第27話 雨の降る街


 1




 魚の焼ける香ばしい香りに誘われて、セシリアの意識が覚醒する。ぐう、とお腹が小さく音を立てた頃、頭上に広がる澄み切った空を視界に入れ、彼女は起き上がった。暖かい日差しに包まれて、このままもう一度眠ってしまいたいなあ、なんて呑気な考えが頭に浮かぶ。


 しかし、そんな穏やかな空気も長くは続かないようで。



「プギーーッ!!」


「!?」



 甲高い豚のような悲鳴が突如大音量で響き渡り、眠たげに瞬いていたセシリアの瞳が開眼する。慌てて声のした方向に顔を向ければ、昨晩トキに殴られて地面に転がっていたピンク色の豚のような生物──ストラフティルが、彼に尻尾を捕まえられてじたばたと暴れているところだった。



「と、トキさん!?」



 立ち上がり、駆け寄る。するとトキは「……ああ、起きたのか」と目も合わせずに素っ気なくこぼし、手元にぶら下がっている子豚をウザったそうに見下ろした。

 ストラフティルはプギプギと鼻を鳴らし、その場から逃げようと短い手足をばたつかせて足掻いている。



「な、何をしているんです……?」


さばこうとしたら暴れた」


「えっ!? この子食べちゃうんですか!?」



 さも当然のように言い切った彼の手には鋭利なナイフが握られていた。「ま、待ってください!」とセシリアは咄嗟にその手を掴む。

 じろりと今まで逸らされていた視線が不服げに投げられたが、彼女は怯むことなく強く手を握った。



「この子、まだ子どもですよ? それにお魚があるじゃないですか、何もこの子まで食べなくても……」


「……って。アンタ本当にお人好しだな。魔物まで庇うつもりなのか?」


「でも、魔物だろうと人間だろうと、同じ“命”だという事に変わりはないでしょう?」



 セシリアは凛と澄んだ強い瞳をトキに向け、言葉を紡ぐ。対する彼はその視線に眉を顰め、続けるはずだった言葉も飲み込んでしまった。



「もちろん、私達が生きるためには魚や動物のお肉を食べなければいけません。けれど、必要以上の殺生は避けるべきだと思います」


「……」


「……私は、お魚一匹でも満足ですよ? 残りのお魚はトキさんに差し上げます。……だから、ね?」



 ナイフを持った手をぎゅっと握られ、懇願するように視線を投げ掛けられては流石のトキも居心地が悪い。暫し黙って彼女を見つめ、やがてチッと舌を打った彼はストラフティルを地面に落とした。



「プギッ!」



 べちゃり、顔面から落ちたストラフティルが鼻を強打する。セシリアはホッとしたように胸を撫で下ろし、地面に転がっている子豚を抱き起こした。



「ごめんね、怖がらせちゃったね。もう大丈夫よ」



 セシリアは慈愛に満ちた優しい声でストラフティルに語り掛ける。その様子にトキは嘆息した。



(……無駄なことを……。ストラフティルは臆病で警戒心が強い。あんな慰めの台詞なんか何の意味もないってのに)



 案の定、ストラフティルはプギプギと鳴いて敵意を露にし、警戒色である赤に色付いた目でじろりとセシリアを睨み付けていた。──目が合ったら幻覚を見せる──そんな昨晩のトキの言葉が脳裏に蘇り、彼女は身を強張らせる。


 しかしすぐに背後からトキが口を挟んだ。



「安心しろ。幻覚成分の出る尻尾は紐で縛っておいた。いくら目が合っても幻覚は出せない」


「……あ……そ、そうなんですね」



 仕事の早い彼に感心しつつ、ひとまず幻覚の心配はないようでホッと安堵する。彼女は再び怯えるストラフティルと向き合うと微笑み掛け、震えるその体を優しく抱き締めた。



「ごめんね。昨日も、最初に私が怖がらせちゃったからびっくりして幻覚なんか見せたのよね。大丈夫よ、もう何もしないから。ね?」


「……プギッ……プギギ……」


「ほら、安心して。もう、怖くないでしょう?」


「……」



 暖かい腕の中。セシリアの体温に包まれ、ぶるぶると震えていた桃色の体は徐々に落ち着きを取り戻して行く。警戒を露にして真っ赤に色付いていた目も、だんだんと本来の青色に戻り始めて。



「……!?」



 その様子を黙って眺めていたトキは思わず目を見開いた。ありえない、と心の中だけで呟く。



(警戒を、解いた……!?)



