雑な心境だった。
確かに、以前どこかの村で宿を取った際、「男と同室で寝るなんてバカか!」と彼女を叱咤した事があった。それに先ほど路地裏であんな事を仕出かした後だ、二人っきりになるのを警戒されるのも分かるしそれで正しいと思っている。──だが。
(……ここまで全力で拒否られると、案外
普段の彼女が流されやすく従順であるだけに、今の全力拒絶はトキの心にぐさりと突き刺さっていた。絶対に同室は嫌だ! という強い意志がひしひしと伝わって来る。
とは言え、一室しか空いてないのであれば、そこに入室する他に無い。外は雨。宿は諦めて野宿、というのは病み上がりの彼女には些か酷だろうし……、と、そこまで考えたところでトキの頭には一つの解決策が浮かんだ。──気は進まなかったが。
(……まあでも、こうするのが一番現実的か)
はあ、と小さく溜息が漏れる。やはり気乗りはしないが、仕方がない。
トキはガシガシと後頭部を掻き、険しい表情で俯いているセシリアを押し退けると唐突にカウンターへと身を乗り出した。
「……分かった。とりあえず、その一部屋だけチェックインさせてくれ」
「──!」
「……あ、はい。かしこまりました」
背後から割り込んだトキの言葉によって、セシリアの体が一層強張る。すっかり顔を青ざめてしまった彼女の様子に、随分あからさまに嫌がられたもんだな、とやはり少し胸が痛んだが、それに気付かない振りをして彼は着々と宿泊の手続きを進めた。
「──お待たせ致しました、こちらがお部屋の鍵になります」
「……どーも」
暫くして手渡された鍵をトキは女性から受け取り、セシリアの腕を引いてカウンターから離れる。未だにムスッと唇を尖らせている彼女と向き合えば、分かりやすくその顔を逸らされてしまった。
「……まだ怒ってんのかよ」
「……」
「……はあ……、分かった。ほら」
「!」
突如、たった今受け取ったばかりの鍵を手渡され、セシリアは驚いたように顔を上げる。彼はそれを強引に彼女の手に握らせると、「じゃあな」とこぼして背を向けてしまった。慌ててセシリアはその腕を捕まえる。
「えっ……! ど、どこ行くんですか?」
「……外。俺は野宿でいい」
「ええ!? だ、ダメですよ! 雨なんですから! 風邪を引いてしまいます!」
「……別に、雨ざらしの野宿なんか慣れてる」
嘘は言っていない。ディラシナで過ごしていた頃は特定の寝床など無かったため、雨風に曝されながら震えて眠る事もしょっちゅうだった。別に今さら苦ではない。
しかしそう伝えたところで、トキの腕を掴んだ聖女様は浮かない表情で俯くばかり。トキは小さく嘆息し、トドメとばかりにこの一言を放った。
「……アンタ、俺と同室は嫌なんだろ」
「……!」
「引き止める必要なんかない。好都合じゃないか」
ふるりと、セシリアの瞳が戸惑いがちに揺れる。返答に困っている彼女の手をやんわりと解き、彼は再び歩き始めた。
「気にするな、アンタは正しい。あんな事された後だってのに、あっさり同室を許す方がまずいんだ」
「……」
「明日の朝には迎えに来る。じゃあな」
トキは振り向きもせずにそう言い残し、ついに宿を出て行く。セシリアは何も言わず、その背中をただ黙って見つめていた。
(──明日の、朝には……)
今しがた放たれた彼の一言が、彼女の脳裏に何度も響く。その言葉を、セシリアは知っていた。知っていたから──気が付けば地面を蹴り、走り出していたのだ。
──ザァーーー……。
一方で、外に出たトキは盛大に眉を潜めていた。黒く重たい空を見上げて舌打ちを放つ。雨脚は宿に入る前よりも強くなっているように思えて、彼は苦々しく表情を歪めた。
(……チッ、面倒だな)
はあ、と溜息をこぼし、レインコートを羽織るとフードを深く被って雨の降る路上へと足を踏み出す。するとその瞬間、バンッ! と宿の扉が開かれ、勢い良く飛び出して来た何者かの姿を視界の端で捉えた。
「──!?」
反射的にトキが振り向いた頃には、ぼすっ、と腕に重みを感じて。何事かと目を瞬くと、そこにはレインコートすらも羽織っていないセシリアが大粒の雨に打たれながらしがみついていた。
「……、は……!?」
ぎょっ、と見開かれる瞳。あまりに急すぎる展開に、一体こいつは何をしているのかと脳内処理が追いつかず、彼の動きは暫し硬直してしまう。しかしややあって冷たい雨に打たれる華奢な体に気が付き、トキは肝を冷やして彼女の肩を鷲掴んだ。
「……な、何してんだアンタ! バカか!? また熱が出たらどうす──」
「──ごめんなさいっ……!」
「……っ、は……?」
ぎゅう、と腕にしがみつく彼女は、今にも泣き出しそうな表情でトキを見上げた。トキは息を飲み、言葉を詰まらせてセシリアを見下ろす。