 警戒色が消える──つまり、野生の魔物が、人間の……セシリアの言葉を聞き入れたということだ。それも、臆病で警戒心が特に強いと言われるストラフティルが。



(……どういう事だ、野生の魔物だぞ。こうもあっさりと人に対する警戒心を解くなんておかしいだろ)



 トキは眉を顰め、訝しげに彼女の背中を見つめる。特に魔法や道具を使った気配はない。本当に彼女の呼び掛けに答えて警戒を解いたという事だろうか? いや、まさか。


 あれこれとトキが考えを巡らしている間に、腕の中のストラフティルの瞳は完全に青色へと戻っていた。すりすりとセシリアの胸に顔をすり寄せ、甘えるように鳴き声をこぼしている。



「プギ、プギギ」


「……ふふ、やだ、くすぐったいよ……」


「プギ〜」



 セシリアは微笑み、そっとストラフティルの体を地面に放した。完全に警戒心を解いたらしいストラフティルは、短い手足を彼女の膝の上に乗せ、そこへ登ろうと奮闘するような仕草を見せている。

 トキは眉間を寄せ、目の前で繰り広げられている信じ難い光景に眉を顰めるばかり。そんな彼の心境など知る由もないセシリアは、穏やかに表情を緩めて屈託のない笑顔をトキに向けた。



「良かった。この子、落ち着いてくれたみたいですね」


「……、ああ……」



 少し間を置いて相槌を打ったトキは、眩しく感じてしまうほど純粋に向けられた彼女の笑顔から目を逸らす。セシリアは微笑んだままストラフティルの尻尾を縛っている紐へと手を伸ばし、固く結ばれたそれを何とか緩めて解き放った。



「はい、取れた。もう大丈夫よ。森の中にお帰り」


「プギ~……」


「……え、あら?」



 ストラフティルに森へ帰るよう促したセシリアだったが、肝心のストラフティルは帰りたくないとでも言うようにセシリアの膝に擦り寄って来る。プギ、プギ、と鳴いて甘える小さな体を見下ろし、セシリアは「どうしましょう……」と困った顔でトキに視線を向けた。彼は溜息混じりに肩を竦める。



「……知るか。アンタが勝手に世話焼いて懐かれたんだろ」


「そ、そうですけど……どうしたらいいのか……」


「そんなもん、その辺の茂みの中にでも投げ捨てればいい。そいつも野生の魔物だ、あとは勝手にどこかへ行く」


「そんな、投げ捨てるなんて……! 可哀想じゃないですか、まだ子どもですよ?」


「……」



 どこまでもお人好しの聖女様に、トキは心底呆れた表情で深い溜息を吐き出した。ああ、全く面倒くさい。ただの魔物にまで慈悲を与えたりして、お優しいにも程があるんじゃないのか。



「……分かったよ。俺がやる、どけ」



 トキは気乗りしない様子で吐き捨て、セシリアの肩を掴むと乱暴に押し退けた。その瞬間、彼女に擦り寄っていたストラフティルの目がカッと見開き、赤く色付く。



「──!!」



 は、と気が付いた時には遅かった。



(……しまった……!)



 目が合ってしまったトキの目の前からはストラフティルの姿が消え、ぐにゃりと歪んだ視界の中に“恐怖の化身”が現れる。──視界に入ったそれは、彼の最も恐れている、“彼女”の姿で。



「……っ!」



 ぞく、とトキの背筋に嫌な汗が伝う。まずい、と短剣に手を掛けたその瞬間、目の前に現れた黒いショートボブの髪を揺らした少女が、彼と同じ薄紫色の瞳を細めて微笑んだ。


 思わず、トキは息を呑む。



(……ジ、ル……)



 彼女──ジルはにっこりと微笑んだまま、頬に一雫ひとしずくの涙を滑り落とした。そしてその手の中に光る真っ赤なナイフの刃を、自らの首筋に当てがう。


 ああ、やめろ。



『──ごめんね、トキ』



 思い出したく、ない。



「ッ、くそ!!」



 トキは怒鳴りつけて短剣を引き抜き、自らの手首に刃を当てがうと迷わず押し込んで深く切り付けた。ブシュッ、と真っ赤な鮮血が飛び、傍にいたセシリアが悲鳴のような声を上げる。



「トキさんッ!!」


「……っ」



 鋭く響いた痛みによって“幻覚”として現れた“あの日”のジルの姿は消え失せ、本来の視界が戻って来る。顔を上げれば真っ赤な瞳でこちらを見つめているストラフティルと目が合い、トキはその両目を睨み付けると手にしていた短剣を即座に投げた。


 ──ドスッ!!



「ピギィ!!」


「……っ!」



 響く鳴き声、短剣が突き刺さる音。セシリアは最悪の事態を想像し、両手で口元を覆って振り返った。


 すると、彼の投げた短剣が──ストラフティルの目の前のに突き刺さっていて。


 身を震わせたストラフティルは、プギギー! と悲鳴を上げながら森の奥へと一目散に逃げて行ってしまう。セシリアは短剣がストラフティルを貫いていなかったことにホッと胸を撫で下ろし、手首から血を流しているトキの元へと慌ただしく駆け寄った。



「と、トキさん! 大丈夫ですか!?」


「……っ」



 青白い顔で手首を押さえ、トキは俯いている。セシリアは血の滴る手首に素早く両手をかざし、すぐさま治癒魔法を唱えた。ポウ、と暖かい光がトキの手首を包み、痛々しいその傷を癒す。



「……はあ、良かった……そこまで深い傷じゃなくて……」


「……」


「……大丈夫ですか? 何が見えたんです?」



 セシリアは問い掛け、彼の顔を心配そうに覗き込む。そんな彼女を片手で制し、トキは未だに青ざめている顔を持ち上げると掠れた声を発した。



「何でもない……いいから、放っておいてくれ」


「……」


「それより、アンタの方こそ体調はどうなんだ」



 トキは徐ろに手を伸ばし、セシリアの額にそれを添える。昨晩よりもだいぶ熱は下がったようで、彼は小さく息をついた。



「……熱は、無さそうだな」


「私はもう大丈夫です。私よりもトキさんの方が……」


「しつこいな、俺の事は放っておけと言ってるだろ」



 心配そうに瞳を揺らすセシリアを振り切り、彼はふらりと踵を返した。焚き火から少し離れた場所で炙られていた魚は何匹か焦げてしまったようで表面が黒くなっている。

 トキはチッと舌打ちを放って、炙っていた魚の一匹をセシリアに手渡した。彼女は慌ただしく駆け寄り、それを受け取る。



「アンタは一匹でいいんだったな。なら、あとは俺が頂くぞ」


「え、あ……はい、どうぞ」



 素っ気なく言い捨て、トキは炙られていた小魚を掴み取ると焦げたその腹にかぶりついた。セシリアは手渡された魚にふと視線を落とし、はた、とその目を瞬く。



(……このお魚だけ、焦げてない)



 程よい焼き加減に仕上がったその魚をじっと見て、再び彼女はトキが手にしている三匹の魚に視線を戻した。どれもこれも真っ黒焦げ、とまでは言わないが、そこそこ派手に焦げてしまっている。

 おそらく本来甘党であろうトキは、その魚を齧りながら盛大に眉間を寄せていた。


 ──ああもう、そういう意味で一匹でいいなんて言ったわけじゃないのに。


 先程の自分の発言が完全に裏目に出てしまい、申し訳ない気持ちがせり上がって来てしまう。



「……あの、トキさん。お魚、交代しませんか?」



 おずおずとセシリアは口を開き、そんな提案を投げかけてみた。しかしすぐにぷい、と顔を背けられてしまう。



「……しない。さっさと食え」


「……もう。頑固ですね」



 むう、と唇を尖らせつつ、セシリアもトキの隣に腰を下ろした。相変わらず黒焦げの魚を口に運ぶ彼の表情は、苦々しく歪められたまま。


 まったく、本当に。



(……優しくて、困るなあ)