「私、もう、小さいことで怒ったり、拗ねたりしないです……しないから……っ」
「……」
「……お、置いて行かないで……くださ……っ」
声を震わせ、雨粒なのか涙なのか判断出来ない雫が彼女の頬を滑り落ちた。トキはぽかんとそれを見つめ、困惑しながらも何とか声を絞り出す。
「……は、はあ……? 何言ってるんだアンタ、野宿するだけだぞ。別にどっかに消えるわけじゃない」
「……いや……っ、嫌です……っ」
「おい、ガキみたいな事言ってんじゃねーよ。一晩だけだろ? そんなに心配されなくても、自分の身を守る術ぐらいあるし、明日の朝には迎えに来るって──」
「──そう言ってアデルは帰って来なかったじゃないですか!!」
悲痛に響いた訴えに、トキは今度こそ喉から出かけていた言葉をぐっと詰まらせた。震える手が彼の腕を掴み、セシリアの額が濡れた肩に落ちてくる。
「……あの時も、一晩だけだって……明日の朝には会えるって、言ってました……」
「……」
「……でも……アデルは……あのまま結局、どこかに消えてしまって……」
戻って来なかった、と消え去りそうな声が言葉を紡いだ。トキは何も言えずに立ち尽くし、アデルと最後に顔を合わせたあの日の事を思い返す。
『──おいクソ犬、これやるから一晩大人しくその辺で待ってろ。明日の朝には戻る。分かったな』
そう言って兎肉をチラつかせると、アデルは嬉しそうに尻尾を振った。肉をくわえ、その場に大人しく丸くなる彼を、セシリアは終始不安げな表情で見つめていて。
『……たった一晩だ。アイツも自分の身を守るぐらいは出来る』
『……そう、ですよね……』
そのまま二人は、アデルを残してその場から離れた。──結果、彼は村人に襲われて姿を消したのだ。
そして今、トキはあの時と全く同じような台詞を彼女に吐いている。だからここまで必死に、雨に打たれることも躊躇せずに──セシリアは彼を追い掛けてきたのだろうか。
「……私……っ」
縋るような声が、雨音の隙間からトキの耳に染み込んで来る。泣いているのかそうでないのか、やはり判別は付かなかった。
「……私、嫌です……っ」
「……」
「……トキさんまで居なくなるの……怖いんです……嫌なんです……っ」
雨に打たれて震えるセシリアの体に、トキは空いている方の手を伸ばす。「ごめんなさい……」「もう拗ねたりしないから……」と呟く彼女の頬に張り付いた髪を掬い、そっと耳に掛けてやれば、翡翠の瞳が恐る恐ると持ち上がって。
「……置いて行かねーって言っただろ、昨日も」
トキは掠れた声で呟き、不意にセシリアが手に持っていたレインコートを乱暴に引ったくった。そのままそれを大きく広げ、濡れた彼女の体を無理矢理その中に閉じ込める。「わぷ!」と間抜けな声を発したセシリアがコートから顔を出せば、目の前には真っ直ぐと見つめてくる薄紫色の瞳。
「……だいたい、アンタをここに置いて消えるメリットが無い。それに俺は、俺の目的を達成するまでは死ぬつもりも無い」
「……」
「……だから今も、アンタと一緒に居るんだろ?」
セシリアの頬を滑り落ちる雫を指で拭い、トキは力の緩まった彼女の手から自身の腕を引き抜く。その際、チャリ、と金属音が響き、セシリアは目を見開いて自分の手の中を見つめた。しかしそこは既に
「……部屋。狭くても文句言うなよ」
「……へ……」
「……何マヌケな面してんだ。俺がどっか行くのが嫌なんだろ? だったら、悪いが同室だ。文句あるならアンタが出て行け、俺はもう知らん」
「……も、文句なんかない、です……、あ、でも……」
「あ?」
まだ何かあんのか、と面倒くさそうに歩き始めていたトキが振り返る。するとセシリアは言いにくそうに視線を泳がせ、頬を赤らめながらぼそぼそと言葉を発した。
「……その……、部屋で、えっちなことは……しないでくださいね……?」
「……」
おずおずと放たれた一言に、トキは暫し硬直して黙り込んでしまった。しかし程なくして彼は視線を逸らし、すたすたと宿に向かって歩き始めてしまう。
「……善処する」
「……ぜ、善処じゃだめです! 誓ってください! 何もしないって!」
「時と場合があるだろ」
「どんな場合でもだめですー!」
真っ赤な顔で喚き、セシリアはバタバタとトキを追い掛ける。
残念ながら彼も健全なる二十代前半の男なもので、「何もしない」とハッキリ神に誓うことは出来なかったが──結局、二人はこの日、同じ部屋で一晩を過ごす事になったのだった。
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