 そう考えて、小さく息が漏れた。プライドの高そうな彼のことだから、何度交換を持ち掛けたところで結果は同じだろう。だから今回も彼の優しさに甘えてしまう。


 でも、そんな不器用な優しさが嬉しいのも事実で。



「……ふふ」



 セシリアはこっそりと微笑み、いただきます、と手を合わせて、程よく焼けた魚を口に運んだのであった。




 2




 雨が降り始めたのは昼過ぎからだった。

 最初こそポツポツと控えめに降り注いでいたそれは時間が経過するに連れ大粒となり、二人は防水性のコートを頭から被って森を抜けることになったのだった。


 途中、手頃な岩場で雨を凌ごうと休憩も挟んだが、一向に雨脚が弱まる気配は無く。結局、二人は雨の降り注ぐ小道をひたすら歩くことになった。


 そうして歩き続けること数時間。ようやく道の先に街が見えて来た頃には、二人の足元はぐっしょりと濡れてしまっていた。



「……はあ、良かった。こんな大雨の中で野宿だったらどうしようかと思ってました」


「……そうだな」



 ホッと安堵するセシリアに素っ気なく相槌を打ち、トキはさっさと前を歩いて行ってしまう。彼女もその背中を追うべく数歩足を踏み出すが、ふとその場に立ち止まり、曇りがちな表情で背後を振り返った。



(……アデル……今日も見つからなかった……)



 雨で白む風景の中をいくら見渡せど、白銀の毛を揺らす友人の姿はない。セシリアは眉尻を下げて俯き、やがてようやく向き直ると、先導するトキの後を追いかけて行った。


 かくして二人は、雨の降り続く街の中へと足を踏み入れたのである。


 時刻は午後五時過ぎ。雨のせいで随分と薄暗く感じるが、街灯や家の明かりがチラホラと灯り始め、酒場や食事処が店を開ける準備をしているのか肉の焼けるいい匂いが漂ってくる。通りを歩く人の数も少なくは無く、アリアドニアほどでは無いとは言え活気のある街のようだった。



「わあ、結構大きな街なんですね!」


「……迷子になるなよ。もう探しに行くのは御免だぞ」


「う……はい……」



 アリアドニアで攫われた一件を掘り返され、セシリアはしゅんと肩を落とす。まあ、わざとでは無いにしろ単独行動中に攫われてしまった事には変わりないわけで、今度は人気のないところは極力歩かないようにしよう! とセシリアは心の中でひっそりと決意した。


 しかしそうこう考えている間に、淡々と歩いていくトキの姿は遥か彼方に離れてしまっていて。



「あっ……! ま、待ってくださいトキさん!」



 大慌てで彼の背中を追いかけようと足に力を込める。しかしそんな彼女の肩を不意に伸びて来た手が捕まえた事で、走り出そうとしたその足は止まった。



「──ごめん、そこのお嬢さん! ちょーっとお話し聞いてくれない?」


「……へ?」



 驚きつつ振り向けば、目の前には気の良さそうな笑みを顔に貼り付けた男の姿。小首を傾げて「私ですか?」と問いかけるセシリアに、彼は頷く。



「そうそう、君だよ! 実は今すっごく困っててさ! つい声かけちゃったけど、俺怪しい者じゃないから安心して!」


「……は、はあ……困りごと、ですか?」


「そう! 今ね、ホントにすごーく困ってて……よかったらちょっとだけ手伝って欲しいなあって思ってるんだけど」


「え、えと……」



 唐突な申し出にセシリアが困ったように視線を泳がせていると、男は顔の前で両手を合わせて「お願い! ちょっとお店の中に付いてくるだけでいいから!」と頭を下げた。

 その後も「お願い!」「人助けと思って!」「一瞬で終わるから!」と詰め寄ってくる彼に、セシリアの良心がぐらぐらと揺さぶられる。



(ど、どうしよう……この人すごく困ってるみたい……お店に入るだけでいいって言ってるし、それぐらいなら手伝ってあげても……)



 うーん……、と彼女が口元に手を当てて考えている間に、目の前の男は表情を曇らせて「やっぱだめかな……」「そうだよね、急にこんなこと言われても困るよね……」などと呟き、がっくりと肩を落としてしまっていた。悲しげに俯くその瞳が、セシリアの心にぐさぐさと突き刺さる。



「あ、あの、顔を上げてください! 分かりました、お手伝いしますから……!」



 すると咄嗟に、そんな言葉が飛び出してしまっていた。男はぱっと顔を上げ、悲しげだった表情が明るく綻ぶ。



「え!? 本当に!?」


「は、はい。えっと、お店に入るだけで、すぐ終わるんですよね……?」


「うん、もちろん! ありがとう! 君は女神様だね!」



 ぎゅっと両手を強く握られ、セシリアは困ったように苦笑を返した。早速その手を引いて男は身をひるがえしたが、トキに黙って居なくなってはまずいだろうと「あ、ちょっと待ってください!」と彼女は彼を止める。



「ん? どうしたの?」


「……あ、あの、一応同行人がいるので……断りだけ入れてきてもいいですか?」


「……え? 連れがいるの?」


「はい。さっきまで一緒だったので、すぐ近くにいると思うんですけど……」



 正直に答えれば、男は一瞬表情を歪めて眉間を寄せた。しかしすぐに気さくな笑顔を作り、「断りなんか入れなくても大丈夫だよ、すぐ終わるからさ」とセシリアの肩を掴む。



「……え、でも、急に居なくなったら心配させてしまいますし……」


「大丈夫大丈夫! ほんとすぐ終わるから! 店もすぐ近くだし! ほら行こう!」


「あ、ちょっと……!」



 半ば強引に肩を引き寄せられ、男は歩き始める。戸惑うセシリアだったが、掴まれた力が思いのほか強く抵抗すらさせてもらえない。



(……ど、どうしよう……勝手に居なくなったら、またトキさんを怒らせちゃう……!)



 焦るセシリアだったが、男は構わず歩いて行く。不安げに瞳を揺らす彼女を気遣う気もないのか、彼は赤いすだれの下がった大きな建物へと向かっていて。



「ほら、近いでしょ? あの店だよ」


「……」


「そんな不安そうな顔しないで。大丈夫」



 その言葉に顔を上げると、男が至近距離でにんまりと笑みを浮かべていた。



「……すぐ、終わるからさ」



 何故か、その笑顔が酷く恐ろしく感じて。セシリアはひゅっと息を飲み込む。

 ああどうしよう、なんだか悪い予感がする。そう思い至ったところで、もはや建物の入口はすぐ目の前にまで迫っていて。



「……っ、あ、あの、やっぱり私、用事を思い出してしまったので……!」



 ぱっと彼から目を逸らし、その場に立ち止まる。しかし強く腕を引かれ、「きゃ!」と短く悲鳴を漏らして彼女は前につんのめった。



「大丈夫、ほんとにすぐ終わるんだよ? いいから来て」


「……あ、あの……っ」


「いいから」


「……やっ……!」



 高圧的な、ギラついた視線がセシリアを見下ろす。有無を言わさず腕を引く男にゾッと背筋が凍り付いて、彼女は固く目を閉じた。


 しかしその時、不意に目の前で風を感じて。



「……おい」



 すぐ真後ろから聞き慣れた低音が響き、直後に強い力で身体を引き寄せられた。背後から回された腕と密着した身体から伝わる温もりは、よく知っている。



「──俺の連れに何の用だ」



 牽制するように放たれた低い声。セシリアは恐る恐ると閉じていた目を開け、そっと振り返った。



(……トキ、さん……)



 そこにはやはり、険しい表情で眉根を寄せ、明らかに不機嫌そうな鋭い眼で男を睨み付けているトキの姿。


 突然現れたトキに、今の今まで強引にセシリアの手を引いていた男は即座に彼女から距離を取った。顔面を蒼白に染めた彼は戸惑いがちに目を泳がせ、冷や汗を滲ませながら少しずつ後退する。



「……あ、も、もしかして、お連れさん?」


「……」



 トキは答えず、セシリアを腕の中に隠したまま男を睨み続けていた。男は冷や汗を流しながらじりじりと後退り、へらりと誤魔化すように笑う。



「や、やだなあ〜、何にもしてないって。そんなに怖い顔しないでよお兄さん。ちょっと人手が足りなくて、お手伝いしてもらおうと思っただけだからさぁ……あはは」


「……へえ? 、ね」



 トキは男を睨み付けたまま、嘲るように口角を上げた。やがて男が先程セシリアを連れて入ろうとした店を一瞥し、声を低める。



「──で何を手伝わせるって言うんだ? まさかお茶出しの手伝いとでも言う気じゃないだろうな」


「……、う……っ」


「おいおい、口には気をつけた方がいいぜ? もっと笑える冗談を言ってくれねえとな。今の俺は虫の居所がかなり悪いんでね」



 トキはセシリアをその場に残して男に近付き、たじろぐ彼を壁際まで追い詰めると大きく足を振り上げた。

 ガァン!! と派手な音を立てて男の真横の壁を乱暴に蹴り付け、トキは殺気すら篭った冷たい双眸を男に向ける。



「……失せろクソ野郎。人の連れに汚ねえ唾付けようとしてんじゃねえ、殺すぞ」



 怒気を孕んだ低い声が放たれ、男はへたりと壁に背を付いた。直後、瞳に涙を浮かべて彼は地面を蹴る。



「……ひ、っひいぃ!!」



 情けなく悲鳴を上げ、男はその場から走り去って行った。慌ただしい彼の足音が遠ざかり、戻って来たのは静寂と、ひそひそとざわめく囁き声。

 道行く人々が好奇の目を向ける中、トキは黙ったまま振り返り、呆然と立ち尽くしているセシリアの腕を乱暴に掴んで引っ張って行く。



「きゃっ、い、痛……!」


「黙れ。面倒事にばっか巻き込まれやがって、この馬鹿女」


「……う……」



 前を歩く彼から返ってきた声色には未だに怒気が篭っていて、セシリアは消え去りそうな声で「ごめんなさい……」と呟いた。肩を落とす彼女の瞳は潤み、今にもこぼれ落ちそうで。


 トキはチッと舌打ちを放ち、セシリアの腕を引いたまま細い路地へと入り込んだ。人の気配の無い路地裏を暫く進み、彼はどんどん道を曲がって行く。しかしややあってふと立ち止まり、唐突にセシリアの肩を掴むと雨に濡れた冷たい壁際にその背をドン! と押し付けた。



「きゃ……!」



 突然壁に押し付けられ、セシリアは怖々と目の前に迫るトキの顔を見上げる。交わったその目はやはり怒りの色を濃く滲ませていて、彼女は居心地悪そうに視線を逸らした。

 ああ、絶対に怒られる、と今から浴びせられるであろう罵声と暴言を覚悟してセシリアは固く目を閉じる。


 ──しかし、直後に彼の口から放たれたのは、罵声でも暴言でも無く。



「……どこか触られたか?」


「……、へ?」



 ぽつり。それだけ問い掛けたトキは、やはり不機嫌そうに眉間を寄せていて。想定外の言葉にセシリアの口からは思わず間の抜けた声が漏れた。



「……おい、どうなんだ。アイツに身体触られたのか?」



 何も返事を返さずにいると再度問い掛けられ、セシリアはハッと我に返って慌ただしく首を振る。



「さ、触られてないです。あの場所に連れていかれただけで……」


「……」


「ほ、本当です! 何もされてません……!」



 疑わしげに見下ろすトキに弁明すると、彼は深く溜息をこぼしてセシリアの頭にベシッ! とチョップを放った。「痛っ……!」と表情を歪めるセシリアだったが、直後トキの手が彼女の両肩を掴んだことで、その細い肩が震える。


 そして、彼はぼそりと声を発した。



「……ほんと、いい加減にしろよ……少し目を離した隙に消えたと思ったら、あんな店に連れ込まれそうになりやがって……。少しぐらい人を疑えないのか、アンタは」


「……」


「どうせ情に訴えかけられて、断りきれずに付いていったんだろ」


「……う……」



 図星。返す言葉が無いセシリアが俯くと、肩に添えられていた手に力がこもる。冷たい雨粒は彼の手を滑り落ちて、再び大きく溜息が吐きこぼされた。



「ハア……お人好しにも限度があるだろ。アンタ、こういうの何度目だ?」


「……ご、ごめんなさい……」


「いいか、とにかく面倒な事は断れ。娼館なんてもってのほかだぞ、どんなに泣き落とされても絶対ついて行くなよ」


「……わ、分かりました……。でも、あの……トキさん、一つだけいいですか……?」


「あ?」



 おずおずと口を開いたセシリアに、相変わらず不機嫌そうなトキが眉を顰める。──しかしその直後に放たれた発言によって、彼の眉間にはより一層深い皺が刻まれる事となったのだった。



「……あの……」


「……」


「……しょうかんって、何ですか……?」


「………………」



 ……おい。マジか、こいつ。


 平和ボケした脳みそお花畑女だとは常々思っていたが、危うさすら感じてしまうその無知さにトキはもはや呆れも怒りも通り越し、本日最大級の深い溜息を吐きこぼすしかない。


 苦い顔で額に手を当て、すっかり黙りこくってしまった彼に、その要因であるセシリアは困ったような表情で首を傾げるばかりなのであった。




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